第6話 違和感の実家
夕霧の向こう丘の上、灰銀の屋敷が静かに立っていた。
十年ぶりに見るその門を前に、アランは深く息を吸い込む。冷えた空気が肺を刺し、胸の奥がざらつくように痛んだ。
懐かしいのに、帰る場所とは思えない。
指先に残る、遠い日の感触。母の手。弟の笑い声。けれど、それらは霧の向こうのように輪郭を持たない。
門を叩くと、すぐに足音が近づいた。
現れたのは、整った軍服姿の少年――いや、もう少年ではない。
弟、アレン・オーガストレイ。
「こうして家で会うのは……ずいぶん久しぶりだね、兄さん。」
「ああ、十年ぶりか。」
アランはぎこちなく笑った。
アレンは幼い頃の柔らかな面影を失い、父に似た冷静な眼差しを持っていた。
「まだ全部は思い出せてないけど、少しずつ……あの頃のことが浮かんでくる。」
「遺跡の戦いのとき、あの姿を見て確信したよ。」
アレンは静かに微笑む。
「やっぱり兄さんは変わってない。真っすぐで、危なっかしいところもそのままだ。」
二人の間に淡い沈黙が流れた。
その沈黙が、十年という時間の重さを何より雄弁に語っていた。
「父上が応接間で待っている。」
「……ああ。」
廊下を歩く二人の足音だけが、屋敷に響く。
絹のカーテン、磨き上げられた鎧、幼い頃にかくれんぼした柱の陰。
どれも見覚えがあるのに、まるで他人の家のように感じた。
そんなアランの背を、そっと見送る人影がひとつあった。
――セリーヌ。
白い指先で胸元を押さえ、声を殺して涙を流していた。
「……元気で、よかった。」
掠れた言葉をこぼすと、彼女は袖で目元を拭い、静かに奥の間へと消えた。
やがて、重厚な扉が開かれた。
応接間に立つのは、灰銀の髪に軍装をまとった男――レオニス・オーガストレイ。
アランが覚えている“父”よりも少し老け、そして少し、寂しそうだった。
「アラン……久しいな。」
低く響く声。
「覚えていないかもしれぬが、その眼差しは母によく似ている。」
アランは無言で頭を下げた。
その仕草に、父と息子――二人の間に、十年の距離が横たわる。
「まずは……謝ろう。」
レオニスはゆっくりと息を吐いた。
「お前をあの夜、手放したことを。あれが正しかったとは、今でも思えぬ。すまなかった。」
重い声。その中には、王国を支える貴族の威厳よりも、一人の父親としての悔いが滲んでいた。
アランは首を振る。
「間違ってたか、正しかったかなんて、わからない。でも俺は、生きてます。ガレスやみんなのおかげで、ちゃんとここまで来られました。それが答えかと。」
「……そうか。」
レオニスの目が、わずかに和らぐ。
「生きているならば、それだけで救われる。確かにそうだな。」
少しの沈黙のあと、彼は机の上の書類を閉じ、視線をアランに戻した。
「だが、今こうして会わねばならなかった理由がある。」
その声音が変わる。重く、慎重な響き。
「アラン。――お前の中の“血統因子”のことは知っているな?」
アランは眉をひそめた。
「みんなから少しだけ聞きました。“血の記憶”とか、“封印”とか……戦いの時に少しだけ力が上がる感覚ですよね。」
「そうだな。お前には伝えないとならない。」
レオニスはゆっくりと頷き、目を閉じた。
「我らオーガストレイの血筋には、代々“特異因子”が眠っている。それは王国の建国にまで遡る、“神話の血”とも呼ばれるものだ。」
父の声は低く静かだったが、言葉のひとつひとつが重く胸に響いた。
「お前が五歳の頃、私はそれを察した。お前の中に――“因子覚醒”の兆候があったのだ。それもオーガストレイだけではなく、王家と同じ因子の覚醒の可能性が」
「だから、俺を遠ざけた?」
アランの声は震えていた。
「そうだ。」
レオニスはうなずく。
「お前を守るためだった。覚醒が進めば、王都の研究院も、王権も、お前を放ってはおかぬ。……お前は“器”になってしまう。それがお前を人ではなくしてしまうかも知れないと考えると恐ろしかった。」
沈黙。
部屋の空気がひやりと冷たくなる。
アランは拳を握りしめ、俯いた。
レオニスはその沈黙を静かに受け止め、息を吐く。
「五歳のお前には、あまりに重すぎた。だが……結果として、私はお前を傷つけた。」
その声音に、わずかに震えが混じった。
アランは顔を上げ、まっすぐに父を見た。
かつて怖かったその瞳に、いまはただ人間の弱さと、後悔の光があった。
「もう、王家の因子は覚醒は始まっている。」
「え?」
「アレンから聞いた。遺跡でお前が放った力……あれは王家の血統因子の一部が目を覚ました証だ。」
レオニスの指先が、机の縁を掴む。
「お前の中の因子は、制御できぬまま進行している。だからこそ、今、会わねばならなかった。父として、そして同じ“血”を継ぐ者としてな。」
アランは言葉を失った。
胸の奥が焼けるように痛い。
恐れ、怒り、そして――理解。
「父さんは……俺を、どうしたいんですか?」
「どうもしない。」
即答だった。
「私はお前を“利用”するつもりはない。だが、お前自身がどう生きるかを決めねばならん。血に呑まれるか、それを越えるか。……それはお前だけの戦いだ。」
アランは拳をゆっくりとほどき、静かに頷いた。
胸の奥で、何かが音を立てて変わっていく。
「……わかりました。俺は、自分の意志で進みます。」
「それでいい。」
レオニスは小さく微笑んだ。
その笑みは、十年前と同じ、どこか不器用で、けれど温かいものだった。
――父と息子の再会。
十年の空白を埋めるにはあまりにも短い時間だったが、確かに何かが繋がり直した瞬間だった。
窓の外、霧がゆっくりと晴れていく。
その光の中で、アランはかすかに微笑んだ。
この家に残る痛みも、これからの運命も――きっと、避けては通れない。
だが、もう逃げはしない。
父の言葉を胸に刻みながら、彼は静かに立ち上がった。




