第8話 酒場での出会い
夜の酒場――。
樽と汗の匂いが混ざり合い、喧騒が天井まで渦を巻いていた。
リィナは一人、カウンターの端に腰掛け、グラスを傾けていた。
周囲のざわめきに、耳を澄ます。
「おい、聞いたか? 怪盗アルセレーヌが、また盗ったらしいぜ。しかも、また証拠ゼロだとよ」
「噂じゃ、貴族の屋敷から王家の紋章入りの宝飾品をだってさ……」
「マジかよ、あいつ、伝説になるつもりか?」
「遺跡の件、どうなったんだ?」
「ギルドのマスターが動いたって話だ。冒険者たちは入口すら踏めなかったらしいぜ」
「マスターが動くなんて、珍しいな……裏があるんじゃねえのか?」
「それよりも、王様だよ。税をまた上げるって……頭がどうかしてるぜ」
「街の北側なんて、もう子どもが飢えてるって噂だぞ」
リィナはグラスの縁をなぞりながら、さりげなく別の客に声をかけた。
「ねぇおじさん。東門の警備が厳しくなったって本当?」
「ん? ああ、確かに。先週までは寝てても通れたが、昨日はやたら目を光らせてたな。何かあったんだろ」
「ふぅん……ありがと」
そんなやりとりをいくつかこなしながら、ふと、声をかけてきたのは――
背の高い、褐色の肌に派手な羽飾りをつけた男だった。年の頃は三十代半ば。笑顔に妙な艶っぽさがある。
「お嬢さん、ずいぶんと耳がいいようだな。情報屋か、それとも……ただのモテ女か?」
「はは、後者ってことにしといてあげるわ。で、何の用?」
男は口元に手をやり、懐から何かを取り出した。小さな、銀の腕輪だ。月光を受けて、わずかに青く光っていた。
「これはね、モテる女にこそふさわしい腕輪なんだ」
「また口説き文句?」
「いやいや、これは本気で言ってる。身につければ、今よりもっと男を惹きつけることだろうさ」
「……なによそれ、まじないのつもり?」
リィナは笑ったが、男の眼は妙に真剣だった。
「信じるかは、君次第。――バルツって名前さ。覚えておくといい」
「ま、気が向いたらね。ありがと、バルツ」
男はそれ以上何も言わず、煙のように人混みに消えた。
リィナは腕輪をしげしげと眺める。見た目にはただの装飾品。けれど――ほんの一瞬、指先に微かな魔力の痕跡を感じた気がした。
(……ま、遊びで済むならそれでいいけど。変な呪いでもついてたら、叩き返してやるわ)
彼女はにやりと笑い、腕輪をポケットにしまった。
グラスの酒はもう空だった。
ニアに紹介されゴードンと話す
明日オルフェスに行く、行くなら朝、南門に集合な
酒場《黒猫亭》の夜は、ほどよい喧噪に包まれていた。
リィナはすでにいくつかの情報を集め、今はカウンターの隅で休憩中だった。グラスには薄い酒。目は、人々の会話を追っている。
そこへ、給仕のニアがふわりと現れた。
「ねえリィナちゃん、ちょっといい? 一人、紹介したい人がいるの」
「ん? 誰?」
ニアはにこりと笑って、視線を奥の席へ向けた。
「ゴードン・バーリック。テイマーで、運び屋。少し変わり者だけど、頼れる男よ」
その名に、どこかで聞き覚えがある気がして、リィナは興味をそそられた。
「酔竜のゴドラン、ってあだ名の?」
「そう、それ。話してみたらきっと気が合うと思うよ」
ニアに手を引かれるまま、リィナは奥の席へ。
そこにいたのは、ごつごつした体格に、無精ひげ。大きな手で小さな木杯を器用に転がし、背中にはサイドバッグ――そして腰には、見慣れぬ形状の手綱が下がっていた。
「よっ、こっちが噂のリィナ嬢か。話は聞いてるぜ。女狐みたいな目してんな」
「それ、褒めてる?」
「もちろん。女狐は賢くて、手ェ抜かねぇ。――俺はゴードン。運び屋だが、荷竜と酒に関してはちょいとうるせぇ」
リィナは席に腰を下ろし、ひとつ笑う。
「テイマーってことは、例の“クラーフ・ドレイク”を連れてるって聞いたけど……あれ、噂だと気難しいって」
「ああ、モークな。無愛想で手間のかかる野郎だが……酒の匂いには誰より敏感でな。俺の酒が狙われそうになると、唸って知らせてくれる」
「番犬ならぬ番竜ってわけね。……で、あんたはいつも酒と一緒に旅してるの?」
「酒と竜と、風任せ。どこに行くかより、何を運ぶかが肝心さ」
ゴードンは木杯を掲げた。
「竜も酒も、管理が命さ」
それは、彼の口癖らしい。
「じゃあ、あたしのことも“管理”してくれるのかしら?」
「ははっ、荷札さえついてりゃな。だが、お嬢さんみたいな野生の生き物は、手綱をかけるほうが野暮ってもんだ」
このやり取りに、思わずリィナも吹き出す。
「へえ、思ったより軽口がきくのね」
「女には好かれねぇが、竜と酒には好かれてる。そんな男さ」
そこへ、ニアが新しい酒を二人の前に置いた。
「はい、おつまみもサービス。……ふふ、いい調子じゃない?」
「おう、ニアちゃんも気が利くねぇ。――で、リィナ嬢。明日、港町オルフェスに行く予定とか?」
「そうだけど。なんで?」
「俺も行くとこだったのさ。ちょうど荷の受け渡しがあってな。護衛もいるし、同行しないか?」
リィナは少しだけ考えたが、すぐにうなずいた。
「悪くない話ね。朝から動くなら、途中で“アレ”買えるかもだし」
「“アレ”?」
「セリーヌの名物“海鮮揚げパイ”。知ってる?」
「おっ、それは……いいセンスしてんな。俺のモークも好物だ」
「竜が油モノ食べるって、あんた……」
「酔っぱらうと焼き魚と間違えて齧るんだよ。可愛いだろ?」
「……絶対めんどくさいヤツだ」
そんな軽口を交わすうち、二人の間には妙な親しみが芽生えはじめていた。
陽気なテイマーと、しなやかな盗賊――似ていないが、どこか似ていた。
「じゃあ、明日――南門に集合な。朝の七つの鐘が鳴る前に来いよ。置いてくぞ?」
「ふふ、了解。……でも、“置いていかれる”のは、あたしの方じゃないと思うわよ?」
「ははっ、そうきたか。楽しみだな、リィナ嬢」
杯を鳴らす音が、酒場の喧騒に溶けていった。