第32話
二人の足音が、まだ眠る町に溶けていく。
言葉は交わさずとも、気持ちは伝わっていた。
そんな背中に、ふと――静かな声が追いかける。
「……ああいう夜が、あたしにもあったよ」
低く、静かに。だがその奥に、今もなお消えない熱があった。
元騎士・レーネの語りは、まるで遠い焚き火のように、ゆっくりと夜の空気に広がっていく。
――それは、雨の夜だった。
濡れた天幕の下、ラース・カルモンテは手にした書簡を黙読していた。
蝋封は確かに王都のもの、鮮やかな青地に金の双剣が浮かぶ王印。そしてその下には、宰相エルヴァンの名が記されていた。
「反乱軍、味方領地〈リエン村〉へ潜伏との報あり。村民を装い、拠点化の恐れあり。
ついては、全域の殲滅を許可する。兵力損耗を避けよ。
――王都宰相府、サヴィリオ伝令を通じて発令す。」
書簡の端を、火の粉がはらりと焦がした。
ラースはそれを軽く払い、隣に立つ副官カヴェルへと目を向ける。
「……リエン村。最後に通ったのは、三月前だな。避難民がいたはずだ」
「はい。女たちと子どもが中心でした。……ただ、戦線が拡大して以降の動向は、確認できていません」
カヴェルの声には、わずかな躊躇いが滲んでいた。
朱猿騎士団は、王国軍の中でも異端の存在だった。命令より、仲間と民を守ることを是とする――その矜持は、誇りでもあり、危うさでもあった。
ラースは立ち上がり、冷たい夜雨に身を晒した。
湿った風が頬を撫で、髪を濡らす。どこか遠くで、夜鳥が啼いた。
「……民を装う反乱軍、ね。まるで、“人間の盾”でも使ってるみたいな話だな」
背後で、カヴェルが一瞬、言葉を呑む気配があった。
「王命です、団長。抗えば、反逆と見なされかねません」
ラースの目が、細く細められる。
雨粒の中、指先が懐の中へと伸び、牙のお守りに触れた。
――弟がくれたものだ。「兄貴は、自分が正しいと思う道を行け」
かつてそう言った、あの真っ直ぐな声が脳裏に蘇る。
その夜、朱猿騎士団は動いた。
* * *
リエン村へ向かう道中、兵たちの間に、微かなざわめきが広がっていた。
「団長……本当に、やるんですか」
若い斥候兵が、木陰で声を落とす。
ラースは無言で頷いた。だが、その目は命令に従うだけのものではなかった。
「斥候が確認した。村には火の気も人影も、ほとんどない。ただ……地下に潜んでる可能性はある。
だから――焼く。これは任務だ。責任は、俺が負う。異論がある者は……退け」
沈黙。
誰も、一歩も退かなかった。
ラースは叫ばない。ただ静かに、手元の地図に視線を落とす。
指先が、村の裏手にある崖地へと赤線を引いた。
(……逃げ道は残す。誰もいなけりゃ、それでいい)
* * *
火は、あっけなく村を呑んだ。
雨に濡れた木の家々は、油を浴びせられ、鈍い音を立てて燃え上がる。
遠くで、子犬のような悲鳴がした――それが、人の声だったのか、誰にもわからない。
夜明け前には、村はすでに灰となっていた。
* * *
朝霧の中。
崩れた家屋の隙間から、カヴェルが静かに手を差し出す。
「……団長。これを」
ラースが受け取ったのは、小さな布の破片だった。
焼け焦げているが、それは確かに王国の旗。子ども用の玩具についていたのだろう、大きく縫い付けられていた。
その傍らに、黒く炭と化した、幼い手。
足元から、騎士たちの声なき何かが崩れ落ちていく。
ラースは、歯を噛みしめた。
拳が、かすかに震える。
だが誰も、彼を責める者はいなかった。
彼こそが、最も深く傷ついている――それを、皆が知っていた。
「……これが、王の意志なら……俺たちは、いったい何のために剣を振るってるんだ……」
誰ともなくこぼれたその言葉が、霧の中に消えていく。
* * *
その夜。
再び、宰相の使者サヴィリオが現れた。
「ご苦労でした、ラース殿。迅速な対応、感服いたします。
王都では、カルモンテ家の働きを高く評価しておりますよ――近く、さらなる命令が届くことでしょう」
その笑みは、血の匂いを嗅ぎつけた獣のようだった。
だがその時――朱猿の魂は、まだ炎の中に立ち尽くしていた。