第29話 記憶の奥で
ウィスフォレ村の外れ、深い森の奥。
村長の屋敷の裏手にある古い祠には、古代語の祈りが静かに響いていた。
壁一面に刻まれた文様が淡く青く光り、風が渦を描くように祠の中を巡る。
ミラは正面に立ち、氷晶の杖を掲げた。
村長――盲目の導師ゲルマは、その背後に座し、低く呟く。
「……これより“幻視儀式”を始める。
心を静め、目を閉じよ。風も、火も、水も、土も――精霊たちは、心の揺らぎを映す。」
アランたちは円を描くように並び、中央の小さな水鏡を囲んだ。
そこには満月の光が映り、まるで別の空がそこに開かれているかのようだった。
「精霊は自然のうねりから生まれる。
岩に宿り、獣に宿り、人にも宿る。
おぬしたちが進もうとする“エレジア”は、その根に近い場所じゃ。」
村長の声が、祠全体に溶けていく。
次第に、灯された火がひとつずつ消え、祠の中は蒼い光だけに包まれた。
「……見よ。これが、精霊の記憶――」
言葉と同時に、空気が震えた。
アラン達の意識がふっと浮かび、視界が白く染まる。
次の瞬間、轟音が響いた。
――戦火の光景。
空が裂け、山が燃え、無数の光が交錯している。
それは炎ではなく、純粋な“力”の奔流だった。
風の精霊が大地を裂き、水の精霊が天を覆い、炎の精霊が影を焼き尽くす。
そして、ひとつの巨大な影が立ちはだかった。
――“赤き剣”。
それは人の形をしていた。
だが、剣そのものが命を持ち、世界を断つために振るわれているようだった。
紅蓮の光が空を裂き、精霊たちの叫びが響く。
“我らは還る。人の血に、獣の魂に、物の記憶に――”
声が、幾千もの精霊の声がアランの心を満たした。
視界が揺らぎ、次々に“象徴”が浮かび上がる。
桜虎、金馬、藤鷲、銀蛇、灰狼、白牛、黒亀、朱猿――。
八つの伝承の獣たちが、大精霊の力を使い、大地を抉り、森を燃やす。人々は逃げまどい、怒りに狂った聖獣が破壊の限りをつくした。燃えさかる空を背に、やがて聖獣はひとつひとつ光へと溶けていく。
その光はやがて、人々の胸の奥へと沈んだ。
――神聖リヴァレス王国、建国前の戦乱。
八人の英雄が立っていた。
それぞれの背に、伝説の獣の影。
彼らは精霊の血を宿し、その力をもって民を束ねた。
だが、そのうちのひとり。
“桜虎”を宿した者が、燃えるような瞳で“赤き剣”を見据えていた。
剣は血のように赤く輝き、アランの胸の奥を灼くような痛みが走った。
「――っ!」
息を呑む。
目の前の光景が崩れ、精霊たちの囁きが遠のいていく。
「目覚めよ」と誰かの声がした。
視界が戻ると、祠の中。
青い光が消え、代わりに焚き火の炎がふたたび揺らいでいる。
全員が汗に濡れ、荒い息をついていた。
村長がゆっくりと杖を突く。
「終わったか。見えたな、精霊の記憶を。」
アランは膝をついたまま、拳を握りしめた。
胸の奥に、まだ赤い光が残っている。
それは熱ではなく、どこか懐かしい脈動だった。
「これが、“精霊の試練”だ。」
村長の声が静かに続く。
「おぬしたちは、ただ通行を求めた。だが精霊は問うたのじゃ。“その魂に、世界を見つめる覚悟があるか”とな。」
沈黙のあと、村長は深く頷いた。
「合格じゃ。おぬしたちは、通る資格を得た。」
ミラがそっと息を吐いた。
長い白髪が光を受け、淡く揺れる。
「ありがと、ジジィ。」
「ふん、言い方を知らんな。まあ、よかろう。」
村長は苦笑を浮かべながら、アランに顔を向ける。
「赤き光を見たのは、そなたじゃな。
桜虎の伝説は、御伽噺ではない。……いずれ、導かれる時が来よう。」
アランは答えられなかった。
ただ、胸の奥にまだ残る光を見つめるように、静かに頷いた。
祠の外では、夜風が森を渡っていく。
その風の中に、かすかに精霊の囁きが混じっていた。
――“また、会おう。赤き心の子よ。”
耳を澄ませば、どこからか風が通り抜け、枝葉が柔らかく鳴る。精霊たちがまだ、その場にとどまっているような気配。
「……終わった、のか?」
最初に口を開いたのはボリスだった。いつになく慎重な声だった。
レオンが頷く。「ええ。儀式の構成は古い形式です。幻視の余波ももう消えました」
「でも……」ノノが不安げにアランの袖を掴む。「アラン、顔が少し怖いよ?」
アランは小さく息を吐いた。
頭の奥にまだ、あの“赤い剣”の残像が焼きついている。炎でも、光でもない――それは確かに“意志”のように脈打っていた。
「……ちょっと見たんだ。昔の戦いの光景を。精霊と、人と……何か、とてつもない力のぶつかり合いを」
リィナが腕を組む。「それが“精霊戦争”ってやつ? 本に載ってたけど、実際に見た人なんていないでしょ」
「ええ、古文書でも断片的な記述しか残っていません」レオンが答える。「それを幻視できたというなら……アラン君、やはりあなたの適性は特別だ」
アランは首を横に振った。
「特別なんて……でも、確かに感じた。精霊たちは怒ってたんだ。人が、自分たちの“居場所”を奪うことを」
沈黙が流れた。
その静けさを破ったのは、杖の音だった。
「ふむ……よくぞ戻ったな」
祠の階段を登ってきた村長が、杖を頼りに彼らの前に立つ。
盲目のはずのその瞳が、まるで全てを見透かすように、淡く光を湛えていた。
「試練は果たされた。……風も、火も、水も、おぬしらを拒まなんだようじゃ」
村長はゆっくりと頷き、安堵の息を吐いた。
「ただ――許可証となる“霊環”の生成には、しばし時が要る。精霊金属を馴染ませるには七日ほど……どうかその間、村で骨を休めていってくれ」
「七日……ですか」レオンが確認する。
「うむ。おぬしらの波動は、まだ儀式の影響を受けておる。急ぎ旅を続ければ、精霊の加護どころか命を削ることにもなりかねん」
アランは頷いた。「わかりました。お言葉に甘えます」
その返事に、村長の唇がかすかに綻ぶ。
「よい心だ。……ミラよ、彼らを頼む。おぬしが導いた縁だ」
ミラは無言で背を向けた。「ん、わかってる。どうせ暇だから」
そう言い捨て、星明かりの中へと歩き出す。
リィナが苦笑した。「ミラさん、相変わらず愛想ないわね」
ボリスが肩をすくめる。「まぁ、そういうとこが“天才”ってやつなんだろ」
アランは空を見上げた。
雲の切れ間から、星がひとつ流れていく。
精霊たちの囁きが、風の中に混じって聞こえた気がした。
――“見届けよ、選ばれし子よ”
その声の意味を、彼はまだ知らない。




