第92話 冷徹な鬼
春の終わり。
王都近衛騎士団の新任隊が編成される日。
十三歳のアレン・オーガストレイは、初めて自分の部下を持つことになった。
「よろしくお願いします、隊長!」
元気な声で敬礼したのは、十八歳の青年兵リュート。
短く刈られた金髪と笑いじわのある目。まだ戦場の恐ろしさを知らない、無垢な若者だった。
「……命令は絶対だ。判断は僕が下す」
「はいっ!」
アレンの冷静な声に、リュートは屈託なく笑う。
「いやぁ、年下が上官って変な感じっすね。でも、頼りにしてますよ」
アレンはその言葉に答えなかった。
ただ一瞬、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
――そんな感情は、任務には不要だ。そう言い聞かせながら。
任務は国境付近の山岳地帯。
盗賊討伐と、奪われた補給物資の回収。
地形は険しく、霧が濃い。失敗すれば全滅の危険がある。
「……全員、指示通り配置につけ」
アレンの声に、部下たちは息を呑む。
彼の命令は寸分の狂いもなく、完璧だった。
だが、戦場に“想定外”はつきものだ。
「うわっ――!」
叫び声。
リュートが敵の罠に足を取られ、崖下へと滑り落ちかけた。
「リュート! 動くな、今助け――」
「隊長、下に敵が! おれが囮になります!」
彼はアレンの制止を振り切り、崖下へと身を投げた。
瞬間、矢の雨が降る。
アレンの頭の中で、冷徹な判断が交錯する。
――追えば作戦は崩壊。
――捨てれば成功。
だが、そのとき。
胸の奥から、何かが弾けた。
「……っ、くそッ!」
アレンは躊躇なく崖を飛び降りた。
転げ落ちる岩、耳を裂く風。
体勢を立て直し、矢を弾き返す。
その腕がリュートの身体を掴んだ瞬間、敵の槍が脇腹を貫いた。
「……ぐっ!」
「たい、隊長! な、なんで……!」
「黙れ、走れ!」
二人は血まみれで谷を抜け、ようやく仲間のもとへ戻った。
アレンの顔は蒼白だったが、声だけは凪のように静かだった。
「――任務は完了だ」
王都への帰還後。
作戦は成功とされたが、報告書の末尾に一行、アレンの手で記された。
「個人感情による行動の結果、負傷。再発防止を誓う。」
包帯を巻いた腹を押さえながら、アレンは無表情にペンを走らせた。
その夜。
リュートが病室に飛び込んできた。
「隊長! 本当にありがとうございました! 命、助けてくれて……俺、一生忘れません!」
アレンは目を閉じたまま答える。
「勘違いするな。僕は失敗した。次はない」
「失敗? そんな――俺は、隊長を尊敬して――」
「帰れ」
短く、それだけを言った。
声は、震えていた。
扉が閉まる。
残された部屋に、静寂だけが残る。
アレンはゆっくり立ち上がり、棚の奥から一本の木剣を取り出した。
幼い頃の玩具。
兄と笑いながら振り合った、唯一の“過去”だった。
床に膝をつき、剣を握りしめる。
血の匂いがまだ指先に残っている。
――守りたいと思った瞬間、敗北する。
――感情は、剣を鈍らせる。
「……弱さなんて、いらない」
誰もいない訓練場。
倒れ込みながら、彼は震える手で木剣を離した。
その夜、少年の心の奥で“何か”が完全に凍りついた。
翌朝。
指導官ヴォルフ・マレヴィッチが病舎を訪ねてきた。
白髪まじりの大柄な男、かつて父レオニスの部下であった歴戦の将。
「お前の報告書、読んだ。……自分を責めすぎだ」
「僕は任務を危険に晒しました」
「仲間を救った。立派なことだ」
「感情で動いた結果です。再び同じことをすれば、次は誰かが死ぬ」
ヴォルフはしばし黙り込み、窓の外を見た。
淡い光が差し込む中、彼は静かに言った。
「アレン。お前の父はな、部下を守るために何度も命を懸けた男だ」
「知っています」
「じゃあ聞く。お前が守りたかったものは、何だ?」
アレンは答えない。
沈黙のまま立ち去ろうとした背に、ヴォルフの声が飛んだ。
「人はな、守るものを失ったとき、ただの剣になる。……お前は、まだ人のままでいろ」
足が止まりかけた。
だが、少年は振り返らなかった。




