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第61話 兄の死

冬の始まりだった。

霧雨に濡れた街の空気は、どこまでも冷たかった。

十一になったばかりのリィナは、崩れかけた宿屋の壁際に座って、薄い毛布を肩に巻いていた。

手のひらには、兄からもらった古びたマッチの束。

「ねえ、お兄ちゃん……遅いよ」

そう呟いた声は、夜の空虚に溶けて消えた。

ガイルは昨日、いつものように仕事に出て行った。

盗賊ギルドから、ひとつだけ特別な依頼を請け負ったと話していた。

「これが終わったら、少しはいい暮らしができるかもしれない」

目を伏せて、笑っていた。

それきり――帰ってこなかった。

最初はただ遅れているだけだと思った。

でも、スラムの男たちがひそひそと交わす声が耳に入った。

「盗みをしくじったらしい……処刑だとよ」

「まあ、あいつはやりすぎてたしな」

――処刑。

言葉の意味がわからなかった。

でも、胸がひどく痛くなった。

心臓が張り裂けるように脈打って、視界が白く霞んだ。

何度も嘘だと思った。

夢であってほしいと願った。

けれど、兄は二度と戻らなかった。

泣き声が喉の奥から溢れ出す。

けれど、ここで泣けばスラムの大人たちに追い払われる。

物乞いも、泥棒も、弱さも、この街ではただの隙だった。

だから――声を押し殺した。

震える唇を指でぎゅっと塞いで。

震える肩を、薄い毛布で隠して。

こぼれそうな涙を、必死でこらえた。

夜が深くなるほど、寒さが骨まで染み込んだ。

毛布の奥で、兄にもらったマッチを一つ取り出す。

かすかに手が震えた。

「……お兄ちゃん……」

震えながら擦る。

ひときわ鮮やかな、細い火が灯った。

橙色の炎が揺れて、すぐに儚くしぼむ。

けれど、その一瞬だけは。

兄が隣に座っているような気がした。

大きな手で頭を撫でてくれるような気がした。

炎が消えると、暗闇は何倍も濃くなった。

街角を通り過ぎる人々は、誰もリィナを見ない。

まるで、そこにいないものとして扱う。

誰も、彼女を拾ってはくれなかった。

――でも、生きなくちゃ。

お兄ちゃんがくれたこの灯火を、消さないために。

生きると決めたから、ここにいるんだ。

頬を伝う涙をぬぐい、マッチを一つ胸に押し当てた。

たった一人で、灯火を守ると誓った。

それからの日々は、飢えと孤独の繰り返しだった。

街外れの廃屋を寝床にして、パンの耳や残飯を集めた。

どこまで落ちても、泣かないと決めた。

そんなある日だった。

灰色の霧に煙る路地で、声が降ってきた。

「……お嬢ちゃん。そこで何をしている?」

顔を上げると、長い外套をまとった男が立っていた。

鋭い眼差しが、リィナを試すように射抜いた。

「別に……」

声は掠れていた。

マッチを売るために、喉が枯れていた。

「生きる気はあるのか」

男は唐突に言った。

それが罠かどうかもわからなかった。

でも、その言葉が胸を貫いた。

「ある……」

蚊の鳴くような声で答えた。

それでも、それは兄の死のあとで初めて口にした――生への意思だった。

「ならついて来い。食事と寝床くらいは用意してやる」

男の背中を追った。

それが、地下魔導組織の拠点への道だった。

最初の一年は、ただの雑用だった。

倉庫の整理、廊下の掃除、魔道具の運搬。

けれど、何をしても叱られなかった。

「お前は、覚えが早いな」とだけ言われた。

そうして、組織にいた道具職人――銀脚のジャルドに目をかけられた。

「面白いガキだな。何でも器用にやる。指先の感覚も鋭い」

彼は気まぐれに、魔道具の修理を手伝わせてくれた。

針金の留め具や精密な歯車を扱うたび、リィナは夢中になった。

そのうちに、周囲は彼女をこう呼んだ。

「神童」

だが、リィナは知っていた。

自分はただ、生きるために手を動かしていただけだ。

ジャルドに盗賊の技を教わることもあった。

死角に潜む技、気配を消す技、毒や針を扱う技。

だが、人を殺す技術だけは、どうしても覚えられなかった。

「お前は甘いな」

ジャルドは一度だけ、そう言った。

けれど、どこか安心したように目を細めた。

リィナは、兄の死に何もできなかった。

だからこそ、次は守りたかった。

誰かを犠牲にしてまで、自分を救うのは嫌だった。

十三になった頃、組織の任務の一環で、ラトール冒険者ギルドに潜入することになった。

「お前の快活な顔は、信用を得るには便利だ」

幹部はそう言ったが、それだけではなかった。

リィナ自身が、人の輪に戻りたかった。

ギルドの空気は、地下組織とはまるで違っていた。

陽の差す窓、鍋の匂い、笑い声。

みんな傷や秘密を抱えながらも、誰かのために剣を振るっていた。

リィナはそこに憧れを覚えた。

一人で生きると決めたはずなのに、心はいつしか誰かと肩を並べたいと願っていた。

最初は任務のために動いた。

だが、依頼を重ねるうちに、仲間を助けることに迷いはなくなった。

「リィナは頼りになるな」「お前の機転に助けられた」

そんな言葉が、胸を暖かく満たした。

夜、ギルドの裏手でマッチを擦った。

炎は相変わらず小さくて儚かった。

でも、もうそれだけじゃなかった。

その光の先に、仲間がいた。

守りたい人がいた。

兄の形見のマッチは、灯火であると同時に誓いの証だった。

二度と、この光を失わない。

決して一人には戻らない。

リィナは静かに炎を見つめて、笑った。

寒い夜でも、その灯火は心を照らし続けていた。

それは、生きると決めた少女が手放さなかった、最初で最後の希望の光だった。

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