第21話 影と鼠と、甘い煙の中で
濁った水が溜まる石畳の通路。鉄臭さと腐臭が入り混じった空気が、肌に纏わりついて離れない。
アランは足を止め、頭上を仰いだ。煤けたランタンの跡が残る天井に、光はなく、ただ沈んだ湿気が重く漂っている。
「やっぱり気味が悪いな。」
呟いた声が石壁に反響し、冷たく返ってきた。
「当然だ。ここは旧王国時代の水路。十年以上使われていないはずだ。今や地図にも載っていない」
正規の水路には衛兵が見守っており、許可証なしでは入れない。
後ろから来たレオンが言い、懐から青白く光る魔導灯を掲げる。その光が苔むした壁を照らし、封印の印章が浮かび上がった。
「こんな場所が、麻薬の運搬経路だってのか……?」
訝しむアランに、レオンは簡潔に応じた。
「痕跡がある。人が通った後がわずかだが残ってる」
その一言に、アランはすぐ周囲を警戒する。足元の水たまりに、靴の踏み跡が複数交差しているのを見つけた。しかも乾いておらず、まだ新しい。
「ひとりやふたりじゃないな……」
「運び屋、見張り、監視役。麻薬の流通には、少なくとも三手以上が動く。これは“組織”の仕業だ」
レオンの言葉にアランが剣の柄へと手を伸ばした時、彼が崩れかけた側壁の一部を指さした。
「……そこだ。継ぎ目の歪み、不自然な補修跡。押してみろ」
頷いたアランが石を押すと、鈍い音を立てて壁が動いた。途端に、湿気とともに甘く腐った匂いが鼻腔を満たす。黴と血の混じったような、刺すような刺激臭。
「くっ……この匂い、覚えがある」
「幻花粉と、類似している」
奥には水音がぽつぽつと響く空間。魔導灯の光が白く霞んだ胞子を浮かび上がらせる。まるで毒気に満ちた呼吸する巣穴だ。
「……見つけたな」
アランが低く呟くと、レオンはすでに詠唱に備えて手の結印を始めていた。
そして――
シャッ、シャッ……
石壁を這うような音が、静かに、だが確実に近づいてくる。
「アラン、来るぞ!」
レオンの声と同時に、闇から跳ねる黒い影。アランが反射的に剣を抜く。
「スカーボー……? 違う、でかいッ!」
現れたそれは通常のスカーボーの倍以上の体躯。毛並みは毒々しい灰紫に染まり、異様に肥大した四肢、血走った目。明らかに“変異”している。
そして次の瞬間、通路の壁や天井から、無数のスカーボーが這い出してくる。
「十……二十……いや、それ以上……!」
「群れで連携してる!? 知能まであがっているのか!」
アランが前に出て剣を構え、レオンが詠唱を終える。
「「微細振動、凝結せよ――《零域式魔術・貫穿針》」!」
レオンの詠唱に応じて、氷の針が空中から生み出される。数体が串刺しにされるが、倒れた死骸を踏み越えて、次々と新手が現れる。
「キリがねぇ……!」
アランの剣が火花を散らす。刃が振るわれるたびにスカーボーの体が斬れ伏すが、それすら餌にして群れはなおも密度を増す。
そのときだった。
群れの奥、闇の中に何かが“立っていた”。
ギシ……
ギシ……
鋼鉄を軋ませるような足音が近づく。姿を現したのは、灰色の鎧を纏った一人の男。無精髭、手入れの行き届いていない古びた剣。顔の半分は陰に沈み、だがその眼光だけが異様に光っていた。
「……アラン、あいつ……騎士だ」
レオンが言うよりも先に、アランも悟っていた。男が纏うのは、正規騎士団の装甲。そしてそのまなざしは、“任務”の意志に貫かれている。
男は一歩、また一歩と群れの中を進む。スカーボーたちが彼に牙を剥いた瞬間――
カッ――!
閃光にも似た斬撃が走った。音すらない。ただ、スカーボーたちが一斉に、何かに触れることなく地へ崩れ落ちていく。
血も、悲鳴も、余韻すら残さず。ただ“終わっていた”。
静寂が、通路に戻った。
アランもレオンも、言葉を失ってその男を見つめた。男は剣を鞘に収め、無言で二人を見下ろす。
その目には、怒りも憐れみもない。ただ、任務に忠実な“死の執行者”の色があった。
「……見てはならないものを、見たな」
その声は低く、底冷えするような響きで石壁に染みこんでいく。
そしてその場に立つ二人にとって、抗うことのできない沈黙、選択の時がゆっくりと迫っていた――。