第24話 静止する魔術、凍てつく意思
二人の視線が交差する。
音もなく、術式が展開されていく。
空気が震え、下水の闇が静かに“殺意”を帯びていく――。
幾度目かの詠唱が遮られ、レオンは後方へと跳躍した。
その足元に、鋭く収束された水の刃が走る。わずかに遅れれば、脚を裂かれていた。
(……術式の読みが早すぎる。こいつ、俺の思考の癖まで読んでる……!)
冷静な顔の裏で、レオンは奥歯を噛み締めた。
間合い、理論、詠唱速度、いずれもグレイヴがわずかに上回っている。
それでも、まだ崩れはしない――が、追い詰められているのは確かだった。
「どうしました? もう終わりですか?」
グレイヴが優雅に杖を掲げる。
「やはり“落ちこぼれ”のお坊ちゃまには、精密な魔術は扱いきれない……違いますか? レオン・ヴァルトハイトくん?」
魔力がうねる。空気が、湿った波動で満たされていく。
「さぁ、お別れの準備を――」
その瞬間。
遠くから、鋭い怒声が飛んだ。
「おいレオン!!馬鹿にされて、そのまま負けていいのかよッ!!」
アランの叫びだった。
血にまみれ、息を荒げながら、それでもレオンの方を振り返って怒鳴っていた。
「お前、この国一の魔導士になるんだろ! あんとき、そう言ったよな!?
……だったら、今、踏ん張れよッ!!」
その言葉は、戦場の空気を裂くように響いた。
レオンの目がわずかに見開かれる。
脳裏に浮かぶ――夜の路地、灯の揺れる帰り道。
「言わないよ、普通は」「お前は前だけ見て突っ走ってりゃいいんだよ」
――あのとき、口にした“夢”。
「…………」
(あんなボロボロなのに、うるせぇんだよ、脳筋)
レオンは、静かに息を吐いた。
「……やれやれ。集中しろって言ったばかりなのにな。」
レオンは静かに杖を構え直し、足元に術式を描き出す。
その動作に、もはや焦りの色はない。
澄み切った視線が、敵を見据える。
「……いいだろう、グレイヴ・セリューズ」
「今度はこちらの“領域”でお相手だ」
足元で魔力の光が淡く脈動する。
幾何学的な構造をもつ青白い術式が、静かに床一帯へと広がっていく。
レオンが低く、しかし明瞭に詠唱を紡ぐ。
「氷律場、展開。流動する場を、絶対面に――《零域式魔術・位相氷原》」
その瞬間。
足元の石畳が、“音もなく”質感を変えた。
見た目は何も変わらない。だが空気が凍るような寒気が走り、
次の瞬間、**世界が一度ズレたような“違和感”**が空間全体に広がった。
レオンの足元から広がった“氷”は、霜や水分ではない。
それは地面そのものの“位相”――空間の波長を制御して、摩擦を限界まで削った、“理論上の滑面”。
石畳の地形はそのままに、あらゆる動作の安定性を崩す不可視の氷床が一面に展開されていた。
「……!」
グレイヴの足元がわずかに滑る。
即座に魔力で姿勢を正すが、その眉が一瞬だけ動いた。
「……ふふっ」
口元に、薄く笑みが浮かぶ。
「やっと少し、面白くなってきましたね?」
レオンの《零域式》によって展開された氷の術式は、空間そのものを“静的”に変質させる。
だが――それをも上回る“流動”が、場を侵食していた。
「《水槍連弾──リクレア・スパイラル》」
グレイヴの魔導杖が軽く振るわれるたび、術式の円が回転し、精密に形成された水槍が無数に放たれる。
レオンの氷壁は形成する端から砕かれ、足元の氷床までもが、砕けた水流によって侵食されていく。
(……早い。構築が速すぎる)
レオンは冷静に計算しながらも、後退を強いられる。
氷は“面”を作ることで強度を得るが、グレイヴの魔術は“点”と“連鎖”でそれを崩してくる。
一瞬たりとも、形を維持させてはくれない。
「やはり、基礎理論の完成度が違いますね」
グレイヴが冷笑を浮かべる。
「あなたの氷魔法、たしかに興味深い。でも、脆い。
一度崩せば、あとは流れに乗るだけで全てを洗い流せる」
(……くそ、相性の問題じゃない。これは、“経験の差”だ)
レオンは気づいていた。
氷はあくまで“構造物”だ。構築には計算と時間が要る。
だが水は、“自然の運動”そのもの。
それを使いこなすグレイヴの魔術は、まるで意志を持つ蛇のように、レオンの詠唱の隙を執拗に突いてくる。
(……このままじゃ、本当に押し切られる)
氷を敷いても砕かれ、距離を取っても押し詰められる。
動くたび、次の手が潰されていく。
「どうしました? この国一の魔導士になるんじゃなかったんですか?」
グレイヴの声が、戦場に染み込むように響く。
四方八方から襲いかかる水の槍。
視界を埋め尽くすような弾幕が、レオンを寸分の隙もなく追い詰めていた。
「あなたの魔術には、完成という言葉がない。
まるで実験途中の論文のようだ、読む価値もない」
グレイヴの声は、いつものように冷ややかで皮肉を帯びていた。
だがレオンの顔に、もはや焦りはなかった。
(……わかってきた)
目を細め、わずかに口角を上げる。
(この男の魔術は、“流動”に頼りすぎている。すべてが“変化”を前提に構築されているんだ)
――ならば、その“流れ”そのものを、凍らせてしまえばいい。
足元の氷床が再び輝く。
レオンはゆっくりと杖を構え、今度は低く、静かに詠唱を始めた。
「……空間波長、安定化。対象魔力、同調完了。
我は因果の熱を凍てつかせる者
冷結せよ、因果律――《絶零因果圏》」
空気が一変する。
それまで弾けていた水弾が、突如として空中で動きを止めた。
「……なに?」
グレイヴの眉がわずかに動く。
水の槍が、“凍る”。
空中に浮かぶ数十本の水弾が、青白く輝きながら一瞬で凍結。
まるで時間ごと封じられたかのように、その場に浮かび続けた。
「これは……!」
グレイヴが咄嗟に魔力を集中させ、次の術式を発動しようとする。
しかしレオンは、一歩も引かない。
「君の攻撃は、すべて“波”に乗っている。
ならば僕は、それを打ち消す“静止”をぶつけるだけだ」
そして、凍った魔法の矢たちが一斉に砕け散る。
まるで「水」そのものが拒絶されたかのように。
「馬鹿な……っ。水魔術が」
「魔法の属性は関係ない。
重要なのは、““構造理解”と、それを止める“静止点”の制御。……それが、僕の《零域式魔術》だ」
グレイヴの眉がわずかに動いた。
その顔に、はじめて“動揺”が走る。
その刹那の綻びを、レオンの鋭い瞳が捉えた。
「……終わりだ」
静かに、しかし確信を込めて呟く。
レオンは杖を掲げた。
氷を思わせる青白い魔力が、螺旋状に収束し、尖っていく。
詠唱が低く、張り詰めた空気の中に響いた。
「波長、断層面に固定。
断絶するは境界、圧縮するは密度。
――零域式・収束断層」
空間が、斜めに裂けた。
閃光のような、鋭く研ぎ澄まされた魔力の斬線が、氷刃となってグレイヴの胸元を一閃する。
「──ッぐッ……!」
白手袋が裂け、鮮紅の血が空中に飛ぶ。
咄嗟に腕をかばったが、完全には避けきれなかった。
胸元の装飾が砕け、背中へ吹き飛ぶように転倒。
鋭い痛みとともに、グレイヴの膝が沈む。
(……まさか、私が……?)
その目に、苦痛と混乱が一瞬浮かぶ。
「……ヴァルトハイト家の、落ちこぼれが……」
喉奥からかすれた嗤いが漏れる。だがその声には、わずかな震えが混じっていた。
胸を焼くような痛みと、誇りを裂かれる屈辱。その両方が、彼をこの場から追い立てていた。
けれども、屈辱に顔を歪めながら、彼はなお魔力を引き絞る。
逃げるためではない――“敗北ではない”と、自分に言い聞かせるために。
「ちっ……!」
レオンが追撃の術式を展開するよりもわずかに早く、
グレイヴは氷床を踏み砕く勢いで後方へ跳び退った。
バシュウッ……!
水魔法の余波で霧状の水蒸気が辺りに噴き上がる。
視界を覆う煙幕。その先に、もはやグレイヴの姿はなかった。
「逃げた……!」
レオンはわずかに歯を噛みしめる。
勝負は――ついた。だが、とどめは届かなかった。
魔力の余韻が空気に漂う中、レオンは深く息を吐いた。
「……まだ終わってない。次は、仕留める」
――仕留めきれなかった。
わずかな遅れ。それだけだった。
レオンは静かに息を吐く。だが、勝ちを奪われた苛立ちはない。
代わりに、かすかに口角を上げて言った。
「いっとくがな、グレイヴ・セリューズ」
その声は、消えた敵へ向けられた“宣言”だった。
「僕はこの国一じゃない」
「……世界一の魔導士になる」
淡く残る氷の結界が、
レオンの言葉に呼応するように、かすかに揺れた。
地下道の奥、血を垂らしながら壁にもたれるグレイヴ。
傷は深いが、まだ命には届いていない。
だがその顔に浮かぶのは、苦痛ではない。
――屈辱だった。
「……あの“出来損ない”が……」
血を吐くようなかすれ声が、グレイヴの喉奥から漏れた。
それは嗤いとも、呪いともつかない、敗者の呻きだった。
「……忘れるなよ、レオン・ヴァルトハイト。
“勝ちきれない者”には……勝利など訪れはしない」
そして、グレイヴは闇へと姿を消した。




