第12話 桜の丘
春の終わりを告げる風が、緩やかな坂道を撫でていた。
馬車の車輪が土をかむ音と、遠くで鳴く鳥の声。
リヴァレス王国北東――ゴルツェ温泉街へと続く街道は、柔らかな陽光に包まれている。
アランは窓辺に肘をつき、緑に染まりはじめた丘陵を眺めた。
「王都からここまで来ると、空気がずいぶん違うな。……少し甘い匂いがする」
隣で座っていたレティシアが、微笑を浮かべて頷いた。
「温泉地特有の香りですわ。硫黄と花粉が混ざっているのです。……慣れると癖になりますのよ」
彼女の声にはどこか懐かしさが滲んでいた。いつもの凛とした口調よりも柔らかく、人の温もりを帯びている。
「子どものころ、父とよく訪れましたの。坂道を登る途中で見える桜並木が、大好きでしたわ」
レティシアは窓の外に広がる薄桃色の丘を見つめながら、そっと微笑んだ。
風が吹くたび、花びらが舞い、馬車の窓にやさしく触れる。
アランはその横顔を見つめ、柔らかく笑う。
「レティシアにも、そんな時があったんだな。……今も、花が似合うよ」
「まあ」
思わず息をのむように言って、彼女は少し頬を染めた。
「お上手ですこと。でも……嬉しいですわ。ありがとう」
その声音には、照れを隠すような優しさがあった。
「わたくし、幼いころから枕元には花を飾って眠っておりましたの。朝目覚めるたびに花が開いていると、それだけで一日が素敵に思えたのですわ」
そう言って、肩をすくめながらくすりと笑う。
「けれど――最近は、花を愛でる余裕も少なくなってしまいましたのね」
「じゃあ、今日はその代わりだな」
アランは窓の外を指差した。
「ほら、丘いっぱいに咲いてる。あれが全部、レティシアの“おはよう”の花ってことで」
「ふふ……ずいぶん大げさな方ですわね」
笑いながらも、彼女は窓を少し開け、流れ込む風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「でも――そういうの、嫌いではありませんわ」
その穏やかなやりとりに、御者台のガロが笑いをこらえきれず声を上げた。
「おやおや、お若いもんはええですなあ。桜と恋話、どっちが咲くのやら!」
「ガロ、舌が軽すぎます」
クリナが即座に冷たい声を差し込む。
「余計なことを口にするより、馬の世話をなさってください」
「へいへい、これは手厳しい」
ガロは肩をすくめながらも、愉快そうに笑った。
レティシアはそんな二人のやり取りを聞きながら、ふとアランに目を向ける。
「……あの方たち、本当に仲がよろしいのね」
「たぶん、そう見せかけてるだけだと思うけどな」
アランが冗談めかして言うと、レティシアはまた笑った。
車内に小さな笑いが広がる。
ちょうどそのとき、馬車がゆるやかに止まり、前方から朗らかな声が響いた。
「旦那様方、少し休憩にいたしやしょう!」
その背後で、控えていたメイドのクリナが無言で動いた。
栗色の髪をきっちりとまとめ、隙のない所作で湯気の立つ茶器を差し出す。
「お嬢様、ハーブティーをどうぞ。山道の疲れに効くと、宿の方が申しておりました」
「ありがとう、クリナ。あなたの気配りは本当に行き届いていますわね」
「務めでございます」
短く答え、今度はアランに視線を向けた。
「アラン様もどうぞ。……熱いのでお気をつけくださいませ」
「ああ、ありがとう。……王都の茶より香りが深いな」
「地元の薬草を使っております。卸しの者が、朝早くに届けてくれました」
手綱を握る男――ガロは、筋骨たくましい体を揺らして振り返った。
「温泉街まではあと半刻ほど。山桜が見頃でしてね。湯の香りももう鼻先まで来てますぜ!」
レティシアが小窓を開け、風を受けながら外を覗く。
「まあ……なんて見事な。アラン、見て。あの丘一面、桜ですわ」
「ほんとだ。王都の桜とは違うな。風に混ざって、湯の匂いがする」
桜の花びらが陽光を受けて白く舞う。その光がレティシアの髪に溶け、クリナが静かに目を細めた。
「こりゃあ、いい湯治になりますぜ」
ガロがにかっと笑う。
「心も体もとろける名湯ってやつです! 湯治だけじゃもったいない。お嬢さん方、美肌にも効きますよ!」
「……ガロ、口が過ぎます」
クリナが冷ややかに制する。だが彼は気にする様子もなく帽子を取って頭を掻いた。
「へへっ、ついサービス精神がな」
アランはそのやり取りに苦笑しながら、ふと深呼吸した。
湯と花と風の匂い――。
戦も陰謀も関係のない、ただ穏やかな時間がそこにあった。
「温泉って、こういう空気の中で入るもんなんだな」
「ええ。湯に浸かるだけではなく、空気そのものを味わうものですわ」
レティシアの声が穏やかに響き、春の風が馬車の中をすり抜けていった。




