第37話 忘れられた王国の真実
宰相ゼグラートは、静かに手にした書簡を折り畳んだ。蝋印を崩し、読み終えた文には一言の返答も要しなかった。それは、長年の懸案事項が、ついに現実の形となって現れたことを示す――"ルミヴォーク"の名が記された報告だった。
時は、王都ミリュダール。中央政庁の奥に構えられた宰相府にて、重厚な扉が静かに閉じられる。
「……陛下に報告を?」
脇に控える秘書官が問う。ゼグラートは首を横に振った。
「いや、まだ早い。真偽も定かではない記録に、騒ぐ価値はない。確認するまではな」
卓上には、王国歴史研究局の印が押された調査報告の写し。内容は、古代ルミヴォーク家の痕跡が、東方山岳の廃墟跡より発見されたというものだった。かつて旧帝国時代に存在したとされるその一族は、公式な記録からは完全に抹消されていた。だが、その家名が本当に“正統王家”の血筋を意味するのであれば──王国の歴史そのものが揺らぎかねない。
「ラグナ・メルス……考古学者の癖に、妙に鋭い嗅覚を持っている」
ゼグラートは小さく笑い、机の引き出しから一冊の黒革の手帳を取り出す。それは、彼の若き日々から記し続けた“選別の記録”。善と悪、必要と不要。己が信じる理想国家を築くために、切り捨てるべき者の名が記された帳面であった。
指先でページをめくる。ページの下部に、赤い×印がいくつか並んでいる。最近追加された名前もある。その中に、ラグナ・メルスの名が新たに記されていた。
「──ラグナが発表を予定している研究資料の一部が、今夜にも公にされる可能性があります」
密かに潜入した部下の報告である。
「奴は“真実”に触れすぎた。王家の正統性に関わる部分まではまだ辿り着いていないが……時間の問題だろう」
ゼグラートは立ち上がると、窓の外を見やった。沈みゆく陽が王都の屋根を黄金に染めていた。視線の先には、かつて彼が幼き日を過ごした貴族街が見える。
──その記憶は今も、血のように鮮やかだ。
二十余年前、旧都レストリール
「兄さん、僕たち……どうなるの?」
泣き腫らした目で弟が問いかけてきた。彼はまだ十一歳だった。飢えた民衆が暴徒と化し、貴族邸に火を放ち、衛兵は見て見ぬふりをしていた。
若きゼグラートは、そのとき十八。必死に弟の手を引いて逃げ回った。だが――その夜、弟は軍の掃討作戦に巻き込まれて命を落とした。
「我々が正義であるはずなのに……なぜ、救われぬ者がいるのだ……?」
その日から、ゼグラートの思考は変わった。彼にとって「王政」とは“民に施しを与えるもの”ではなく、“理想の秩序を強いる力”であるべきだと考えるようになった。
そして誓ったのだ。
「もう二度と、無力に泣く者を作らないために。私は、この国を“選び取られし者”によって導く。」
現在、王都から南に数リーグ離れた〈ヴェルシェ遺跡〉。そこに、一人の学者が静かに佇んでいた。
「やはり……王家の文様だ。しかも、この封蝋の形状……正式な王印に極めて近い」
ラグナ・メルスは、崩れた石碑の断片を磨き、そこに刻まれた紋章を露わにした。記録では消されている“幻の家系”ルミヴォーク家の印である。
「だが……なぜこんな辺境の遺跡に、王家の墓がある……?」
その疑問が、彼を政治の中心に巻き込んでいくのを、彼自身はまだ知らなかった。
「遺跡の件は、他国にも漏れている」
深夜の地下室。ゼグラートは裏ギルドの密偵から報告を受ける。
「ファルメリア連邦が、すでに独自の探索隊を派遣しています。遺構に記された“旧王家”の文字列が彼らの外交報告に含まれていました」
「……動きが早いな。まるで、我々の内部に目があるようだ」
ゼグラートは顎に指を添え、しばし沈黙した。
「“交渉”の席を設けろ。だが、“情報の対価”を支払わせる形でな」
「は。条件は?」
「“王家の正統性”は、国家の根幹だ。軽々しく渡すわけにはいかん。ただし……“対等な立場の再構築”は認めてもいい」
その言葉の裏には、王国の内部構造を書き換える準備すら含まれていた。
数日後、貴族院にて。
「また一人、反対派の議員が失踪されたようですね」
ゼグラートは冷淡に応じる。
「彼は病を患っていた。偶然だ」
だが、その視線は冷たく、既に次の一手を見据えていた。
──手段を選ばずして、何が理想国家か。
ゼグラートは、夜の書斎で、ふと手帳の最初のページを開いた。そこには若き日の震える筆跡で、こう記されていた。
「正義とは何かを決めるのは、勝者である」
月明かりの下、その言葉が静かに浮かび上がる。