第25話 犯人は
夜が明けるまで、誰も満足に眠れなかった。
仮面の侵入者が現れたあの一夜は、館全体を不安と緊張で包み込み、ついぞ解けることのない疑念を残したまま、静かに終わりを迎えた。
やがて東の空が白みはじめると、疲労と警戒を抱えたまま、屋敷の面々は再び客間へと集められることとなった。
朝の光が、屋敷の大窓から静かに差し込んでいた。
昨夜の騒動から一夜明けたというのに、館の空気はなお重く澱んでいた。
客間に集められた一同の前に、“執事”が姿を現す。
「皆様。まずは、混乱のなかでの迅速な対応に、深く感謝申し上げます。これより、状況整理の一環として――皆様の行動確認を行わせていただきたく存じます」
低く丁寧な声。それはいつものように礼儀正しく、しかしどこか“演技”じみていた。
「では順に、昨夜、どちらで誰と共に巡回されていたかをお伺いします」
レオンとアイリ、リィナとシャイナ、ボリスとミリナ。
各々が巡回中、互いの姿を認めていたことを淡々と証言する。
唯一、単独で行動していたのは、レーネだけだった。
「私は……東翼を一人で巡っていたとき、仮面の侵入者と遭遇しました」
「その際、戦闘になったと?」
「はい。抵抗しましたが、意識を奪われ……目覚めたときには、倒れていました」
わずかに顔を伏せながらも、レーネの声には迷いがなかった。
執事はその言葉に小さく頷き、静かに一礼する。
「……ご協力、感謝いたします。では、結界の外より王国騎士団へ正式に通報してまいります。通信魔術には干渉を避けるため、館の外に出る必要があるため――しばし席を外します」
そう言い残し、彼は背を向けて廊下を去った。
それきり、戻ってこなかった。
――十分。二十分。三十分。
執事が去ってから、すでに小一時間が過ぎていた。
「……遅いな」
リィナが、落ち着きなく腰を上げる。
「外に行ったって言ってたよな? 誰か見てない?」
「いや……少なくとも、俺たちのいた廊下には通らなかった」
ボリスが首を傾げる。
そして、レオンがぽつりと提案した。
「……死体、確認しておくべきだと思う」
誰も異を唱えなかった。
一行は昨夜、仮面の侵入者が倒れていた宝物庫前の廊下へと急いだ。
だが――
そこに、死体はなかった。
床には血の染みも残っておらず、仮面も、服の切れ端すらも見当たらなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように、整然とした石畳が続いていた。
「……そんな、ばかな」
アイリが小さく呟く。シャイナも、言葉を失って天井を見上げた。
「撤去された? いや、それなら誰が?」
ミリナが首をひねる。
「執事……か」
リィナの言葉に、皆の視線が交錯する。
レオンは目を細めた。
「……あの“執事”、おかしかった。アリバイの確認を主導して、いかにも“整理してる側”のふりをしてたけど……逆に言えば、“誰の目からも外れる時間”を自分で確保してたってことだ」
「じゃあ、やっぱり……」
「――あれは、“偽物”だったんじゃないか?」
重たい沈黙が、一同を包んだ。
昼下がりの静寂を破るように、屋敷の外から怒鳴り声が響いた。
「おいっ、そこの人! 誰か、手ェ貸してくれ!」
声の主は、漁師のハルクだった。
その腕に抱えられていたのは――意識の朦朧とした初老の男。
「あ……あれは……」
リィナが目を見開く。
男の顔には見覚えがあった。彼女だけでなく、この館の誰もが知っている人物。
「……執事、オルガさん……?」
しかし、その姿は異様だった。
いつもの黒い燕尾服ではなく、街で買ったような粗末な布服をまとい、靴さえ履いていない。
足元には、かすかな傷と泥――そして何より、目に宿る“混濁”。
急に、うちの船の上で寝ててよ。いくら呼んでも起きねぇし、ようやく意識戻ったと思ったら、訳わかんねぇことばかり言っててな」
ハルクが息を荒げながらそう言い、懐から一通の紙切れを取り出した。
「で……これも、近くに落ちてた」
それは、小さな羊皮紙の切れ端。筆跡は乱れていたが、読み取れたのはたった一行の文字だった。
《用はすみました。騙してごめんなさい。――カイ》
「カイの奴が……消えた。あいつ、やっぱり何か隠してたんだ……!」
ハルクの拳が震える。怒りと困惑がない交ぜになった表情が、彼の頬に赤みを帯びさせていた。
一方、彼の腕に抱えられた本物の執事――オルガは、未だ朦朧としたまま、虚ろな目で周囲を見回していた。
「……私は……どこに……ここは……?」
「覚えてないんですか?」
リィナが慎重に問いかけると、オルガは額に手を当て、苦悶の色を浮かべて唸った。
「……すまん……私には……ここ数日の記憶が、どうしても……」
「誰かに命じられて……何かをしていた気がする。けれど……輪郭が、霞のように……」
その様子に、一同の間に不穏な空気が走る。
レオンが、低く呟いた。
「……操られていた……?」
誰も即座には応じなかったが、その仮説は確かに全員の胸を重くした。
そして――沈黙を破ったのは、レーネだった。
「……やっぱり。あの“術式の構成”、見覚えがあると思った」
「え?」
皆の視線がレーネに集中する。
彼女は真剣な面持ちで言った。
「昨夜、仮面の人物が使っていた“封印解除の術式”……あれ、“朱猿騎士団”の紋式よ。しかも、上級士官が使う“解錠術”の派生型。わたしも、一度だけ見たことがある」
その言葉に、レオンが反応する。
「つまり、犯人は――カルモンテ家の元騎士。しかも、団長クラス……!」
その瞬間――廊下の奥で、扉が軋む音がした。
「……う、うぅん……」
それはアランの声だった。
彼はベッドの上でゆっくりと目を開け、顔をしかめていた。
「アラン!」
リィナが駆け寄る。
アランは混乱した面持ちで額を押さえながら、周囲を見渡した。
「ここは……? 俺……どうして……?」
「無理に動かなくていい。少し、休んだほうがいいわ」
リィナが優しく肩を支え、落ち着いた声で続けた。
「……執事が偽物だった。本物は船の上で眠らされてた。仮面のやつは死んだと思われてたけど、死体も消えた。犯人は、騎士団の元団長クラス……多分、カルモンテの残党」
「……カルモンテ……?」
アランの目がわずかに揺れた。何かが心の奥で引っかかったような――そんな表情だった。
仮面の男が消え、執事がすり替えられ、数々の謎が一つも解き明かされぬまま、一行は再び屋敷の応接間に集まっていた。
そして、重い沈黙を破ったのは、領主だった。
「……“あの宝”が盗まれたとなれば、目的は一つしかないだろう。――奴は、おそらく遺跡へ向かった」
その言葉に、レオンが顔をしかめる。
「……まさか。遺跡って……あの“砂漠地帯の遺跡”じゃないよな?」
「勘がいいな、若いの」
領主は乾いた笑みを浮かべた。
「その通りだ。南方、砂の迷宮――かつて朱猿騎士団が封印した、忌まわしき場所だ」
「……なるほどねぇ」
リィナが、ため息混じりに呟く。
「また巻き込まれたってわけね。何が“気楽なご褒美依頼”よ、ホント……」
「ん? でもそこって、もともと俺たちが行く予定だった場所じゃないのか?」
ボリスが首を傾げる。
「予定は予定。問題は“誰と、何のために行くか”だよ」
レオンが肩をすくめて答える。
「なんでこう……いつもこうなるんだか」
そのやり取りを聞いていたハルクが、拳を握りしめ、叫ぶように言った。
「……俺がカイを連れてこなきゃ、こんなことには……! 俺にも責任がある。連れてってくれ、あんたたちと一緒に!」
「ハルク……」
アイリが驚いたように名を呼ぶ。だがハルクの決意に、一片の迷いもなかった。
そしてもう一人、静かに踏み出す者がいた。
「私も、同行を願う」
それは、レーネだった。
銀の髪を揺らし、凛とした声で告げる。
「元団長が“何をしようとしているのか”……私の目で確かめたい。あの仮面の言葉も……放っておけない」
そのときだった。
ふらつきながら、アランが立ち上がる。
その声はかすれ、けれど確かに響いた。
「なぁ……爺ちゃん、でいいのか」
彼は領主へと向き直り、真剣な目で問いかけた。
「教えてくれ。全部じゃなくていい、知ってることだけでも……!」
その眼差しは、真実を求める者のそれだった。
領主――老いた男は、しばし視線を伏せ、そして重く首を振る。
「……私は何も知らない。お前の父親からも、何も聞かされてはいない。ただ一つだけ……“あの遺物を、他の者に渡してはならぬ”と、そう言われていた」
その言葉は、冷たい風のように、館の空気を震わせた。