第63話 旧帝国の亡霊
ラトール南区の地下遺跡――
石造りの回廊は、かつて帝国が残した研究施設の残骸だった。
苔むした鉄扉、剥き出しの魔導管、薄暗い光源。
死者の吐息のように湿った風が、ひそやかに吹き抜ける。
「ティナは……この奥か?」
アランが荒い息を整え、脇腹を押さえる。
震える脚に力を込め、剣を構え直した。
その瞳には、痛みではなく決意だけが宿っていた。
だが――
硬質な足音。
湿った床を踏む、低く鋭いブーツの音。
やがて闇から現れたのは、白い仮面をつけた細身の男だった。
黒衣が影と溶け合い、その輪郭すら曖昧に揺らぐ。
「ようやく来たか。遅かったな」
低い声が、石壁に虚ろに反響する。
「……お前が、ティナを攫ったのか」
アランの声は掠れていたが、剣先は揺らがなかった。
「攫った? 名前など知らん。だが、この場所は多くの魔力を欲している。必要な物資を届けただけだ。……依頼を達成できるなら、手段は選ばない」
その声の冷たさに、レオンが一歩踏み出す。
「リィナ、下がれ」
「……うん」
男が静かに両手を上げる。
空気が、かすかに震えた。
「今夜は愉快な客ばかりだ。――見せてやろう」
仮面の奥で、わずかに口元が歪んだ気がした。
刹那。
足元から風が吹き上がる。
「――ッ」
アランの瞳が見開かれる。
男の双剣が、風を纏って淡い翠光を放った。
(この構え……この流れ……まさか――)
「行くぞ」
風刃連鎖。
一陣の旋風が、命を刈り取るように襲いかかる。
アランは咄嗟に剣を立て、衝撃を受け止めた。
鋼が斬り結ぶたび、翠の残光が闇を切り裂く。
あの動き。あの速さ。
忘れられるはずがない。
「それは……ディランの技だ……!」
「知っているのか?」
レオンが苦い声を漏らす。
「元・銀風の矢の剣士……俺が冒険者を目指すきっかけになった男だ……!」
「元、英雄よね」
仮面の奥の声は、どこか乾いていた。
「お前たちも同じ顔をする。自分が何者かも、何を守るかも知らずに剣を振る。……滑稽だ」
アランは奥歯を噛み締める。
(ディラン……なぜだ……!)
だが男は止まらない。
その動きは、死を恐れない突撃の軌跡。
双剣が風を孕む。
「――疾風翔破」
翠の光が爆ぜ、通路を貫いた。
回廊の床が抉れ、鋭い石片が飛び散る。
咄嗟に飛び退くが、衝撃波が胸を叩く。
「ぐっ……!」
レオンが壁際に膝をついた。
リィナも短剣を構えたまま、息を呑む。
「もうやめろ!!」
アランが吠えた。
「ディラン……どうしちまったんだよ!!」
「笑わせる。仲間も守れない男が英雄だと?」
仮面の奥の声には、ひどく乾いた嘲りが滲んでいた。
「アラン……お前も早く気づけ。仲間なんて、死ねばただの灰だ。お前もいずれ……死にたくなるほど後悔する。そのときには、もう何も守れない」
言葉の底に、微かな滲むような痛みがあった。
仮面の奥で、一瞬だけ何かが揺れた気がした。
「なら……!」
アランは剣を逆手に握り直す。
「そんな未来は――俺がぶち壊す!!」
踏み込む。
足元を削るように力を込めた。
傷が、脇腹を鋭く貫いた。
だが、その痛みさえ怖くなかった。
「うおおおおおお!!」
剣が唸り、黒紫の残光と翠の奔流がぶつかり合う。
一瞬の閃光。
凄まじい衝撃が通路を震わせた。
仮面の男の目が見開かれる。
「……っ!」
――吹き飛んだ。
軽やかな双剣の構えのまま、背後の壁に叩きつけられる。
石が崩れ、瓦礫が散った。
アランは息を切らし、剣を下ろす。
「……もう、止めてくれ。そんな姿、見たくなかった……」
仮面の男は、ゆっくりと顔を上げる。
口元がわずかに歪んだ。
「……もう引き返せないんだよ。だから……お前は甘いんだ」
次の瞬間、その輪郭が霧のように揺らめく。
視界から溶けるように消えた。
「逃げた……!」
リィナが顔を上げた。
残響だけが耳に残る。
《また会うだろう、愚かな冒険者ども》
その声は、もう遠い闇の奥に溶けていった。
アランはゆっくりと膝をついた。
滲む視界の奥で、剣を握る手がかすかに震えている。
(……ディラン……。あれが……)
レオンがそっと肩に手を置いた。
「立てるか」
「……ああ。行こう」
ティナが、まだ奥で待っている。
終わりじゃない。
「アラン、手分けして探すぞ」
「ああ……すぐ行く」
アランは深く息を吸い、暗い通路を見据えた。
胸には、熱く重いものが残っていた。
――英雄の影と、そこに滲む悔恨の匂い。