66話 灰炎の顎
――咆哮が大地を裂いた。
旧帝国の地下遺跡。
崩れたホールの奥、無数の魔力灯が割れ散る暗闇の中央で、異形の巨影が蠢いていた。
体表を覆う無数の灰色の鱗は、赤黒く光を孕むたびに灼熱の粉塵を撒き散らす。
その口は地を抉り、砕けた床石を炎の奔流で融かす。
――灰炎ワーム。
本来なら辺境でも最危険指定の魔獣。
だが目の前のそれは、常軌を逸していた。
「……どういうことだ……」
アランは喉奥がひりつくのを感じながら、剣を構える。
立っているだけで肺が灼けるようだ。
視界の隅、ヴィルマが無数の薬瓶を素早く腰の革帯から抜いた。
「やられたわね。魔力密造で成長を異常加速させた……あの女、頭がおかしい」
「はっはっはっは!」
瓦礫の向こう、崩れた石柱の上に立つ黒衣の女が、楽しげに笑った。
「いいね、いいよ。雑魚の分際で、ここまで成長するなんて……実に、素晴らしい!」
ルーシャ・ヴァルス。
蒼い瞳は冷たい硝子玉のように光り、唇には歪んだ歓喜が浮かんでいた。
「ここで、このモンスターを倒せなかったら……? そうだねえ」
指先がくるりと宙を踊る。
「ラトールは壊滅だね!」
ひときわ大きな咆哮が遺跡を震わせた。
「はっはっは! アディオス――せめて一太刀でも入れられることを願ってるよ!」
石屑が舞う中、黒衣は背を向けた。
「はっはっはっはっは!」
「……クソッ!」
アランは歯を食いしばった。
腹が、足が、恐怖で竦む。
だが――
「やらなきゃ……」
ヴィルマの声が震えていた。
それでも薬瓶を握る指先は、決して止まらない。
「やらなきゃ、犠牲者が増える」
「……俺がやらなきゃ!」
アランは剣を構え直した。
全身から噴き出す汗が、灼熱の粉塵で一瞬にして乾く。
視界が揺れる。
――勝てるのか。
相手は、全身が溶鉱炉のような化け物だ。
まともに斬れば剣ごと融ける。
だが、一歩でも退いたら、街に炎が届く。
「アラン!」
ヴィルマが腰の鞄から銀の小瓶を取り出した。
「これを飲みなさい! 神経伝達を促進する補助薬! 反動で全身が痛むけど……今だけ、速度も感覚も限界を超えられる!」
「……わかった!」
薬を受け取る。
蓋を開けると、胃の奥が痙攣するような刺激臭が鼻を刺した。
――恐い。
でも、やるしかない。
「……来い!」
灰炎ワームが頭をもたげた。
赤黒い光が口腔に収束する。
ヴィルマが複数の小瓶を床に叩きつけた。
「投擲式冷却薬! せめて温度を落とす……!」
炸裂する白煙。
一瞬だけ熱が退く。
その隙に、アランは息を吐いた。
心臓が――脈打つ。
血が、脳を灼くように巡る。
(なんだ……この感覚……)
風が。
足元の空気が、ひどく鮮明に見えた。
震える粒子、乱れる流れ――それが、まるで手に取れるように。
「……風……?」
剣を握った手が、自然に動いた。
走る。
視界が霞むほどの速さで。
炎の奔流が、灰色の顎から吐き出された。
だが、その淵をすり抜けるように滑り込む。
「――おおおおおおッ!!」
剣先を、叩き込む。
刃の周りに渦巻く――風。
それが灼熱を裂いた。
灰色の鱗が剥がれ落ちる。
「アラン!」
「ヴィルマ……ありがとう!!」
魔物の咆哮が、もはや悲鳴に近かった。
「行け!! 今だ!!」
(これが――属性魔法……)
渦巻く風が、アランの意志に応えるように震えた。
(俺が――俺がやらなきゃ……!)
剣を振りかぶる。
足元に、風の魔紋が閃いた。
「――風裂斬!!」
蒼い奔流が一閃した。
灰炎ワームの咽喉を断ち割る一撃。
爆ぜる熱と灰。
遺跡の空間が、割れるような轟音を立てて沈黙した。
荒い息の中、アランは剣を支えに立っていた。
ヴィルマが駆け寄る。
「……やったわね」
「……ああ」
「……もう、こんな無茶しないで」
「……うん」
それだけ言うと、アランは剣を手放し、その場に膝をついた。
だが、胸の奥に灯った風の感覚は、決して消えなかった。
灰炎ワームが咆哮を上げた。
「ガガガ――ガガガ――ガーン!!!」
金属を引き裂くような耳障りな音が空間を埋め尽くす。
「ギャーンイーン!!」
地響きと共に巨躯が蠢いた。
熱波が奔流のように押し寄せ、アランは息を呑んだ。
(……っ! 動けない……!)
「ガガガ……ガガガ……グゥアーン!!」
「ぐっ――!」
声が漏れる。
灼熱が皮膚を刺し、視界が赤黒く滲む。
(やばい……これ、本気で……無理だ……!)
「退け!!」
ヴィルマの叫びが飛んだ。
アランは歯を食いしばり、反射的に後ろへ跳んだ。
着地と同時に足が痙攣する。
全身が鉛のように重い。
「はぁ……はぁ……」
「アラン……副作用が――もう来てるの!?」
ヴィルマが薬瓶を構えたが、震える手が止まった。
「……頭が……くらくらする……」
吐き気がせり上がる。
意識が遠のく。
「あっ……あっ……あぁ……っ」