第89話 空白の心
春の訓練場に、金属音が乾いた風を裂いて響いた。
模擬戦形式の実戦演習。相手は三人組の上級生。戦槍、剣、魔術――それぞれ異なる得物を構えるが、アレンの剣がひとたび動いた瞬間、三人は同時に地に膝をついていた。
「……終了。勝者、アレン・オーガストレイ。」
審判役の教官が結果を告げても、誰も驚きの声を上げなかった。
もはやこの光景は、見慣れたものになっている。
訓練場の隅で見ていた生徒たちは口々に囁く。
「またかよ……」
「反則みたいな動きだな。あれ、ほんとに人間か?」
「いや、たぶんもう人じゃねえ。」
アレンは何も言わず、倒れた相手たちに一礼すると剣を納めた。
無表情のまま、淡々と次の講義へ向かおうとする。
その背を、同級生の少女――エリナが追いかけた。
「ちょっと待って!」
息を切らしながら駆け寄る。
「今日も……また全部、一人で片づけたのね。」
「……当然だ。」
アレンは振り返らずに答えた。
「“当然”って……ねぇ、あんた、いつもそう言うけど。誰かに任せたり、支え合ったりするのも訓練のうちでしょ?」
「仲間を頼るのは、弱者のすることだ。」
「なにそれ……!」
エリナの声が少し震えた。
「仲間を信じるのが弱さだっていうの? じゃあ、あんたが守りたいって言ってた“国”や“家”は、何を信じて守るのよ?」
その言葉に、アレンはほんの一瞬だけ足を止めた。
脳裏に、小さな影がちらつく。――木の剣を振るう幼い兄の姿。
けれど、その映像はすぐに、砂のように崩れ落ちていった。
「……そんなものは、もう関係ない。」
その声には、熱も情もなかった。
「俺は、自分の責務を果たすだけだ。」
エリナは唇を噛みしめ、俯いた。
アレンは振り向かずに歩き去る。
その背中に、春の風が冷たく吹き抜けた。
夜、アレンは寮の一室で机に向かっていた。
蝋燭の灯だけが、淡く光を揺らめかせる。
開いた書物には、戦術論、戦略地図、敵の動線分析。
十一本目の羽根ペンを使い潰しても、まだ手は止まらない。
――もっと、強くならなければ。
――隙を、作ってはいけない。
紙面の上に描かれる線は、いつしか血のように濃くなっていた。
彼の中では、「強くなりたい」という願いは、すでに「壊れるまで研ぎ続けねばならない」という呪いに変わっている。
不意に、窓の外から声がした。
「……よ、アレン。まだ起きてんのか?」
軽い口調。
窓の向こうに顔を覗かせたのは、年上の同期――シリルだった。
「また徹夜か? お前、いつ寝てんだよ。」
「必要ない。」
「いや、寝ろ。人間は寝るもんだ。」
シリルが苦笑する。
「お前の脳みそ、戦術で詰まりすぎて蒸発すんぞ。」
アレンは筆を止めたが、表情は変えない。
「お前、本当に人間かよ……」
そう冗談めかして言ったとき――わずかに。
本当にわずかにだけ、アレンの口元が動いた。
それは、笑みというにはあまりにも儚く、痛みを隠すような曲線だった。
シリルはその一瞬を見逃さなかった。
「お、今笑ったろ。……珍しいな。」
「気のせいだ。」
「へぇ。なら、気のせいでもいいけどさ。」
彼は窓枠に肘をかけたまま、夜空を見上げた。
「お前、今は無敗だし、誰も勝てない。けどな……たぶん一番戦ってんのは、お前自身だろ。」
アレンは何も言わない。
ただ静かに、手の中の羽根ペンを折った。
パキリ、と乾いた音がした。
夏。
騎士養成学校では実地任務を想定した模擬演習が行われていた。
班ごとに分かれ、遺跡奪還の想定で連携戦を行う。
エリナが防衛陣の指揮を執り、アレンが前衛を単独で突破する形だった。
だが途中、敵役の教官が仕掛けた罠にエリナが足を取られ、転倒。
訓練用の魔力矢が肩を掠め、鮮やかな赤が散った。
「……エリナ!」
思わず、声が出た。
アレンは彼女のもとへ駆け寄り、片膝をついて手を伸ばす。
指先が、震えた。
助けることが当然だと思った瞬間――胸の奥に、冷たい警鐘が鳴った。
“感情を持つな。迷うな。弱さは死だ。”
アレンの目から光が消える。
差し出しかけた手を、ゆっくりと引っ込めた。
そして冷たく言い放つ。
「起きろ。訓練は終わっていない。」
その瞳に、かつての優しさは欠片も残っていなかった。
見上げたエリナの顔が、言葉を失う。
彼の中に、何かが完全に崩れ落ちた瞬間だった。
秋。
卒業試験を前に、シリルがアレンの部屋を訪ねてきた。
「……もう行くよ、俺。」
「そうか。」
「次に会う時は、たぶん俺、前線の任務についてるだろうな。」
アレンは机の上の報告書から目を上げない。
「お前さ……」
シリルが少し笑って言った。
「次に会うときは、お前、もう本当に“誰も信用しないやつ”になってそうだな。」
アレンは無言だった。
ただ、ゆっくりと立ち上がり――形式ばった動作で一礼した。
「世話になった。」
その一言だけ。
声は穏やかで、どこまでも冷たかった。
シリルは黙ってその場を立ち去った。
背後で扉が閉まる音がしたとき、アレンはようやく息を吐く。
机の引き出しを開けると、古びた木の剣が一本、静かに眠っていた。
小さな手で振っていた頃の記憶――兄と笑い合った声――が、遠い幻のように浮かぶ。
指先が、その柄をなぞる。
――あのときの温もりを、思い出しかけた瞬間。
彼は木剣を静かに戻し、引き出しを閉めた。
「……もう、いらない。」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
蝋燭の灯が揺れ、短い火花を散らして消えた。
闇の中、アレンの瞳だけが静かに光っていた。
光ではなく――氷のような、冷たい反射として。




