第六章 華沢の場合
平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。
ラゾーナの委員会議はリーダーである華沢と五人の委員が出席し、毎週月曜日の午後に行われる。それぞれの委員は、食品担当、衛生担当、防衛担当、人員・総務担当、建設・交通担当と分かれており、各部署からの報告があがり、その場で議論がなされる。ルーファ広場の一階のスポーツ用品店があったガラス張りの部屋が委員会の部屋だった。大抵は委員同士が各自の意見を話し合い、意見が出尽くしたころに華沢が何かしら結論めいたことを言って場を治めるという流れになっていた。
華沢はその日も奥の席で委員たちの議論を聞いていた。議題は多摩川の河川敷に作った野菜畑のサツマイモが誰かに勝手に収穫されてしまった件についてであった。
「見張りを立てるべきですよ。もう食料をどこかから持ってくるのは限界なんですから、これからはどんどん自分たちで栽培していかなきゃいけないんですからこの事態は放っておけないでしょう」
食料担当の高橋が言う。
「そいつらがどのくらいの人数で盗んでいったかってことですよね。下手な人数で待ち伏せたら、返ってこちらがやられてしまいかねないですから。待ち伏せして追い返すなら、大人数で武装して待ち構えないといけないでしょう」
防衛担当の間宮が答える。
「だから、そうしろってことですよ。自分たちの食料を守るために戦わないと」
そこに怪我をしている大山に代わって、次の選挙まで人事・総務委員の代理を務めることになった洋子が口を挟む。
「それじゃ、まるで戦争するみたいな話になってるじゃないですか。どんな相手だか分からないんですよ。もっと冷静にならないと。たとえ一人だって怪我をする人や、ましてや命を落とす人を出さないようにしないと」
高橋が苛立った調子で反論する。
「だから、そんなこと言ってて、食料がなくなってしまったら、結局、飢えて死ぬことになるじゃないか。野菜畑を守ることは、我々の命を守ることなんだよ」
「そんなこと分かってますよ。でも、そんな直接に暴力で戦うような手段じゃないことを考えないといけないんじゃないかってことですよ」
「それじゃ、どうすればいいっていうんだよ。フェンスなんて、化け物は防げても、人間の盗賊が来たら、何の意味もない」
洋子は言葉に詰まって反論できなくなる。衛生担当の松本が口を開く。
「やっぱりねぇ、もう無理なんですよ。もうこんなところにキャンプをする意味はないんじゃないですかねぇ。我々はこれからは農耕に戻るんです。だとしたら、もっと田舎にみんなで移動して、畑のすぐ側で生活をできるようにするべきなんです。畑だってあんな広さじゃ全然足りない。第一、河川敷じゃ台風で川が荒れたら、すぐに全部流されちゃうじゃないですか」
「いや、松本さん、いつもの持論は分かるけど、今すぐどうこうなる問題じゃないじゃないですか。ここには二百人いるんですよ。それがみんな安全に移動できて、安全に住める場所を探さないといけないから、そう簡単にどうにかなる話じゃないじゃないですか」
「簡単な問題じゃないから、こうして言っているんじゃないですか。もっとこれからやってくる問題を見据えて考えていかないといけないから私は言ってるんです。今日明日の芋の話だけ考えてたら生き残れない」
話はまとまりそうもなかった。華沢は腕を組みながら聞いていた。松本のいうことはもっともだった。当初はラゾーナに食料が残っていたし、ラゾーナを起点にして周辺の様々な店を探索して食べ物を見つけることができた。そして、その他の必需品も簡単に調達することができたので、キャンプをするには非常にいい場所だった。それに、最初は皆、しばらくすれば日本政府が復活すると思っていた。その兆しがまったく見えない現在の状況では、過去の遺物に頼りながら生きていくよりも、本格的に農耕と狩猟の生活に戻るしかないのかもしれない。ただ、いったいどうやって、こんな大人数のコミュニティの引っ越しができるのだろうか。この問題は今日この場で解決ができるような話ではない。ただ、松本はこれまで何度も同様の主張をしてきており、引き下がりそうもない。華沢はテーブルに置かれた水を少しだけ飲んでから口を開く。
「分かりました。確かに松本さんのいうことも一理あります。ただ、このままでは引っ越すにも何から手をつけたらいいか分からない。松本さんには急ぎではないので、もし我々が移動をするとしたら、何が必要で、何が課題なのかについて、企画書を作ってもらいましょう。それができた時点でまた話し合います。それでいいですね。河川敷の野菜畑の盗難については、見張りをするにしても、何人でどこで見張るかという問題があるでしょう。いつ来るか分からないんだから、まさか一晩中何日も田んぼに立っているわけにもいかない。だとしたら、小屋を建てなければならないし、その小屋は人間だけじゃなく、化け物たちも防げるようにしなくてはいけない。もし相手が少人数なら、小屋があって見張りがいるというだけで、盗みに来なくなる可能性もあるでしょう。まずは見張り小屋を作るとしたら、どのくらいの時間や物資が必要なのかについて建設担当が、見張りをするなら何人ぐらいをどのくらいの期間でやるのが効果的かを人員担当と防衛担当で相談して、プランを考えておいてください。この問題はこれでいいですね」
多くの場合、委員たちは華沢が決めたことに逆らうことはなかった。華沢も出来る限り、誰からも不満が出ないような解決策を探していた。ただ、正直なところ、そうして誰からも不満が出ない結論が、このコミュニティを正しい方向に導くかどうかは華沢には分からなかった。
「次の議題は?」
建設・交通担当の西田が口を開く。
「この間入った芦谷さんの件ですねぇ。大輔くんのお母さんの。人員担当の管轄の問題ですかね、これは」
皆が洋子を見る。洋子は少し戸惑いながら話し始める。
「芦谷さんはなかなか仕事をしたがらなくって。とてもつらい目にあってきたばかりなので、それも仕方ないことだと、私自身は思うんですが、他の方から、あの人はどうして働かないんだっていう苦情が上がってきていて」
高橋が口を開く。
「それは当然じゃないか。このコミュニティにいて、決して余裕があるわけじゃない食料を一緒に食べてるんだから。そもそも、あの女は受け入れのときからちょっと胡散臭いところがあったんですよ。青島のおばあちゃんが探しに行って、あの女とは会えたけれど、おばあちゃんは化け物たちにやられてしまったって話も、あの女の証言だけじゃ、怪しいもんじゃないか」
「その話は多数決で受け入れが決まったことじゃないですか」
洋子が反論した。ただ、それが死村の話をしないためにつじつまを合わせた嘘だと言うことを知っている洋子は後ろめたさを感じていた。
「働くか、出ていくか、決めてもらったらいいじゃないですか。別にこっちがいてくださいってお願いしたわけじゃないんだし」
「そんな、あの親子をここから追い出すっていうんですか? そんなひどいことできません。あの人はとてもつらい状態から抜け出してきたばかりなんですよ。だから、何事にも意欲が持てなくなっている。ほら、トラウマを受けているんです。だからもう少しそっとしておいてあげられないでしょうか」
高橋が机を叩く。
「あの女がどんな経験をしてきたかなんて、私は知らないけどねぇ、今の時代は、誰だってひどい経験をしてるんじゃないのか、そんこといったら、今の時代はすべての人がトラウマを受けてるんじゃないのか。何であの女だけが特別なんだ。私だってねぇ、ここに来る前には、」
いきり立つ高橋を華沢が手を挙げて止める。
「分かった。高橋さんがどれだけつらい目にあってきたかは分かってます。だから、今ここでもう一度それを思い出して、またつらい思いをする必要はないです。確かにここにいる人間の誰もがひどい経験をしてきた。傷ついていない人なんていない。高橋さんの体験と、芦谷さんの体験がどちらがつらいかなんて、比べようがないし、比べるべきでもない。高橋さんが言ったように、誰もがトラウマを受けているのかもしれない。その点は高橋さんの意見に賛成です」
洋子が口を挟む。
「でも、そんなこと言っても」
「最後まで聞いてほしい。だから、つらい体験をしてきたかどうかを基準にするのは難しい。それにフリーライダーが多くなれば、組織を保つことができなくなる。だから、私としてもできるだけ、すべての人が何らかの労働に関わっている状態を作る必要があると考えている。ただ、こう考えてみるのはどうだろうか。ここにコミュニティに入りたいと言っている人がいる。そして、住民たちの多数決によっても承認された。しかし、その人は何らかの事情で働くことができない。問題になるのは、その何らかの事情をどう評価するかということです。それがどの程度の問題で、どのくらいでどのようにすれば解決する見通しがあるのか。そこが分からずに、ただ何もしていないのでは、不満が出ても当然でしょう。だから、彼女がどんな状態なのか、そして、これからどうしていくのか、そのためにはどのくらい働かない期間があると考えたらよいのか。そのことを、もう少し客観的に評価をする必要があるんじゃないですか。安藤さん、それをあなたにお願いしてよいですか」
華沢は洋子を見た。
「はい、分かりました」
「ちゃんと、高橋さんが納得できるような資料をまとめてきてください」
高橋は一瞬口をとがらせて何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。
「では、今日の会議はこれまでですね」
そう華沢が言うと、それぞれの委員たちはばらばらと席を離れていった。華沢はしばらく席に座ったまま、外を眺めて考えていたが、やがて立ち上がって、その場に残って作業する人たちに、少し見回ってくると言い残して、委員会の部屋を出た。歩き出した華沢の後を追うように洋子がついてきて話しかけてきた。
「あの、先ほどはありがとうございました」
華沢は振り向いた。
「いや、別にあなたのためにどうこうしたわけではありません。ただ、そうした方がいいだろうと判断したことを言っただけですから」
洋子は華沢に頭を下げた。
「そうだ、本屋の精神医学に関するコーナーで、PTSDについて調べなさい。きっと、芦谷さんのことを理解する上で役に立つと思います」
「ありがとうございます、PTSDですね」
「そうそう、大山くんの様子はどうかな」
大山の話を持ち出すと洋子の表情が柔らかくなるのを華沢は知っていた。
「あ、あの、おかげさまで、ここに戻ってきたときと比べたらずっとよくなっている感じがします。ただ、まだあまり無理はさせられないと思うんですが」
華沢は笑って返す。
「お蔭さまじゃないよ。大山くんが回復したとしたら、君のおかげだよ」
「いや、そんな私はただ」
洋子は顔を赤らめる。華沢は微笑ましさと軽い嫉妬を同時に感じながら、軽く会釈をしてその場を離れた。
いつの間にかこのコミュニティのリーダーになっていた。最初からそうなろうと思っていたわけではなかった。むしろ、自分はリーダーには向いていない人間だと感じていた。もう残りの人生で大勢をまとめるようなリーダーになるつもりはなかった。大学生の頃、世間の大人たちはみな馬鹿だと思っていた。サラリーマンになるなどまっぴらだった。会社に勤めて働き始めた人の話を聞けば聞くほどに、世の中というところは不合理であり、どうして大の大人が頭数だけそろえて、こんな効率の悪いことを続けているのだろうかと思った。自分に任せてもらえたら、多くのことで、最小のコストと最短の時間で成果を上げられるのに違いないと信じていた。ただ、企業に勤めて誰かの下で働くのは論外だった。大学の同期たちがリクルートスーツを身にまとって会社を訪問し始めたとき、華沢は起業する準備を始めた。周りの人たちは夢みたいなことを言ってと馬鹿にしてきた。そんな彼らを華沢はお前らの方がずっと馬鹿だと思った。当時普及し始めたばかりのインターネット関連のベンチャー企業を立ち上げたのは、大学四年の卒業間近のときだった。今から考えると運がよかったのだろうと思うのだが、華沢の始めたネット通販のビジネスはいきなり大きな業績をあげた。そのとき二十三歳だった華沢は、やはり世の中は馬鹿ばかりだった、人生はちょろいものだと思った。そこから数年で華沢の年収は跳ね上がっていった。周囲はみな馬鹿ばかりで不合理なことばかりをやっていて、ちょっと自分が発想を変えてやれば、こんなに簡単に儲けられる。就職活動をしない華沢を馬鹿にしていた同級生たちを見返してやった気持ちだった。自分はお前たちが不愉快な中年たちにぺこぺこと頭を下げている間に、その何十倍もの金を稼いでいるのだと。いい服を着て、高いマンションに住み、これまで会ったことがなかったような、美しい女たちと遊んだ。三十歳になろうとする時期がある意味では人生の中の頂点であったかもしれない。
華沢の会社は大きくなっていった。会社が大きくなってもやることは変わらないと思っていた。しかし、三十を過ぎる頃から、周囲が自分のいうことを聞かないのを感じ始めた。最初はどうしてなのか分からなかった。合理的に考えれば自分が言ったことに従う方が正しいとすぐに分かるだろうと思った。さらに言えば、合理的に考えなかったとしても、社長であり、これまで多くの業績を上げてきた自分の言うことに従うことは当然ではないかと思えた。しかし、華沢の言うことを聞かない社員たちは日に日に増えていった。いつの間にか、部下たちが数の力で、華沢の意見を覆そうとしてくることも起こるようになった。振り返ってみれば、この時点で起こっている状況についてもう一度考えてみるべきであったのだろう。ただ、そのときの華沢はただひたすらに社員たちに腹を立てているだけだった。ある日、クーデーターが起きた。苦労して自分が一から築き上げた会社が乗っ取られた。華沢は烈火のごとく怒った。しかし、事態はどうにもならなかった。社内で華沢を支持する人はほとんどいなかった。当時付き合っていたモデルをしていた女が華沢のもとを去っていくとき、「あなたは何でも分かっているような顔をしているけれど、人の心のことは何も分かっていないのね」と言った。利いた風なことを言うなと何か物を投げたことを覚えている。
華沢は裁判を起こして会社を取り返そうとしたが、やがてそれが労力や対価と見合わない行動だと気がついた。そこで、そんなことをするよりも新たな会社を作り、それを今までの会社よりもずっと大きな業績があるものに育て上げてやろうと思った。自分の力を持ってすれば、十分可能なことのように思えた。しかし、現実は違っていた。今度は何をやっても裏目に出た。上手くいかないことを埋め合わせようと賭けに出ると、必ず失敗して、さらに傷を深くした。新しい会社のために集めた社員たちは華沢を裏切るというよりも、自ら退職をしていった。
借金を抱えて苦しんでいたあるとき、ふと上手くいかないのは自分のせいだと気がついた。人々はみな勝手なことを考える。自分はそれを不合理だと思い、もっと合理的に行動すればすべてが上手くいくと考えた。しかし、それは近視眼的な見方だった。実際は人々はそれぞれがそれぞれの事情から様々な考え方をもとに行動しており、そうした人々が無数に集まった総体は一つの理論のもとではまとめきれるものではないため、結果として一つ一つの行動は不合理に見えてしまう。しかし、それらを不合理なものとして捉えて、すべて矯正しようとするのは、一人一人の状況の多様性を理解しておらず、それが可能だと考えてしまうことの方が不合理だった。それはあたかも、世界中のすべてが自分と同じ人間になりうると考えるようなものだった。実際には、出来ることと言えば、せいぜいこのあまりにも多様な人々の集合体の中で、最大公約数的な解決策を見つけ、そこからあふれる人たちがいかに自分たちの割に合わない決定に対して耐えられるかを見積もる、といったことくらいなのだろうと思った。そして、もともと自分はリーダーに向いていなかったのだろうとも思った。そう思うことは、華沢を身軽にした。そこからは事業規模をむやみに大きくしようとはせず、社員も最低限に絞って、少しずつ借金を返しながら、自分が食べていけるだけの額を稼ぐことにした。そうなると、無理をしなくなったせいか、大きな失敗は減り、事態は好転していった。たまに手広くやっていた頃の知り合いと会うと、お前はそんなところでくすぶっている人間じゃないだろうと言われ、彼らの金回りの良さに嫉妬をしないわけではなかったが、全体としては新しい生き方に不満は感じていなかった。別れた女の「あなたは何でも分かっているような顔をしているけれど、人の心のことは何も分かっていないのね」という言葉の意味も分かるような気がした。
そんなとき、偶然住んでいた町の小さな商店街でその女と再会した。最初、誰だかすぐには分からなかった。当時はとても華奢でカモシカのような脚をしていたが、それが十年弱の日々を経て、すっかりとふっくらとした中年女の体形になっていた。サラサラだった髪は縮れており、いつも高そうなブランド品の服を着ていたはずが、上下ともにジャージ姿だった。声をかけようかどうか迷って、のしばらくから揚げ屋に並ぶ彼女を眺めていると、向こうの方がこちらに気がついた。最初はいぶかしげな眼をしてこちらを睨んでいたが、やがて華沢だということに気がついた。
「あら、華沢さん? こんなところで、すっごい偶然。やだ、私、こんな格好で恥ずかしい」
そうテンションの高い口調で語る彼女の声や表情は以前のままだった。半年後、華沢はその女と結婚した。そして、平成三十一年の四月にパンデミックが起きるまで、ともに暮らしていた。
華沢はルーファ広場を見下ろす円形の建物の四階にある芦谷と大輔が仮住まいをしている部屋を訪れた。飲食店だったその部屋はガラス戸であり、正面からは明かりが入るが、部屋の奥の窓にはカーテンがかけられていて薄暗かった。芦谷紗良は床に敷かれた布団の上で丸くなって寝ていた。紗良は華沢の足音に気がついて目を開けたが、起き上がる様子はなかった。大輔は部屋にはいないようだった。
「どうですか」
椅子を出して腰掛け、紗良を見下ろして、華沢は口を開いた。紗良は華沢の方に目も向けずに答えた。
「あんたも私に働けって言いにきたの?」
華沢はこちらを強く拒むような口調だと感じた。
「いや、そのことについて、あなたがどんなふうに感じているかを聞きに来たんですよ」
紗良は鼻で笑った。
「何それ、意味分かんない。みんな私に出てけって言ってるんでしょ。最終勧告に来たわけ?」
これは時間が掛かりそうだ。まったくこちらに協力しようという姿勢がない。実際、高橋の言うように追放するのも一つの手段だとも思えた。働くならこのコミュニティにいてよいし、そうでなければ出ていってもらう。それは明確で公平なルールだった。ただ、青島のおばあさんは多くの人に好かれていたし、大輔も可愛がられていた。この女と一緒に大輔を外に追い出すとすると、反対する人たちも大勢いるだろう。華沢はもし自分が三十の頃であったら、迷わずに何らかの決断を下すのだろうと思った。そうできなくなったことが、成長なのか、あるいは老いというものなのかは分からない。
「まだ何もやる気が出ない状態なんですね。ここにいればあなたは安全です。あなたの今後をどんなふうにしていくかは、これからゆっくり考えていきましょう」
そう言って、華沢は立ち上がった。そのとき、外で大きな爆発音がなった。驚いて華沢は紗良のいる部屋から飛び出して、欄干から音のした方を見た。川崎駅へとつながる、バリケードが張られているはずの通路から黒い煙が上がっていた。華沢だけでなく、音に驚いた人々が廊下やルーファ広場に飛び出してきていた。
「何が起きたんだ」
華沢は広場に向かって叫んだ。
「分かりません。調べてみます」
広場にいた建設・交通担当の西田が答えた。
「気をつけてください」
西田は周辺の男たち何人かで煙の出る川崎駅への通路の方へと進んでいった。すると、煙の中から生ける屍が飛び出した。不意を打たれて、男たちの何人かは逃げ出そうとした。そのうちの一人が転倒し、屍に乗りかかられた。西田がその屍を引きはがしたが、すでに首筋を噛まれており、倒れた男は傷を抑えてのたうち回った。生ける屍たちは次々に何体も煙の中から現れて、辺りの人々を襲い始めた。華沢は一瞬、茫然とその様子を眺めていたが、自分が指揮をとらなければならないと我に返り、
「退却してください。三階に行くんです。やつらは階段は登れない、三階に上がって、形勢を立て直すんです!」
と大声で怒鳴った。そう言ってから、その通りだとしたら、なぜもともと二階に位置しているはずの駅の改札方向からの通路にこんなに多量の屍たちがいるのだろうと思った。なぜかだって? 本気でなぜと思っているのか? 合理的に考えて答えは一つしかないではないか。人間が手伝ったのだ。これは人による攻撃だ。華沢は身震いをした。もっとも恐れていたことが起こった。このままでは取り返しのつかない事態になる。
「いや、五階だ、みんな五階に行け、五階に避難して立て籠もれ!」
華沢は大声を上げた。
大きな音がして、華沢が慌てて出ていった。外では人々の騒ぐ声がした。華沢も下の広場に向かって何か怒鳴っている。何が起きたのだろうか。体が重かった。このまま布団で寝ていたかった。そのとき、再びドアが開いて、華沢が入ってきた。
「大変だ、化け物たちに侵入された。急いで五階まで避難してください」
一瞬、ここを動くくらいならこのまま化け物に食われてもいいと思ったが、大輔がいないことに気がつき、紗良は立ち上がった。
「大輔は? 大輔はどこ?」
「そう、早く大輔くんを探して、五階に逃げて」
紗良は華沢と部屋の外に出た。欄干の下を見下ろすと、大量の屍たちが人々に襲い掛かっていた。人々は戦うものもいれば、逃げ惑うものもいて、倒れて餌食になっているものもいた。ここが安全だって? まったく安全じゃないじゃないか。
「ほら、行きましょう」
そう言う華沢の言葉に紗良が走り出そうとしたとき、紗良の目に生ける屍たちの大群の中から、金髪で長身の男が飛び上がったのが見えた。その男は屍と戦う中年男を蹴り飛ばした。蹴られた男は倒れ、屍に乗りかかられた。金髪の男は次々と躍動するように屍から逃げ惑う人間たちに襲い掛かっていく。生田だ。生田が、私を連れ戻しに来たのだ。
「何だ、あの男は。どうしてやつは化け物に襲われないんだ?」
そう呟く華沢を尻目に紗良は走り出した。後ろから華沢の、
「五階です、五階に行くんですよ」
という声が聞こえていた。本館の方の建物に移ると、人々はみな自分の部屋から出て、おろおろと逃げ惑っていた。紗良は止まったままのエスカレーターを三階まで降りて行った。三階には生ける屍たちは上がってきていないようだった。大輔はどこにいるのだろうか? まさか、まだ二階にいる可能性はあるだろうか。もし、そうだとしたら今助けに行かないと取り返しがつかない。しかし、二階に行けば、生田に見つかってしまうかもしれない。紗良がエスカレーターの前で立ち止まり、二階を探すべきか迷っていると、走ってきた洋子に話しかけられた。
「紗良さん、ここは危ないです」
そのとき、二階から全身黒ずくめの若い男がバールを握りながら駆け上がってきて、洋子を突き飛ばした。その男は紗良の腕を掴み、バールを振り上げるが、その顔を見て、
「姐さん」
と呟いた。生田の部下の一人だった。紗良は相手の腕を掴み、素早く柔道の小内刈りに近い動作で男の足を払った。男はバランスを失って膝をついて倒れた。立ち上がろうとする男の後頭部に紗良は回し蹴りを食らわせた。男はそのまま前に倒れて、脳震盪を起こしたのか動かなくなった。生田とともに毎日のように格闘技のトレーニングに付き合わされてきた経験が紗良の中で生きていた。
「あ、あなた、強いのね」
洋子は驚いた顔で紗良を見た。
「でも、とにかく早く五階に避難してください」
「大輔が、大輔がいないんです」
「大輔くんなら、少し前に五階のラズーンテラスで他の子たちと遊んでいるのを見ましたから、まだあそこにいると思います。紗良さんも早く逃げて」
紗良は頷いて、エスカレーターを駆け上がっていった。洋子は逆に三階から二階へと駆け足で下っていった。皆蒼白な顔で駆け上ってくる。下はどのような惨状になっているのだろうか。服に血のついている人たちもいる。何体くらいの屍が紛れ込んできたのか。恐ろしくてたまらなかったが、洋子はそれでも行くしかないと思った。下から来る人たちの間をすり抜けながら降りていくと、ほとんど前を見ずに振り向きながら駆け上がって男の一人とぶつかってしまう。相手の顔を見ると田中だった。
「洋子さん。下は危ないですよ。早く五階に逃げましょう。化け物だけじゃないんです。人間もいるんです」
洋子は握りしめた鍵の束を見せた。
「大山さんがまだ隔離状態で二階にいるから、鍵を開けてあげないといけないの。大山さんを助けないと」
田中は顔をしかめて泣きそうな表情をする。
「分かりましたよ、僕も行きますよ、大山さんを助けたら、すぐ五階に行きますからね」
田中は向きを変えて、エスカレーターを降り始める。下から押し寄せてくる人たちのもまれながら、田中と洋子は何とか二階にたどり着く。辺りを見回すと、何体かの化け物が住民たちともみ合っており、そこかしこで悲鳴が響いている。田中は自分は何でこんなところにまた戻ってこなきゃいけないんだと思いながら、洋子に向かって叫ぶように尋ねる。
「大山さんの部屋はどこですか」
洋子はそれに答える代わりに走り出す。田中はその後を追いかけた。途中で洋子に一体の生ける屍が襲い掛かるのが見えた。田中はそれを髪の毛を掴んで引きはがし、頭を蹴りつけた。しかし、屍はそれでも起き上がって、今度は田中に襲い掛かってきた。屍は体格のいい中年男であり、体重をかけてのしかかられて、田中はそのまま倒れそうになった。しかし、ふいにその屍の体が軽くなったのを感じ、田中は必死で押し返した。すると、後ろから現れたのは山村だった。山村は田中の体から離れた生ける屍を引き倒し、上にのしかかって手で持っていたハンマーで頭を叩き割った。
「おい、田虫、お前大丈夫か」
あの山村に助けられた。高校時代いつも自分を笑いものにしていた山村に。奇妙な気分だった。
「あ、ありがとう。大丈夫」
「礼なんかいい、早く上に逃げるぞ」
洋子の方を振り返ると、アジアンエステの店の前で鍵の束を取り出している。そこはベッドがあり、前面がガラス戸で外から確認ができるため、感染の疑いのある人を隔離するときによく使われる場所の一つだった。
「あそこに大山さんが隔離されてるんだ。彼を助け出さないと」
山村は舌打ちをして、そちらに走り出した。田中もそれを追った。
「まだ開かないんですか」
近づくと、正面のガラス戸のすぐ向こうに片腕となった大山が内側からドアを叩いて叫んでいた。
「おい、何が起きてるんだよ」
洋子は何度も色々な鍵で試しているが、なかなか開かない。落ち着いていればすぐに番号を確認して開けることができるはずだが、動転していて正しい鍵が見つけられないようである。田中は山村と二人で鍵を開けようと必死な洋子を背にして、生ける屍たちが襲ってこないか身構える。山村の武器は短い金槌であり、田中は丸腰だった。くそ、こんなところで死んでたまるか。横の山村を見ると真剣な表情で周囲を睨むように見ている。そのときルーファ広場の方からエンジン音が聞こえてきた。田中は山村と顔を見合わせる。
「あれは、バイクの音か?」
そう言って、音のする方に目を向けると、全身黒ずくめの男が大型のバイクにまたがり、片方の手には鉄パイプを握りしめて人を跳ね飛ばしながら突進してくる。
「あいつは人間なのか?」
山村がそう言った。人間だ。生田のところの男たちは皆黒い服を着ていた。生田が襲ってきたのだ。田中は足が震えだしたのに気がついた。生田に暴行を受けた傷が再び痛み始めるように感じた。
「おい、あのバイク、こっちに来るぞ」
山村はバイクの方に飛び出していった。
「田虫、バイク野郎の注意を逸らすぞ」
田中は恐る恐る山村についてバイクの方に向かって歩き始めた。しかし、バイクのスピードは思ったよりも早かった。山村は、
「おい、バイク野郎、こっちだ」
と叫び、ひきつけるために走り出した。バイクは走り出した山村の進行方向にカーブを切り、すぐに山村の横に並走する形になり、持っていた鉄パイプをかざすと、流れるような動きで山村の後頭部に振り下ろした。山村は一瞬、宙に浮いたように見え、そして、床に倒れ込んだ。田中が近づくと、山村の後頭部は無残に砕けていて、辺りには血が流れていた。あいつは何の躊躇いもなく鉄パイプを振り下ろした。まるで朝カーテンを開けるような、何気ない当たり前の仕草で丸岡の頭を砕いた。人を殺すことに何の躊躇もしていない。ふと顔を上げると、先まで行ったバイクが向きを変えて、再びこちらに向かって来ようとしているところだった。勝てるわけがない。こんなやつらに自分が勝てるわけがない。殺されるしかない。
「どいてろ、田中!」
後ろからそう叫ぶ声が聞こえ、そして、突き飛ばされた。大山が大きな木製の椅子を片腕で持ち上げ、迫ってくるバイクに向かって投げつけた。男は体勢を崩し、そのままバイクごと横倒しになった。大山は田中の手を掴んで助け上げた。
「おい、逃げるぞ、山村はもう無理だ。今は自分が生き延びるのが先決だ」
大山は洋子と田中を先に行かせ、後からエスカレーターを登り始めた。先ほどの男はバイクの下敷きになって、そこから出るのにてこずっているようであり、しばらくは時間が稼げる。しかし、いったい何が起こっているんだ。化け物だけでなく、人間までもが襲ってきているなんて。どうしてこんな地獄のようなことが起きているんだ。三階にたどり着くと、雅美がまた別の黒服の男に襲い掛かられていた。大山は後ろから殴り掛かった。しかし、片腕がないためにバランスが取れず、殴った後で自分が転んでしまう。
「何だ、お前は。自分で殴って自分で転んで」
その男はあざ笑うようにそう言うと、持っていたバールで大山の頭を叩き割ろうとする。洋子がスタンガンを男の首に押しつける。男はしびれてその場に倒れ込む。
「洋子さん、そんなもの持ってたんだ」
洋子は大山の方を向いてにっこり笑う。
「ほら、早く逃げるわよ」
雅美に急かされて、大山は洋子と田中とともに再び階段を走り出す。辺りに人は少なくなってきている。みな五階に避難したのだろうか。大山たちの後ろからは誰も来ていない。中央エスカレーターを上って五階にたどり着くと、その前で、何人かの黒服の男と、ラゾーナの住人たちがもみ合っていた。大山はすぐに加勢して、黒服に飛び掛かる。
「大山さん、片腕じゃ無理ですよ」
そう言いながら、田中ももみ合いに加わってくる。その場の黒服の三人を、みなでエスカレーターから突き落とすと、その場にいた華沢が尋ねてくる。
「この後からはまだ誰か来ますか?」
大山は答える。
「分からないです。ただ、ざっと見まわした範囲では、誰もいなかった」
そのとき、ラゾーナの端のエスカレーターの方から声がした。大山が身を乗り出して、そちらの方を見ると、黒ずくめの男たちの一群がこちらに向かってやってくる。
「やつらです。かなりの量です」
華沢は眉をひそめてから、叫ぶように言う。
「みんな上に上がってください、バリケードを張ります」
大山が五階まで駆け上がると、そこにはバリケードのために何人もの男が待機していた。大山はその場に倒れ込んだ。まだ体力が十分に回復していない状態で体を動かしすぎたのだろう。起き上がろうとすると気が遠くなっていった。
ラゾーナ川崎の五階への通路は、もともと他の階よりも少なく、中央のエスカレーターと、テラスの両脇にある二つの野外エスカレーターだけであった。しかし、野外の二つのエスカレーターはそれぞれ取り壊して外してあり、現在は中央の細いエスカレーターのみとなっていた。これはいざというときに立て籠もれるように準備されていたためであった。もちろん、職員用の非常階段はあったが、それらは鍵のかかる鉄の扉となっており、すべて閉じられていた。普段から五階のエスカレーター脇にはバリケード用の家具や木材が用意されていた。華沢が指示を出すと、すぐにそれらの家具などを男たちが積み上げて外から入れないようにして、五階は完全に封鎖された。しばらくはバリケードの外から家具を蹴り上げる音がしていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
ラゾーナ川崎の本館の五階は映画館、スポーツクラブ、屋外に設けられたラズーンテラスに分けられていた。逃げてきた人々は、何人かの見張りを残して映画館に集められた。映画館のため窓はなく、非常用のLEDランタンがいくつかつけられたが、それでも中は暗く、すすり泣く声なども聞こえていた。ラゾーナのコミュニティは情報伝達のために五つの大きなブロックに分けられ、さらにそのブロックが三つのグループに分けられていた。華沢の指示でグループごとに点呼が取られた。二十一人がいないことが分かった。その中で十人は屍に襲われたり、黒服の男にやられたりしている姿が目撃されていた。残りの十一人はどうなったか分からなかった。住民の何人かは、
「バリケードを張るのが早かったんじゃないか。まだ生きて逃げてきている人もいたかもしれないだろ」
と華沢を非難してきた。華沢は内心では、どうすればこれで全員だからバリケードを張ってもいいという完璧に正確な判断ができるというのだと思った。敵が攻めてくる前にどこかで決断するしかないし、そこには絶対の正解などあるはずはない。こいつらはどうせどのようにしたって不満しか言わないのだ。ただ、華沢は軽く頷いて答えなかった。そして、食料担当の高橋にどのくらいの期間立て籠もることができるかを計算するように指示を出し、さらに防衛担当の間宮に見張りの配置やローテーションについて考えるように伝えた。
集まっている人たちから華沢に、いつまで立て籠もったらよいのか、やつらは何者なのか、どうして化け物に襲われないのかといった質問が次々に浴びせられた。華沢はそんなこと分かるはずがないと思った。華沢の頭には最初の会社で社長の座を下ろされたときの株主総会の記憶がよみがえってきていた。うるさい、自分で考える頭がないのなら黙って言うことを聞いていろ。そんな言葉が頭をよぎる。しかし、そう言って彼らの口を封じたところで上手くいかないのは分かっている。しかし、彼らの不満を我慢して聞いていなければならないのかと思うと、なぜ自分がその役をやらなければならないのだろうという気持ちになってくる。この事態も自分一人であれば何の問題もない。彼らを見捨てて、こっそりここを抜け出し、また一から出直せば、自分は生きていけるだろう。いや、むしろ肩の荷が下りるかもしれない。もともとこんな役割は自分には向いていなかったのだ。華沢は深呼吸をする。落ち着くんだ。今は考えられる余裕がなくなっている。ゆっくり合理的に考えるんだ。
「華沢さん」
洋子に声を掛けられる。その表情からは、住民たちに何かを言ってあげてほしいと言いたいのだろう。今、この時点で、自分が彼らに何が言えるのだろうか。まだ世界が今のような状態ではなく、政府がしっかりと機能していたとき、政治家が大規模災害などの後で国民に伝えるメッセージを発信するのを聞くと、華沢はいつも安っぽく底の知れた、どうでもいいことしか言わないものだなと馬鹿にしていた。しかし、今、規模は違えども自分が似たような立場に立たされたとき、頭に思い浮かぶのは安っぽく底の知れた、どうでもいいことばかりだった。華沢はステージの上に登った。
「皆さん、お静かに。このラゾーナのコミュニティが始まってから、もっとも危機的な状況が起こっています。ここに入れなかった人の中で生存者はいるのか、相手は何人くらいいるのか、ここにどのくらい立て籠もれるのか、これから一体どうなるのか。不安は尽きないでしょう。残念ながら今この場で私が皆さんにそれを答えてあげることはできません。これからできる限り情報を集めて対策を考えていきます。それには少しお時間をください。今は我々は力を合わせる必要があります。情報が集まり方針が決まるまで、ご自身で極端な行動をしてしまうことは控えていただきたいのです。そして、その集めた情報をもとにして、これから我々がこの局面をどう乗り越えていけるのかを考えていきます。どうぞご協力をお願いします」
そう言って華沢は頭を下げて、舞台を降りた。まばらな拍手が鳴り響いた。華沢は自分でもつまらない演説だと思った。しかし、人の上に立つとはこういうつまらないことをしなければならないことなのかもしれないとも思えた。ふと、洋子の姿が見えた。
「華沢さん、ありがとうございます」
そう言って洋子は頭を下げた。華沢は今の結局何も言っていない演説で何がありがとうなのだと思った。自分をふがいなく感じた。そのとき、映画館のドアが開き、見張りをしていた男たちが入ってきた。
「急いで来てください。やつらがリーダーを出せと言っています」
華沢は大勢が出ていくと混乱するため、委員会とブロック長だけを引き連れて、映画館の外に出た。見張りの男たちはラズーンテラスの欄干から下を見下ろしていた。華沢も下を見ると、円形のルーファ広場の中央に先ほどの金髪の男が立っていた。男の周りには何体かの生ける屍が彷徨っていたが、金髪の男には何も関心を示していないようであった。やはり、あの男は化け物に襲われない。何か理由があるのだろうか。金髪男は拡声器を取り出した。
「え、誰、リーダーは。何人か出てきたら、分からねぇだろうが。右から三番目のやつがちょっと老けて感じだけど、お前?」
金髪男は双眼鏡でこちらを見ながら拡声器で話し出す。右から三番目は食品担当の高橋だった。華沢は大きな声を張り上げて言った。
「私だ。お前たちの目的は何だ」
金髪男が華沢を指さして笑う。
「お前かよ。リーダーにしちゃ、ちっこくねぇか。お前たちの目的は何だって、なんか昔の刑事ドラマみたいな渋いことを言うねぇ」
これまでも仕事上で、こういう舐めた態度をとることで、相手に揺さ振りをかけてくるタイプの人間に何人か会ったことがあった。いや、むしろ自分自身も、若い頃に年配の経営者と交渉をするときにはそうしたことさえあった。重要なのは挑発に乗らないことだ。冷静になれ。華沢は辺りを見回す。黒服の人間の姿は、ルーファ広場には見えない。ただ、三階と四階のバルコニーに何人か見張りをするかのように立っている。見えているのは五、六人だが、この他に何人いるかは想像がつかない。
「そんな話をするために、私を呼んだわけではないだろう」
「何だよ、焦んなよ。初対面だから、礼儀正しく世間話から入っただけだろ。お前、せっかちだなぁ、リーダー向いてねぇんじゃないのか?」
金髪男はオーバーアクションで手を大きく広げて高笑いをする。華沢は何も答えずにそれを見ている。金髪男は華沢が応じないのを見ると、先を話し始める。
「あのさぁ、そこって、もともと何かあったら立て籠もるように作ってあったの? 準備がいいねぇ。まぁ、でも、こっちはさ、それでもかまわないんだよね。だって、下は使い放題だし。それに、何週間分も食料をため込めているわけじゃないだろ。だって、下からも食料が見つかってるから。ってことは、お前らは放っておけば飢え死にするわけだ。その間、俺たちは下で悠々と暮らしてりゃいい」
金髪の男はルーファ広場に止められていた大型バイクにまたがって話し続ける。
「もし、降りて来ようとしたら、一人ずつぶち殺すからさ。俺たちが本当にお前らを気軽に殺せるってことは、もう分かってもらえましたよねぇ」
「それで、何が言いたいんだ」
「だから、焦んなって。俺たちも鬼じゃないからさ。お前らにチャンスをやろうって言ってんだよ」
華沢は、来たと思った。今の話はある程度事実かもしれないが、それだけであれば、やつらはこうしてリーダーを呼んで交渉をする必要がない。その通りにすればいいだけである。でも、やつらは何かを求めている。
「そこにさぁ、最近、背の高い、髪が男みたいに短い女が行っただろ。隠しても無駄だぞ、分かってるんだからな。その女と、そうだなぁ、うちの若いやつらも最近退屈しちゃって可哀想だから、あと若い女を他に五人、こちらに差し出したら、このラゾーナは俺たちが貰うけど、残りのやつらは勝手にここから出てってかまわない。別に人が殺したいわけじゃないからなぁ」
華沢の隣にいた高橋がつぶやく。
「芦谷紗良のことですよ。こいつらはあの女に関係しているやつらだったんだ。あの女が連れてきたんですよ」
女か。結局、こいつらは女が欲しくて、こうして交渉をしてきているのか。華沢は金髪男や彼が組織した男たちのことを想像してみる。まったく何だか分からなかったときと比べて、こうして話し合いをすると、何かしら糸口がありそうにも思えてくる。
「分かった。ただ、私の一存では決められない。時間をくれ」
そう華沢は叫ぶ。金髪男はバイクから飛び降りる。
「そりゃ、そうだよなぁ。どの女を差し出すかとか、みんなで決めなきゃいけないもんなぁ。こちらは別にいくら待ってもかまわないんだ。その間、下の階で優雅に生活してるだけだからな。お前らが食料が尽きてしまう前に決めないとなぁ」
華沢は頷く。これで時間が稼げる。そして、心の中で、その余裕がお前の命とりだと呟く。
「私の名前は華沢克夫だ。お前の名前は何だ」
金髪男は少し動きを止めて、そして、またへらへらと笑ってから答える。
「話がまとまってから最後に自己紹介っていうのも順番が違うんじゃないの? 克夫ちゃんね。俺は生田英雄だよ。お友達登録をしといてくれよな」
華沢は、生田の返答にしばらくの間があったところから、生田が華沢の言葉に何かを感じたのではないかと思った。そして、こちらの心に浮かんだ少しの心の余裕が、名前を聞くと言う能動的な応答につながり、それを相手に悟られてしまったのだと気がついた。まだ、ビジネスで日々身を焦がすような交渉をしていたときの感覚は戻っていない。あの男と話すときには細心の注意を払わなければ。
「お前に連絡するときにはどうしたらいいんだ?」
生田はこちらに手を振ってくる。
「そこに出てきて、怒鳴ってくれりゃいいよ。誰か見張りを立てとくからな」
華沢は生田に手を上げ、そして、ラズーンテラスの欄干から離れて、再び映画館に向かう。歩きながら洋子に芦谷紗良を大至急探すように指示を出した。華沢は心の中に火が灯るのを感じた。久しぶりの感覚だった。いいだろう、生田英雄、俺は政治家のように人々をまとめるのは上手くないかもしれない。色々な考えの人間の意見を調整することだって適切にできないかもしれない。ただ、お前のように何でも思い通りになると思っているような男とやり合う力は今だって失っちゃいない。
ロビーで待っていると、洋子が紗良を連れだしてくる。紗良は手をひかれながら、不満そうな顔でついてくる。後ろから「この女を引き出せ」「この女が手引きしたんだ」と罵声が浴びせられる。生田の声は映画館の中にも聞こえていたようであった。紗良は振り向いて人々を睨んだ。
華沢は静かに話せる場所として、スポーツジムの更衣室に紗良を連れていく。一対一では警戒するだろうかと思い、洋子も同席させた。椅子に座らせるとすぐに紗良は華沢に向けて強い口調で言った。
「私を引き渡すんだろ。早くしたらいい」
洋子が華沢の肩に手を置く。
「そんなことしないわよ。ただ話を聞きたいだけだから」
紗良はその手を払いのける。
「どうせお前らも私がここの場所をやつらに教えたと思っているんだろ」
「そんなわけないじゃない。私はあなたのことを信じてるから。あなたはそんなことをする人じゃないでしょう」
華沢はしばらくそのやり取りを見ていたが、パイプ椅子を取り出して自分で腰かけて話始める。
「私について言えば、あなたのことをよく知らないから、信じられる人かどうかは分からない。ただ、あなたがここの場所をやつらに教えたとしたら、やつらがあなたを差し出せというのは、筋が通らない。あなたには勝手に逃げてやつらと合流する機会はいくらでもあったわけだから。だから、合理的に考えてあなたがここの情報をばらしたとは思えない。それに、あなたの様子を見れば、ここに来る前にいたところでひどい目にあっていたのはすぐに分かるし、あなたはやつらのところに戻りたくはないでしょう。私はただ、少しでも犠牲を少なくして、今の事態を解決したいだけなんですよ。そのためにできるだけ多くのやつらに関する情報が欲しいだけです。その目的はあなたも同じはずでしょう」
紗良は華沢をじっと見つめる。
「私をやつらに引き渡さない?」
洋子がそれに答える。
「そんなことするわけないじゃない」
ただ華沢は黙ったままだった。
「華沢さん、そんなことしないですよね。そう言ってあげてください」
洋子が華沢の方を振り向いて言った。華沢が答えるよりも早く、紗良がまた口を開いた。
「仮に、私を引き渡すようなことがあっても、大輔のことは決してやつらには言わないで。あいつらは大輔のことを知らないから。もし私に何かあっても、大輔の安全を守ってくれるって約束するなら、聞きたいことは何でも話すわ」
華沢は頷いた。
「約束しましょう。大輔くんのことは絶対に彼らには話しません。それに、大輔くんはずっと前からここの住民です。何があっても我々が守ります」
紗良は涙を拭う仕草をした。薄暗い中であったため、華沢はそれまで紗良が泣いていたことに気がついていなかった。やはり自分は人の心が分からないなと思った。
「分かったわ。それで何が知りたいの」
紗良の声にはどこか吹っ切れた響きがあった。
二十分ほど話を聞いた後で、華沢は紗良をロッカールームから映画館に戻した。そして、委員会とブロック長たちを呼び寄せた。彼らはみな殺気立った表情をしていた。それぞれが言いたいことが山ほどありそうであった。
「あの女はなんて言ってたんですか」
「あの男たちはあの女が連れてきたんですか」
矢継ぎ早に質問をしてくる委員たちを制して、華沢がゆっくりと話し始めた。
「彼女からとても有意義な情報を聞くことができました。彼女がここに来る前に彼らのところにいたというのは本当らしいです。ただ、直接に彼女がやつらを手引きしたというわけではないでしょう」
「そんな簡単にあの女の言うことを信じるんですか」
「最後まで話を聞いてほしい。それよりも重要な情報が手に入りました。やつらの普段のキャンプ地は大森にあって、若い男ばかりが三十人いるらしい。そして、他の生き残った人たちを略奪して食事を賄っている。そのために体も鍛えており、一人一人の戦う力は我々よりもずっと強いと言えるでしょう」
「それじゃ、やっぱり、降伏するしかないじゃないですか」
「いや、そうではありません。三十人すべてが来ているわけはないので、ここに来ているのは二十人前後。そして、化け物に襲われない体質なのはあの金髪の男一人らしい。あの男がどうしてそうなのかは、芦谷さんも知らないと言っていました。ただ、それ以外の男たちは我々と同じ普通の人間です」
「だからって、我々が勝てるわけがないだろ。あんな凶暴な男たちに」
華沢は委員たちを見回す。
「たとえば、芦谷さんと五人の女性を彼らに渡したとして、それから我々はどうなりますか? 彼らが素直に開放するかどうかも分からないし、解放されたとしても、二百人弱を引き連れて新たなキャンプ地を探すなんていうことは、現実的ではない。我々には戦うという道しか残されていないんですよ。それ以外の選択はありえない」
「それこそ、ありえない。どうやって、あんなやつらと戦えるっていうんだ」
「冷静に考えてみてください。やつらは多くて二十人強。こちらは二百人いて、女性や子ども、老人を抜いたとしても、六、七十人は戦える人材を集められるでしょう。三人で一人を相手すればいい。相手がどんなに強いやつだとしても同じ人間です。三人で一人を囲い込んで倒せばいい。生田は二階にいるかもしれないですが、その他のやつらは化け物に襲われる可能性があるので、化け物のいない三階、四階にいるのでしょう。だから、彼らと戦うときに我々も化け物の心配をする必要はほとんどありません。三人一組のチームを作って、それぞれが一人だけを相手にすればいいんです」
委員たちはしばらく黙り込んだ。華沢の案が現実的なのかどうか考えているようであった。洋子が口を開いた。
「でも、華沢さん、その話、理屈だけ聞いたらそうかもしれないって気がしますけれど、でも、実際は無理ですよ。だって、私たちはそんないっぺんに外に出られないじゃないですか」
華沢はすぐに頷く。
「その通り、今のままでは無理なんです。ここにバリケードを作って立て籠もったのは、向こうからの侵入を防ぐと言う意味では必要でしたが、逆に我々が向こうに出ていく道も閉ざしてしまった。やつらはバリケードを重点的に見張っているでしょう。あのバリケードを崩して外に出て行ったとしたら、モグラ叩きのように一人ずつやられてしまって、数の優位が活かせない」
「やっぱり駄目じゃないか。ここに立て籠もった戦略自体がおかしかったんじゃないのか」
「そこで必要なのは陽動作戦です。何らかの方法で、やつらの注意を引き付けて、バリケード前の見張りを手薄にして、一気に外に出られる方法が必要になってくる」
「何かしらって、それが分からないんじゃ、この作戦は話にならないじゃないか」
華沢はなぜ文句ばかりを言って自分では考えようとしないのかと苛立ちを感じるが、今は身内からの不満に憤っている場合ではないと思い直す。そのとき、再び洋子が立ち上がる。
「まさか、華沢さん、その陽動作戦に芦谷さんを使おうっていうつもりじゃないですか」
華沢は洋子の方を見る。勘の鋭い女だと思う。それは確かに華沢が候補の一つとして考えていたプランだった。
「だから、あのとき彼女に引き渡さないって約束をしなかったんですね」
洋子は華沢に詰め寄ってくる。
「駄目です、そんなの絶対に。あなたも言ってたじゃないですか、あの人は彼らにとても酷い目にあってここに来たんです。だから、その彼女を囮にするなんて、絶対駄目です」
防衛担当の間宮が落ち着いた声で言う。
「確かに、降伏したと見せかけて女たちを渡して、こちらはラゾーナを出るという素振りを見せて、隙をついて、彼らに襲い掛かって、女たちを奪い返すというプランしかないかもしれない」
華沢は他の委員たちやブロック長を見回す。頷いているものもいれば、自分には判断できないと思ったのか俯いてしまっているものもいる。華沢はやはりこの方法しかないだろうと思う。それは人間的なやり方ではないかもしれない。しかし、生き残るためにはこの方法しか思いつかない。華沢は洋子を見て言う。
「芦谷さんは分かってくれると思う。最後に息子のことを頼んだのはそういうことでしょう」
洋子は思いつめたような顔をして、やがて思い切ったように声を張り上げて言う。
「陽動作戦なら、探偵に頼めばいいんです」
* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。毎週金曜日の夕方に配信します。全七章になります。