第22話 館の静寂と疑念
朝の光が館のステンドグラスを通り抜け、廊下に静かな色彩を落としていた。
昨夜は屋敷に着いたのが遅く、一同は応接室で簡単な説明を受けたのち、そのまま客室へと案内された。アランは気を失ったままだったが、幸い呼吸は安定しており、レオンの診立てによれば「精神的な衝撃による昏倒」とのことだった。
海沿いの町オルフェスの空気は、朝になってもしっとりと湿っている。どこか遠くで波の音が微かに聞こえ、館の静寂を一層深めていた。
その静けさを、唐突に破ったのは――
「ハルクさーん! カイくーん! 魚ありがとーッ!」
元気すぎる爆裂娘、アイリの叫び声だった。
「おいおい、こりゃまた……でっかい鯛じゃないか! 煮付けか? 焼きか? それとも丸揚げいっとくか!?」
「お、お嬢さん、落ち着いてくださいって……ああっ、頭から落ち――!」
「うわ、カイが魚と一緒に桶に突っ込んだぞ! アハハ!」
玄関ホールに現れたのは、豪快な漁師ハルクと、その後ろで苦笑する見習い漁師のカイ。彼らが抱える籠には、今朝獲れたばかりの新鮮な魚がぎっしりと詰まっていた。
「こりゃ今日は魚祭りってとこだな!」
ボリスがエプロンを締め、背中に大鍋と特製フライパンを抱えて厨房へと向かう。その後ろ姿を見て、リィナがくすりと笑った。
「頼んだわよ、料理長。私がやるとどうしても焦げちゃうのよね〜」
「それは……火じゃなくて、心が燃えてるからですよ」
そう口を挟んだのは、小柄でおっとりとしたヒーラー、ミリナ。だがその直後に、容赦ない毒舌をさらりと添える。
「焦げるとタンパク質が変質して、胃にもたれますから……」
「おいアイリ、その樽、爆薬じゃなくて調味料に入れ替えとけよな!? 前みたいに厨房で爆発させんなよ!」
「え〜? 爆発しないアイリなんて、炭酸抜けた酒みたいなもんだよ〜?」
賑やかな声が館の空気をあたためていく。厨房では鍋がごぼごぼと音を立て、香草の匂いと魚の香りがふわりと広がりはじめていた。
その頃、館の使用人たち――中年のメイド、若い給仕、無口な執事――は、静かに手際よく働いていた。
だが、その一人がふと籠の中の魚に視線をやった一瞬――
シャイナの視線が、鋭くそこを捉えた。
「……あのメイド、動きが妙に手慣れてる。厨房の配置に迷いがない」
「ふふん、気になるの? 私も見てた。腕に小さな火傷跡、あったよ」
「火薬使いの目はごまかせないよー」
レーネが苦笑しながらも頷く。その視線の端に、ウォング領主の姿が映ったとたん、場の空気がふっと引き締まる。
「皆、領主様がお出ましよ」
「気を使わなくていい。若者たちがこうして賑やかにしてくれていることが、何より嬉しい」
ウォングは穏やかな笑みを浮かべてテーブルに腰掛ける。その隣には、相変わらず無表情な執事・オルガが控えていた。彼はひと言も発することなく、ただ静かに皿を下げている。
昼の陽気さと、どこか張り詰めた静けさが交差する中、食卓には魚のスープ、香草焼き、貝のワイン蒸しなど、海の恵みに彩られた料理が次々と並べられていった。
「いただきまーす!」
「ボリス、このタレ、うっま! 天才かよ!」
「ほんと……香りが深い。山と海の香りが合わさって……あ、これ白ワインと合うやつだ」
「アルコール抜けてないぞそれ……昼から酒の話すんなって」
笑い声が広がる中、レオンはふと天井を見上げる。そこには、アランが眠る客室へと続く廊下の影が伸びていた。
「……あいつ、まだ起きないか」
「うん。ミリナが様子を見に行ったけど、眠ってるだけみたい。身体に異常はないって」
「なら、きっと“夢の中”で戦ってるんだろう。自分の過去と」
リィナの言葉に、場が一瞬だけ静まる。
その沈黙を破ったのは、カイのぎこちない笑いだった。
「な、なんか……この屋敷、豪華っすよね……」
「あら? いつもと違って緊張してるの?」
「そ、そりゃもう……なんていうか……こう、ずっと誰かに見られてるような……」
「……視線?」
その言葉に、誰かがふと給仕の少女に目をやる。
彼女はすぐに微笑み、何もなかったように皿を片づけていく。
「……気のせいかもしれねえけどさ」
ボリスが鍋を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「この館、妙に静かすぎるんだよ。飯はうまいのに、空気が……なんつーか、澱んでる」
「……“食堂は楽しいほうが、美味しい”んだけどねぇ」
アイリの言葉に、誰かがくすりと笑い、笑いが連鎖していく。空気が和らぎ、再び賑やかさが戻ってくる――
だが、誰も気づいていなかった。
その笑い声の背後で、階段の影に一瞬だけ現れ、すぐに姿を消した“もう一人”の存在に。
その影は、音もなく身を翻し、館の奥へと消えていった──。