第31話
夜――。
交易所の屋上にある小さな展望スペース。
星明かりが砂の海を照らし、夜風が昼の熱をゆるやかに冷ましていた。
レオンとラグナのふたりは、ひとつの分厚い魔導書を囲んでいた。
石板のような重厚な表紙に、頁は精緻な筆致で綴られた古代文字と魔術式。
――かつてレオンが「仮面の魔術師リリア」から密かに託された、失われた時代の魔導書である。
「……やはりこの構文、既存の転移陣とはまったく系統が違うな。これは“固定陣”ではなく、“可変式陣列”に近い構造だ」
ラグナがスレート板に記号を走らせながら、低く唸るように言う。
レオンはその隣で冷えた指先を動かし、汗ばむ額のまま頁を繰る。
「……これ、どう見ても時空干渉の理論が混ざってる。けど、現代理論じゃ説明できない部分が多すぎる……」
「当然だ。これは〈原初列系魔術〉――通常の魔術理論の“基礎下層”に存在する構造だな」
ラグナの声に確信が滲む。
「私でも一晩で全容を理解するのは難しいが……だが、意味は見えてきた」
「つまり、使える……ってことですか?」
「条件次第だ。発動にはかなり純度の高い魔力と、“干渉器”のような媒介具が必要になる。だがその原理を応用できれば、現代魔術は飛躍的に進化するだろう」
その言葉に、レオンの瞳が一瞬だけ光を宿す。
だがすぐに、その光は陰った。
本を握る手に力が入る。口元を噛み、絞るように言葉を吐いた。
「……僕は、まだ足りない」
「……?」
「戦闘でも、知識でも……まだ誰かを守れるほどには強くない。
リリアは、あの人は……僕の目の前でずっと何かを背負ってたのに、僕は、何も……できなかった」
夜風がふわりと吹き、頁が一枚、音もなくめくられる。
ラグナはしばらく黙っていたが、やがて静かに笑みを浮かべた。
「なら、焦るな。お前が“本当に欲しい力”が、目の前にあるんだろ?」
「……」
「それを手に入れるには、学ぶことも、信じることも必要だ。
この魔導書を解き明かせば――お前は今の自分を超えられる。
そして、きっとその先に“あの人”の背中も見えてくる」
レオンは、わずかに目を見開く。
そして、静かに、けれど力強く頷いた。
「……お願いします、ラグナさん。全部、読み解きたい。自分の力で」
「ふふ。やっといい目になったな。なら、夜は長いぞ――レオン・ヴァルトハイト」
星空の下で交わされた、静かな誓い。
魔導書の頁の向こうに、ひとりの少年の未来が、たしかに動き出していた。
「おいレオン! あれ参加してみろよ! 景品がかなりいいぞ!」
交易所の外れから、アランの声が響いた。
レオンが顔を上げると、遠くで手を振るアランの隣には、ボリスの姿もある。
「まったく……君は肉が欲しいだけだろ」
苦笑するレオンに、ボリスが明るく言った。
「でもレオンなら優勝できると思うな。美味しい料理考えて待ってるから、頑張ってきなよ」
交易所の外れ。
岩場と砂地が入り混じる小さな広場に、即席の結界と観覧エリアが設けられていた。
旅の魔術師、傭兵、各国の若き冒険者たちが集い、火花を散らす“非公式魔術大会”――
主催は、タバリス傭兵連邦の若手将軍候補者たち。
競技内容は至ってシンプル。
一対一の模擬戦、あるいは術式披露で技量を競うだけ。
だがそれゆえに、参加者の実力と創造力が如実に問われる、技の舞台でもあった。
「レオン・ヴァルトハイト、出場者最終戦――!」
審判の声とともに、砂塵舞う決戦場へ黒衣の少年が踏み出す。
対するは、ザラン砂の王国から来た精霊術士。
燃えるような火の精霊を従え、周囲の空気がじりじりと灼けていく。
「氷じゃ不利だな……」
観客たちがそう囁く、そのときだった。
「――《零獄》」
静かな呟きが響いた。
直後、大気から熱が消えた。
砂漠の空間が一転して凍てつき、砂粒が霜へと姿を変える。
火の精霊が苦悶の声を上げて霧散し、代わりに舞い上がったのは、白銀の霧と氷の結晶。
氷雪の牢獄が現れた。
「な、なんだ……この温度差は……っ!?」
ざわめく観衆。
会場全体を包み込むその魔術は、単なる“氷”ではなかった。
局所気候そのものを改変する――環境干渉型。
古代魔術の応用理論による、異質の魔術領域だった。
「っ、はあ……っ……!」
中心に立つレオンの呼吸は荒い。
完全な制御には程遠く、氷の奔流がたびたび暴走しそうになる。
それでも――
彼の目は、恐れず前を見ていた。
「……勝負あり!」
審判の宣言と同時に、結界が解除される。
静まり返った場に、歓声が爆発する。
「すげえ……」「氷の魔術師だ……」「どうやって展開してるんだ……」
やがて表彰式が始まり、見事“非公式大会・優勝”の称号が読み上げられる。
「レオン・ヴァルトハイト――!」
その名を聞いても、彼はしばし呆然としていた。
だが観客の拍手、そして仲間たちの声援に気づくと、ようやく顔を上げて、小さく頷いた。
――その表情には、自信と、そして不安が入り混じっていた。
(……これが“力”。けれど――)
その力の先にあるもの。
それを求めて、少年は歩みを止めない。
冷たい氷の魔術の奥に、確かに熱い願いが灯っていた。