第5話 しんじつ亭集合
夜風が暖簾を揺らし、香ばしい匂いが漂っていた。
鉄鍋で煮込まれた肉の匂い、炊きたての米の湯気、そしてほんの少し焦げた醤油の香り。
王都の街がどこか張りつめた空気をまとっているというのに、〈しんじつ亭〉の中だけは別世界のように穏やかだった。
壁際のランプが灯り、木のテーブルには温かな料理と笑い声が並ぶ。
「おう、ようやく全員そろったか」
カウンター越しに、オヤジさんが手ぬぐいで汗を拭きながら低く言った。
年季の入った声。ぶっきらぼうだが、どこか安心感がある。
アラン、レオン、リィナ、ボリスの四人は、いつもの奥の席に腰を下ろした。
一日の疲れがゆっくりと抜けていくような、あの場所。
出されたのは、煮込みハンバーグの定食に、野菜スープと焼き立てパン。
そして、ボリス用には――特製「鉄鍋スタミナ丼」。
「おおっ、なんだこの香りは!」
ボリスは目を輝かせ、丼を両手で抱えるように持ち上げた。
一口食べた瞬間、瞳を丸くして唸る。
「う、うまいっ……! うまいぞこれ! 舌が喜んでる! オヤジさん、これ、どうやって作ってんだ!?」
「そんなもん、腹減った奴がうまいって言うように作ってんだよ」
オヤジさんは鍋をかき混ぜながらぼそりと答えた。
「そ、そんな答えで料理できるわけねぇだろ!」
「できてんだから文句言うな。喋ってる暇あったら、冷めねぇうちに食え」
その言葉に、ボリスは思わず笑った。
スプーンを握り直し、勢いよくかき込む。
「うっま! ……ああ、くそ、こんなの食ったら他の飯が味気なくなるじゃねぇか!」
「文句言いながら食うな」
オヤジさんは呆れたように言いながらも、口の端をわずかに上げた。
そんな様子を見て、ルルがトレイを抱えて駆け寄ってきた。
「ねぇねぇボリスさん、それ、昨日うちの裏で拾ったキノコも入ってるんだよ!」
「おいルル、余計なこと言うな!」
「だって、オヤジさんが『味見してから言え』って――」
「こらっ!」
オヤジさんの怒鳴り声に、店中がどっと笑いに包まれた。
ルルは「ごめんなさーい!」と舌を出し、また厨房へと駆けていく。
レオンが苦笑し、リィナが肩をすくめた。
「ほんと、あの子は天真爛漫って言葉が似合うね」
「この店の香辛料みたいなもんさ。効きすぎるときもあるがな」
アランがぼそりとつぶやくと、皆が笑った。
そんな中、扉のベルが鳴る。
「おっ、今夜もやってるか〈しんじつ亭〉!」
入ってきたのは、冒険者ギルドの職員たちだった。
彼らはオヤジさんに軽く会釈し、空いた席に腰を下ろすと、次々と料理を頼み始める。
「オヤジ、いつもの!」「こっちには麦酒三つ!」
たちまち店内が賑やかになり、自然と宴のような空気が生まれた。
リィナがグラスを掲げる。
「じゃあ、せっかくだし乾杯しますか!明日も無事に冒険できますように!」
「おう!」
「乾杯!」
声が重なり、グラスの音が心地よく響いた。
オヤジさんはカウンター越しにそれを見ながら、腕を組んだままぼそりと呟く。
「まったく……うちを居酒屋と間違えてやがる」
だが、その声の奥にはどこか嬉しそうな響きがあった。
店の一角では、ノランが「ガレスが昨日の依頼で大失敗しやがった」と愚痴をこぼし、リィナがからかうように笑っている。
ボリスはというと、また丼をおかわりしていた。
「おいボリス、三杯目だぞ」
「うるせぇ! これ食ったら、明日どんな敵でもぶっ飛ばせそうなんだ!」
「アホか……胃袋だけ鍛えてどうする。それに明日は依頼いかないだろ」
レオンの冷静な突っ込みに、再び笑いが起こった。
やがて、騒ぎの中でふと静かになる瞬間が訪れた。
アランがスプーンを止め、皿の端を見つめていた。
その微妙な空気を感じ取り、リィナが首を傾げる。
「どうしたの? スープが口に合わなかった?」
「いや…」
アランは短く息を吐き、仲間を見渡した。
「……明日、オーガストレイ家に行く。たぶん、面倒ごとになる」
レオンの表情がわずかに動いた。
「やはり行くのか。今日ずっと迷ってたろう?」
「避けても仕方ない。…一度会って話ししてみないと、前に進めない。」
「自分が何者なのかを、か?」
「うん。知りたい。知ったから変わるとかはないけどな。」
短い沈黙。
ランプの灯が揺れ、湯気がゆらりと昇った。
レオンは杯を回し、低く呟く。
「王都は今、貴族の思惑で渦を巻いてる。オーガストレイの息子が生きていたと知られれば、誰かが反応する」
「それでも、行くのか?」
「行くよ」
アランの声は静かで、けれど芯があった。
「もう、覚悟は決まっている。過去を知ってしまった以上、何もしないほうが嫌だ。」
その言葉に、レオンは薄く笑う。
「……まるで革命家の台詞だな」
「やめてくれ、俺にそんな器はない」
そこへボリスが手を叩いた。
「お前ら難しい顔して、ばかだな! そんなことより、明日の朝は何食うか決めようぜ!」
「賛成!」とリィナが笑う。「パンよりご飯がいい!」
「弁当作っとくか?」
オヤジさんの声が厨房から飛ぶ。
店内は再び笑い声に包まれた。
そのとき、カウンターの端から小さな声がした。
「……アランお兄ちゃん、本当に行くの?大丈夫ファよね?」
ルルが皿を抱えたまま、少し寂しそうに立っていた。アランが変わってしまうのではないかと心配になっていた。
アランは振り返り、優しく微笑む。
「うん。少しだけな。家族に会うだけだ。すぐ戻るよ。しんじつ亭のごはんが恋しくなるから」
ルルの目が潤む。
「……じゃあ、これあげる」
彼女はポケットから、小さな糸玉を差し出した。
「この前、お客さんに聞いたの。“糸は人をつなぐ”んだって。だから、帰ってくるまで切れないようにね」
アランは言葉を失い、そっとそれを受け取った。
「……ありがとう、ルル。大事にするよ」
仲間たちは黙って見守る。
オヤジさんは、皿を拭く手を止め、ぼそりと呟いた。
「無茶はすんな。命は使い捨てじゃねぇ」
その声は低く、ぶっきらぼうだったが、どこか温かかった。
アランは静かにうなずく。
――しんじつ亭の灯りが、穏やかに四人を照らしていた。
夜は深まり、笑いと湯気がまだ消えぬまま、王都の風が暖簾を優しく揺らしていた。




