第65話 鎖の記憶
仮面の刺客が幻術に翻弄される中、リィナはすかさず後方に声を飛ばした。
「準備できてるわね、ハリス!」
「当然……!」
細縄の達人――リィナと行動を共にしていた冒険者、ハリスが応じる。
鋭く編まれた紐を左右の手に構え、砂を蹴って前へ。
レオンの幻術で足元を見失った仮面たち。その隙を狙い、リィナが仕込んだ罠が爆ぜた。
「《疾縛罠・絡鳴》、発動!」
ジャキンッ!
地面から跳ね上がる縄とワイヤーが、混乱する刺客の四肢に絡みつく。
「ちっ……見えないのをいいことに……!」
逃れようともがく仮面へ、ハリスのロープが音もなく伸びた。
「……そこだ」
巻きついた瞬間、敵は足をすくわれ、無様に崩れ落ちる。
「捕獲!」
リィナとハリスの連携は鮮やかで、仮面の刺客を一人、また一人と無力化していった。
「……仮面の奴らが……押されてる……!」
騎士団の一人が驚愕の声を漏らす。
しかし、そんな応戦も虚しく——
「——破る」
低く、断言する声が遺跡の空気を震わせた。
次の瞬間、空間が——音もなく“割れた”。
レオンの《幻界投影》が中心からひび割れ、砕け散る。
「っ……! あれは……!」
レオンが愕然と目を見開く。
立っていたのは、仮面の中でも異質な存在。
紅と黒の双頭の蛇を象った仮面。
その身を覆う黒装束は特殊な遮断布で、魔術の干渉すら最小限に抑えている。
「リィナ、下がれ!」
ハリスが警告を飛ばす。
だが彼女はかぶりを振り、低く言い放った。
「いいや、私がやる」
一歩前へ踏み出したリィナの瞳は、獣のように鋭く細められる。
「罠も術も通じないなら——直接仕留めるまでよ」
仮面の男は興味深そうに首を傾げた。
「面白い……小娘、名を訊いても?」
「訊いても覚えられないくせに、なんで?」
挑発的に言い放ちながら、リィナは刃付きの縄を閃かせた。
縄が蛇のように唸り、男の足元を絡め取ろうと迫る。
だが男はひらりと飛び退き、懐から抜いた短剣でロープを受け止める。
鋼と刃が擦れ、火花が飛ぶ。
瞬間、間合いが縮む。
仕掛け、避け、斬り、投げ、絡める——
狭い遺跡の空間に、音速にも似た攻防が繰り広げられる。
「さすがに……速いっ!」
リィナは歯を食いしばる。だが、退く気は毛頭ない。
罠師としての感覚と、路地裏で磨いた格闘の勘が冴えわたる。
相手の癖を読む。足の置き方、手の角度、呼吸のわずかな乱れ。
「——そこっ!」
刹那、リィナは自ら間合いを詰め、男の懐に飛び込んだ。
「逃がさないわよ!!」
腰の縄を一気に解き放ち、手首、足首、背中の布へと巻きつける。
絡め取る動きは寸分の狂いもなく、一瞬で拘束具が完成する。
――ガチン!
最後の縄が締まる音が響き、仮面の男の動きが封じられた。
「……ふむ、やるじゃないか」
仮面越しに笑うような声。
だが次の言葉が、リィナの表情を一変させた。
「小娘。その戦い方……その目元……兄貴がいるだろう?」
「……だったら何?」
縄を強く締め上げながら、リィナが睨む。
男は、首をわずかに傾けた。
「……死んだと思ってる。正解か?」
「……っ……!?」
リィナの動きが止まる。
男の声は、嘲るように、どこか同情するようでもあった。
「まぁ……死んでいるも同然か。あいつは“生かされてる”だけだからな。
命を削りながら、いつ死ぬかわからない任務を、延々とやらされてる。
人形のようにな」
「……やめろ……」
「名前も捨てた。記録も消された。誰にも知られず、どこにも帰れず、ただ命令に従うだけの存在だ」
「黙れぇっ!!」
リィナが怒声を上げる。
縄がさらに締まり、仮面の男の腕から血が滲む。
「何を知ってるのよ……! 吐きなさい!! どこにいるの!? 本当に生きてるの!? 本当なの!?」
仮面の奥から、男の声が低く響いた。
「いいだろう。だが……知ったところで、何ができる?」
「お前が逃げ延びた“あの日”、兄貴は代わりに捕まったんだ」
「っ……!」
「お前を庇って、“必要な素材”として提出された。
それが、お前の生存理由だ」
「……そんな……」
リィナの顔が蒼ざめる。
「もし生きてたら……会いにくるはずじゃない……!」
男は、静かに首を横に振った。
「会いに来れるわけがない。
お前の前に立った時点で、可愛い妹が“処分対象”になるのだからな」
沈黙。
そしてリィナの手が、ゆっくりと震えた。
「……嘘……だって言ってよ……」
声はか細く、だが胸の奥から絞り出された。
希望の破片を必死に掴もうとする、哀願にも似た言葉だった。
周囲の戦声が戻りつつある。
だがそのどれも、もはや彼女の胸に届かない。
仮面の男は静かに、そして確信を持って、ただ一言だけ返した――だが、その言葉はまだ、リィナに届かないままだった。