第32話 歌が紡ぐ
村の外れ、小高い丘の上に、一本の塔がそびえていた。
蔦に覆われた古い石造りの塔――ウィスフォレ村の書庫である。
扉を押すと、乾いた木の軋みとともに、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
中は静寂そのものだった。
積み上げられた羊皮紙と石板。壁には淡く光る精霊文字が刻まれ、まるで呼吸するように淡い青を放っている。
「ここが“知の塔”です、レオン様」
案内役の青年エルフ――フェルネ婆の弟子が、恭しく頭を下げた。
「我らエルフは、精霊術と古代魔導を同一のものとして学びます。どうぞ、ご自由に」
レオンは軽く頷き、静かに塔の最上層へと登った。
階段の途中から、彼の瞳はすでに別の世界を見ている。
魔法陣、古代語、構成式――すべてが、頭の中で理論式として組み上がっていった。
――この構文、古代魔導式に酷似している。
だが、記述の端にある“祈りの句”は何だ? 魔法に感情を……?
思考の渦の中で、ふと、フェルネの弟子が背後から声をかけた。
「レオン様。理論を理解されるのは早いですが……精霊は、まだ寄ってきませんね」
レオンは苦笑した。
「どうやら、僕にはあまり好かれていないようだ」
「そういう方、時々いらっしゃいます。でも……試してみませんか?」
青年が小さな書板を取り出す。
そこには古い旋律を示す詩が刻まれていた。
「これは、“エルフの姫”がかつて口ずさんでいた歌だと伝わっています。
歌えば、風と氷の精霊が寄り添う――そう、伝承では言われています」
「……詩文か。音韻構造が呪文に近い」
「学者はみな、そう言います。でも、わたしたちは“歌”と呼ぶんです」
その言葉に、レオンはわずかに表情を和らげた。
理論ではなく、感情の発露としての“魔法”。
それは彼が最も遠ざけてきた領域だった。
翌日。
レオンは村外れの精霊の丘に立っていた。
夜明け前の冷気が漂い、草葉の上で霜が輝いている。
静かに息を吸い、詩の旋律を口ずさむ。
風よ、凍てつく空より舞い降りて
眠りし友の夢を、今ひらけ
歌声は細く澄んで、丘の上を流れていく。
その瞬間、風がひとつ息を吹き返した。
草がざわめき、白い粒子が集まって渦を描く。
やがてそこに、人の形をした氷の光が立ち上がった。
『……誰だ? この歌を口ずさむのは』
声は、まるで遠い記憶の底から響くようだった。
レオンは思わず杖を構えるが、氷の光は敵意を見せない。
その存在はどこか懐かしく、寂しげでさえあった。
『その歌は、“彼女”のもの……あの方は“神子”。だが、まだ未完成。』
「神子?」
『彼女は、助けを求めている。――時が来たら、頼む。』
風が凍てつく音を残し、光は霧のように散った。
残されたレオンはただ、その余韻に立ち尽くす。
精霊の言葉は、確かに彼の胸の奥で響いていた。




