第73話 扉の奥に
長い戦闘の余韻が、まだ石壁に残っていた。
血と焦げた金属の匂いが、静まり返った遺跡の空気に重く沈む。
一行は最深部――かつて“封印の間”と呼ばれた広間に辿り着いていた。
そこには、灰銀の扉がそびえ立っていた。
人の三倍はあろう高さ。中央には王冠と七つの紋章が組み合わされた巨大な意匠が刻まれ、淡く鈍い光を反射している。
「……開かないな」
レオンが掌をかざし、魔力を流し込む。
しかし扉は沈黙を保ったまま、まるで千年の眠りを破ることを拒むようだった。
「物理的な鍵じゃねぇ。魔導封印だな」
ボリスが肩をすくめ、額の汗を拭った。
「けど、こんな規模の封印……誰が、何のために」
沈黙が落ちた。
その中で、ひとりがふと呟いた。――ハルクだった。
彼は壁の刻印に手を当て、低く歌うように口を開く。
ぽるる だらわー すいの ぬあーん
しぇり たーい もるが ふぃりの
掠れた声が、遺跡の空気を震わせる。
荒波を渡る男の喉からこぼれたその旋律は、どこか懐かしく、風の祈りにも似ていた。
アランたちは顔を見合わせる。
「……ハルク、それは?」
「昔、港のじいさんがよく歌ってた。まさかとは思うが、こいつが……」
再び、ハルクは目を閉じて歌い始めた。
その瞬間、遺跡が応えるように震えた。
壁面のひび割れから光が滲み出し、石の彫刻に沿って古代文字が浮かび上がる。
「反応してる……!」
レオンの声が弾んだ。
魔力の波動が、歌に呼応している。
それはまるで、封印が“歌”そのものを待ち望んでいたかのようだった。
「……ぽるる だらわー すいの ぬあーん」
ハルクの最後の一節が響くと同時に、重厚な音が遺跡全体を揺らした。
灰銀の扉が、ゆっくりと、深く息を吐くように開いていく。
砂埃と光が舞い上がり、眩い粒子が天井へと昇っていった。
静寂。
誰も言葉を発せず、ただその荘厳な光景を見つめていた。
やがてアランが、小さく息を呑んだ。
「……まるで、“王が帰る道”みたいだな。」
その声に、全員の視線が彼に集まる。
だが、アランの胸の奥で――何かが“鳴った”。
脈打つような感覚。血の奥底から、名も知らぬ鼓動が響いてくる。
扉の光が呼応するように、アランの瞳の奥で金の残光が一瞬だけ揺れた。
けれど、本人はそれに気づかない。
ただ、扉の向こうの光に吸い寄せられるように、足を踏み出していた。
「……アラン?」
レオンが眉をひそめる。
だが少年は何も答えなかった。
彼だけが感じ取っていた。
遠い記憶の奥から、誰かが呼んでいる――そんな確かな“声”を。
湿った空気が肌を撫で、長い時を閉ざしていた砂の匂いが漂う。
わずかな光を頼りに進むと、やがて広間の中央に――それはあった。
黒曜石の台座の上、半ば埋もれた古代装置。
円環状の結晶構造が、かすかに魔力を帯びて脈動している。
ラグナが目を輝かせ、そっと手をかざした。
「……信じられない。これ、“旧帝国式”の記録媒体よ。現存しているのは初めて見たわ……!」
指先が光を捉える。
次の瞬間、装置全体がふっと息を吹き返したように輝いた。
空気が震え、床の紋章が淡く浮かび上がる。
中央に立つアランの視界が揺らいだ。
誰かの声が――聞こえた。
遠い過去の、名も知らぬ誰かの呼び声。
『……新たな王よ……道を継げ……』
脳裏に直接響くような、柔らかく、それでいて抗えない声。
アランは思わず胸に手を当てた。鼓動が――光に呼応している。
「アラン?」
再びレオンが声をかける。
しかしアランは、ただ前を見つめたまま、静かに呟いた。
「……聞こえたんだ。誰かの声が。まるで……“呼んでる”みたいに。」
ラグナが小さく息を飲む。
「遺跡全体が何かを“思い出している”のかもしれない……」
「“思い出す”?」ボリスが眉をひそめた。「そんなことがあるのか?」
「この装置は記録媒体――だとしたら、この場所に刻まれててもおかしくない。封印を解いたのは、ハルクの歌だけじゃないのかもしれない」
リィナがそっとアランの肩に触れた。
「……大丈夫? 戻ってこい、アラン」
その声で、ようやくアランの意識が現実に引き戻された。
彼は深く息を吸い、震える手を見つめた。
「……ああ、大丈夫。けど何か胸の奥が熱い気がする」
その瞳の奥で、金の光が微かに燃え続けていた。