第8話 王子ルシアス
蹄の音が近づいていた。
夜更けの石畳を叩くその響きは、眠れる屋敷にはあまりに規則正しく、どこか不吉な律動を刻んでいた。
アランは手を止め、書棚の影から中庭を見やる。
門前の松明が風に揺れ、金の紋章を掲げた馬車の姿を照らした。
「……王家の紋章?」
小さく呟いた瞬間、背後の扉が荒々しく開いた。
「旦那様っ!」
駆け込んできた執事の額には汗が滲み、手にした白手袋が震えている。
「ル、ルシアス殿下が……このような時刻に……!」
レオニスが目を細め、立ち上がった。
「殿下を応接間へ。――アラン、お前も来なさい。」
「は、はい。」
重く沈んだ胸の奥で、何かがざわめく。
王家の第一王子が、夜半に――それも予告なしに。
何かが、確実に動こうとしている。
廊下を進む足音が、蝋燭の影の中に沈んでいく。
執事が扉を開いた瞬間、冷たい夜気が流れ込み、焔が一瞬だけかすかに揺れた。
重厚な靴音。
金糸の外套をまとった青年がゆっくりと入室する。
その背後には、王家の紋章を刻んだ近衛騎士が二人。
アランは反射的に膝をついた。レオニスも深く頭を垂れる。
「……お初にお目にかかります。リヴァレス王国第一王子、ルシアス=リヴァレス殿下。」
父の低い声が、部屋の空気を一瞬で引き締めた。
ルシアスは片手を軽く上げた。
「顔を上げよ。――突然の訪問、許せ。」
凛とした声。若さの奥に、冷ややかな理性と覚悟が滲む。
アランはそっと顔を上げ、青年を見つめた。
灰銀の髪、透き通るような青の瞳。その整った容貌には人の温かさを拒む気配すらあった。
夜気の中にほのかに漂う王家の香が、現実感を奪っていく。
――王国の中心が、今この屋敷にいる。
それだけで、息が詰まるようだった。
レオニスが一歩進み出る。
「殿下。このような時刻に……何か、急を要する御用でしょうか?」
「下がれ。」
ルシアスは振り返り、近衛に命じた。
扉が閉ざされ、外の気配が消える。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、沈黙の中で、王子の声が落ちた。
「――王は病床にある。」
静かな言葉。だがその一言で、場の空気が一変した。
「余は政務を代行しているが……王都はもはや限界だ。
貴族たちは勢力を誇示し、互いに睨み合っている。火種はすでに王城の奥まで及んでいる。」
レオニスが頷き、重々しく言葉を継ぐ。
「陛下より密命を賜りました。“火種の鎮圧”、そして“隣国エレジアとの秘密同盟”。」
「そうだ。」
ルシアスは視線をアランへと移した。
「アラン・オーガストレイ。名は聞いている。」
「……恐れながら、私はまだただの冒険者です。」
アランは眉を寄せ、慎重に答える。
「王国の密命など、私には――」
「重いだろう。」
ルシアスはすぐに言葉を重ねた。
だがその声音に、責める響きはなかった。
「だが、誰もが動けるわけではない。貴族でも騎士でもない者でなければ、いまの王都では動けぬ。
お前の立場だからこそ、誰にも疑われずに真実へ近づける。」
アランは沈黙した。
その瞳の奥に見えたのは、計算ではなく――切実な願い。
王子は命令ではなく、“人”として頼みに来たのだ。
「……殿下がそこまで仰るのなら、理由を伺ってもよろしいでしょうか。」
ルシアスは息を吐き、目を伏せた。
「お前は知らぬかもしれぬが――十年前の“夜”以来、王家は闇を抱えている。
オーガストレイ家は王国の礎、その血は“契約”そのもの。
だが、いまその礎が崩れかけている。王都には、“裏の手”が潜んでいる。」
「裏の手……?」
「銀蛇騎士団。……それが、火種のひとつだ。」
アランの心が凍りつく。
レオンが語っていた“銀蛇”の噂が脳裏を過った。
王都の闇は、すでに日常の中に紛れ込んでいる。
「お前に頼みたい。」
ルシアスはまっすぐに告げた。
「冒険者として自然に行動し、エレジアに渡ってくれ。同盟交渉の糸口を掴むのだ。
失敗すれば王国は分裂する。成功すれば――まだ、救える。」
アランは拳を握りしめ、俯いた。
「俺が動けば、仲間も巻き込むことになる。命令としてではなく、なぜ俺に?」
ルシアスは短く息をつき、穏やかな声で答えた。
「お前だからだ。
立場でも血でもない、自らの意思で動く者を、私は信じたい。」
その言葉に、アランは息を呑む。
目の前の王子が、ほんの一瞬だけ“同じ人間”に見えた。
やがてアランはゆっくりと膝を折り、深く頭を垂れる。
「……分かりました。アラン・オーガストレイ、密命をお受けいたします。」
ルシアスは目を伏せ、静かに頷いた。
「感謝する。いつかこの国が崩れかけたとき、余は再びお前を呼ぶだろう。」
「俺に出来ることがあれば力添え致します。」
蝋燭の灯が二人の影を長く伸ばす。
その光の中で、王族と庶民の垣根は静かに消えた。
それは後に、王国の命運を左右する“ひとつの約束”となる。
謁見が終わり、王子が去った後。
静けさを取り戻した応接間に、暖炉の火だけが小さく揺れていた。
アランはまだ膝の感触が抜けず、立ち尽くしていた。
レオニスがゆっくりと歩み寄る。
その手には、黒い封蝋の施された書簡があった。
「……これを、持っていけ。」
「これは……?」
「陛下より託された、オーガストレイ家への密書だ。
時が来るまでは開けるな――そう命じられている。」
アランは両手でそれを受け取った。
厚い封蝋の冷たさが、胸の奥まで染み渡る。
「アラン。」
レオニスの声が、穏やかに響いた。
「お前の選んだ道がどれほど険しくとも、私は誇りに思う。
血はお前を縛るためにあるのではない。守るためにある。」
アランは深く息を吸い、静かに頷いた。
「……分かりました、父さん。」
「行け。お前の仲間が待っているだろう。」
アランは書簡を懐にしまい、背筋を伸ばした。
「必ず戻ります。」
レオニスは微笑み、わずかに目を細めた。
「それでこそ、我が息子だ。」
屋敷を出たとき、東の空はすでに淡く染まり始めていた。
夜明け前の風が、まだ冷たく頬を撫でる。
アランは外套を翻し、歩き出す。
懐の書簡の重みが、まるで国そのものの運命のように感じられた。




