第38話 悲しき過去
息を吐くたびに、魔力の流れが体の内を駆け抜け、足元の水が震えた。
魔力と肉体、意思と流れ――それらを繋げるための修行。
精霊を感じるために、必要最低限の感覚を研ぎ澄ます。
「……風が……止んだ?」
ミラが木陰から顔を上げた。
長い銀髪が微かに揺れ、尖った耳が寒気をとらえる。
風が止んだはずなのに、肌にあたる空気が異様に冷たい。
次の瞬間、森の奥からざわめきが走った。
風鈴のような声――いや、それは精霊たちの囁き。
無数の小さな光が木々の間を駆け抜け、空の一点へと集まっていく。
「“南風”が止まった。何かが近づいてる」
ミラの声が低くなる。
アランは剣を収め、空を仰いだ。
エレジア方面――遠い樹海の方向に、黒雲が渦を巻くように広がっている。
星の光がひとつ、またひとつと飲み込まれていった。
森の精霊たちが怯えるように逃げ惑い、泉の水面がざわめく。
アランの胸の奥が、不思議と熱を帯びた。
呼ばれている。
「アラン、聞こえた?」
翌日、村の古老が「精霊境への道」と呼ぶ――“忘却の洞”に案内された。
かつて、精霊たちの記憶を封じるために造られたと伝わる場所。
入り口には封印陣が刻まれていたが、その紋様は微かにひび割れ、青白い光が漏れている。
「異変が起こったのはこれかも知れんな」
ミラが顔をしかめた。
「封印が……脆くなってる。なんで」
「入るぞ」
アランの声は低く、迷いがなかった。
「待って。中は精霊の領分よ。今のあなたが踏み込めば」
「わかってる。でも、行かなきゃいけない気がする」
ミラは言葉を失い、しばし見つめたのち、静かに頷いた。
「なら、私も行く。あんたひとりじゃ、命を失う」
二人は灯りの魔石を掲げ、洞の奥へと進む。
足音が壁に反響し、滴る水音が遠くでこだまする。
やがて通路の壁面に、淡く輝く結晶が並び始めた。
それは――魔力の痕跡。
「誰かが……ここで、魔法を使った?」
アランが近づくと、結晶の中に文字のような模様が浮かび上がった。
見たこともない古代の筆致。けれど、なぜか読める気がした。
『――精霊を縛るな。共に在れ』
その言葉が脳裏に響いた瞬間、アランの胸の奥が強く脈打った。
記憶の断片が閃光のように流れ込む。
――女の姿。白い外套。長い銀髪。
そして、封印陣の前で祈るように手を合わせる姿。
ミラが息を呑む。
「……まさか、“彼女”が……ここで?」
その“彼女”こそ、かつて封印を修復したと伝えられる人物。
エルフの記録からも消された、禁忌の名。
洞の最奥へ進むと、巨大な魔法陣が刻まれていた。
中央には透明な水晶球――そこに、淡い光が揺れている。
アランが一歩踏み出すと、光が弾け、視界が一瞬で白に染まった。
――見た。
それは、かつてのエルフの都。
精霊たちと共にあった時代。
だが、そこに混ざる“異なる耳”を持つ者たち――人との混血の子らが、次々と追われ、封じられていく光景。
叫び、祈り、そして沈黙。
胸の奥に、焼けるような痛みが走った。
アランは剣を突き立て、立ち尽くす。
「どうして……こんなものを封じたんだ……」
ミラが震える声で答える。
「――“忘れたかった”のよ。精霊たちは、あの痛みを……あの分断を」
封印陣の亀裂が広がり、風が荒れ狂う。
精霊たちの声が響いた。
『――導け、継ぐ者よ』
アランの瞳が蒼く光り、背後で泉の光が共鳴した。
魔力が迸り、足元の魔法陣に走る。
ミラが目を見開く。
「……これは、共鳴魔法……!? でも、人間の体でそんな――」
だが、アランは静かに微笑んだ。
「大丈夫。俺ひとりじゃない」
その瞬間、光が洞を満たし、ひび割れた封印が再び繋がっていく。
精霊たちの歌声が重なり、風が穏やかに戻った。
――封印は、再び眠りについた。
翌朝、村長はアランに一本の腕輪を差し出した。
透明な鉱石に、緑の紋が刻まれている。
「“霊環の腕輪”。精霊の加護を刻んだ証じゃ。
これを持つ者は、エレジアの門を通れる」
アランはそれを両手で受け取り、静かに頭を下げた。
「ありがとう。」
見送る村人たちの中で、ミラが一歩前へ出た。
風に髪をなびかせ、まっすぐにアランを見る。
「風が、騒いでる。放っておけない」
それが、同行の決意だった。
その光は、呼吸と同じリズムで脈打ち、まるで生きているようだった。
「……不思議なもんだな。まるで心臓がもう一つあるみたいだ」
独り言のように呟くと、後ろから軽やかな声が返ってきた。
「それが“精霊の証”よ。あんたの中の流れに、風が宿ってる」
ミラだった。
朝露に濡れた髪を束ね、背には小さな風の護符を下げている。
その顔には疲れの影もあるが、瞳の奥は凛とした光を宿していた。
「ほんとに行くのね、エレジアまで」
「ああ。……もう、行くしかない」
短い言葉だったが、ミラはそれで十分だった。
彼女は静かに頷き、手のひらを風にかざす。
小さな旋風が生まれ、二人の周囲に花弁のような霧が舞った。
「風は、行くべき者を止めない。……なら、私も一緒に行く」
その宣言に、アランはわずかに笑った。
その笑みは、数日間の修行と試練を越えた者の顔だった。
村の広場には、いつもの穏やかな空気が戻っていた。
エルフたちが朝の支度をする中、フェルネ婆が杖をつきながら待っている。
その傍らには――レオン、リィナ、ボリスの姿があった。
「アラン!」
リィナが駆け寄る。
エルフの衣を模した軽装に、腰のポーチが新しい。
その中から小さな魔導具の光がちらりと漏れた。
「見てよ、これ! 昨日、ルエナと一緒に作ったの。
“精霊の護符”、だって。光を安定させる効果があるのよ!」
彼女の手の中で、青い宝石が柔らかく輝く。
その光はリィナの明るい笑顔とよく似ていた。
続いてボリスが現れる。
以前よりも落ち着いた雰囲気を纏い、足取りに迷いがない。
背中の鍋盾とフライパンハンマーが、朝日に照らされて鈍く光った。
「やっと戻ってきたか。……オレの修行の成果、見せてやるよ」
掌を地面にあてると、土がわずかに盛り上がり、なめらかな壁が立ち上がった。
それは粗削りながらも均一な厚みを保ち、しっかりとした“守り”の形をしていた。
アランが感心したようにうなずく。
「……すげぇな、前よりずっと安定してる」
「まあな。静けさってやつを、ちょっとだけ掴めた気がするんだ」
ボリスの笑みは静かだった。
かつての豪放な笑顔とは違い、どこか優しさを含んでいる。
最後にレオンが一歩前へ出る。
長い外套の裾を払って、指先に冷気を集める。
その氷は瞬時に形を取り、薄い風の刃となって宙を舞った。
風がそれを包み、光を散らす。
「……魔法の流れが見えるようになった。
この村の“理”と“感”を、少しだけ理解できた気がする」
冷ややかな表情の奥に、確かな誇りがあった。
ミラが感心したように頷く。
「へぇ、人間にしては悪くないわね。古の魔導式を感じる……」
「“人間にしては”、か。だが、褒め言葉として受け取っておくよ」
レオンが小さく笑い、ミラも肩をすくめた。
フェルネ婆が杖を突きながら、ゆっくりと前に出た。
その瞳は、どこか誇らしげで優しい。
「ふむ、ようやく“息”を合わせられるようになったのう。
自然が笑っておる。……あとは、あの坊や(アラン)の行く末だけじゃな」
アランは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「フェルネ婆さん、いろいろ世話になった。
必ず戻るよ。その時は、ちゃんと恩返しする」
「ふふ……若い者の“約束”ほど頼りないものはないが――
その目を見れば、信じてやってもよさそうじゃ」
そう言って、フェルネ婆は杖の先で地を叩く。
淡い光が広場を包み、風と葉が静かに舞い上がった。
それはまるで、旅立ちを祝福する精霊たちの舞のようだった。
村の出口に立つと、霧が晴れ、陽の光が差し込む。
遠くに見えるのは、エレジア樹海国の深緑の森。
アランは仲間たちを見回した。
それぞれが少しずつ変わっていた。
けれど、変わらないものがひとつあった。その眼差しの強さ。
「……行こう。俺たちの旅を、続けよう」
誰からともなく頷きが返る。
ボリスが笑い、リィナが拳を掲げ、レオンが口元を緩めた。
ミラの髪が風に揺れ、霊環の腕輪が淡く輝く。
風が、背を押した。
木々の間を抜け、彼らの影を長く引き伸ばしていく。
こうして、アラン一行は再び歩き出す。
その先に待つのは――
精霊人が眠る国、エレジア樹海国。




