第30話 精霊交流
昨夜の儀式の余韻がまだ体の奥に残っているのか、アランは重たいまぶたをゆっくりと開けた。
小さな宿屋の一室。木の床には陽の筋が差し込み、湯気の立つ湯呑みがいくつも並んでいる。
ボリスは布団の上で大の字、リィナは髪をまとめながら欠伸をし、レオンは既に机で書き物をしていた。
――いつもの朝。そう思った瞬間、扉がノックもなく開く。
「おはよう。全員、起きてるね」
現れたのはミラ=ノルディアだった。
光を透かした銀髪が肩のあたりで揺れ、無表情のまま部屋の中を見回す。
「……な、なんだよいきなり」
ボリスが寝癖頭のまま眉をひそめると、ミラは一言だけ、平坦な声で言った。
「今日から修行。全員、各自に課題を与える」
その場の空気が一瞬、止まった。
リィナが困惑したように眉を上げる。「しゅ、修行? 昨日の儀式の翌日に?」
ミラはうなずきもせず、淡々と続けた。
「エレジア樹海は“魔力との親和性が低い者”を拒む土地。精霊に嫌われたまま入れば、命を落とす。だから今のうちに整えておく必要があるの」
レオンが静かに息を吸い、理解したように頷いた。
「つまり、我々が樹海を通過するための“通行儀式”の延長……ということですね」
「そう。あんたは察しが早い」
ミラは視線をアランへと向ける。
澄んだ湖面のような瞳が、淡く光を宿していた。
「アランは私が連れてく。他の三人は村の魔導師に頼んである。村の広場に行って」
「えっ、ちょっと待てよ。俺だけ別なのか?」
アランが戸惑い気味に言うと、ミラはわずかに首を傾げた。
「あなたは特別だから」
それだけ告げ、背を向ける。
リィナが小声でつぶやく。「……いや、その言い方いろんな意味で誤解されるんだけど」
ボリスが吹き出すのを、レオンがため息で制した。
ノノだけが、小さく手を振る。「アラン、がんばってね!」
アランは苦笑いを浮かべつつ、ミラの後を追った。
朝靄の残る森の方へと歩き出す。
――向かう先は、“精霊の泉”。
風がさざめき、木々が道を示すように枝を揺らした。
アランの胸の奥に、微かなざわめきが生まれる。
それは恐れではなく、どこか懐かしい感覚だった。
ミラがふと振り返り、短く言う。
「心を静かに。精霊は、いつも見てるから」
朝の光の中で、彼女の横顔は氷のように冷たく――それでいてどこか、やさしかった。
森の奥は、昼でも薄暗かった。
木々の葉が幾重にも重なり、差し込む光が緑の紗幕のように揺れている。
その中心――鏡のように静かな泉があった。
水面は一切の波を立てず、まるで時の流れまでも凍らせたかのように静謐だ。
「ここが、“精霊の泉”……」
アランが思わず呟く。息を飲むほど澄んだ光景だった。
ミラは無言のまま歩を進め、泉のほとりで振り返った。
白い指先が水面をなぞる。波紋が一つ、静かに広がる。
「精霊は力を貸す存在じゃない。心で語りなさい」
淡々とした声。けれど、その奥には確かな厳しさがあった。
「語る……って、どうすればいいんだよ」
「考えないこと。感じなさい。あなたの魔力は少し“騒がしい”」
アランは深呼吸をして目を閉じた。
泉に意識を集中し、自分の中の魔力を静かに流し込んでいく。
……だが、すぐに抵抗を感じた。
泉の奥から、何かが跳ね返してくる。まるで異物を拒むように。
「くっ……なら、もう少し強く──!」
アランは思わず力を込めた。
その瞬間、泉が轟音を上げて波打つ。風が巻き上がり、周囲の木々が悲鳴を上げた。
暴風が渦を巻き、アランの体を包み込む。
「うわっ──!」
叩きつけるような風に弾き飛ばされ、アランは地面に転がった。
肺の奥まで冷たい空気が突き刺さる。
ミラは微動だにせず、ただ一言。
「……違う。力ずくで繋ごうとするな。お前の“声”を聞かせろ」
アランは歯を食いしばりながら起き上がる。
「声って……そんな漠然としたこと言われても!」
「精霊に笑われてるわ。聞こえないの?」
ミラの瞳が、わずかに細められた。
泉の水面がふっと揺れ、淡い光が幾筋も立ち上がる。
小さな風がアランの頬を撫でた。まるで――誰かが微笑んでいるように。
「……ヒント、無いのか?」
「何の精霊だか、わかる?」
問いかけに、アランは戸惑ったように泉を見つめる。
静かな風、囁くような気配。
けれど、まだ輪郭を掴めない。
「なんの精霊か? わからない」
ミラは短く頷いた。
「ん。風の精霊よ。心当たりない?」
アランは一瞬、目を見開いた。
胸元に手をやる。
そこには、羽飾りのペンダントがあった
憧れた冒険者からもらった思い出のペンダント
「これを託す」と言葉を添えて。
「……心当たり。もしかして、このペンダントは?」
ミラの目がわずかに柔らかくなる。
「それだ。それを手にして。魔力を込めてみて」
「……本当に、これでいいのか?」
アランが問いかけると、隣で腕を組んでいたミラが静かに頷く。
「いい。余計なことは考えないで。泉の息に合わせて、魔力を流してみて」
アランは目を閉じた。
耳を澄ます。
水が滴り、草が擦れ、木々がざわめく――。
風が、言葉を持って世界を撫でていくような音がした。
彼はそっと息を吐き、魔力を指先からペンダントへと送り込む。
その瞬間、風晶石が淡く光り、周囲の空気が柔らかく震えた。
木の葉がふわりと舞い上がる。泉の水面に波紋が広がり、アランの髪が風に揺れる。
「やっと。声が届いた?アラン。」
その声は、まるで懐かしい友のように、優しく響いた。
誰かの声が、微かに胸の奥で響いた。
それは耳で聞くものではなく、心の奥にふわりと染み込むような声。
優しく、あたたかく、どこか懐かしい響きだった。
「……っ、聞こえる」
アランは目を開け、驚きと共に呟いた。
風が頬を撫で、草が歌う。
泉の水が、風とともに微笑むように揺れている。
世界そのものが、呼吸を合わせて彼を包み込んでいた。
“アランの魔力、美味しいよ”
「え……ええっ?」
思わず変な声を上げたアランに、ミラがくすりと笑った。
彼女が笑うのを、アランは初めて見た気がした。
「……やっと聞こえたか」
ミラは腕をほどき、少しだけ穏やかな目を向けた。
「姿はまだ、見えないみたいだね。けど、ここからが本当の始まり。自然に見えるようになるまで――やる」
アランは頷いた。
風が彼の頬を撫でる。
まるで、「また会おう」と言っているかのように。




