第64話 灰色の実験場
「灰色の実験場」
ガガガ――
全体が揺れ、鈍い轟音が地下に響き渡る。
旧帝国の地下施設の一室。
煤と結晶粉の匂いが充満する、封印された研究区画。
巨大な魔導器が幾つも据えられ、脈打つ魔力が空気を歪めていた。
奥の台座で、銀色の抽出装置が低く唸る。
淡い光が脈動し、まるで心臓のように部屋を支配していた。
「……やっと、見つけた……」
リィナは小さく息を吐く。
指先がかすかに震えていたが、短剣の柄を握る手に迷いはなかった。
薄闇の奥。
そこに立っていたのは、白衣を纏う細身の女。
ルーシャ・ヴァルス。
組織の魔力密造部門を率いる者。
月白の髪を高く結い、冷たい硝子の瞳が真っ直ぐこちらを射抜く。
「ほう。さっきの小僧の仲間か? ここまで嗅ぎつけるとは……くくっ」
唇がわずかに歪む。
「いや、お前がリィナか。……ガイルの妹だな。初めまして」
「……この声……やっぱり。あの通信越しに私たちに指示していたのは……」
リィナは短剣を抜く。
刀身に刻まれた封刻が、青白い光を揺らめかせた。
「私だよ。指令を下すのは、合理的な者でなくてはならない」
ルーシャの声は平坦だった。
何も感じていないかのように、ただ事実を述べる口調。
「だが残念だな。お前ほどの者が、なぜ私の前に立つ? 取引ならまだ応じる余地は――」
「取引? 笑わせないで」
リィナは一歩、床を踏みしめた。
「私はもう、組織を抜けた。あなたが作る地獄の片棒なんて……二度と担がない」
胸の奥が、今も軋んだ。
幼い頃、魔力密造のために消えていった子供たちの影。
兄の死。
命だけは守りたかったのに、気づけば同じ業を背負っていた。
――全部、終わらせる。
「だから……今は、あなたと敵同士よ」
ルーシャはゆるやかに片手を上げる。
白い指先に埋め込まれた宝石が、翠の残光を帯びた。
「敵……か。やはり人は、感情で合理を踏み外す。……だから興味深い」
次の瞬間、装置の端子が一斉に点灯する。
床の魔導陣が輝き、濁った風が空間を撫でた。
「観察対象が、観察者に牙を剥く……実に面白い。解析し甲斐がある」
「黙りなさい!」
リィナは一気に間合いを詰める。
短剣が疾風のように閃く。
ルーシャは半歩退き、右手の宝石から光の幕を展開した。
魔導障壁――
だが、怯む気配はない。
障壁に刃を滑らせるように力を逃し、そのまま体当たりを叩き込む。
「っ……!」
魔障壁に亀裂が走る。
ルーシャの瞳が、わずかに細められた。
「……やはり優秀だな」
淡々とした声に、冷たい感情の欠片が揺れる。
「だが、魔力錬成術を知らない者が、この場で私に勝てるはずがない」
次の瞬間。
足元の魔導陣から、無数の結晶槍が生え出した。
生き物のように蠢き、リィナを貫こうとする。
「くっ!」
跳び退く。
一本が髪をかすめ、鋭い破片が頬を裂く。
血の熱さが痛みを刺した。
(これが……魔力を結晶化する術……!)
「理解したか?」
ルーシャの声は変わらない。
「お前の魔力も、ここで抽出しよう。どれほど美しい結晶を生むのか、興味がある」
「させない!!」
息を吐き、意識を研ぎ澄ます。
視界の端――
ルーシャのわずかな肩の動き。
(来る……!)
次の槍が生まれる。
「っ……!」
低く身を屈め、床を滑るように突進する。
結晶槍の雨を抜け、一気に懐へ。
刃を逆手に構えた。
「はああああっ!!」
障壁を砕き、白衣の肩を切り裂く。
血飛沫が散った。
「っ……見事だ」
ルーシャの声がわずかに震える。
だが、その瞳は痛みではなく、異様な熱に光っていた。
「感情が……ここまで力を増幅させるとは……」
「感情?……そうよ」
リィナは睨み据える。
「私には、守りたいものがある。だから戦える。それだけよ!」
ルーシャが手を伸ばし、魔導装置に触れる。
再び魔力が渦を巻いた。
「ならば……その感情ごと解析してやろう」
「させるもんですか!!」
視線が交わる。
次の瞬間、激しい魔力の奔流が実験室を飲み込んだ。
装置が悲鳴をあげるように震え、翠の光が壁を照らす。
「見せてやろう。感情を凌駕する、理の力を……!」
床の陣が変質し、無数の槍が生成される。
先ほどより鋭く、速い。
一瞬で距離を詰めたリィナに、雨のように襲いかかった。
(避けきれない……!)
腰の小袋に手を伸ばす。
「……っ、これなら……!」
短剣の封印刻印を解放する。
刃が淡い銀色の魔力に満たされた。
「お前の理屈も研究も……私にはどうだっていい!!」
結晶槍が胸元を貫こうとした瞬間、リィナは吠えるように叫ぶ。
「これで――終わりにするッ!!」
疾風のように地を蹴った。
槍が肩を裂く。
焼ける痛みが走る。
だが止まらない。
刃を突き出し、ルーシャの胸元の宝石を正面から叩き割った。
「――がっ!!」
鈍い破裂音。
封印刻印の魔力が拡散し、槍が霧散する。
ルーシャは崩れるように膝をついた。
白衣が赤に染まる。
だが――
瞳はまだ消えていなかった。
「……まだ……だ……」
震える指先が、床の装置を探る。
「……私は……ここで終わらない……」
「もう……やめて」
リィナは短剣を下ろし、血に濡れた髪を払いながら見据えた。
「あなたは……人を道具にしてきた。でも……私たちは、感情がある」
「……愚かだな……」
ルーシャの口元が歪む。
「お前のような感情主義者が……結局は……世界を歪める……」
「それでも……私は、自分の選んだ生き方を後悔しない」
言い切ったその瞬間。
ルーシャの指が、ひび割れた宝石の欠片を押し込む。
床に刻まれた転送陣が、紫に光った。
「……さよならだ。リィナ・カルセリオ……」
「――っ!?」
淡い光が爆ぜるように広がる。
駆け寄ろうとした時には、もうその姿は消えていた。
魔力の転移痕だけを残し、冷たい空気が部屋を撫でる。
「……逃げた……」
拳を震わせる。
けれど、胸の奥にあった重い痛みは、少しだけ軽くなっていた。
(……全部を終わらせることはできなかった。でも……)
魔導装置の唸りが止む。
緑の光が崩れ、煤けた壁が夜気に晒される。
「……私には、守りたいものがある」
小さく呟き、短剣をゆっくり鞘に収めた。
足はまだ震えていた。
それでも、もう戻る気はなかった。
「……さよなら」
もう誰もいない部屋に言葉を落とし、リィナは静かに背を向けた。