第84話 アレンの変化
オーガストレイ家の広間は、その夜、いつになく重い空気に沈んでいた。
人々の声は小さく抑えられ、笑いの音は消え失せ、灯火の揺らぎさえ冷たく見えた。
家の中にいるのに、まるで誰もいない館のようだった。
幼いアレン・オーガストレイは、その変化の意味がわからず、胸の奥にざらりとした不安を覚えていた。
父も母も、使用人たちも、決して「アラン」の名を口にしない。
――「もういない」「忘れなさい」
繰り返されるその短い言葉だけが、耳に焼きついた。
アレンは小さな足で兄の部屋へ駆け込んだ。
扉を開けると、まだアランの香りが微かに残っていた。
床には散らかった玩具、二人で描いた稚拙な落書き、そして机の上には、開いたままの絵本。
すべてが“昨日まで”のままだった。
アレンは床にしゃがみ込み、転がっていた玩具の剣を抱きしめる。
「アラン……どうして……?」
小さな声が震え、涙が頬を伝う。
胸の奥が、締めつけられるように痛かった。
それでも、涙の奥にひとつの灯がともる。
――兄を守りたい。
――兄がいなくても、強くなれば、きっとまた会える。
幼い唇をきゅっと噛みしめ、アレンは剣を強く握った。
「僕……強くなる。アランを守るんだ……!」
その声はかすかに震えていたが、確かな決意が宿っていた。
涙で滲む瞳の奥に、淡い光が差しこむ。
夜風が窓から吹き込み、カーテンを揺らした。
アレンは玩具の剣を胸に抱きしめたまま、心の奥で固く誓う。
――兄に追いつく。必ず、兄を取り戻す。
やがて、窓の外の夜が白みはじめた。
* * *
朝の光が稽古場の床に斜めの影を落とすころ、アレンはすでに剣を握って立っていた。
同年代の子供たちは庭で無邪気に駆け回り、笑い声を上げている。
だがアレンだけは、黙々と素振りを繰り返していた。
腕がしびれ、肩が悲鳴を上げても、動きを止めなかった。
息が荒く、汗が頬をつたっても、視線はまっすぐに前を見据えている。
「もう休みなさい、アレン」
背後から、家庭教師の穏やかな声がした。
長い杖を持つ老人は心配そうに見守るが、アレンは首を振り、さらに剣を振るう。
「……まだ終われません」
その小さな声に、教師は言葉を失う。
子どもの体には明らかに限界がきている。それでも、少年の瞳は一点の迷いもなく、まるで何かに取り憑かれたようだった。
「アランが……戻ってくるまでに、僕が強くならなきゃ」
かすれた声が、広い稽古場に響く。
その言葉を聞いた者たちは、ただ静かに見守るしかなかった。
日が昇り、日が沈んでも、アレンは剣を離さなかった。
読み書きも、戦術の書も、誰よりも早く覚えた。
幼いながら、異常な集中力を見せ、ページをめくる手は決して止まらなかった。
「もう、アランには会えない……でも、僕が強くなれば――」
その言葉の先は、いつも小さく呑み込まれる。
疲労も、孤独も、心の痛みも、すべて押し込めて。
アレンはただ、前を向いて剣を振り続けた。
やがて笑顔は減り、幼い感情の起伏も静かに消えていった。
残ったのは、たったひとつ。
――兄を取り戻すために、強くならねばならない。
その想いだけが、アレンという少年を動かし続けていた。




