第27話 精霊とミラ
風が、丘の上を撫でていた。
晩春の陽が傾きかけ、草の海が銀色に揺れている。鳥の声と、アランたちの笑い声がそこに混じっていた。
「いや〜、やっぱりこういう丘の道って、気持ちいいな!」
ボリスが鍋を背負ったまま、のんきに空を仰ぐ。
「……転ぶなよ。荷物増えたら俺が持つ羽目になる」
レオンが眉をひそめる。
「心配性だなぁ、レオンは。な? アラン」
「いや、どっちかって言うと、俺もレオンに賛成だ。ボリス、前に転がってモンスターの巣に落ちただろ」
「うっ、それはもう忘れてくれ!」
リィナがくすっと笑った。
そんな、いつもの道中――。
丘の頂に、一人の少女が立っていた。
白銀の髪が風に揺れる。遠くからでも、彼女の周囲の空気が冷たく張り詰めているのが分かった。
その手には、淡く光る氷晶の弓。
「あぁ……やっと来た。」
呟きは、風に溶けて消えた。
アランが足を止め、訝しげにその少女を見上げる。
「誰だ、あれ……?」
レオンが一歩前に出る。
「あなたはミラ=ノルディアさん、ですね? 何か御用ですか?」
少女はゆっくりと頷いた。
「うん。君たち、これからエレジアに行くんだよね。一緒に行く。」
「なぜ、それを?」レオンがわずかに目を細めた。
「それに、“一緒に行く”と言われても……」
「んなことより、誰なんだ?」
アランが首を傾げる。
「もう忘れたの?」リィナがため息をつく。
「前に説明したじゃない。冒険者・四天王の一人、ミラ=ノルディアよ」
「そうだぞアラン。勉強不足だな」
ボリスが腕を組み、偉そうに頷いた。
「!? ボリスも絶対に知らなかっただろ!」
「いやぁ、なんか聞いた気がしてたんだよ!」
「嘘つけ!」
わずかに空気が和む。
だが、ミラの眼差しは笑わない。
氷晶のように澄んだ瞳が、まっすぐアランを見据えていた。
「……ライサさんの次はミラって。アラン、あんた本当に運がいいのか悪いのか分かんないね。」
リィナが肩をすくめる。
「うるさい。」
ミラは短く言い捨てた。その声音には、冷たい刃のような響きがあった。
「さっさと行く。日が暮れる。」
彼女は振り返らず、丘の向こうへと歩き出す。足もとで、草が一瞬、凍りついた。
薄い氷が陽光を反射し、淡い虹のような光を放つ。
アランたちは、互いに顔を見合わせた。
「……なぁ、今の、地面……」
「うん、凍ったな。」レオンが静かに頷く。
「なんか、ちょっと怖いんですけど」ボリスが肩をすくめた。
リィナは苦笑して、アランの背を軽く叩く。
「行くしかないでしょ。こういう人ほど、敵に回したら面倒なんだから。」
アランは小さく息を吐いた。
「分かったよ。」
「あの――」
呼びかける声に、ミラは足を止めた。
アランは少し息を整えて続ける。
「“待ってた”って、さっき言ってましたよね。どういう意味なんです?」
ミラは振り向かないまま、わずかに顎を傾けた。
「ん? あなた、聞こえてないの?」
「え?」
「こんなにうるさいのに。」
彼女は小さく笑った。けれどそれは、皮肉でも冗談でもなかった。
まるで、誰か別の存在と話しているような声音。
風が頬を撫でた。草がざわめく。
その中で、ミラの髪がふわりと舞い、氷の粒が零れるように光った。
「……何が、聞こえてるんでしょうか?」
アランが慎重に尋ねる。
「精霊の声よ。」
淡々とした答え。
「あなた、風の精霊に好かれてる。」
アランは息をのんだ。
耳を澄ましても、聞こえるのは風の音だけだ。
けれど、その風がほんの一瞬、自分の頬を優しく撫でた気がした。
幼いころ、どこかで似た感覚を覚えたような――。
「……俺に、精霊が?」
「そう。人は精霊に選ばれない。けれど、あなたは違う。」
ミラが振り向く。
その瞳の奥、淡い青の中に、見たことのない静寂があった。
「……まだ分からないなら、それでいい。村に着いたら、教える。」
そう言って、彼女は再び前を向く。




