第16話 命令と意思 後編
王都第三区、黄昏に沈む貧民街。
ふたたび混乱が始まっていた。
白煙が空に昇り、怒号と悲鳴が交錯する。
暴徒が通りに火を放ち、物資を積んだ荷車が転がり落ち、無数の足音が石畳を乱れた旋律のように響かせていた。
──それでも、彼女は走っていた。
「この通りは危ない! 子どもたちを先に! あんた、あの路地を抜けて!」
リネッタ・カレリオ。銀蛇騎士団の若き一員。
その手に剣はない。ただ、人々の体温だけが、腕の中にある。
幼子の体を支え、母親の震える手を引き、焼けた樽を蹴り飛ばして進む。
命令は「待機」だった。
だが、彼女は命令ではなく、“意志”で動いていた。
「こっちだ、ついてきて! すぐに抜けられる!」
そのときだった。
街路の炎が影を長く引き、その奥に――ひとりの男が立っていた。
骸骨のように痩せこけた体。
黒いマントの裾が、まるで夜そのもののように揺れていた。
そして、腰に帯びた鞭──蛇骨で編まれた、忌まわしき神器。
フォーン・ヴァルトハイト。銀蛇騎士団・副団長。
“影”の中でも最も深い、王国の闇を担う存在。
リネッタは息を整える間もなく、まっすぐに問いかけた。
「……あなたが、命令を出したんですか?」
フォーンは答えない。ただ、静かに歩を進める。
地面に砕けた瓶が転がり、割れる音が冷たく響いた。
「お前なら、こちら側を選ぶと思っていた。……心から」
その声に、怒りも嘲りもなかった。
ただ――微かな悔いと、どこか奇妙な優しさが滲んでいた。
リネッタは剣を抜く。
躊躇いも、恐れもなかった。
「私は、あなたの背中を……信じてきた。
汚れても、冷たくても……それでも人を守っていると、そう思っていたのに」
「……影にしかできないこともある。だが、お前には――似合わなかったな」
そのとき、銀光が宙を裂いた。
抜かれたのは、“裁き”の剣。命令ではなく、“判断”の刃。
「すまない。これは命令ではない。俺の――判断だ」
リネッタの瞳が揺れる。だが、その視線は決して逸らさない。
彼女は、怯える子どもの背を押した。
安全な路地へと導く、その手に、迷いはなかった。
「私は、命じられたから守るんじゃない。
……守りたいから、戦うんです!」
フォーンの目に、かすかな光が閃いた。
だが、その瞬間にはもう――少女の身体は音もなく崩れ落ちていた。
血が、焼け焦げた石畳を染める。
それは誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るために流された血だった。
フォーンは一歩、また一歩と近づき、そっと膝を折る。
傷だらけの手で、リネッタの瞼を閉じた。
「……やはり、お前は“光”だったな。
影の中には、いられなかった」
それは、騎士としての言葉ではなかった。
ただひとりの“かつての指導者”が、“ひとりの少女”を悼む声だった。
周囲の炎が彼らを照らす。だが、その小さな死は、報告書の中には残らない。
それでも――
その夜、通りにいた数人の市民は忘れなかった。
逃げ惑う中で自分の手を引いた少女の姿を。
――その剣を、胸に焼きつけた。
***
数日後。冒険者ギルド、昼下がり。
賑わいの片隅で、ひそやかな会話が交わされる。
「なあ、リネッタのやつ……どうなったんだ?」
「……事故だってさ。任務中に、瓦礫の下敷きになったって」
誰かが唇を噛み、誰かが目を伏せた。
話題はやがて消え、ざわめきにかき消されていった。
だが、その報せを耳にしたひとりの少年だけは、沈黙のまま拳を握りしめていた。
言葉はなかった。
ただ、胸の奥で名を呼び、静かに目を閉じた。
(命令じゃなくて、自分で……選んだんだ)
(“守る”ために、あの人は剣を振った)
リネッタ・カレリオ。
その名は報告書の片隅に小さく記されたきり、誰にも語られなかった。
だが――あの夜。
燃える街角で、民を導き、子を庇い、命を賭けた少女の姿を
確かに“見ていた”者がいた。
忘れ去られるには惜しい、ささやかな英雄の記憶。
それは、いつか誰かの選択の灯火となるだろう。
名前など知らずとも。
誰もが、その剣を――忘れはしない。