第33話 宣誓 強き者
村外れの森を抜けると、そこに“風の小径”があった。
木々の間を縫うように細い獣道が続き、青白い苔がぼんやりと輝いている。昼でも薄暗く、風の音すら遠い。
ボリスは肩に荷を背負い、ぶっきらぼうに息を吐いた。
「……静かすぎて気味悪ぃな。ここで“修行”かよ。」
誰に言うでもなく呟く。だが返事は、どこにもない。
森の奥へ進むほどに、風も止み、鳥も鳴かなくなった。
やがて、崖の裂け目のような洞の入口が現れる。そこが“沈黙の洞”
村の長老が言っていた“音も魔力も吸い込む”場所だ。
中へ足を踏み入れた瞬間、世界が変わる。
音が、ない。
足音も、衣擦れも、心臓の鼓動すら遠くなっていく。
まるで、自分という存在だけが空に溶けていくようだった。
「……おい……ここで何すりゃいいんだよ……」
声を出しても、反響がない。
それどころか、自分の声が出たのかさえ分からない。
焦りが胸の奥で渦巻く。沈黙が重くのしかかる。
彼は座り込み、拳を膝に押しつけた。
思考が濁り始めたそのとき
声が、した。
それは外ではない、己の内から響く声。
振り向くと、そこに立っていたのはかつての仲間。
自分が守れなかった人たち。笑っていた顔が、今は冷たくこちらを見ている。
洞の闇が彼らの輪郭を滲ませ、まるで影が意思を持って立っているようだった。
『ボリス。お前は、また逃げるのか?』
その声に、全身が粟立つ。
自分の名を呼ぶ声、あの時のままだ。
笑っていた彼らの声。
血の匂いの中で、途切れたはずの声。
「……やめろよ。もう、終わったことだろ……」
そう呟いても、幻影は消えない。
代わりに、別の影が笑った。歪んだ笑みで。
『終わった? お前にとってだけ、だろう?』
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「なんで今も、こんな!」
叫びが空気に溶け、無音の世界に吸い込まれていく。
「幻影だ! だけど」
喉の奥が熱くなる。叫んでも、声は返ってこない。
「あぁあ!うるさいッ!!」
拳を叩きつける。岩肌に皮が裂ける。
痛みも、音も、ない。ただ血の温もりだけが現実を主張した。
『ボリス。お前は守れなかった。泣きながら逃げた。仲間の盾を掲げながら、心の中では“もう無理だ”と思ってた。』
『あの時、お前は助けを求められなかった。“強くあらねば”と勝手に思って、全部抱えて、そして何も守れなかった。』
「やめろ……やめろよ……!」
手で耳を塞ぐ。
沈黙の洞では、どれだけ塞いでも声が内側から響いてくる。
耳ではなく、心臓に、魂に直接刺さる。
そう。全部、知っている。
自分が一番、よく知っている。
あの日、背を向けた時の軽さ。
倒れていった仲間の腕の重み。
どちらも忘れたことなんて、一度もなかった。
「そうだよ、俺は逃げた。怖くて、どうしようもなくて……!」
「守れなかった。助けられなかった。全部俺のせいだ!」
絞り出すように言葉を吐く。涙が頬を伝う。
幻影たちは、何も言わなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
怒りも、嘲りも、悲しみもない。
息を吸う。深く、ゆっくりと。
洞の空気が肺に満ちる感覚がした。
それは冷たい、しかし穏やかに流れ込む。
己の過去、後悔から逃げていた。
心の中で塞ぎ込み、なかったことにしようとした。
そんなボリスの弱さを見抜くように、洞は容赦なく孤独を味合わせた。
「黙るってのは、逃げることじゃねぇ。ちゃんと“聴く”ための静けさ、なんだ。」
その言葉を口にした瞬間、洞の壁が微かに震えた。
石の奥から、低く響くような音――いいや、“声なき共鳴”。
光が滲む。掌に淡い温もりが広がる。
土の精霊の息吹が、ボリスの心に寄り添うように囁いた。
お前は、ようやく“聴いた”な。
過去の声を。恐れの声を。そして、自分自身の声を。
ボリスは静かに目を閉じ、掌を握った。
そこに、確かな重みと温もりがあった。
涙のあとも、傷も、そのままに。
だが彼の中には、もう“沈黙”への恐れはなかった。
土の奥から伝わる、やわらかな鼓動。
まるで大地そのものが、ボリスを抱きしめるようだった。
『聞こえるか。勇気ある者よ。沈黙は恐れではなく、始まりだ。』
低く響く声が、心の中に届く。
彼はゆっくりと目を開け、掌を見つめた。
そこには、土の粒子が浮かび上がっていた。
呼吸とともにそれが形をなし、微かな光を帯びる。
「……おれにも、できるんだな。」
洞の外は、まるで別の世界のようだった。
湿った土の匂い、木々のざわめき音のある世界。
ボリスはしばらく立ち尽くして、耳を澄ませた。
風が吹き抜け、草が鳴る。その何気ない響きが、今は何よりも愛おしく感じられる。
「……ただ、風の音がするだけで、こんなに心地いいとはな」
苦笑しながら、彼は深呼吸した。
洞で得た静けさは、まだ胸の奥に残っている。
沈黙は恐れではなく、聴くための器。
ようやく、体の芯で理解できた。
帰り道、木々の間を抜ける細い道に差しかかったときだった。
どこからか、子どもの泣き声が聞こえた。
「……おい? 誰かいるのか?」
声をかけると、茂みの陰から小さな影が顔を出した。
金の髪に尖った耳――エルフの子どもだ。年の頃は八つほどだろう。
だが、その瞳には怯えが浮かび、ボリスを見るなり一歩、二歩と後ずさる。
「待て、危ねぇぞ! 一人で何をしてる」
言い終わる前に、子どもはくるりと身を翻し、森の奥へ駆けていった。
慌てて追いかけたボリスの足が止まる。
風が、ひゅうと吹き抜けた。
“風の小径”。村で聞いた言葉が、脳裏に浮かぶ。
《精霊に祝福された者しか進めない》
子どもが走り抜けたその道は、確かに“普通”ではなかった。
空気が薄く、風が幾重にも渦を巻いている。
足を踏み出すたびに、体がふっと軽くなり、世界の輪郭が霞むようだった。
「おい、待てって!」
叫んだ瞬間――。
視界が、歪んだ。
次の瞬間、ボリスは再び“幻”の中にいた。
洞の闇とは違う。ここは明るいのに、息苦しい。
目の前に立つのは、自分自身。
疲れた顔で、腕を組み、冷ややかに言い放つ。
『お前に何が守れる。力を得ても、また同じだろう?』
「……またかよ」
ボリスは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
胸が痛む。でも、恐怖はもうなかった。
「未熟。それは、認める。けどな弱さを知るから、声が聴ける。泣いてる子どもの声も、仲間の声も。自分の声も。俺はな守るんだ。笑顔を誰にも奪わせはしない」
幻影は微笑み、光の粒となって散っていく。
その瞬間、周囲の風がふわりと流れた。
風の囁きが耳元で響いた。
「彼女も、かつてこの道を越えていった。」
「……彼女?」ボリスは小さく呟いた。
やがて木々の間から光が差し、泣いていた子どもが姿を現した。
ボリスは膝を折り、目線を合わせて微笑んだ。
「もう大丈夫だ。怖くねぇよ。ちゃんとお前を守ってやる」
子どもはためらいがちに、ボリスの手を取った。
小さな手のぬくもりに、彼は静かに微笑む。
風が二人の間を通り抜け、森の奥へと抜けていった。
その道はもう、“祝福された者”だけのものではなかった。
風の小径を抜けると、森の端に出た。
子どもはそこで立ち止まり、振り返った。
涙の跡がまだ頬に残っていたが、その瞳にはもう恐れはない。
「君になら、守られたいかも。よろしくね。」
ふっと笑い、子どもは森の方へ駆けていった。
木漏れ日が彼の小さな背を照らし、すぐに大地に溶けて消えていく。
「もしかして精霊だったのか?」
呟いた瞬間、世界が揺らいだ。
視界が霞み、意識がふっと遠のく。
次に目を開けたとき、ボリスは洞の前に倒れていた。
あの静寂の洞“沈黙の洞”の入り口。
夕陽が森を黄金に染め、風が静かに草を揺らしている。
「こんなところで何してんだ、俺……」
掌を開くと、そこには小さな石の欠片があった。
洞の中で見た“声なき石”の一片。
ほんのりと温かく、心臓の鼓動に合わせるように淡い光を脈打っている。
耳を澄ませると、風の音の中に、微かな“声”が混じっていた。
それは言葉ではなく、ただ優しい波動
ボリスはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
「静かで気持ちいいな。俺の心が“地に足をつけた”証だな。」
そう呟いた瞬間、足元の土がやわらかく震えた。
掌の石が温かく光を放ち、微細な魔力が体の中を流れていく。
土の精霊の気配――重く、しかし穏やかな力が、彼の魔力と溶け合った。
大地の息吹が、彼を包む。
怒りや焦りの魔力が、ゆっくりと“安定”へと変わっていくのがわかる。
挑発の魔法も、今なら恐怖ではなく“覚悟”から生まれる。
沈黙が、ただそこにあった。
呼吸するたびに、心が確かに“地”へと繋がっていく。
ボリスは拳を握りしめ、微笑んだ。
「ありがとうよ、精霊さん。もう、大丈夫だ。」




