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第35話 消えぬ炎

──夜明け前の森は、凍てつくように静まり返っていた。

 微かな焚き火の炎が、湿った薪の上でじりじりと音を立て、周囲にぼんやりとした橙の輪を描いていた。火の周りに腰を下ろす影は三つ。どれも粗末なマントをまとい、顔には疲労と深い影が刻まれている。

 その一人が、火の中に何かを放り投げた。

 くぐもった金属音。炎に包まれて黒ずむそれは、朱猿を象った紋章──誇り高きカルモンテ騎士団の証だった。

「……これで、俺たちはただの流れ者だ」

 重く口を開いたのは、髭をたくわえた中年の男。以前は副長の補佐役を務めていた老騎士である。

「名が消えても、誓いまで消すつもりはないさ」

 若い男が応じ、胸元の下にそっと手を当てた。その手の内にあるのは、今は亡き副長から託された短剣。鍔には欠けがあり、鞘には血の跡が薄く残っている。

 火にくべられる紋章は、それ一つではなかった。

 やがて彼らは、無言のうちに焚き火を囲む輪を解き、森の闇へと散っていった。

 誰一人、振り返ることはなかった。

 

 

 数日後──。

 街のはずれの広場で、一人の青年が木剣を振っていた。

 髪はぼさぼさ。顔に泥がついたまま、必死に構えを繰り返している。

 その前に立つのは、粗末な旅装の男だった。腰を痛めた鉱夫を装いながら、かつては名のある槍騎士として知られていた男。

「重心が甘い。踏み込みは一歩で十分。二歩目は殺されるぞ」

「お、おう……っ!」

 汗まみれの額を拭い、青年──アランは再び構えた。

 木の剣を両手で握り、男の正面へと突き出す。

「よし、そこで止まれ。……その姿勢だ。剣に任せず、自分の意思で“止める”。それができる者は、戦場でも生き延びられる」

 男はそう言って、微かに口元を緩めた。

 アランは嬉しそうに、だがすぐに真剣な顔に戻ると、もう一度木剣を構え直した。

「ぼく、もっと強くなりたい。……あの人みたいに!」

「“あの人”?」

「村の人たちが言ってたんだ。前にこの辺りで、たった一人で魔物を追い払ったすごい剣士がいたって。森の奥から来たって……!」

 その言葉に、男の目が細められる。

 心の中に蘇る、最後の突撃。仲間の犠牲、主の落涙。あの夜に交わされた、命を懸けた約束。

 アランの構えは、まだ未熟だった。足幅も浅く、体幹も甘い。だがその瞳だけは、決して揺らがない光を宿していた。

 男は、ゆっくりとうなずいた。

「……なら、お前に一つだけ教えてやる。俺たちが森を去るとき、いつも心の中で唱えてた言葉だ」

「うん、なに?」

 風が森を抜ける音の中で、男はそっと呟いた。

「――森を駆け、策を巡らす。誇りは失せど、魂は屈せぬ」

「……もりを、かけ……?」

「忘れるなよ、アラン。名なんてものは、時が奪っていく。それでも守るべきものがある。それが“強さ”だ」

 

 

 夜、別の村。

 灯火もまばらな小屋の中、一人の老婆が眠る孫の頭を撫でながら、ぽつりとつぶやいた。

「……あの子、構えが妙に軍式だねぇ。どこで習ったのやら……」

 

──朱猿騎士団。かつて名を馳せた騎士たちは、いまや名もなき者となりて、それでも“誓い”だけを胸に生きていた。

そして、その意志は。

小さな火種となって、ひとりの少年へと、静かに受け継がれてゆく。

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