第85話 異質の才
稽古場の床は朝露でわずかに濡れていた。
アレン・オーガストレイは、まだ夜が明けきらぬうちから剣を握り、黙々と素振りを繰り返していた。
周囲には同年代の子どもたちの笑い声も、家族の呼びかけもない。アレンの世界は、剣の軌跡と呼吸の音、そして胸に巣くうひとつの決意だけで満たされていた。
「……もっと、もっと強く……」
唇から漏れるその呟きは、五歳のころ、兄アランを守りたいと願った幼い祈りの名残だった。
しかし今、その想いは形を変え、「家を支える者」「騎士として生きる者」へと変質していた。
子どもの心には重すぎる使命が、胸の奥で静かに軋みを上げる。
稽古場の隅に立つ家庭教師は、少年の異様な集中に息を呑む。
「アレン、この歳でここまでやる必要はない。体も、心も、まだ――」
穏やかな声も、アレンの耳には届かない。
剣を振るたびに走る痛みが、彼にとっては生の証であり、己を保つ唯一の方法だった。
「……まだ、終われない……」
小さな声が震え、剣の柄が汗で滑る。手首が痺れ、肩が重く、息が詰まる。それでも彼は剣を放さない。痛みは努力の証。弱音は敗北の印。
昼が来ても、太陽が高く昇っても、彼は剣と書物を手放さなかった。
母セリーヌがそっと近づき、やわらかな声で言う。
「アレン、少し休みなさい。外の空気を吸いましょう」
アレンは目も向けずに、短く答える。
「……今は勉強中だから」
その言葉の奥に、子どもの甘さはもうない。代わりに、義務と焦燥だけが残っていた。
セリーヌは黙って彼を見つめ、静かにため息をつく。
――息子の中で何かが、取り返しのつかない形に変わりつつあることを感じながら。
夜が訪れても、アレンは床に剣を並べ、型を確認し続けた。
眠気を許さず、痛みに抗い、心を削るように。
「もっと強くなれば、兄や家族を守れる」――その信念だけが、彼を支えていた。
だが、その信念はいつしか形を変える。
アランを想う時間は減り、幼い憧れは影のように遠のいていった。
代わりに、〈家〉と〈国〉を守る責務が心の中心を占めていく。
それは誇りであり、同時に呪いでもあった。
「僕は騎士団長になる。誰よりも強くなって、家を守る……」
呟いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
孤独が、疲労が、冷たい霧のように心を満たす。
けれどアレンは、立ち止まることを知らない。
痛みを拒まず、癒しを求めず、ただ前を見続けた。
やがて笑うことを忘れ、怒ることも、泣くこともやめた。
喜怒哀楽のすべては、剣を握る妨げでしかなかった。
残されたのは、強さへの執着と、己を研ぎ澄ます狂気じみた集中力。
それでも胸の奥底に、微かに残る温もりがあった。
――アラン。
名を思い出すたび、どこかで小さな灯が瞬く。
けれど、それはもはや彼を動かす力ではなく、遠い過去の残響にすぎなかった。
夜の稽古場に、剣を振る音だけが響く。
幼い身体の奥に宿る意志は、すでに鋼のように硬く、冷たかった。
アレン・オーガストレイ――その名の少年は、もはや「子ども」ではなかった。
兄を失った日から止まっていた時間が、静かに、狂おしく、彼を“騎士”へと変えていった。




