第60話 スラムの闇と兄の姿
ラトールの街は、日の当たる表通りと、その裏側でまるで別の顔を持っていた。
白い石畳をすれ違う商人たちの笑い声が、ひとつ角を曲がると消える。
その先に広がるのは、瓦礫と埃と、乾いた空気だけだった。
スラム街――
ここが、兄妹の新しい居場所だった。
「リィナ、今日はここで待っててくれ」
そう言って、ガイルはいつもと同じように古びたマントを羽織った。
その端はあちこちほつれていたけれど、街の目を少しでも遠ざけるには必要だった。
「うん……」
リィナは小さく頷いて、ぼろ布の上に腰を下ろした。
朝の冷たい空気が、裸足のつま先を刺したけれど、泣きはしなかった。
兄が働いている間、リィナは何もできなかった。
スラムでは幼い子どもは盗みの標的にされるか、厄介者として追い出されるだけだ。
それでも――
「ただいま」
陽が傾く頃、ガイルが戻ってくると、胸がじんと熱くなった。
片手には小さな包み。
黒パンと、塩漬けの豆、そしてときどき、売れ残りの干し果実。
「今日も、お豆だね」
リィナが笑うと、ガイルも少しだけ口元を緩めた。
「贅沢言うな。食べられるだけありがたいだろ」
わざとぶっきらぼうに言う声は、ひどく優しかった。
――兄は、盗賊ギルドの下働きをしている。
荷運びや、粗雑な見張りや、怪我人の介抱。
ときには、怖い大人たちの汚れ仕事を手伝うこともあった。
それでも、ガイルは帰ってきた。
どれだけ泥にまみれても、傷をこしらえても――必ずリィナのもとに。
それが、この場所で生きる唯一の光だった。
「ほら、今日は……お前に見せたいものがある」
ある晩、ガイルはそう言って、小さな木箱を抱えて帰ってきた。
箱は古く、金具がいくつか外れていたけれど、大事そうに胸に抱えていた。
「何それ……?」
「村の、家の跡から拾ってきたんだ。……壊れてなきゃいいが」
蓋を開けると、中に見慣れない筒形の金属が眠っていた。
ふいに、淡い光がともる。
「これ、もしかして……」
「魔道具だ。……たぶん、投影機だと思う」
ガイルがそっと天井を指さした。
光がゆらりと、染みついた布の天幕を照らす。
ぼやけた影が、少しずつ輪郭を結んでいった。
母さんが、いた。
父さんも、いた。
笑顔でこちらを振り向いて、手を振っている。
庭の畑で、ふたりが摘んだ花を兄に手渡している。
兄は照れくさそうに頭をかいて――その横に、幼いリィナがいた。
まだ何も知らない顔で、胸に小さな花束を抱いていた。
「……」
喉が詰まって、何も言えなくなった。
膝の上で、拳が震えていた。
「覚えてるか……?」
ガイルがぽつりと訊いた。
「うん……」
涙が滲んだ。
でも、今だけは泣きたくなかった。
「すごく……すごくきれい……」
「そうか」
それきり、兄も黙った。
投影機の光が、淡く部屋を染める。
母の笑い声が、幻のように心をくすぐった。
父の大きな手が、もう一度だけ頬を撫でる気がした。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
リィナが小さく呟くと、兄は黙って頭を撫でてくれた。
その手は大きくて、ひび割れていて、けれど何よりもあたたかかった。
スラムの夜は冷たくて、空腹はいつも隣にいた。
でも、兄の隣にいれば、まだ大丈夫だと思えた。
母も、父も、もういないけれど。
それでもこの小さな明かりだけは、二人の胸に灯っていた。
明日も生きていこう。
胸の奥で、そっとそう決意する。
誰に聞かせるわけでもなく――
それが、今の自分にできる精一杯の強さだった。