第14話 狂気と、鉄の手入れ
王都リュミエールの街は、昼を過ぎても活気に満ちていた。
石畳を行き交う商人たちの声、屋台から漂う香ばしい匂い、遠く鐘楼の音。
だが、そんな喧騒の下に、かすかな異音が混ざっていた。
──ひゅう、と風のない路地で、笑い声がこだました。
「アハッ……見たか、俺の翼! 飛べるんだよ、今なら……ッ!」
アランとレオンがギルドへの帰路につこうとしていた時だった。
路地の影から、ひとりの男がふらふらと飛び出してくる。
痩せこけた体、焦点の合わない目、こめかみに浮かぶ汗。
白い粉が、破れかけた袖にこびりついていた。
「おい、あぶな──!」
男が子どもにぶつかりそうになる瞬間、アランは身体で割って入り、男を抱き留める。
暴れる腕を押さえつけ、必死に声をかけた。
「大丈夫か!? 聞こえるか──!」
だが、男はうわごとのように呟くばかりだった。
「飛ぶんだよ……天の檻が、開いたんだ……飛べる……」
「アラン、抑えてろ」
レオンは即座に通りの角を曲がり、近くにいた衛兵へと駆け寄る。
「この男、異常な状態です。幻覚作用の可能性があります。保護を──」
だが、返ってきたのは重たい溜息と無関心な声だった。
「また薬中か。診療所に運んでくれ。手が足りんのさ」
その言葉に、レオンは氷のような眼差しを向ける。
「──これが、この街の“日常”なんですか」
アランは通行人の助けを借りて男を路地に寝かせ、額の汗を拭った。
その手の中で、粉のついた衣服が、かすかに震えていた。
ふたりは無言のまま歩き出す。
だが心には、確かな“異質な何か”が刻まれていた。
◆
ギルドに戻ると、受付に立っていたリゼットが顔を上げ、柔らかな笑みで出迎えた。
「おかえりなさい。下水の掃討依頼、どうだった?」
アランは肩にかけていた布袋を下ろしながら、少し誇らしげに胸を張る。
「スカーボーの群れ――かなり手強かったよ。
数も多かったし、粘液で足元が滑るし……なかなか苦戦した」
隣でレオンが短く頷く。
「それに……あの下水、妙な植物が群生していた。
粘液に侵食されて変異しているような……あれは、普通じゃない」
リゼットの笑みがわずかに消えた。
「スカーボーの“群れ”、それに“異常植物”……?」
カウンター越しに手元の記録書をめくりながら、彼女は眉をひそめる。
「……住処にされてる可能性があるわね。通常なら、あの区画にそこまでの個体数は現れないはず」
パタン、と書類を閉じる音が静かに響いた。
「これは一度、調査を入れた方がよさそう。上に報告しておくわ」
彼女の声には、柔らかさの中にわずかな緊張が混じっていた。
レオンが淡々と素材袋を差し出すと、奥の扉から革の前掛けをつけた男が姿を現した。
「ほう。帰ってきたと思えば、泥だらけじゃねぇか」
グラン・ザンバット。ギルドの武具係だ。
鋼のような腕に、眼光鋭い顔立ち。
「坊主、剣見せてみな。」
アランが慌てて剣を差し出すと、グランは鼻を鳴らしながら受け取る。
「…太刀筋はまぁまぁだが、手入れが甘い。そいつじゃ、刃も泣くぜ」
「任せとけ。明日までには切れるようにしとく、代わりはその辺から持ってけ」
「ありがとうございます……!」
「もう、武器の事になると熱くなりすぎてちょっと怖いわよね、グランさん」
リゼットが肩をすくめ、アランも少し笑みを浮かべた。
だがレオンはすでに視線を外し、小声で告げた。
「アレンちょっといいか?……寄るところがある。ノルマの店だ」
◆
薬屋〈エンフィールドの調薬棚〉は、王都の裏通りにひっそりと佇んでいた。
棚には色とりどりの瓶、風に揺れる薬草、独特の匂い。
カウンターの奥に、ノルマ・エンフィールドが座っていた。
「その顔は、、何か持ち込んだね?」
アランが取り出した小瓶を見て、ノルマの目が鋭く細まる。
「これ……花粉に見えて、ただの花粉じゃない。嗅がせてくれるかい」
蓋を開けた瞬間、室内の空気が一瞬だけ変わった。
ノルマの眉がわずかに跳ね上がる。
「まさか、この甘ったるい匂いと色、幻花粉。間違いない。古い薬学書でしか知らなかったが、実物を見るのは初めてだよ」
「幻覚作用があるのか?」
「ある。強い。吸い込めば、心を壊す」
アランが息を呑む。
「もしかして、あの男も、これが原因で?」
「可能性は高い。だが問題は、こんなものが“下水で自然に”繁殖してたことだ」
「誰かが撒いたってことか?」
「あるいは、管理されずに繁殖したか。だがこの植物は……元は南方の湿地帯でしか確認されてないけどね。」
「じゃあ──誰かが持ち込んだ?」
ノルマは黙ったまま、小瓶に蓋をして返した。
「気をつけることだね、あんたたち。今の王都は、“風通しが悪い”」
街へ戻ると、夕暮れの石畳を騒がしい声が割っていた。
「おい! 止まれッ、待て!」
若い騎士が、よろめきながら逃げる男を追っている。
その男もまた、目が虚ろで、笑いながら走っていた。
「まただ!」
アランが呟く。
レオンは静かに振り返る。
「兆しがある。なのに誰も気づかない。……いや、気づいても目を逸らしてやがる。」
アランは遠ざかる笑い声を追いかけるように走り出した。
王都の鼓動は、どこか乱れていた。
それは“騒がしさ”ではなく、“音の歪み”だった。