第18話 朱猿の影と、幸運の二人
港町オルフェスの片隅。石造りの建物の地下に広がる、明かりと喧騒の巣窟。
昼間の潮風と魚の匂いとは無縁の、熱気と煙草と金の匂いが渦巻く場所
それが《賭場〈ギャンザリーナ〉》だった。
「こっちよ!こっち、運試しってやつぅ!」
リィナがボリスの手を引き、賑やかな賭博場の中央へ。
酒場での夕食後、軽い気持ちで立ち寄っただけのはずだった。
だが、運命は少しばかり用意していたらしい。
「よーし! 二倍張りだ、倍プッシュォォォ!」
賭場。
その名に似合わず、中は薄暗く、空気は汗と酒と欲望でねっとりとしている。天井の扇がのろのろと回る音が妙に耳に残る。
リィナはルーレットのテーブルに寄りかかりながら、楽しげに笑っていた。
「ちょっと、いい勝負してんじゃないの、ボリス!」
「う、うん、でも僕こういうの初めてで……!」
「気にしない! 勝ち負けじゃなくて、流れよ、流れ!」
そんな中、隣のテーブルからふと声がかかる。
「へぇ。なかなかいい面構えしてんな、お嬢さん」
振り返ると、そこには金髪を後ろに流した碧眼の男がいた。
やや無精なヒゲに、上品とも下品ともとれる薄笑い。
細身だが、腰に下げた輪状の投刃が目を引く。
「ラウカ。気ままな流れ者さ。ちょっと強運でね、今日も昼飯代を稼ぎに来ただけ」
「リィナ。こっちはボリス。たまたま今日、暇だったのよ」
「おっと、運命的な出会いってやつだな。それとも……俺に運を吸われたら困るって顔?」
「何よそれ。うさんくさいナンパはお断りよ」
「……ははは、いいねぇ、その棘。いい毒は、酒より効く」
最初は軽口の応酬だった。
しかし、話の中でラウカが「昔、中央にいた」とぼそりとこぼしたのをきっかけに、空気が変わった。
「俺さ、昔は“正義”を背負ってる側だった。朱猿騎士団、知ってるか?」
ボリスが小さく目を見開く。リィナも言葉を止めた。
「あんた……あの“反乱の罪”って呼ばれてた騎士団にいたの?」
「ああ、でも今はただの遊び人さ」
一拍。
ラウカは杯を傾け、嘲るように言った。
「正直にな、今は盗人の方がまっすぐ生きてる気がすんだよ。騎士団ってのは……身内の腐敗も、王の狂気も見て見ぬふり。正義面して誰かを斬る。そりゃあ、俺の仲間だって死んださ。……敵よりも味方に殺されたようなもんだ」
言葉が落ちる。
リィナの目が鋭く光った。
「……ふざけないで」
「ん?」
「盗賊が正義? 自分の都合で盗み働いて、それが“まっすぐ”? そんなの言い訳でしかないわ」
「おお、これは痛烈だ。でもな、真っすぐってのは“綺麗”とは限らないんだぜ? 歪んだ剣より、真っ直ぐなナイフのほうが刺さる。違うか?」
険悪になりかけたその場を、ボリスがそっと割って入る。
「……まぁまぁ、今日は勝負の場ですから。正義の話は後にしましょうよ。リィナも、今は冷たいビールと熱い勝負が似合うよ」
リィナは眉をぴくりと動かし、それでも息を吐いて引いた。
「……ったく、あんたのそういうとこ、損するわよ」
「えへへ」
ラウカは肩をすくめた。
「ナイス仲裁。盾士ってのは、戦場でも酒場でも頼りになるな。……じゃあ、今度はこっちの卓で勝負といこうぜ。お嬢さんと坊やもどうだい?」
「望むところよ!」
「う、うん……僕はちょっと怖いけど、やってみる!」
数時間後。
「……あ、あれ……ボリス、それも当てたの!?」
「え!? これで……また当たり?」
「やった……また勝ったぞ……!」
リィナとボリスの山盛りのコインの山が、目の前に積まれていた。
ラウカは手のひらを見て、ため息混じりに笑った。
「こりゃまいった。運の女神はどうやら、そっちにいるらしい」
「ねぇ、また遊んでやってもいいけど、次はちょっと真面目に勝負してくれる?」
「はは、勘弁してくれ。あんたの目、マジすぎて怖いよ」
そう言いながらも、ラウカの瞳には一瞬、妙な光が走った。
(朱猿の残党がここに来てるとは、な……)
彼はグラスを飲み干すと、静かに立ち上がった。
「じゃあな。またどこかで会えるといいな。……あんたたち、面白い空気、持ってるからさ」
飄々と、煙のように姿を消すその背中を、リィナはしばらく見つめていた。
ボリスがそっと言う。
「ちょっと、変な人だったね。でも、悪い人じゃなさそうだ」
「わかんない。でも、そうね、少なくとも“何か”は抱えてるみたい」
「そういう人、他にもいるんだろうなって」
「そうかも」
リィナは最後にコインをひとつ、指先で弾いた。
銀のきらめきが宙を舞い、彼女の笑顔に落ちる。
「ま、勝ったし――良しとしよっか!」
軽やかな笑い声が夜風に溶けていく。
陽気な二人が向かうのは、酒場。
賭けで勝った夜に、金を残すなんて野暮なこと
そんな主義は、今日も変わらない。