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英雄を夢見た少年は、王国の敵になる ―リベルタス―  作者: REI
第3章 隠蔽された過去 南の都編

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第89話 空白の心


 春の訓練場に、金属音が乾いた風を裂いて響いた。

 模擬戦形式の実戦演習。相手は三人組の上級生。戦槍、剣、魔術――それぞれ異なる得物を構えるが、アレンの剣がひとたび動いた瞬間、三人は同時に地に膝をついていた。

「……終了。勝者、アレン・オーガストレイ。」

 審判役の教官が結果を告げても、誰も驚きの声を上げなかった。

 もはやこの光景は、見慣れたものになっている。

 訓練場の隅で見ていた生徒たちは口々に囁く。

「またかよ……」

「反則みたいな動きだな。あれ、ほんとに人間か?」

「いや、たぶんもう人じゃねえ。」

 アレンは何も言わず、倒れた相手たちに一礼すると剣を納めた。

 無表情のまま、淡々と次の講義へ向かおうとする。

 その背を、同級生の少女――エリナが追いかけた。

「ちょっと待って!」

 息を切らしながら駆け寄る。

「今日も……また全部、一人で片づけたのね。」

「……当然だ。」

 アレンは振り返らずに答えた。

「“当然”って……ねぇ、あんた、いつもそう言うけど。誰かに任せたり、支え合ったりするのも訓練のうちでしょ?」

「仲間を頼るのは、弱者のすることだ。」

「なにそれ……!」

 エリナの声が少し震えた。

「仲間を信じるのが弱さだっていうの? じゃあ、あんたが守りたいって言ってた“国”や“家”は、何を信じて守るのよ?」

 その言葉に、アレンはほんの一瞬だけ足を止めた。

 脳裏に、小さな影がちらつく。――木の剣を振るう幼い兄の姿。

 けれど、その映像はすぐに、砂のように崩れ落ちていった。

「……そんなものは、もう関係ない。」

 その声には、熱も情もなかった。

「俺は、自分の責務を果たすだけだ。」

 エリナは唇を噛みしめ、俯いた。

 アレンは振り向かずに歩き去る。

 その背中に、春の風が冷たく吹き抜けた。


 夜、アレンは寮の一室で机に向かっていた。

 蝋燭の灯だけが、淡く光を揺らめかせる。

 開いた書物には、戦術論、戦略地図、敵の動線分析。

 十一本目の羽根ペンを使い潰しても、まだ手は止まらない。

 ――もっと、強くならなければ。

 ――隙を、作ってはいけない。

 紙面の上に描かれる線は、いつしか血のように濃くなっていた。

 彼の中では、「強くなりたい」という願いは、すでに「壊れるまで研ぎ続けねばならない」という呪いに変わっている。

 不意に、窓の外から声がした。

「……よ、アレン。まだ起きてんのか?」

 軽い口調。

 窓の向こうに顔を覗かせたのは、年上の同期――シリルだった。

「また徹夜か? お前、いつ寝てんだよ。」

「必要ない。」

「いや、寝ろ。人間は寝るもんだ。」

 シリルが苦笑する。

「お前の脳みそ、戦術で詰まりすぎて蒸発すんぞ。」

 アレンは筆を止めたが、表情は変えない。

「お前、本当に人間かよ……」

 そう冗談めかして言ったとき――わずかに。

 本当にわずかにだけ、アレンの口元が動いた。

 それは、笑みというにはあまりにも儚く、痛みを隠すような曲線だった。

 シリルはその一瞬を見逃さなかった。

「お、今笑ったろ。……珍しいな。」

「気のせいだ。」

「へぇ。なら、気のせいでもいいけどさ。」

 彼は窓枠に肘をかけたまま、夜空を見上げた。

「お前、今は無敗だし、誰も勝てない。けどな……たぶん一番戦ってんのは、お前自身だろ。」

 アレンは何も言わない。

 ただ静かに、手の中の羽根ペンを折った。

 パキリ、と乾いた音がした。


 夏。

 騎士養成学校では実地任務を想定した模擬演習が行われていた。

 班ごとに分かれ、遺跡奪還の想定で連携戦を行う。

 エリナが防衛陣の指揮を執り、アレンが前衛を単独で突破する形だった。

 だが途中、敵役の教官が仕掛けた罠にエリナが足を取られ、転倒。

 訓練用の魔力矢が肩を掠め、鮮やかな赤が散った。

「……エリナ!」

 思わず、声が出た。

 アレンは彼女のもとへ駆け寄り、片膝をついて手を伸ばす。

 指先が、震えた。

 助けることが当然だと思った瞬間――胸の奥に、冷たい警鐘が鳴った。

 “感情を持つな。迷うな。弱さは死だ。”

 アレンの目から光が消える。

 差し出しかけた手を、ゆっくりと引っ込めた。

 そして冷たく言い放つ。

「起きろ。訓練は終わっていない。」

 その瞳に、かつての優しさは欠片も残っていなかった。

 見上げたエリナの顔が、言葉を失う。

 彼の中に、何かが完全に崩れ落ちた瞬間だった。


 秋。

 卒業試験を前に、シリルがアレンの部屋を訪ねてきた。

「……もう行くよ、俺。」

「そうか。」

「次に会う時は、たぶん俺、前線の任務についてるだろうな。」

 アレンは机の上の報告書から目を上げない。

「お前さ……」

 シリルが少し笑って言った。

「次に会うときは、お前、もう本当に“誰も信用しないやつ”になってそうだな。」

 アレンは無言だった。

 ただ、ゆっくりと立ち上がり――形式ばった動作で一礼した。

「世話になった。」

 その一言だけ。

 声は穏やかで、どこまでも冷たかった。

 シリルは黙ってその場を立ち去った。

 背後で扉が閉まる音がしたとき、アレンはようやく息を吐く。

 机の引き出しを開けると、古びた木の剣が一本、静かに眠っていた。

 小さな手で振っていた頃の記憶――兄と笑い合った声――が、遠い幻のように浮かぶ。

 指先が、その柄をなぞる。

 ――あのときの温もりを、思い出しかけた瞬間。

 彼は木剣を静かに戻し、引き出しを閉めた。

「……もう、いらない。」

 その声は、誰にも届かないほど小さかった。

 蝋燭の灯が揺れ、短い火花を散らして消えた。

 闇の中、アレンの瞳だけが静かに光っていた。

 光ではなく――氷のような、冷たい反射として。

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