第34話 誇りは失せど、魂は屈せぬ
濃霧が森を包み、空気は重く淀んでいた。
朱猿騎士団の野営地を囲むように、王国軍の旗がずらりと立ち並ぶ。兵の数、三百。
魔導槍と重装騎兵。さらに火術士部隊が後方に控えている。
だが、それだけではなかった。
「団長が王都で討たれたというのは……本当ですか」
低く絞り出した声に、副長カヴェルは黙って頷いた。
伝令は戻らない。密かに送り出した斥候が、血まみれの衣だけを残して帰った。
それは、ラースが愛用していた火酒の袋に巻かれていた――名残のように。
「……くそっ!」
若き騎士の一人が地面を殴る。
誰もが理解していた。もはや希望など残されていないことを。
「包囲は完璧だ。正面は王都軍。だが、背後――森の奥にも気配がある。反乱軍の残党だろう」
カヴェルの言葉に騎士たちがざわめく。
「我らは完全に挟まれた。もはや逃げ道はない」
その言葉の後に、沈黙が落ちた。
だが、次の瞬間、カヴェルの声が空を裂いた。
「――ならば、死に方を選ぶしかない!」
誰もが顔を上げる。
「俺たちが散って終わるなら、それは“誇りの死”だ。だが、一握りでも逃げ延びて、ラース様の意志を継ぐ者が残るなら――それは、“魂の生存”だ」
「副長……」
「俺が前線に立つ。少数精鋭で正面を突く。王国軍は“殲滅戦”を想定してる。だが、俺たちは“突破戦”だ。
その隙に、選抜された騎士たちを森へ逃がす。できる限り散開しろ。生き延びて、伝えてくれ。俺たちが何のために剣を取ったかを!」
誰かが立ち上がった。
次いで、また一人。
朱猿の者たちは互いに目を見つめ合い、頷き合った。
「……おれは逃げるために剣を習ったんじゃねえが、仲間を生かすために死ぬなら、それも悪くねえ」
「団長がいないなら、副長の言葉が団長の声だ。命令なら、従いますよ」
焚き火の中、燃える枝がはぜた。
まるで魂が叫ぶように。
夜明け前。霧は薄れ、月が地を照らす。
カヴェルは簡素な鎧に身を包み、戦槌を握る。
「行くぞ、“朱猿の機動”を見せてやる。森を駆ける猿は、ただの獣じゃねぇ!」
十数名の騎士が彼に続く。
鬨の声と共に、突撃が始まった。
木と木の間を縫い、斜面を利用した急襲。高低差と機動力を活かし、王国軍の側面へと喰らいつく。
火球が飛び、魔導槍が閃く。だが、それでも彼らは止まらない。
「朱猿、来たぞ! 伏せろ――!」「数が少ない、だが早すぎる……!」
騎士団の残りは、裏手の抜け道から森へ向かう。
獣道のような間道を、息を殺して駆け抜ける。
彼らの胸には、副長が語った言葉が焼きついていた。
「逃げることは、恥ではない。
生き延びて、語れ。我らが“魂を屈せずに戦った”ことを」
戦いの末。
カヴェルは多くの敵兵を道連れに倒れた。
その亡骸は、戦槌を手に、空を睨むようにして横たわっていたという。
朱猿騎士団の本隊は瓦解。
だが、生き延びた者たちは、森の中へ消えた。
そのうち数名は、後に名を変え、異国へと渡った。
一部は傭兵に、一部は旅の護衛に、一部は行方知れずとなった。
そして、ラース・カルモンテ――
彼の行方を知る者は、誰一人としていなかった。
時は流れ、半年。
とある酒場の片隅、流れ者の兵がぽつりと呟いた。
「……誇りは失せた。だが、魂はな。いまだ屈しちゃいねぇよ」
その瞳は、朱き焔を映していた。