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第七章 死村の場合

平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。

 洋子は華沢や委員、ブロック長たちに死村という探偵のこと、紗良を探し出したのは死村であり、大山の腕を切ったのも死村であることを話した。また、生田と同様に生ける屍に襲われにくい体質らしいと言うことなども説明した。委員会のメンバーたちの一部は洋子や大山のコミュニティの規定に反した行動を強く批判した。華沢はそれを制して、今はそのことを議論するときではなく、その男が本当に信用できるか、そして、陽動作戦を引き受けてくれるかどうかが問題だろうと言った。洋子はあの人なら必ずやってくれると言った。言ってから、自分がそこまで強く死村のことを頼りにしていることに驚いた。メンバーたちはいくつかの批判をしつつも、結果として洋子に同意した。生田英雄という得体のしれない男と対抗するために、皆も何か未知の力を欲していたのかもしれないと洋子は思った。提案は承認された。そして、死村を迎えに行く役として洋子の推薦で田中が選ばれた。


「何で、僕なんですか」

 洋子に呼び出されてラズーンテラスでその話を聞いた田中は言った。階下には全く躊躇せずに人を殺すことができる生田の部下たちが待ち構えている。仮に無事に抜け出せたとしても、蒲田までは自動車を使わずに自分の足で向かわなければならない。屍の群れに出くわさないとも限らない。生きて帰れる保証はない。

「何でって、あの探偵のいる場所に行ったことがあるのは、私の知ってる限りでは、私と大山さんと田中くんしかいないけれど、大山さんはまだ怪我から十分に回復していないし、田中くんが一番、たどり着ける可能性が高いと思うから」

 いつもこうだ。いつだって押しつけられる。普段は僕のことなどまったく気にしていない癖に、誰もがやりたくないことができたときにだけ、都合よく話しかけてくる。大層な理屈をつけてこちらを丸め込もうとする。そして、僕が無理矢理やらされて、結局上手くいかなかったら、こいつらは自分でやらなくって良かったとほっと胸を撫で下ろすんだ。そんなことまっぴらだ。ずっとそうやって利用されっぱなしの人生だった。もうその手は喰わない。

「嫌です。僕にはできない。地図を描きます。他の人に行ってもらってください」

 田中は目を背ける。頭の中に山村が殺される場面が思い浮かんでいた。もし引き受けたら、自分もあんな目に合うかもしれない。

「他の人じゃ駄目なの。他の人だったら、あの探偵さんを説得させられるか分からないから。あなたが行かないといけないの」

 騙されるな。他の人はやりたくないだけだ。そうやって誰もが僕を丸め込んで嫌な役ばかりやらせる。

「やっぱり無理です。何で僕なんですか。何でいつも嫌なことは僕ばっかり押しつけられるんですか。もう、うんざりです。無理なんですよ」

 田中は吐き捨てるように言った。そのとき、洋子は田中の両肩を強く掴んで揺さ振った。

「あなた、なに馬鹿なことを言ってるの。押しつけられる? 誰もあなたに嫌なことを押しつけようと何て思ってないわよ。あなたを頼りにしてるの。あなたは頼りにされることと押しつけられることの区別もつかない人間なの!」

 田中は目を逸らそうとしたが、洋子の目はしっかりと田中を見据えて逃がさなかった。

「頼りにされてるって」

「そうよ、あなたは大輔くんのときだって、大山さんのときだって、とても頼りになったじゃないの。ここの皆があなたに頼っているのよ。あなたに助けてほしいのよ」

 田中は何度か瞬きをした。自分が誰かに頼られるなんて、信じられないことだった。どこにいても、何をしていても、どうでもいい存在だった。頼まれることと言えば、誰でもできるけれどもやりたがらないことだけだった。田中の頭に再び山村の最後の姿が浮かんでいた。あいつは一人で逃げればよかったんだ。僕や洋子さんなんて放っておいて、五階に逃げればよかったんだ。あいつはどうして一緒について来たんだろう。もしあいつがついて来なかったなら、あの場でバイク野郎に殺されていたのは僕だったかもしれない。

「分かりましたよ。行けばいいんでしょう」

 田中は洋子の手を振りほどいた。

「でも、僕はあの探偵と仲悪いから、僕の言うことなんて、聞いてくれないかもしれないですけどね」

 洋子は微笑んで頷いた。

田中がラゾーナを脱出する方法を防衛担当の間宮と話し合うためにその場を離れると、後ろで様子を見ていた華沢が洋子に話しかけた。

「やっぱり、あなたは優秀ですねぇ」

「優秀とか、そういう問題じゃないですよ」

「しかし、起こっている現象だけ考えたら、押しつけられるのも頼られるのも、同じことだって気がしますけどね」

 華沢はそう言って笑った。洋子は説得する任務が成功して少しほっとしたのか、お道化た表情で華沢を睨んで、

「何言ってるんですか、全然違いますよ。華沢さん、案外人の心が分からないって言われたりするタイプなんじゃないですか?」

 と憎まれ口を叩いた。


 田中は生田の部下たちに悟られないように夜の闇とともにこっそりとロープで壁を伝って降りて行った。ルーファ広場からは見えない裏側の壁を利用したため、気がつかれずに下まで降りることができた。道路に降り立った田中が見上げると、暗闇の中で窓から顔を出した洋子が手を振っていた。田中は一度深呼吸をして走り出した。ラゾーナ川崎の建物が見えなくなるところまで走り抜けると、立ち止まって息を整えた。そして、チネチッタまで歩き、以前に死村が大森から乗ってきた自転車を隠しておいた屋台の陰を覗き込んだ。すると、中からぬっと手が出てきて、生ける屍がのしかかってきた。田中は思わず悲鳴を上げて屍を投げ飛ばした。屍はそれでももう一度田中に縋りつこうとしてきたため、田中は急いで自転車を引っ張り出すと、その屍の顔を蹴りつけて、自転車に跨った。走り出すとわきの下から汗が流れるのを感じた。


 夜中に死村のオフィスに行ったことはなかった。探偵は夜もオフィスにいるのだろうか? いやに音の響く古びた非常階段を上りながら、田中は次第に不安になっていった。本当にあの探偵は助けてくれるのだろうか? 屋上にたどり着くと、真っ暗な中でそびえたっている二本の椰子の木が、巨人がこちらを見下ろしているように感じられた。プレハブ小屋のドアを開けると、窓から差し込む薄っすらとした光のもとで死村が椅子に座ったまま口を開けて寝ているのが見えた。よかった、ここにいたじゃないか。田中は少し息を吸い込み、

「こんばんは、入りますよ」

 と言った。死村は驚いて急に立ち上がろうとし、そのまま椅子ごと後ろに倒れ込んだ。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ですかじゃないよ、何なの田中くん、こんな時間に。僕を襲いに来たの、やめてやめて、助けて」

「襲いになんて来ないですよ」

「普段からここで寝てるんですか?」

「いつもは下で寝てるよ。今日は『二十世紀少年』読み返してて寝落ちしちゃっただけだよ」

「こんなところでたった一人で暮らしていて、心細かったりはしないんですか?」

「たった一人? いや、夜見子がいるから」

「夜見子? 誰ですか。まさか奥さん?」

「違うよ、姪っ子だよ。っていうか、田中くん、会ったことなかったっけ?」

「そんなことより、依頼に来たんです」

「ちょっと待ってよ、今何時だと思ってんの。探偵事務所は二十四時間営業じゃないんだって」

 死村は机の上にあったコールマンのランタンに明かりをともした。田中は状況を説明し始めた。死村は黙って聞いていたが、あらましを掴んだと思うと、両手を後頭部で組んで上を向いた。

「それ、無理だよ、絶対。だって、僕の仕事はいなくなった人とかゾンビとかを探す探偵だよ。そんなグループ同士の紛争に介入したりとか、そういうことしてないから。傭兵と勘違いしてない? 僕のこと『エクスペンダブルズ』だと思ってない?」

「すいません、それ見てないからよく分かんないです」

「わぁ、何、そのめちゃくちゃ冷たい切り返しは。だから、明らかに無理な依頼は引き受けないんだって。だって、ゾンビならあんまり噛まれないから何とかなるけど、あんな凶暴な集団だよ? あんなやつらを相手するなんて、無理無理無理無理」

 田中は机に詰め寄る。

「みんなが今も五階に閉じ込められて苦しんでるんです。このままだったらやつらの犠牲になってしまうかもしれないんです。探偵だって、やつらがどんな酷いか知ってるじゃないですか」

「知ってるから、無理だって言ってるんだって。困っちゃうなぁ。もうあの金髪豚野郎に会いたくないんだって」

「それ泰葉が春風亭小朝に言った言葉じゃないですか」

「あ、今度は分かるんだ。ま、それはいいや。だって、あいつ、なんか気持ち悪いじゃん」

「あなたが誰かのことを気持ち悪いなんて言わないでください」

「えっ、今さらっと、ものすごい酷いこと言わなかった? うわ、マジで。っていうか、田中くんだって、あいつには僕以上に痛い目にあってたじゃん。その前に、田中くんはそもそもラゾーナの連中とだって、あんまり仲良くなかったんじゃないの? そんな急に正義の味方にならなくてもさぁ。ここ田中くんの昔住んでた家に近かったじゃん。誰にも言わないからさ、このままその家帰ってゆっくり休んで、明日の朝、どっかに逃げちゃえ」

「そんなことできるわけない!」

 田中は机を強く叩いた。

「何、急に乱暴しないで。どうしたの、ちょっとキャラ変わってきてんだけど」

 田中は拳を握って苛立ちをこらえながら話し始めた。

「確かに僕はラゾーナの人たちとは仲良くなかったですよ。飢え死にしたくないし、化け物にも食われたくないから一緒にいただけで、彼らのことが好きなわけじゃなかったですよ。むしろ、偉そうな顔をして政治家気取りで命令してきたり、能天気な顔してべたべた家族ごっこをしていたり、うんざりだった。ただ、それは関係がない。山村って、昔からの同級生がいたんですよ。山村は小さい頃からずっと僕のことを見下して馬鹿にしていて、昔はいつか殺してやろうって思ってた。ラゾーナに来てやつと会ったときには、こんな世界になってまで、こいつと付き合わなきゃいけないのかって最悪な気分だったですよ。ただ、今日の夕方、あいつは僕と洋子さんをかばうために、僕の目の前で頭を叩き割られて死んだんです。最初、僕は黒服が何の躊躇もなく山村の頭に鉄パイプを振り下ろしたことに驚いたけれど、後で考えてみたら、山村の方も何の躊躇もなく、僕を助けるために自分が囮になろうとしたってことにも驚かなきゃいけなかった。僕は中学校の頃、殺したいほど憎んでいたやつに救われて今ここにいるんです。しかも、そいつは僕を助けることに何の躊躇いもしなかったんです。だから、」

 そこで田中は声を詰まらせた。死村はそんな田中の様子をしばらく眺めたから、「だから」と小声でそっと繰り返した。

「だから、僕も誰かを助けないといけないんです。そうじゃないと、あいつが何で死んだのか分からなくなってしまうから。それには探偵をラゾーナに連れてかないといけない」

 死村はゆっくりした動きでいつから置かれていたのか分からない机の上のマグカップの中の水で溶いたクリープを飲んだ。

「やっぱ、田中くん、キャラ変わったねぇ。まぁ、それはそれで、悪くないかもねぇ」



 次の日の早朝、死村と田中は川崎駅を少し離れたビルの陰から眺めていた。二階の改札口につながる東口の広い階段には広い板が敷かれており、入口には大きなトラックが何台か止まっていた。死村が田中に向かって話しかける。

「なるほどねぇ、ゾンビは関節が硬いから、普通は階段を下りることはあっても、上るのは難しいんだよね。下りる場合もよく転ぶしね。でも、生田たちは板を敷くことでスロープにして、そこをゾンビたちに歩かせたんだな。ほら、きっとあのトラックで運んだんだよ。だから二階なのにゾンビが沢山襲ってきたんだ」

「どうやって中に入る?」

「その前に中と連絡を取って作戦会議だよ」

 死村は建物に沿って小走りを始める。田中は慌ててついて行く。駅から少しそれたところにある陸橋から線路を渡り、東芝ビルを回り込んで、二人はラゾーナ川崎の裏側へ出る。遠くに数体の屍の姿が見えたが、問題にする距離ではなかった。死村は田中に尋ねる。

「五階ってどのあたり? あの窓のところは五階?」

「一番上が五階です。いや、あそこは立体駐車場だから関係ない。こっちのビル。僕が下りてきたのはあの窓」

 死村は街路樹の木陰に隠れながら、背負っていた大きなリュックから大きなラジコンを取り出す。

「それ何するんですか?」

「それじゃないよ。マットジャイロだよ。オスプレイよりもはるか以前に、ヘリコプターとジェット飛行機の長所を併せ持つティルトローター式が採用されていた日本の誇る革新的な機体だよ」

「名前はいいから、それでどうするんですか?」

「あ、何、ひょっとして田中くん、『帰ってきたウルトラマン』見てないの? 嫌だなぁ、若者はこれだから。ひょっとして平成ウルトラマン派? あんなもんウルトラマンじゃねぇよ」

「うわ、出たよ、自分の世代のもの以外はすべて駄目だと思ってるうざいオヤジ。そんなことより、それで何するんだって聞いてるんですよ」

「げ、うざいオヤジとか言われちゃった。もうやだ。今日は帰る。無理」

「子どもみたいなこと言ってないで、早く説明しなさい。それでどうするの」

 死村は取り出したマットジャイロのラジコンの下にトランシーバーを括りつけた。

「携帯電話がつながる時代はありがたかったがねぇ。取り敢えず、こいつでトランシーバーの片方を五階に運んで連絡を取ることにするよ」

「でも、向こうが気がついてくれますかねぇ」

「もうしょうがないから、気がつくように、そのまま窓に突進させて中に突っ込ませればいいんじゃないの?」

「うわ、何て荒っぽい計画」

「ワンダバダバワンダバダバワンダバダバワン」

「何それ」

「だから、マットが出撃するときのBGMだよ。昭和のウルトラマンを見なさい、まったく」

 そう言いながら、死村はラジコンのマットジャイロを道路の真ん中に置き、発進させた。大きなモーター音がなり響き、田中は生田たちに聞かれないかと慌てて辺りを見回した。マットジャイロは不安定な動きで宙に浮かび上がったかと思うと、ふらふらとラゾーナ川崎のビルに向かって飛んでいく。そして、そのまま田中の降りてきた窓に激突し、窓ガラスを割って中に飛び込んでいった。死村はそれを見ると、逃げろ逃げろと言って慌てて近くのマンションの一階部分に逃げ込んだ。田中は「本当に大丈夫なのかよ、これ」と呟きながらそれについて行く。建物の陰に隠れると、死村はもう一つのトランシーバーを取り出しスイッチを入れる。

「さて、これ気づいてくれるかねぇ」

 と言ってしばらく待っていると、割れたノイズ音とともに、

―誰だ、お前は

 という警戒した男の声がする。

「うわ、なんか怒ってるじゃん、この人。窓ガラス割ったから?」

 そういう死村を横目に田中はトランシーバーを手に取る。

「こちら田中です。こんな形でトランシーバーをお渡しすることになってすいません。華沢さんをお願いできるでしょうか。どうぞ」

 しばらく沈黙があり、

―なんだ、田中か。近くに誰もいなくてよかったが、危ないだろ、こんなもの突っ込ませて。分かった、ちょっと待ってろ。

 と返答があった。死村と田中は顔を見合わせる。

「ねぇ、リーダーの華沢っていうのどんな人なの?」

 待っている間に死村が田中に尋ねる。

「どんな人って、直接話したことはないですから。昔、どこかの企業の社長をやってたみたいですよ」

「で、どんな人?」

 田中は少し考える。

「すごい頭よさそうだけど、どっかちょっと冷たそうな感じもする人?」

 そのとき、死村が田中が持つトランシーバーを指さす。

「田中くん、そこ押しっぱなしじゃ駄目」

 田中が発信ボタンから手を離すと、トランシーバーはノイズを発し始める。

―聞いてるぞ。どうぞ。

 華沢の声が聞こえる。田中はうろたえる。

「え、なに、す、すいません。そういうつもりじゃ」

―それはいい、死村さんに替わってください。どうぞ。

「どうも初めまして。死村です。田中くんのことは許してやってください。どうぞ」

 そこから、死村と華沢は現状についてのお互いの意見交換をし始めた。人数の差を利用すれば彼らを追い返せる可能性があること、それには小さな出口が一つになってしまっていることがネックであることなど、お互いの考えは一致していた。

「で、僕にやつらの注意をひく陽動作戦をしてほしいということですね。どうぞ」

―その通りです。合図に合わせて、こちらは一気にバリケードを破って外に出て、やつらを追い払うつもりです。

「ラゾーナ川崎の電源って、今はまったく動かないんですか? それが使えれば、二人でもエスカレーターを動かしたり、館内放送をかけたり、派手に撹乱できると思うんだけれど。どうぞ。」

―あまり長時間使えないので、普段は使っていないですが、太陽光発電があるから、ある程度は動くはず。管理室は一階です。機械を動かす鍵は手元にあるので、さっき君のラジコンが壊した窓から落とすから使ってください。

「じゃあ、僕と田中くんが侵入して、僕が管理室に忍び込んで電源を入れて、辺りを撹乱させて、やつらがバタバタとして、バリケードの周りの見張りが少なくなったら、あらかじめ四階で待機していた田中くんが外側から合図を出して、一気にバリケードを破って外に出てっていう感じの流れでどうでしょう。どうぞ?」

 華沢は少し沈黙する。死村は横の田中にぽそりと「トランシーバーって相手に黙られると恐いんだよねぇ」と呟く。

―死村さんは、正直なところ、それで何とかなるとお考えですか? どうぞ。

 今度は死村の方が首をかしげて少し考える。

「本音を言っちゃうと微妙です。どうなるか分からない。もうちょっとバックアップというか、プランBみたいなものが欲しいところです。なんかないですかねぇ、どうぞ」

―プランBねぇ。

 そう言うとまた華沢は黙り込んだ。



 ラゾーナ川崎のルーファ広場に爆竹の音が響き渡った。音につられて、屍たちが動き出した。黒服の男たちもバルコニーから下を覗き込んだ。死村が仕掛けた時限式の発火装置を利用したものだった。そのとき、すでに死村は本館内に忍び込んでいた。予想通り二階は屍が何体もうろついていたが生きている人間は見当たらなかった。生田の部下たちは屍が彷徨っていない三階と四階にいるのだろう。死村はそのまま静かに音をたてないように一階に下りて行った。前方から物音がしたために、死村は慌てて近くの棚の陰に隠れた。食料の番をしていたらしい二人が動かなくなったエスカレーターを駆け上がっていった。彼らがいなくなると辺りはまた静まり返った。死村は田中に教わった通りに管理室に向かった。今頃、田中は以前に死村が使ったものと同じルートで外壁を登って直接三階に忍び込んでいるはずだった。死村は足を速めた。


 華沢は再び壇上に駆け上がった。

「皆さん、戦う準備をしてください。もう間もなくです。もう間もなくこのラゾーナに再び電気がつき、陽動作戦が始まります。合図とともに昨夜編成した三人組となって戦ってもらいます」

 華沢を見上げる人たちの表情は強張っていた。昨日のようにヤジを飛ばす人たちもはおらず、誰もが不安と緊張の中にいるようだった。

「このラゾーナ川崎で暮らし始めて、もう二年が経ちます。最初は私を含めて五人から始まりましたが、次第に仲間も増えてきて、今では二百人になりました。これまでも私たちは戦ってきました。死者たちを排除してきたのはもちろん、何人かの盗賊を追い払ったこともありました。ただ、こんなに大きな規模の襲撃を受けたのは初めての経験です。誰もがどうなってしまうか分からず不安だと思います。私だってどうなるかは分からない。それに、本格的に人間を相手に戦わなければなりません。相手は死者たちではなく、私たちと同じ人間です。同じ人間を殴れるのか、同じ人間を、必要があれば、殺せるのか。こんなこと普通の日常が続いていたら、まったく考える必要がなかったことでしょう。ただ、私たちの目の前にある現実は、やつらは手加減をしてこないということなんです。皆さんの中でも昨日はっきりと目撃した人たちがいるでしょう。やつらは私たちを殺すことに躊躇はしないのです。そして、私たちから大事なものを奪おうとしているのです。そんなやつらと戦うよりも、芦谷さんやその他の女性たちを差し出す方がいいと思われる方もいるかもしれません。しかし、そう思った時点で、もう私たちは負けてしまっているんです。大切なものを奪われてしまっているんです。私たちは仲間の誰かを犠牲にして将来に自分が生き残ろうとするのではなく、全員が生き残るために、今を死に物狂いで戦うべきじゃないでしょうか。私たちの自由や権利を奪おうとしてくる侵略者たちに、人間らしく生きようとする心まで奪われてしまってよいのでしょうか。この戦いはもし私たちが恐怖に打ち勝って、私たちの生活を守るために、一人一人の仕事をこなせれば、必ず勝てるのです。でも、そのためには心を強くしなければなりません。不屈の心を持たなければなりません。私は自分が皆さんにこんなことをいう日が来るなんて、まったく思ってもいませんでした。しかし、言わなければなりません。立ち上がって戦うのです。命がけで戦うのです」

 そのとき、劇場内に電気が灯った。人々は歓声を上げた。

「時間が近づいてきました。戦えるものは三人組になって、バリケードの前に並んでください。戦いの合図はもうすぐです」

 誰かが雄叫びを上げると、それに合わせて映画館の中のあちらこちらから声が鳴り響いた。華沢はそれに合わせて右腕を天高く振りかざした。


 戦える者たちはバリケード前に向かって走り出した。華沢もラズーンテラスの方へと歩き出した。

「演説、よかったじゃないですか」

 横を見ると洋子が話しかけてきていた。

「どうも、政治家っぽいことは、私に向いていない気がしてしまうんですがね」

「なかなか様になってましたよ」

 そのとき、ラゾーナの建物全体に大音量でサザエさんのテーマが流れ出した。

「これも、敵を撹乱させるプランの一つなんだろう。それにしても、どうしてサザエさんなんだ?」

 そう言って首をかしげる華沢の横で、洋子は笑って、

「あの探偵、ちょっとおかしな人なんで、気にしないでください」

 と答えた。二人はラズーンテラスまで来て、欄干に手をつき、ルーファ広場を見下ろした。



 館内の電気をつけ、左右のエスカレーターを動かし、館内放送で「サザエさんのテーマ」を流した死村が、動き出したエスカレーターに乗って二階に戻って、辺りを見回すと、生田の部下たちが大声で何か連絡をしあっているのが聞こえた。まずは作戦成功だった。田中は上手く侵入できただろうか。死村はルーファ広場まで駆けて行った。ルーファ広場にも何体か屍が彷徨っていたが、死村を見ても別に気にした様子はなく、むしろ「サザエさんのテーマ」の流れてくる本館に遅い足取りで向かっているようだった。本館を見上げると、五階のテラスから数人の男女が見下ろしているのが見えた。一人はおそらく洋子だった。誰が華沢なのだろうか。

「何だ、まさかお前が来るとはなぁ」

 上から大きな声がしたかと思うと、ルーファ広場を円形に囲んでいる建物の階段から、生田がゆっくりと降りてくるのが見えた。死村はそちらに向き直った。

「俺は運がいいなぁ。ここに来たら、探していたマキちゃんとお前と両方を見つけてしまうなんて。こういうのって、持ってるっていうの?」

 生田はルーファ広場に降り立つと、死村の前で止まった。生田は長身の死村よりもさらに背が高く、そして、はるかに鍛え上げられた肉体をしていた。死村は及び腰になって呟くように言った。

「いやぁ、僕の方は探してなかったんだけどねぇ」

「そんな、冷たいこと言うなよなぁ。俺はお前に親近感を持ってるんだよ。どうだ、俺のところに来ないか。俺たちは他のやつらとは違う特別な能力を持ってるじゃないか」

「誠に有難い話ですが、今回はちょっと遠慮させてもらいます、ホントにすんません」

 生田は上目遣いに死村の表情を伺う。

「お前、ひょっとしたら、時間稼ぎをしようとかしている? 何かを待ってる?」

 死村は首を振る。

「そんな、滅相もないですよ。僕はもう用事が済んだんで、ちょうど帰ろうかなぁと思ってたところなんで、これくらいで失礼させてもらっていいかなぁ」

 横をすり抜けようとする死村の肩を生田が強く掴み引き戻す。

「もしなぁ、お前が待っている作戦に、あの間抜け野郎が関係しているとしたら、それはどうやら失敗みたいだぞ」

 そう言って生田は本館の四階を指さす。死村がそこを見上げると、バルコニースペースに両脇を二人の男に掴まれた田中が体をばたつかせている姿が見えた。死村を見ると何か言葉にならないうめき声をあげた。遠くからでも死村には田中の顔が赤く腫れあがっているのが分かった。

「うわ、田中くん、めちゃくちゃ捕まってるじゃん」

 生田は鼻で笑う。

「おいおい、これで終わりか? どうした、お前たちはこのくらいの作戦で、俺たちと戦うつもりだったのか? がっかりだなぁ」

「いや、戦おうなんて、そんな大それたこと考えてないですって。僕はただ、皆さんに、サザエさんの曲を聴いてもらいたいなぁって思ってただけで」

「もうそういうのはいいからさ」

 気がつくと、「サザエさんのテーマ」は鳴り止んでいた。生田の部下が管理室に気がついたらしい。生田は死村に顔を近づけて、その目をまじまじと見る。再び死村がそこから逃げ出そうとすると、今度は思い切り回し蹴りをされ、その場に倒れ込んだ。強い。死村は力の差を実感した。キックが重い。こいつは明らかに鍛えている。自分も体力が落ちないように毎朝三十分程度散歩をするようにしているけれど、この男はそういうレベルではなく体を鍛えている。普通に戦ってとても勝てる相手ではない。

「どうして俺たちだけが、死人に襲われないんだと思うか? 思い当たるところはないのか?」

「どうしてって言ったって、たまたまかな?」

「お前、本当にまだ思い出してねぇのか。だらしねぇやつだなぁ」

 生田は死村の頬をぺちぺちと叩く。

「本当は思い出したくないだけなんじゃないのか? 知るのを怖がっているんじゃないのか? 俺が思い出させてやるよ」

 死村は起き上がって首を振る。

「いや、今日は忙しいからいいですよ。また今度にしましょう。あの、宅急便が来ちゃうんで早く家に帰らないといけないし」

「だから、そういうのもういいって。俺が思い当たることは一つしかないんだな。俺はあの日、クラブで死人に噛まれたときにな、まだ自分が死ぬ前に、隣にいた女の首筋を噛み切って食い殺したんだよ。それがどんな風に影響があったかなんて、そんなことは知らねぇ。ただ、俺はまだ人間のうちに人を食い殺したんだ。おそらく、お前も死人に噛まれた後で、すぐに誰かを食ったんじゃないのか?」

 死村は目を大きく開いて黙り込む。生田は笑う。

「何だ、お前、軽口が叩けなくなってきたか。俺もなぁ、その女を食い殺してから気を失ったよ。しばらくして、噛まれた傷の痛みで目が覚めたんだな。でも、すっかり噛まれた前後の記憶は失われていた。どうして自分がそこで倒れていたのか全然思い出せなくてなぁ。ただ、傷は残ってるし、やたらに痛てぇしなぁ。辺りは血の海で、俺は死体を跨いでその店を出たよ。外は死人たちと逃げ惑う人々がいた。俺も最初は何とか逃げようとしていたんだがな、そのうち、俺だけやつらに追いかけられていないことに気がついた。まるで、鬼ごっこのミソみたいなもんさ。一緒に逃げてたのに、実は自分だけは狙われていなかったんだから。なんだこれはと驚いたさ。周りのやつらは俺の傷跡を見て、こいつもすぐに人を襲うだろうと怯え始めやがって、俺は腹が立ったから、死人たちをそいつらの方に押しつけて食わせたりしてやった。いい気味だったぜ。お前にも思い当たるところがあるだろう? お前は誰を食い殺したんだ? ほら、思い出して見ろよ」

 死村は首を振った。生田は死村の両肩を掴んだ。

「何だよ、俺たち仲間だろ。そんな顔すんなよ。もう一つヒントをやろうか。俺が自分が噛まれたときのことを思い出したのは、一年くらい経った後だったんだがな、それまでずっと、俺は自分が噛み殺した女の霊を見続けていたんだよ。その女はどういうわけかいつも俺のそばに現れてきて、最初は生きてるのかと思ったよ。ただ、俺の他は誰にも見えない。何だこの現象はと思っていたとき、ふと気がついたんだよ。この女は俺が噛み殺したんだなってな」

 生田はドアをノックするかのように死村の胸を叩いた。

「ほら、コンコン。お前にも心当たりがあるだろ」

 生田は再び死村の目をまじまじと覗き込んだ。

「お前はそんな舐めた態度ばっかり取ってるから、何かから逃げてるんだって言われたりするだろ。その何かは、これまで、社会的責任とか、人間関係とか、愛情とか、親密さって思われてたかもしれない。でも、お前が逃げてるのは、そんなもんじゃない。お前がそのへらへらした態度で逃げてるのは、お前自身の残虐さ、破壊的な衝動なんだよ」

死村は目を大きく見開き、強く歯を食いしばり、青白いひきつった顔をして、その場で固まっていた。



 大学四年の春だった。ライヴバーに勤めていたサークルの先輩から急にギタリストが来られなくなったバンドがあって手伝ってもらえないかと誘いがあった。プロのバンドの中で演奏することに緊張もあったが、こんな機会はもうないかもしれないと思い切って参加した。死村がこれまで出演したことがあったのは知り合いと対バンのメンバーくらいしか客のいないライヴだけだった。死村にとって、まともにお金を払ってきている観客の中でプロのミュージシャンたちと演奏することは夢のような経験だった。その夢のような経験の後で、ギャランティが支払われた。こんな楽しいことをしてお金が貰えるのか。振り返ってみると、その経験がよくなかったのかもしれない。死村は就職活動を一切やめてしまい、プロのミュージシャンになることにした。もともと、普通の一般企業で働いていける自信がまったくなかった。自分にはこの道しかないだろうと思った。ただ、バンドを組んでいたメンバーや同じサークルの仲間たちのほとんどは普通に就職活動をして、内定を貰っていった。中にはお前大丈夫なのか? と死村を心配してくれるものもいた。ただ、死村は特に有名になりたいわけではないし、金持ちになりたいわけでもなかったので、食べていけるくらいなら何とかなるだろうと思っていた。

その目算は甘かった。いざミュージシャンで働こうと思ったとしても、特に何のコネクションもあるわけではない死村にはどうやって仕事を貰ったらよいか分からなかった。前に一緒に出させてもらったバンドからはたまにまた人手が足りないときにオファーがあったが、それだけで食べていけるはずもなかった。運よく別のバンドやミュージシャンたちに使ってもらえることになると、中にはありえないほど厳しい人たちがいて、少しでも気に入らないと怒鳴りつけられた。そして、本当のプロのミュージシャンは驚くほど臨機応変にどんな状況でも対応して弾きこなしており、死村がこれまで演奏していた学生たちのブルース・ロック・バンドとはまったく比べ物にならないレベルであり、死村は自分はここにいていいのだろうかと何度も情けない気持ちにさせられた。

 固定したバンドに参加するということも考えた。学生時代の軽音楽サークルの仲間たちではメンバーが集まりそうもなかったため、ネットやリハーサルスタジオの掲示板などでメンバー募集をしているところを探した。しかし、もともとバンドを組もうという人たちは自己主張が強くて我儘な人が多いのか、それともたまたま運が悪かったのか、あるいは死村自身の問題なのか、いくつか参加したバンドはいずれも人間関係が上手くいかずに、長続きしなかった。自分一人でやろうと思ってみても、死村には作詞や作曲の能力はなく、歌もあまり上手くなかった。かといって、インストロメンタルだけでいこうと思うほどには自分のギターの腕やセンスに自信がなかった。結局、何もかも中途半端だった。

 それでも、何となくアルバイトを続けながら、そのとき参加しているバンドでスタジオ練習をして、いくつかの金になる仕事をしたり、金にならないライヴに出たりしながら、気がつけば三十を過ぎていた。収入の大半はアルバイトであったが、それはそれで悪い生活ではないように感じることもあった。ただ、いつの間にかプロを目指す音楽仲間たちは年下が多くなっていった。一方で、売れていくやつらもいた。中には有名なアーティストの後ろで弾いていたり、ギターの教本を書いていたり、あるいはバンドでデビューしたりしているやつらがいた。死村は何となく気づき始めた。売れるか売れないか、成功するかしないかは、才能や運ももちろん必要だが、重要なのは自分を売り込む推しの強さや、決してめげない心の強さなのだろうということを。自分を売り込むのが好きではなく、何かあるとすぐにめげてしまう自分は、きっと何をしても成功はしない人間だったのかもしれない。 

この先自分の人生がどうなるのかと思うと心細さを感じないわけではなかった。しかし、今さら普通の正社員の仕事ができるとも思えなかった。学生時代の終わりから付き合っていた恋人がいたが、死村のあまりの人生設計のなさに呆れたのか、お互いに三十になろうとする頃に別れを切り出された。しばらくして彼女が結婚して子どもを産んだという話を人づてに聞いた。

 三十を過ぎた頃、音楽関係の予定が減ってきているのに気がついた。二ヵ月人前でギターを弾いていない、などということも珍しくなくなっていた。それまではアルバイトをしているミュージシャンのつもりだったが、現状を見ればただの音楽が好きなフリーターだった。

 そんな死村を両親は最後まで心配していた。会えばちゃんと将来のことを考えろ、ちゃんと就職をしろと言ってきた。やがて、それが煩わしくなり、あまり親元に寄りつかなくなった。そんな両親は病気で立て続けにこの世を去った。西大井にあった実家には兄の家族が住むことになった。兄は死村よりも四つ上で金融系の会社で働いていた。いつまでも定職につかない死村に説教をしようとする両親に対して、礼太郎には礼太郎の考えがあるんだからと、間に入ってくれるのが兄だった。兄は三十二歳で婚活パーティで出会った女性と結婚し、その後、娘を一人授かっていた。

 その日は親戚の葬儀だった。現地からの帰り道、死村は兄家族の車に乗せてもらった。姪の夜見子は小学校中学年になっていた。幼稚園生くらいのときにはとても懐いてくれたが、久しぶりに会うと妙にツンとしていて、死村のことなどかまっていられないといった様子だった。兄は久しぶりなんだから家で夕食でも食べていったらいいと言った。死村は少し面倒にも感じたが、生まれ育った家に久々に帰りたい気もした。曖昧に返事をすると、兄はそれ以上は確認せずにそのまま自宅まで帰った。兄家族の住む家、そして死村が生まれ育った家は、西大井駅と大森駅の間くらいの住宅街にあった。死村が家を出たときにはすでにかなり老朽化した木造一軒家だったが、久しぶりに来ると、さらにまた古くなっていた。ただ、その古さが死村には何か愛おしいもののようにも感じられた。

「おい、遠慮せずに入れよ、そこトイレの前の床が壊れて抜けてるから気をつけろよ」

「あそこだろ、僕がいたときからだよ」

 中に入ると、義姉が世話しなく台所に行き、

「何か飲みますか?」

 と大きな声で聞いてきた。それに対して、死村ではなく、兄が「お茶」と答えた。デリバリーを注文しようという話になり、夜見子が「ピザがいい」と強く主張した。結局、夜見子の主張が通り、ピザを取ることになった。かつて住んでいた家は死村の記憶よりも小さく感じられた。死村はいざリビングに座ってみると、どことなく居心地の悪さを感じた。やはりここはもう自分の家ではないんだなと思うと少しだけ淋しかった。テレビでは原因不明の感染症が発生しており、患者は錯乱して人を襲うこともあるという報道がされていた。義姉が「恐いわねぇ」と大袈裟に驚いていた。間もなくピザが届けられた。夜見子は兄に「食べているときはタブレットでYOUTUBEを見るな」と怒られていた。しばらく、亡くなった叔父の思い出話をしたが、それも長くは続かなかった。兄は死村の近況については聞いてこなかった。テレビでは令和に変わるときに行われる祝典の種類についての解説になっていた。食事が終わると、兄は夜見子にそろそろ自分の部屋に行って宿題をやれと言った。夜見子はタブレットを取り上げられて不満そうだったが、そのとき、

「分かってるよ。今のうちに勉強しないと、将来、おじさんみたいになっちゃうんでしょ。そんなの嫌だから勉強しますう」

 と言った。死村が驚いて夜見子の方を見ると、彼女はこちらを蔑んだ目で見て鼻で笑った。義姉が慌てて「そんなこと言うもんじゃありません」と否定した。死村は普段、自分が定職についていないことや、貯金がほとんどないこと、将来の見通しを持っていないことについて、誰かに指摘されたとしても、それほど腹を立てることもないし、自分からネタにすることさえあった。しかし、そのときまったく予想しないタイミングで姪に言われたことは、死村の心にざくりと突き刺さった。瞬間的に激しい怒りが湧いた。急に夜見子がそう言い始めるわけがない。きっと、この家族は日頃から、あんな風になってはいけない、あんな風になったら人生お終いだと話しているに違いない。兄が自分を父親の叱責から庇おうとしたのは、生き方を理解していてくれたからではなく、ただ言っても駄目な人間への哀れみからに過ぎなかったのだろう。何食わぬ顔で夕食に招き、心の底では、こいつら全員が僕を心の底から馬鹿にしている。死村は腹の底から沸き上がった怒りの感情に咄嗟に対処できず、つかの間固まってしまう。義姉が「本当にすいません、この子、口ばっかり悪くて」などフォローをしている声が遠くで聞こえた。現実感が戻ってくると、今ここで怒っても自分がみじめになるだけだということも分かってくる。死村はただ話を逸らすために、

「お茶、もう一杯もらえますか。喉が渇いて」

 と言った。死村の口調が不機嫌ではないことに安心したのか、義姉は嫌に張り切った声で返事をする。兄はそんな会話を気にしていないかのように、テレビのニュースを見続けていた。夜見子は階段を駆け上がっていった。そのとき、玄関口で物音がした。兄が顔をあげた。

「何だ、誰か来ているのか?」

 義姉が台所から顔を出す。

「ピザ屋さんかしら。お釣りを渡し間違えたとか?」

「それなら、チャイムを鳴らすだろ」

「そうねぇ、何かしら」

 義姉はそのまま何気ない足取りで玄関口へ向かった。義姉が玄関のドアを開ける音がした。死村はリビングの椅子に座りながら玄関口を覘いた。そのとき、大きな物音とともに、義姉が呻くような声をあげた。

「おい、どうした?」

 兄が立ち上がって玄関に向かった。死村も後に続いた。玄関口では想像もしていなかった光景が繰り広げられていた。見知らぬ四十がらみの男が、義姉の首筋に噛りつき、肉をむさぼっていた。義姉は白目をむいて痙攣し、口から泡を流していた。

「何だ、お前は」

 兄が大声をあげた。その男は兄の声をまったく聞いていないかのように義姉の肉を貪り食い続けていた。

「どうしたの? 何かあったの」

 二階から夜見子の声がして、階下に降りてくる音がした。

「夜見子、来るな!」

 兄はそう叫んで、男に掴みかかった。男は不意を突かれたのか体勢を崩し、義姉を手放した。しかし、すでに義姉の首や肩は大幅に肉が抉られており、辺りは血の海となっていて、命が助かるとは思えなかった。兄は男と取っ組み合った。男は獣のような唸り声をあげた。男の振る舞いはとても奇妙であった。力で兄を押し返すようなことはせず、むしろ押されるままに壁にぶつかったが、まるで痛みを感じていないような動きで、そのまま兄の腕に噛みつこうとした。兄はそれを突き飛ばすと、男の顔面を拳で殴りつけた。男は兄の拳をまったくよけようともせずに正面から喰らって、再びよろけて壁にぶつかるが、また何事もなかったように兄に掴みかかった。男の鼻が異常な形に曲がっている。明らかに骨が折れているが、男はそのことに気がついてさえいないかのようであった。

「どうなってるんだ」

 兄の声が震えていた。もう一度兄が殴りつけようとしたとき、それよりも一瞬早く、男が兄の懐に入り込み、ワイシャツの上から、兄の胸に噛りついた。兄は男と一緒に仰向けに倒れた。その男は馬乗りになると兄の胸を貪り食い始めた。礼服用の白いワイシャツが真っ赤に染まっていった。慌てた死村が男を引き離そうと近づくと、兄は最後の力を振り絞って男を体の上から押しのけ、逆にその男に馬乗りになり、男の頭を何発も殴りつけた。兄のシャツは破けており、中からは肉だけでなく、鎖骨が露出していた。男が動かなくなると、兄はその場に倒れた。

「ちょっと、大丈夫か。救急車を呼ぶからな」

 兄は近づいてきた死村を見て口を開いた。小声で聞き取れなかった。死村が耳を近づけると、もう一度兄の唇が動いた。

「夜見子を頼んだ」

 兄は動かなくなった。

「おい、兄貴、しっかりしろ」

 階段の方を見ると、すでに夜見子が下りており、顔面蒼白の表情で立ち尽くしていた。

「救急車を呼ばないと」

 そう言って、死村は立ち上がってスマートフォンを取りにリビングに行こうとすると、後ろで物音がした。兄が意識を取り戻したのかと振り向くと、動いたのは義姉の方だった。

「お母さん!」

 夜見子が叫んで近づいていこうとした。しかし、立ち上がった義姉の顔は目が充血して腫れ上がり、口からはよだれを垂らしており、先ほどの男と同じ獣のような唸り声をあげていた。

「おい、嘘だろ」

 義姉が死村や夜見子の方に襲い掛かってきた。

「逃げろ、二階に行ってろ」

 死村はそう言うと、母親に方に行こうとする夜見子を抑えて、階段の方へと押しやった。その時、死村は義姉に脇腹に食いつかれた。痛みは感じなかった。ただ、自分が誰かから噛まれるということ自体が信じられなかった。義姉は死村の腹に深く食らいついてそれを食いちぎろうとしていた。死村は義姉の髪の毛を掴むと思い切り引き離して何度も殴りつけた。

「何するの!」

 夜見子が止めに入ってきた。頭がくらくらして現実感がなかった。何か体の感覚がおかしかった。普通ではなかった。目の前に夜見子の顔が見えた。俺を馬鹿にした小娘だ、まだ人生のことなど何も知らない癖に、俺の人生を全否定した傲慢で生意気な小娘だ。死村は夜見子の首筋に噛りついた。そのとき、死村の頭の中に「夜見子を頼んだ」という兄の声が鳴り響いた。


 そう、夜見子を噛み殺したのは自分だった。


 死村はその場に膝をついて倒れ込んだ。

「お前、思い出したな」

 生田はくぐもった笑い声をあげた。

「分かっただろう、自分がどういう人間かを。お前も俺と同じだよ、ろくなもんじゃねぇんだよ。自分のためなら迷わず人を殺すんだよ。むしろ、殺したいんだよ。そりゃ、普通のやつらと一緒にはいられねぇわなぁ。心の中にそんな悍ましい凶暴なものを飼ってるんだからなぁ」

 死村は両手を地面について嘔吐した。

「おいおい、そんなにショックだったのか。お前が殺したのは誰だったんだ?」

 死村は下を向いたまま答えない。生田はそんな死村の脇腹を蹴り上げた。死村は横倒しになった。

「お前、調子に乗るなよ。俺は仲間だと思うからお前を助けてやってもいいと思ってるんだ。お前にその気がなければ、むしろ俺と同じ能力を持っているやつなんてこの世にいない方がいい」

 死村はのろのろと立ち上がった。目はうつろであり、口は半開きで、先ほど吐いたためか涎が糸を引いていた。

「みっともねぇ面だなぁ、おい。やっぱり、お前は俺の相棒になるような器じゃねぇか」

 生田は死村の顔を覗き込むように話しかけた。死村はゆっくりした動作で生田に背を向け、ラゾーナの本館の方にのそりのそりと歩き始めた。

「おい、お前、聞いてんのか。どこ行くんだよ」

 死村は生田の声が聞こえていないかのように、緩慢だが一歩ずつ、本館に向けて歩いていった。

「無視してんじゃねぇよ、お前」

 生田が死村の背中に襲い掛かる。

「探偵、どうした!」

 四階のバルコニーから田中が叫ぶ声が響いた。死村は背中に膝蹴りを食らい、再び倒れた。しかし、それでも、生田の方をかまう様子もなく、ただ立ち上がって、足を引きずりながらふらふらと本館に向かって歩き出した。生田はまた死村を追いかけ、今度はその肩を掴み、

「お前、どうなってるんだ。ひょっとして、すでに、死人になったのか」

 と言った。そのとき、死村は右手を高々と上げて、人差し指を伸ばし、天を指さした。

「なんだ」

 生田が上を向くと、五階の欄干から華沢がこちらを見下ろして、何かのボタンにスイッチを押すところが見えた。生田が死村に向き直ると、死村は正気に戻った目をして生田の顔面に力強いパンチを浴びせかけた。そのとき、ルーファ広場の本館側に立っている巨大な液晶ビジョンの二本の柱の根元部分から爆破音が起こった。煙を立てて柱が崩れた。不意に殴られ、さらに突き飛ばされて、生田はその場に倒れ込んだ。死村はそのまま駆けだした。巨大な液晶ビジョンがルーファ広場の中央に向けて倒れてきた。辺り一面に地鳴りのような大きな音が鳴り響いた。


 煙が舞い上がり、一瞬どうなったか見えなくなった。華沢が目を凝らしてみると、巨大な液晶ビジョンは倒れており、おそらく生田はその下敷きになったようだった。死村は完全には逃げきれずに片腕だけ挟まれて、横たわってばたついていた。


「痛てぇよ、これ絶対折れてるよ。だからこんなとこ来たくなかったんだよ、くそ、めちゃくちゃ痛いじゃん。なんだこりゃ」

 死村が見上げると、三階、四階のバルコニーから、何が起きたのかと生田の部下たちが次々と顔を出してきた。死村は痛みをこらえながら数を数えた。これ、絶対に二十人くらいいる気がする。

 死村は挟まれていない方の手を再び天にかざして、残る力を振り絞って叫んだ。

「行け!」


 華沢は後ろを振り向くと、待機している人々に向けて腹の底から吠えるように言った。

「バリケードを開放しろ!」

 周囲から鬨の声が上がった。


 事態は華沢の読み通りとなった。不意を突かれた生田の部下たちは、そのまま五階からの多数の戦力の流出を許し、したがって、三人一組で一人を倒すという構造ができあがった。また、生田を失った部下たちには士気がなくなっていた。多くはほとんど戦わずにその場から逃げ出した。

 倒れた液晶ビジョンに腕を挟まれて動けなくなっていた死村は生田の部下の一人に襲われた。鉄パイプで殴られそうになった死村を助けたのは紗良だった。紗良は素早い動きで死村を襲おうとする男にパンチを浴びせ、回し蹴りで撃退した。

三十分もせずに、ラゾーナの人々は生田の部下たちをラゾーナの外へと追い出すことができた。そしてそのまま生田が招き入れた生ける屍たちを一掃した。


 死村はルーファ広場の隅で雅美に木材を手に当てて包帯を巻いてもらっていた。その横には洋子と大山がいた。

「痛てて、痛てて。あの、何かわざと痛くしてない?」

「何言ってんの、このくらいで。大山さんに比べたら、全然大したことないじゃないの。ちょっとじっとしてなさい」

 雅美は包帯をぐるぐると巻き上げる。

「雅美さん、本当は探偵さんと知り合いだったんですねぇ」

 洋子が話しかける。

「あぁ、ごめんなさい。嘘ついてしまって。あんまり怪しい人と知り合いだなんて思われたくなくって」

「怪しい人? ちょっと酷いんじゃないですか。今回は文字通り骨を折って頑張ったのに」

「もう、そんなつまんないダジャレを挟まなくてもいいから。ほら、出来たわよ」

 死村は木で固定された腕を少し上下させる。

「これって、どのくらい治るのに時間かかる?」

「さぁねぇ、多分ちょっとヒビが入ったくらいじゃないかって思うけれど、レントゲン撮ってないから分からないわ。まぁ、痛くなくなったら、それでいいんじゃないの?」

「何だか適当なんじゃないの? 困っちゃうなぁ」

 それを見て、洋子と大山は顔を見合わせて笑った。大山はふとルーファ広場を占領するように倒れている液晶スクリーンを見て言った。

「これじゃ、『トイストーリー』が観れなくなっちゃいましたね」

 洋子は驚いた顔をする。

「あぁ、あのときの会話覚えていてくれたんですね。それじゃ、もっとずっと大きなところにプロジェクションマッピングをして、皆で上映会をしましょうよ」

 洋子は大山に笑いかけた。そこに華沢がやってきた。途中で高橋に話しかけられて何か指示を出し、そしてまた死村の方へと歩いてきた。

「あなたが探偵さんですね。今回は本当にありがとうございます。お怪我の方は大丈夫でしょうか?」

「あ、華沢さん? 聞いてくださいよ、この看護婦さん、冷たいんですよ」

 それを聞いて雅美が死村の膝を叩く。

「あ、痛っ。ほら、また」

 華沢は笑って死村に握手を求める。

「あなたのおかげで無事に作戦を成功することができました。ゆっくりと休んでいってください」

 死村は首を振る。

「いやいや、早く家に帰りたいですから」

 華沢は少し残念そうな顔をしてから、

「そうですか、分かりました。謝礼の方は今はちょっとバタバタしているので、後で田中にでもそちらに届けさせます。また、お時間があるときにゆっくりとお礼をさせていただきたいところです」

 死村は首を振って、

「いやいや、ただ依頼された仕事をしただけですから、料金がもらえたら、それでいいですから」

 と答えた。華沢は洋子に委員会を二時間後に開くことを伝えた。

「これから再建の仕事が大変ですよ」

 洋子はそんな華沢の顔を見て言った。

「華沢さん、何かちょっと嬉しそうですよ。生き生きしてる」

 華沢は首を振って苦笑する。

「いや、嬉しいわけじゃないですよ。ただ、まだ自分にもやるべきことが残っているんだなと思っただけですよ」

華沢はそう言うと、死村に頭を下げてその場を去っていった。


腕の応急措置を終えた死村がリュックの中に壊れたマットジャイロを入れ、洋子と大山、そして雅美に見送られてラゾーナを出ようとしていると田中が駆け寄ってきた。

「探偵、待って、探偵」

 死村は振り返る。

「おぉ、田中くん。その顔ひどいなぁ、またかなり殴られちゃったのかぁ」

 死村の前まで来ると、田中は両手を膝について肩で息をする。

「何だよ、慌てすぎじゃん。どうした」

「探偵に、どうしても、言っておきたいことがあって」

「言っておきたいこと?」

 死村は洋子と大山を見る。二人は首をかしげる。

「何だよ、改まって」

 田中は呼吸がおさまってくると、起き上がる。

「さっき、『サザエさんのテーマ』をかけただろ。あれって、このラゾーナの場所が東芝の工場跡地だからって、そうしたんだろうけど、東芝は家電から手を引いたときに、サザエさんのスポンサーから降りていて、それ以降はずっとAmazonの提供だったんだよ」

 田中は一気に吐き出すようにそう言った。

「うわっ、マジか。っていうか、サザエさんがネットで買い物するようになっちゃったら、三河屋のサブちゃんの立場はどうなっちゃうんだよ」

 死村は頭を掻いた。

「いや、そのネタは当時さんざんネットで言われてましたから」

「分かったよ、それじゃ、田中くんも今日はお疲れな。早く怪我の手当てしてもらいなよ」

 死村は片手をあげて、その場の四人に別れの挨拶をする。そして、川崎駅へとつながる出口の方へ歩き出した。その死村の背中に田中が再び声をかけた。

「それとさぁ、探偵。あのとき、生田が言ってたこと、よくは聞こえなかったけど、探偵の過去に関することなんだろ。その過去があるから、探偵はずっと独りで閉じこもってるんだろ。でもねぇ、僕は探偵の過去に何があったか知らないけど、探偵がどんな人間なのかは知ってるから、過去に何があったとしても気にしないよ。皆だってそうだよ。だから、ここで暮らしてもいいんだよ」

 死村は立ち止まって振り返った。その瞬間、洋子と田中の間に夜見子が立っているように見えた。死村は目を瞑って首を振った。

「何言ってるんだよ、僕が一人で暮らしているのは、そんな理由からじゃないよ。僕が一人で暮らしているのは、」

 再び目を開くと、もう夜見子はそこにいなかった。死村は唇をぺろりと舐めてからにっこりと笑って続けた。

「ただそういう性格だからだよ」



                         終


* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。本小説はこの章で完結となります。お付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました。

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