第36話 宰相、民を思う者として
荘厳なる白亜の国会議場、その中央演壇に立つ男は、まるで歴史に刻まれる英雄像そのものだった。
銀の飾緒を揺らす漆黒の外套、その下に鋲打ちの法衣をまとい、額には理知と信念を刻む皺。
彼の名は──宰相ゼグラート
差し込む午前の陽光が高窓から降り注ぎ、まるで神の寵愛を示すかのように、その立ち姿を黄金に染めていた。
「……我々は忘れてはならぬ。
民が夜に怯えず眠れぬ国に、未来は訪れぬということを!」
彼の声は、静まり返った議場に力強く響いた。
「貴族の特権とは、民を護るための責であり、私利私欲の免罪符ではない。
今ここに、王政の名のもと、腐敗を正す法を可決する!」
議員席にざわめきが走る。だが次第にそれは拍手へ、歓声へと変わった。
多くの民衆が傍聴席に押し寄せ、窓外の広場には彼の言葉を一目でも聞こうと集まる群衆がいた。
「民の平和こそが、我が王国の誇りであり、礎である!」
──その瞬間、民衆は一人の英雄を見た。
腐敗を断ち切る改革者、聖人のごとき政治家。
新聞は彼をこう呼ぶ。「光の宰相」と。
その日の午後、ゼグラートは最側近を従え、王都北部の貧民街を視察した。
瓦礫の路地、泥と煤に染まる煉瓦造りの壁。
雨露を凌ぐ布切れ一枚の小屋の前で、彼は膝をつき、病を患った少年の頭にそっと手を置いた。
「……この子に、温かな寝床と薬を。できるな?」
「はっ、すぐに支援班を派遣いたします」
少年の母は嗚咽しながら彼の手を握り、群がる人々は一斉に膝をついた。
「宰相様がいなければ、俺たちは見捨てられてました……!」
「民を守るのが我が務め。……ありがとうは、その子が大人になった時にくれればいい」
──だが、誰も気づかなかった。
ゼグラートの視線が、視察の合間にちらと向けた、ある“無人の家屋”。
その壁には、かすれた墨で“裏ギルド監視所”の符号が刻まれていた。
その夜。王都南部の酒場〈黒犬亭〉の地下室。
石壁に囲まれた冷たい空間で、ゼグラートは一人の男と向き合っていた。
裏ギルド首領──"灰鴉のエルド"と呼ばれる、闇市と暗殺網を取り仕切る男だ。
松明の火がちらつき、ゼグラートの顔半分を赤く照らす。残る半分は、闇の中に沈んでいた。
「──進捗は?」
「候補者のうち三名、既に“処理”済み。残るは例の騎士団……“朱猿”の連中だけですな」
ゼグラートは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、静かに机に置いた。
そこには、赤く大きな“×”がつけられた名前が、いくつも並んでいた。
「使えぬ者は、国の足を引くだけだ。……選別は、避け得ぬ義務だ」
「はは、お言葉どおりで──。して、“例の遺物”の捜索は?」
「進め。あれが“手に入れば”、王政は真に我らのものとなる。
すべては、民のための“正しき秩序”のために、だ」
男は目を細めた。
そのとき、階段の奥から猫の鳴き声が一つ。
ゼグラートはそれに微笑みを浮かべると、冷たい声で呟いた。
「理想を掲げるには、手を汚さねばならん。
だが安心しろ、カリウス。
私がこの国の“未来”を創る」
松明の炎が揺れ、ゼグラートの瞳の奥に、氷のような光が宿った──。