第91話 王家直属
王立騎士学院、卒業式の日。
広場に掲げられた王国旗が、春の風を受けて静かに揺れていた。
壇上に立つ十二歳の少年――アレン・オーガストレイ。
異例の三年飛び級。わずか九歳で入学した“神童”は、今、誰よりも早く学院を去ろうとしていた。
その小柄な背に、無数の視線が注がれている。賞賛も、嫉妬も、畏れも。
だがアレンの瞳は一つとしてそれを映さず、ただまっすぐ前を見ていた。
校長の言葉が響く。
「オーガストレイ卿は、王室直属近衛騎士団への推挙が決まっている。……彼の努力と才覚は、若きすべての騎士の手本となるだろう」
拍手が広がる。だが、アレンは一歩も動かない。
肩の金糸飾りが光を弾くたびに、まるで鎧が心を封じるようだった。
――遠くの席で、ひとりの女性がその光景を見つめていた。
白い手袋を外すこともなく、ただ息を呑む。
セリーヌ・オーガストレイ。
彼女の唇がわずかに動く。
「……アレン……」
少年は、ふと顔を上げた。
視線が一瞬、群衆の奥に向かう。
けれど――目は合わない。いや、合っても、彼は気づかないふりをした。
彼の心の奥では、別の言葉がこだましていた。
――もう、あの頃の僕じゃない。
――泣くことも、笑うことも、意味がない。
卒業証書を受け取る手は、驚くほど冷たかった。
握るたびに、何か大切なものがこぼれ落ちていくようだった。
王都近衛騎士団――。
そこは名誉と実力がすべての、王国最精鋭部隊。
だが、その中で最年少の少年は、ひときわ異質だった。
「……あれがオーガストレイ卿の息子か」
「まだ十二歳だと? 冗談だろう」
「見ろよ、まるで人形みたいだ。表情ひとつ動かねえ」
アレンは無言のまま、訓練場の中央に立つ。
実戦形式の模擬戦。対するは十八歳の上級騎士。
「子どもの相手か、気が引けるな」
上級騎士が笑う。
だが、次の瞬間にはその槍が弾かれ、喉元に木剣が突きつけられていた。
「……っ、ば、馬鹿な」
「勝敗は決しました」
淡々とした声。
その瞳には、勝利の喜びも誇りも宿っていなかった。
観戦していた団員たちが息を呑む。
「やはり、あいつ……人間離れしてる」
「だが、誰も寄りつかねぇ。冷たすぎる」
夜。
静まり返った訓練場に、ひとり木剣を振る音だけが響く。
アレンは無言で何百回も素振りを繰り返していた。
その片隅に、昔の木製の剣が置かれている。
――兄と遊んだ、あの庭の記憶が微かに蘇る。
だが、胸に浮かんだ温もりを、彼は無理やり押し殺す。
「……もう、戻れない」
呟きが夜風に消える。
ある任務の日。
山岳地帯での盗賊討伐。
アレン率いる分隊は、完璧な作戦で敵を包囲した。
しかし、ひとりの新兵が命令を無視して飛び出した。
「仲間が――まだ、生きてる!」
「戻れ。今は――」
命令は届かず、敵の矢が飛ぶ。
アレンは咄嗟に手を伸ばしかけた。
けれど、その指は途中で止まった。
彼は冷徹に判断した。
――救えば全滅、切れば成功。
剣が閃き、敵の首を刎ねる。
作戦は成功した。犠牲者は一名。
「……なぜ、見殺しにしたんですか!」
若い隊士が叫ぶ。
アレンは振り返らない。
「俺はただ、正しい判断をした。それ以上に、何が必要なんですか」
静寂が落ちる。
血のにおいと、冷たい風だけが残った。
報告会で父・レオニスは何も言わなかった。
ただ、机の上で拳を組み、息を吐く。
「……お前は強くなったな、アレン」
「家のために、当然のことをしたまでです」
「……そうか」
父はそれ以上、何も言わなかった。
アレンの背中が去ると、老いた騎士は静かに呟く。
「強くなりすぎたな。……誰のために、だ?」
夜の部屋。
アレンは窓際に立ち、街の明かりを見下ろす。
背後の机の上、埃をかぶった木の剣が、まだそこにあった。
――兄と見た夕焼け。
――「二人で、最強の騎士になろうな」という声。
あの約束が、今ではただの呪いのようだった。
「僕がなりたかったのは、騎士団長じゃない。……ただ、あの時の自分を、取り戻したかっただけだ」
しかしその想いは、もう言葉にできないほど、遠く霞んでいた。




