第44話 語られる歴史
――ある宿舎前、焚き火を囲んで。星空の下、ラグナが口を開く。
「……この大陸には、遥か昔、“一つの帝国”があったのよ」
焚き火のはぜる音に重ねるように、ラグナ・メルスの静かな声が響いた。
彼女は眼鏡の奥でゆっくりとまぶたを伏せ、懐から一枚の古地図を取り出す。
「名を――旧魔導帝国。文字通り、魔法によって統治され、魔法によって栄えた国家だったわ。
王も貴族も民も、皆が魔法の恩恵に浴し、空を飛び、病を癒し、時には星を動かすほどの力を手にしていたとも言われている。まるで神の時代のようにね」
彼女は地図をくるりと回し、一同に見せる。
「でも、力というものは、必ずしも祝福とは限らないの。
制御できなかった魔導兵器が街を一つ消し飛ばし、
王族たちは“真理の継承”をめぐって血で血を洗う内乱に陥った。
外部からも、新興の蛮族国家や、禁断の魔族との接触が重なって……」
ラグナはため息をつき、空を見上げる。
「気づけば、帝国は砂の城のように崩れていた。
広大だった領土は散り散りに割れ、各地に残った魔導遺産は、今もこうして私たちが掘り起こすことになる。皮肉な話よね」
アランが火を見つめたまま呟く。「……そのあと、どうなったんですか」
ラグナは一瞬微笑し、話を続ける。
「帝国の崩壊後、この地には“八つの国”が生まれたわ。
それぞれ、帝国時代の有力貴族が割拠して打ち立てたもの。魔導ではなく、武力と信仰と血統によって支配する、新たな国家群――」
彼女は指を一本ずつ折りながら名を挙げていく。
「剣を掲げた北の王国、獣の牙を誇った西の軍団、
そして……リヴァレスもその一つ。聖なる盾を象徴に掲げ、民と法を重んじる国として成立したの」
「でも、“八つの国”がそれで仲良く手を取り合うと思う?」
言いながら、ラグナの口元が少しだけ皮肉に歪んだ。
「領土、名誉、資源、信仰、復讐――理由は幾らでもあった。
各国は互いに睨み合い、時に手を結び、また背を刺す。
その長い争いの時代を、人々はこう呼ぶようになったの。
“八国大戦”――終わりなき流血の連鎖だったわ」
火がぱちりと爆ぜた。
「この遺跡も、元は帝国時代の要塞跡よ。でも、八国大戦の時代には幾度も争奪されている。
その痕跡が、石壁や魔導紋に幾層にも刻まれているの。……まるで、時代そのものが積層になってここに残っているようで、私はそれを見るたび、胸がざわつくの」
ラグナは静かに目を伏せた。
それは、歴史を“語る者”の眼差しではなく、“その裏にある痛みを感じ取ってしまった者”のまなざしだった。
「でも、忘れないで」
彼女は最後にそう付け加える。
「歴史は、語るだけじゃ意味がないの。
私たちはその“後に生きる者”として、なぜ起きたのか、何を残したのか――それを“選び取る”責任がある。
それができないのなら、また“崩壊の螺旋”に巻き込まれるだけよ」
沈黙が落ちた。
遠くで、夜鳥が一声鳴いた。
ラグナは古びたスレート板を手に、埃を払いながらゆっくりと語り出した。焚き火の赤い火が、彼女の眼鏡越しに揺れている。
「かつてこの大陸を支配していたのは、“旧魔導帝国”と呼ばれる巨大な国家だった。魔力を制する者が頂点に立ち、膨大な魔導技術と浮遊都市、そして神々すら模倣せしむる超古代兵器によって……彼らは地上の覇者となった」
傍らで火をくべていたボリスが口を挟んだ。「でも、滅びたんだろ? そんなすげぇ国が、どうして?」
「――強すぎたのよ」ラグナは穏やかに言った。「魔法も技術も、ある限界を越えると制御できなくなる。貴族たちは力に酔い、魔法の暴走は大地を裂き、空を焦がした。さらには外敵、異界からの侵略もあったとされている。内と外からの崩壊。やがて帝国は徐々に瓦解し、広大な領土は断片化していったわ」
「それが……今の国々の元になったってことか?」と、リィナが腕を組んで聞く。
ラグナは頷いた。「ええ。そして、帝国の崩壊後――この大陸は“八国大戦”と呼ばれる長き戦乱の時代へ突入するの」
焚き火がパチ、と小さな音を立てた。
「かつて帝国の地方を治めていた名家や将軍たちは、自らを王と称し、八つの国に分かれた。そして、名家が率いる騎士団を軍として拡張し、互いに領土と覇権を巡って争ったの。数十年にわたる血の時代よ。民は飢え、村は焼かれ、信仰も秩序も崩れ去った……」
沈黙が落ちた。誰も、軽々しい感想を述べる気にはなれなかった。
そして、ラグナはゆっくりと顔を上げた。
「……だが、そんな闇の中に、光は差し込むのよ」
「英雄の登場ってやつか?」レオンが低く呟く。
「ええ」ラグナは笑みを浮かべた。「七つの主要名家をまとめあげ、たった一人で八国を統一した男が現れる。名は――〈統一王アゼル・リヴァレス〉」
アランが息を呑む。「……リヴァレスって、今の王国の名と同じ……」
「そう。彼は七大公――すなわち、七つの名家を中核とする騎士団を結成し、“神聖リヴァレス王国”を築いたの。そして即位の儀式にて、こう宣言したと言われているわ」
ラグナは、古語をそのまま口にした。
「神に選ばれし八柱の守護者よ、今こそ我らの民を闇より護り、正義の剣を掲げよ」
夜風が吹き抜け、焚き火の火が揺れた。アランはその言葉の荘厳さに、無意識に背筋を伸ばす。
「以後、七大公はそれぞれの領地を治めるだけでなく、王国の政治と軍事の中枢を担う存在となる。彼らの騎士団は、単なる軍ではない。秩序の象徴、理想の具現、民の盾であり剣でもあったわ」
「騎士養成所も、そっから始まったのか?」ボリスが問いかける。
「ええ。名家に生まれようと、平民であろうと、優れた資質を持つ者は選ばれた。三年間の鍛錬と試練に耐え、初めて一人前の騎士と認められる。そこに、かつての帝国とは違う“理”が生まれたのよ」
リィナが腕を解き、小さく笑った。「……言ってくれるわね、理想国家ってやつは。でも、そういうの、好きよ。たとえ綺麗事でも、目指す価値はあると思う」
ラグナは一瞬だけ、優しい微笑みを見せた。「理想は常に現実に踏みにじられるもの。でも――だからこそ、語り継がれる。誰かが、それを目指して戦う限り」
焚き火が再び、静かに揺れた。
夜の帳が降りはじめたころ、焚き火の炎がぱちぱちと弾ける音の合間に、ラグナ・メルスの低い声が響いた。
手元の古い羊皮紙には、ところどころ焦げ跡や濡れ染みのような痕が残されている。だが、その図の意味を読み解ける者は、今や彼女しかいない。
「……かつてこの大陸を支配していたのは、《旧魔導帝国》。魔法技術の粋を集めた文明国家。塔のてっぺんから星々を操り、地脈の力を都市全体に巡らせ、空を飛ぶ戦艦すらあった。まさに魔導の理想郷、ね」
彼女は眼鏡を押し上げ、赤く記された円の中心を指でなぞる。
「けれどその栄光は長く続かなかった。魔力は欲を呼び、技術は神を超えようとし……その結果、内紛と暴走。外敵――あるいは“外なる存在”の侵入もあったと、一部の記録は示してるわ。制御を失った魔導技術は、人の手には余る。帝国は崩壊の道を辿り、広大な領土は瓦礫と化した」
しばし沈黙が降りた。焚き火の向こうで誰かがごくりと唾を飲む音がした。
「そして始まったのが――《八国大戦》。帝国の残骸を巡って、八つの勢力が血で血を洗う戦を始めたの。各地の名家が騎士団を旗印に立ち上がり、土地を、民を、魔導の遺産を奪い合った。民にとっては、帝国の崩壊よりも、この戦乱のほうがよほど地獄だったでしょうね」
彼女はそう言って、わずかに口元を歪める。冷笑とも、憐憫ともつかないその表情に、歴史学者としての冷徹さがにじむ。
「だが、その混乱の時代に、一人の王が現れた。誰もが無理だと嘲った統一を、七つの名家と手を結び、やり遂げた男。彼が築いたのが――今の《神聖リヴァレス王国》よ」
ラグナは立ち上がり、背後の岩壁に貼った手製の年表に手を伸ばす。
「七大公――かつての名家の末裔たちを政治と軍事の柱とし、騎士団制度を築いた。騎士は単なる戦士じゃない。王に忠誠を誓い、国を支える象徴。選ばれた者だけが通う騎士養成所で三年間、生死をかけた鍛錬を受ける。名誉と誇りが、彼らを動かす燃料となる」
彼女の語り口に熱がこもりはじめる。だがその声音は、次の瞬間、皮肉を含んで急降下する。
「……とされているのが、“表向きに言われている歴史”」
言葉に棘が混じった。静かに、しかし確かに。
焚き火を挟んでいた仲間たちは息を飲む。ラグナは一拍おいてから、スレート板に写された一枚の記録断片を差し出した。
「でも、どうしてかしらね。帝国の崩壊にまつわる記録が不自然なほど焼失している。八国のうち、“一つの国”の名家だけが、なぜか王国史から完全に抹消されているの」
誰かが問いかけた。「それは――偶然じゃないのか?」
「いいえ。記録が無いこと自体が、最も強い“記録”になるの。王国建国の正史には、存在しない家がある。存在しなかったはずの家系図が、失われた遺跡から見つかる。名を消された者たちが、何をしたのか。なぜ王の正義に反したのか」
ラグナは手帳を閉じた。火の粉が舞い上がり、その目が静かに輝く。
「……不気味でしょ? でも、そそられるのよ。真実はいつも、記されてない方にある」