第17話 酒場の噂
夜のオルフェスは、陽気な音と匂いでできていた。
波打ち際から届く潮風、焼き魚とスパイスの煙、港の喧騒。それが今、ひとつの建物に集まっている。
――《波止場亭》。この町で一番うるさくて、一番あたたかい酒場だった。
「おーい、こっちだこっち!」
奥の席から手を振るのは、すっかり上機嫌のゴードンだった。すでにジョッキを片手に、目の前の料理をほとんど半分平らげている。
その隣には、旅商人風の女がひとり。
艶やかな黒髪をゆるく結い、軽やかな身のこなし。だがどこか隙のない、舞うような動きと笑み。腰に吊った小さな革鞄には、仕入れたばかりの品がいくつも詰まっていそうだった。
「紹介するぜ。こいつはアルセレーヌ。旅の商人らしいんだが……妙に買い付けが上手くてな。もう何品か譲ってもらったぜ」
「はじめまして。旅の途中で、偶然オルフェスに寄ったの」
アルセレーヌは笑みを浮かべ、アランたちに軽く会釈をした。
「旅の商人、ね……」
リィナがグラスを片手に目を細める。
「その仕草、なんだか慣れすぎてない?」
「褒め言葉と受け取っておくわ。女の旅は何かと危険だもの。身を守る術くらい、持ってないと」
さらりと受け流すアルセレーヌに、リィナが小さく舌打ちをする。
「……怪しい」
「でもなんか……綺麗な人だよね」
アランがうっかり口に出してしまい、リィナが肘で小突く。
「うっ、いたっ!」
その隣のテーブルで、不意に笛の音が流れた。
「港に吹く風の音も、潮の香りにかき消される……」
吟遊詩人ジンが、グラス片手に詩を呟いていた。
彼はそのまま、隣に座ったアランたちに目を向ける。
「聞いたかい? 怪盗がまた現れるらしいよ」
「……怪盗?」
「そう。最近、この港で“特定の魔道具”ばかりが盗まれてるんだ。市場に流れた品が、夜のうちに消えてしまうらしい。奇妙だと思わない?」
ジンの目が鋭く光った。旅の詩人の仮面の下に、別の何かが見えた気がする。
「遺跡から流れてきた禁制品かもしれない。……誰が、何のために集めてるんだろうね?」
その言葉に、リィナの眉が動いた。アランとレオンも視線を交わす。
(遺跡……。やっぱり、なにかある)
「む……ゴードンさん、あの人……」
ボリスが指をさした先、少し離れた席で山のように資料を広げ、ワインをこぼしかけながら紙をめくっている男がいた。
「ん? ああ、あれはラグナだ。考古学者ってやつだな。昔の帝国遺跡が大好きで、ここしばらくオルフェスに入り浸ってる」
「“旧帝国の祭儀に使われた”……はずだ……。これが、例の指輪と関連して……」
男はぶつぶつと独り言を繰り返しながら、紙をめくるたびに皿を倒したり、服を焦がしかけたりしていた。
「……うん、変人だ」
レオンが断言する。アランも小さく頷いた。
その頃、裏通りではもうひとつのやり取りが交わされていた。
月明かりに照らされた路地裏。カイが誰かに声をひそめて報告していた。
「……明日、動くってさ。例の“指輪”の回収だって。俺の方は、もう準備できてる」
そして、同じく酒場の裏では、カルロがまた何かを盗もうとして取り押さえられていた。
「お前……またかよ!?」「干しイカは高いんだぞ!」
「違う違う、これは、風に飛ばされたイカが俺にくっついただけで!!」
「風にイカが飛ぶかバカ!」
「だからオレは無罪ィィ!」
酒場の中へと、喧騒と笑いが戻ってくる。
アルセレーヌがくすりと笑った。
「港って、いろんな欲望が詰まってて……本当に楽しい場所ね。……ねぇ、あなたたち、遺跡とか興味ない?」
その問いに、アランたちは少しだけ顔を見合わせる。だがすぐに、アルセレーヌが「冗談よ」と笑って流した。
そして夜も更け、詩人ジンが最後の一節を静かに歌う。
「月が照らすは、真と偽。
仮面が笑い、影が踊る――」
その言葉の意味を誰も気に留めぬまま、乾杯と笑い声が酒場に満ちていた。
ただひとつ、屋根の上を除いては。
そこに立っていたのは、仮面の人物。
港の灯りに背を向け、夜の海を見下ろす。
風がそのマントをはためかせ、仮面が月を反射してかすかに光った。
そしてその影は、屋根の奥へとすっと姿を消していった。
気配だけを残して――
次の夜の“仕事”を予告するように。