第20話 仄かなる記憶の扉
オルフェス郊外、石畳の小道を馬車で抜けると、海を背にそびえるような邸宅が姿を現した。かつて貴族の別荘だったというこの館は、港町のざわめきとは無縁の、静謐に包まれていた。屋根は青銅の緑青をまとい、重厚な石造りの外壁は海風にもびくともしない。
その館の門前に馬車が停まると、門番が一人、レーネの紋章を確認してから敬礼した。
「ここが……ウォング領主の館か」
アランが思わず声に出す。
「やけに静かね。妙な緊張感があるわ」
リィナが低く呟く。
「俺はこの空気、ちょっと落ち着くな。街の喧騒よりずっとマシだ」
レオンは窓の外を見つめたまま言う。
やがて門が静かに開き、一行は館の前に降り立った。
重厚な扉が音もなく開かれ、中から現れたのは、品のある執事姿の中年男だった。
「ようこそ、ウォング家へ。私は執事のオルガ。皆様のご来訪、心より歓迎いたします」
穏やかな口調。柔らかさの中に長年の礼儀が染みついている。
だがレオンは、どこかその背後に張り詰めた空気を感じ、目を細めた。
館内に足を踏み入れた一行は、磨かれた床に足音を響かせながら、応接室へと通された。
そこは豪奢でありながらも、どこか重々しい静けさに包まれている。
奥のソファから、男がひとり立ち上がった。
年の頃は五十代半ばか。灰混じりの無精髭に、刻まれた皺。
しかし、鋭さを宿した眼差しが、その年齢以上の存在感を放っていた。
「遠いところをよく来てくれた。護衛の件で力を貸してくれると聞いている。感謝するよ、冒険者諸君」
男――ウォング・ローデスが朗らかに微笑みながら言う。
アランが一歩、前に出た。
「あなたが、ウォング領主……ですね」
その瞬間――。
ウォングの目が、アランをぴたりと捉えた。
笑みが凍りつき、沈黙が流れる。
「…………ん?」
一歩、近づく。顔をしかめながら、じっとアランを見つめる。
「まさか……いや、そんなはずは……だが……その目、その髪、その声まで……」
彼の声が震え始めていた。
「お前……お前は、アランなのか……!?」
アランは目を見開く。
「え……?」
ウォングはもう、抑えきれぬ衝動に突き動かされるように、アランのもとへ駆け寄った。
「アラン……! アランなのか……!」
がっしりと抱きしめる。
「生きていたのか……! 信じられん……報告では、お前は……っ」
その言葉に、アランの胸に鋭い痛みが走る。
(今、何て言った……?)
「アラン……アラン、私だ。わかるか?……祖父の、ウォングだ」
「……祖父……?」
目の前の男の声が遠ざかる。頭の奥で、鉄の扉が軋む音がした。
「……やめろ……っ」
「十年前……あの夜、お前に何もしてやれなかった……あの家がどうなったか、私は……っ」
「やめろ……!言うな……!」
「だが、今……お前がこうして生きていてくれた、それだけで……!」
アランの身体が崩れるように脱力した。
「アランっ!?」
レオンが叫ぶが、もう遅い。
アランの瞳は宙を見たまま、意識を手放していた。
「アラン! アラン……っ!」
ウォングはその体を抱きとめ、膝をつきながら必死に呼びかける。
「すまない……すまなかった……アラン……!」
――それは再会の喜びと、深い悔恨に濡れた声だった。
応接室には重たい沈黙が落ちた。
ウォングはやがて、アランの肩に上着をかけると、ゆっくりとソファに腰を下ろし、その顔に深い皺を刻みながら、ぽつりと語りはじめた。
「……あれが、まさか生きていたとはな……」
その声には、安堵と驚愕、そして一滴の震えが混じっていた。
「私は……あの子の祖父にあたる。オーガストレイ家に嫁いだ娘の子だ。つまり、私の孫なんだ」
「孫……!?」
リィナが思わず声を上げる。レオンとボリスも目を見開いていた。
ウォングはかすかに微笑み、懐かしむように言葉を継いだ。
「十年前……あの家に“変事”があった。詳しくは……今は言えん。だがその夜を境に、アランの存在は……記録から消された。死んだ、とだけ聞かされたんだ。信じたくなかったが、証拠もあった。私は……諦めたよ。そうするしか、なかった」
沈黙が落ちる。
「最後に会ったのは、あの子が五つのときだった。剣が大好きでね、いつも木の枝を振り回しては、“騎士になるんだ!”って胸を張ってた。あんなに小さな体で、誰よりも堂々としてたよ。まったく……」
ウォングの声に、微かな震えが滲む。
「……だが、こうしてまた……こうして、あの子が生きていてくれた。それだけで……十分だ。私には、贖いきれぬ罪がある。けれど、これから償う機会があるというなら……私は何でもする。何よりも、アランのために」
しばらく、誰も言葉を発せなかった。
ただ、アランの寝息だけが、静かに部屋に響いていた。