第16話 命令と意思 前編
王都リュミエールの裏通り。湿った石畳に、夕闇が静かに落ちていく。
下町の空気はすでに重く、熱気と喧騒が通りを包んでいた。
怒号が飛び交い、割れた瓶の音が夜気を裂く。
荷車や樽が倒され、道はまるで戦場のようだった。
「見えるか!? あそこにいる、蛇だ……! ギルドが放ったんだ、オレを喰らいにきやがった!」
「おい、顔が、顔が……剥がれる、誰か、誰か止めてくれぇ!」
「この煙が……昨日からずっと、笑ってるんだよ。はは、ははは……!」
言葉に意味はあっても、理性がなかった。
瞳孔は開き、肌は乾ききって蒼白。
彼らの多くは、すでに“ここ”にいない。
幻を見て、恐怖に怯え、誰かを襲うのではなく、“何か”から逃げ続けていた。
――それが、いちばん恐ろしかった。
混じり合う怒りと絶望に、通りはまるで濁った泥沼のようだった。
その渦中に、軍服姿の一人の少女が立っていた。
銀蛇騎士団所属、リネッタ・カレリオ。
彼女の手には吹き矢の筒。
だが、その細い指は微かに震え、額には汗が滲んでいた。
(これが……“鎮圧”?)
瓦礫の向こうで、投石された老婆をかばって倒れる少年が見えた。
別の通りでは、倒れた屋台に群がる子どもたち。
暴徒と犠牲者の区別は曖昧で、リネッタの視界は次第に霞んでいく。
「おい、邪魔だ! そこ、どけぇッ!」
横をすり抜けた同僚の騎士が、混乱に乗じて近づいた男を殴り倒した。
「くっ……やめて! その人は……!」
リネッタの声は騒音にかき消され、足元には血を吐いた男が呻いていた。
その目が、驚きと苦痛と……どこか微かな希望を含んで、彼女を見上げる。
(命令は、速やかな鎮圧……)
自分に言い聞かせるように呟いたそのとき――
「人を守るって、命令だけで決まるのか?」
背後から、まっすぐな声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは剣を手にした少年。
布服は泥と血にまみれ、腕にはいくつもの傷。
それでも、彼の瞳は揺らがず、真っすぐにリネッタを見つめていた。
「守るって、誰かに命令されたからやるもんじゃない。
……自分で、そう決めるものなんじゃないのか?」
その言葉は杭のように、彼女の心に深く刺さった。
騎士団としての誇り、命令への忠誠、市民を守りたいという願い。
それら全ての狭間で、リネッタの胸は引き裂かれそうだった。
「……私は……」
筒を握った指が震え、視線が落ちた先に、パンを胸に抱えた少女の姿が見える。
(私は……何を守っているの……?)
吹き矢の筒が、音もなく下ろされた。
だが、リネッタの葛藤は終わらなかった。
押収された荷物の中にあった白い粉末。
発酵したキノコのような匂い。幻覚作用。
「幻花粉……誰が、どこから、こんなものを……」
彼女は調査を始めた。
薬草の流通経路、騎士団内の記録。
やがて、ある仮説に辿り着く。
(……この薬、内部の誰かが関与してる)
「……異動願い、だと?」
副団長フォーン・ヴァルトハイトの声は、低く、石壁のように冷たかった。
蝋燭が灯る薄暗い執務室。
その陰影のなか、リネッタは一歩踏み出して書類を差し出す。
「……はい。私は、市民を守るために動きたい。薬草の知識を、医療に活かしたいと」
フォーンは紅茶のカップを見つめたまま、応えない。
長い沈黙ののち、書類を摘み上げる。
その手は、骨のように細く、冷たい。
「“正しさ”を貫きたいなら……もっと世界を知ることだな、リネッタ」
「……はい?」
「お前の思う“守るべきもの”が、必ずしも清らかとは限らん。
国家に仕える者の正義など、毒より厄介だ」
言葉は静かだったが、刃のように鋭かった。
リネッタが口を開きかけたそのとき、フォーンの手が書類を音もなく折り畳む。
机の引き出しへと滑らせる。
「申し出、たしかに聞いた。だが……今は保留としよう」
「副団長、それは――」
「いずれ答えは出るさ。今日は帰って休め。静かな時間が思索には必要だ」
フォーンの笑みはあたたかく見えて、どこか致命的に冷たい。
その日、異動願は却下されなかった。
だが、翌朝の報告書に一文が追加された。
《対象人物:リネッタ・カレリオ/要監視》