第90話 騎士団長に必要なもの
夕陽が傾き、教室の壁に長い影が伸びていた。
騎士養成学校の最終課程。卒業試験を終えた生徒たちは、歓声を上げながら中庭へ消えていった。
だが、その喧噪はとっくに遠ざかっている。
教室には、ひとりの少年だけが残っていた。
アレン・オーガストレイ。
年齢に似合わぬ端正さを持つ顔が、橙の光を浴びてもほとんど陰影を変えない。
机の上には銀の剣。
彼は無言のまま、その刃を布で磨いていた。
金属音もなく、規則的な手の動きだけが、時計の針のように静かに時を刻んでいた。
そのとき、廊下の向こうから足音が響いた。
重く、しかし穏やかなリズム。
扉が軋み、ひとりの男が姿を現す。
「……卒業間際だってのに、まだ残ってるとはな。好きだな、こういう空気」
声の主は老騎士――教官ダリオン・ベルク。
灰色の髪を後ろで束ね、鋼色の外套を肩に掛けている。
その眼差しには、戦場をいくつも見てきた男だけが持つ“深い静けさ”があった。
アレンは手を止めずに答える。
「この時間は、静かで考えやすいので」
「……なるほど。“お前らしい”答えだな」
ダリオンはわずかに笑った。
しかし、その笑みの奥にはかすかな痛みがあった。
彼の胸中をよぎるのは、数年前の光景だ。
剣を振るいながら笑っていた幼い少年。
あどけなく、それでいて誇らしげに父の背を見上げていたあの子が――今、無表情な“兵器”のように座っている。
(心の声)
「十二歳……本来なら、ようやくここに入学してくる年齢だ。
本来なら――仲間とぶつかり、笑い、泣き、失敗して、悔しがって……
そうして“人”として育っていく時間なんだがな」
沈黙が落ちる。
夕陽が窓を染め、机の影がゆっくりと伸びてゆく。
外では鳥の群れが帰巣の声をあげている。
だが教室の中は、世界から切り離されたように静まり返っていた。
やがてダリオンは、窓際に歩み寄り、橙の光を背にアレンを見下ろした。
「で、アレン。卒業してから、お前は何になるつもりだ?」
アレンは、ためらいもなく答えた。
「――騎士団長です」
その即答ぶりに、ダリオンの眉がわずかに動いた。
そして、ゆっくりと目を細める。
「……だろうな。でも、忠告しとく。今のお前じゃ、なれん」
アレンの手が、剣の柄の上で止まった。
その瞳がわずかに細められ、静かに問う。
「理由を、教えていただけますか」
ダリオンは椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
古びた椅子が軋み、夕陽の中で二人の影が重なる。
「“強い”のは分かってる。誰よりも冷静で、正確で、恐ろしく無駄がない。
だが――それだけじゃ、騎士団長にはなれん。
あの席はな、“国の盾”であると同時に、“民の支え”なんだよ」
「……支え。」
「ああ。剣で守るだけじゃない。
人を導き、人の痛みに気づき、人の弱さを許す。
お前は……そのどれもを、切り捨てちまってる。」
ダリオンの声は厳しいというより、どこか懇願に似ていた。
アレンは沈黙したまま、机の上の剣を見つめる。
刃に映る自分の顔は、まるで他人のようだった。
やがてダリオンが、さらに問いを重ねる。
「……なぜ、お前は騎士団長を目指す?」
アレンの唇が、わずかに動いた。
けれど、言葉は出なかった。
その問いは、彼の中で“空洞”に落ちていく。
思い出す。幼いころ、兄と交わした夢。
――“二人で騎士団を率いて、国を守るんだ。”
けれど今の彼には、その言葉を“夢”として語る心がもう残っていない。
義務、責務、使命。
それが彼の中で“生きる理由”の全てになっていた。
ダリオンはため息をつき、静かに立ち上がる。
「わからんなら、それでもいい。だがな――“理由”を持たずに立つ者は、いずれただの壁になるぞ。」
「壁……」
「ああ。強くて、硬くて、誰も越えられないようで……
だが、壁はいつか崩れる。越えられるために、最初からそこにある。
お前が目指してるのは、そんな存在じゃないはずだろ?」
アレンは何も言わなかった。
ただ、剣を握る手にわずかな力がこもる。
その動きに、かつての幼い息遣いが微かに重なった――が、すぐに消えた。
ダリオンはしばらくその背を見つめ、やがて踵を返す。
扉へと歩き出しながら、背中越しに声をかけた。
「卒業、おめでとう。……でもな、アレン。」
歩みが止まる。
ダリオンは振り返らずに言葉を続けた。
「俺は――“笑ってた頃のお前”が、もう一度戻ってくる可能性を、どこかでまだ信じてるんだよ。」
扉が静かに閉まる。
足音が遠ざかり、再び教室に沈黙が戻った。
アレンは長い間、微動だにせず立ち尽くしていた。
やがて机の引き出しに手を伸ばし、そっと開ける。
中には、一本の木の剣。
小さな手の跡が残る、色褪せた木片。
アレンはしばらく見つめていた。
目の奥で、何かが揺れる。
けれど、その揺らぎを押し殺すように、彼は木剣を静かに戻した。
カチリ。
引き出しの閉まる音が、空っぽの教室に響く。
「……まだ、終わっていない。」
呟いた声は、まるで誓いのように冷たかった。
夕陽が沈み、窓の外の世界から色が消えていく。
やがて教室の中には、金属のような静寂だけが残った。
その中心で、少年の影が一層濃く、深く――沈んでいった。




