第五章 大山の場合
平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。
「何考えてるのさ」
夜見子が死村の顔を覗き込む。死村は事務所のプレハブ小屋の前でビーチベッドに横たわり、椰子の木が揺れるのを眺めていた。
「何にも考えてないよ」
「嘘だぁ。また何かウジウジと考えてるんでしょ」
「ウジウジって何だよ」
夜見子は死村の横たわるビーチベッドを軽く蹴飛ばす。
死村は頭を掻く。夜見子は屋上の柵越しに下を見下ろす。
「何だかねぇ。ただ食うための仕事だけしてたら、こんな目に合わなかったのになぁ」
夜見子が指を差す。
「ねぇ、誰か来たよ。客じゃん?」
死村は立ち上がる。
「マジで? もうこんなときは仕事するしかしょうがないじゃん。働いちゃうよ、僕は」
死村が下をのぞくと、見たことがある男性が非常階段を登ろうとしていた。
「あ、あの人は確か、前に青沼のおばあちゃんを連れてきた人? じゃあ、あの坊主の話だよ。また説教されるの? えぇ、勘弁してよ」
振り返ると、夜見子はもういなくなっている。
「ちくしょう、あいつ逃げやがって」
そう言っている間にも、非常階段を上がってくる男の足音が大きくなってくる。
大山が階段を上りきると、目の前にはビーチベッドが置かれていたが、そこには誰もいなかった。プレハブ小屋のドアを開けると、奥に死村は座っていた。
「あの、すいません。失礼します」
中は足の踏み場もないほど物が氾濫していた。死村が眉をひそめて言った。
「青沼のおばあちゃんと坊主のお母さんの件でしょ? もう分かってるってば、何? 僕に謝らせたいの? じゃあ、謝るからさぁ、勘弁してよ」
大山は本やCDを踏みつけないように苦労しながら、ようやく死村の机の近くまで行くと、そこにあるソファに「ここいいでしょうか」と断ってから腰掛ける。
「確かに今、あの子のお母さんを受け入れるかどうかとか大きな問題になってますし、青沼のおばあちゃんが外に出るのを手伝ったのは誰だって話にもなっていて、それは大変なんですけどね」
大山は死村の方を見る。
「今日来たのは、その話じゃないんです」
死村は少し警戒した表情を解いて、机に肘をつく。
「それじゃ、何で来たの?」
「実は、この間、青沼のおばあちゃんを連れてきたときに一緒に来た女性がいたじゃないですか」
「あぁ、安藤洋子さんだっけ?」
「そうです。あの、こういう話は慣れていないので、どう話したらいいか分からないんですが、洋子さんと、最近、少しずつ距離が近づいてきて」
死村は大きくのけぞる。
「えぇ? まさか恋愛相談? 恋愛相談にうち来たの? 勘弁してよ、そういうの一番苦手なんだって。ほら、僕、どう見ても、恋愛相談が上手そうに見えないでしょ。他あたってよ、無理無理。恋バナ自体、苦手だし」
「あの、最後まで聞いてください。そういう話じゃないんです」
「ホントに? 何回目のデートでキスしたらいいとかそんなこと聞かないでよ」
大山は首を振る。
「それで、一瞬は、私も彼女と一緒に残りの人生を過ごせたらと思ったこともあったんです。でも」
「でも?」
大山は無言でジャケットの腕をまくった。そこには青く腫れた歯跡が刻まれていた。
「それって、まさか」
「そうです。化け物に噛まれました」
「いつ? そのくらいの傷なら、すぐに腕を切り落としたらなんとか」
「三日前です。もう遅いですよね。それに、まだコミュニティのメンバーの誰にも言っていないんです」
「誰にも言ってないってどういうこと?」
大山は話し始める。
それはごく普通の物資の搬入だった。大山はラゾーナに戻ってきた車を出迎えて、彼らが見つけてきた缶が入った段ボールを運んだ。いつも通りの仕事であり、何も変わったことはなかった。ただ、あまり注意深くはなかったのだろう。車の下に上半身だけになった化け物が入り込んでいたことに気がつかなかった。もしもっと危険なところ、たとえばラゾーナの外でならば、おそらくそんなことはしなかっただろうが、そのとき大山は袖をまくっていた。大山が車の後部座席から荷物を持ち上げたとき、急に下から手が伸びてきた。大山は驚いたが、重い荷物を持ち上げたところであり、すぐに振り払うことができなかった。その屍は大山の手を強く掴んで腕の力で自分の体を持ち上げ、噛みついてきた。大山が驚声を上げで段ボール箱を手放すと、段ボール箱は化け物の上に落ちて、屍は腕を手放した。大山の声に驚いて、他の人たちが駆けつけてきた。
「大丈夫ですか」
仲間の一人が地面を這う屍の頭をゴルフクラブで破壊した。大山が手を下したとき、それと同時にジャケットの上着の袖が下がって、ちょうど噛まれた跡が隠れた。
「こいつ、車にしがみついてついてきたんですかねぇ。危なかったですね」
助けてくれた男が大山を見ていった。
「無事でよかったぁ」
いつの間にか洋子が駆け寄ってきた。大山は反射的に、
「助かった、危なかったよ」
と言ってしまった。自分自身にも助かったのだと言い聞かせたかったのかもしれない。きっと大丈夫だろうと思いたかったのかもしれない。大山はジャケットの下で腕がヒリヒリと痛むのを感じていた。
「大山さん、気をつけてくださいね」
洋子にそう言われて、大山は曖昧に頷いた。大山は一度大丈夫だと言ってしまったので言い出せないと思った。ただ、後で振り返ると、それはただの言い訳だったかもしれなかった。きっと、いつだって「ごめん、実は」と言い出せないことはなかったのだろう。ただ、そのときの大山にはとてもそうすることはできなかた。何とか取り繕わなければならないと思ったのだった。
一人になれるスペースを探し求めてトイレに入り、ジャケットの袖をまくってみると、しっかりと歯跡が残っていた。ただ、食いちぎられたというようなひどい傷ではなかった。少しだけ血が滲んでいた。このくらいなら大丈夫かもしれない。このまま放っておいて傷が治ってしまったら、それで何てことがないじゃないか。わざわざ周りを騒がせる必要もない。このまま、黙って時間が過ぎるのを待てばいいだけだ。大山はハンカチを傷に巻きつけ、そしてジャケットの袖を下ろして、そのままトイレを出た。
それからの生活はまるで秘密を抱えた犯罪者のようだった。自分が噛まれていることが誰かにばれてしまわないかと怯えていた。顔色が悪いと言われたり、元気がないと言われると、いつも以上に否定したりした。手の傷にはシップを貼って、重い荷物を運んだんで、手が痛くなったと誤魔化した。しかし、トイレでこっそりと確認すると、傷口はそのたびに青く腫れていっていた。見たことのある腫れ方だった。これまで大山が見てきた、死んで生ける屍となっていった者たちの傷と同じ腫れ方なのだった。痛みも強かった。薬剤部からこっそりロキソニンを持ち出して飲んだ。ひょっとすると、体力や免疫力の関係で、自分は生ける屍にはならないかもしれない。そんな根拠のない希望を頭に抱いていた。
委員会議に参加し、大輔の母親をコミュニティに入れるかということを議論した際に、防衛担当の間宮はとても暴力的な集団の中にいたという女性を入れることによって、その集団からここが狙われるかもしれないので、慎重になるべきだと強く主張した。大山は確かにコミュニティ全体の安全を第一に考えるべきだと思った。ただ、この女性が行き場がないことや、大輔のこれからの人生を考えたときに、ここで二人を突き放してしまうのも人間的ではないとも思えた。そうした問題を考えているとき、ふと、それでは噛まれて感染したかもしれないのに、それを隠してそのままこのコミュニティの中で暮らしている自分は何者なのだろうと思った。コミュニティ全体の安全を第一に考えるなら、真っ先に噛まれたことを言うべきだったんじゃないのか。その後も、言おうとすれば何度でも機会はあったはずなのに、それを二日間隠し続け、何事もなかったような顔をして振舞っておいて、その自分がどの面を下げてコミュニティ全体の安全を語ることができるのだろうか。大山は自分の偽善的な態度に愕然とした。結局、自分はそんな情けない、自分のことしか考えられない、悪い人間だったんだ。しかし、それでもなお「噛まれていたんです」とは言い出せなかった。
そんなことを考えて、半ば放心状態で委員会を終えて、会議室の外に出ると、洋子が待っていた。洋子は今朝配給されたパンが残っているから一緒に食べようと言ってきた。二人はラゾーナの本館の五階の展望デッキ、ラズーンテラスのベンチに並んで座って、それを食べた。大山は本当は一人になりたかった。そろそろ腕が痛み出したこともあって、大山は洋子との会話に集中することが難しかった。しかし、洋子はいつになく嬉しそうな笑顔をしていた。初めてここで出会ったときには決して見せてくれなかった笑顔だった。
「この間、駐車場のところで、上半身だけのやつが紛れ込んだことがあったじゃないですか」
急にその話をされて大山は動揺した。洋子は何か感づいたのだろうか。
「あのとき、大山さんを見かけたので手伝おうかと近づいていったら、大山さんが大きな声を出して段ボールを落としたんで、すごいビックリしたんです」
大山はよけいなことは言わないように慎重に、
「あのときは驚きましたね」
とだけ言った。洋子は少し間をおいて、
「あの瞬間、すっごい心配だったんです。大山さんに何かあったらどうしようって。何かとても恐くなって」
大山は洋子が何かを知っているわけではないことに安堵した。しかし、すぐにこれはおそらく洋子から愛情の告白をされていると気がついた。もし、数日前ならとても喜んだのだろう。彼女を抱きしめて、ありがとうと言ったらいいかもしれないし、むしろそうすべきなのだろう。ただ、そのときの大山にはそんな余裕はなかった。そんな大山の少し戸惑った表情を見て取ったのか、洋子は照れたように笑って、
「すいません、ただそれだけの話なんですけどね」
と言った。そんな洋子の様子を見て、大山は洋子は今の話を勇気を出してしてくれたのかもしれないと思った。自分の反応が素っ気なかったことに洋子は傷ついたかもしれない。自分はそうして好意を示してくれた洋子の期待に応えずに、しかし、本当のことも言えず、ただ腕の痛みに耐えながらこの場に座って何をしているのだろう。
「あれ、結局、恋愛相談になってない?」
死村が肩をすくめて言った。
「いや、そうじゃないんです。そのとき私は自分がよい人間ではないということを痛感したんです。それに、あとどのくらい今のままで生きていられるかも分からないですし。洋子さんとのことはもう仕方ないって思っているんです」
死村は立ち上がって、冷蔵庫の前まで行き、クリープの瓶を取り出す。そして、マグカップに入れて、冷蔵庫の上に乗っていた魔法瓶からお湯を注ぐ。
「よい人間じゃないねぇ。で、何でここに来たの?」
大山は額の汗を拭き、噛まれた方の腕を上げた。
「ねぇ、探偵さん、これから私がどうなるか、どのくらい持つのかって分かります?」
死村はクリープを入れたマグカップを自分の机の上に置き、大山に近づき、その腕をぐいと掴んだ。
「思ったよりも、傷は深くないねぇ。ただ、この青い腫れ方がねぇ。この色は間違えなく変化が始まってる色だよねぇ」
死村は大山の腕の関節を曲げたり伸ばしたりする。
「動かしづらかったりはない?」
大山は首を振る。死村は二の腕を指で摘み「感じる?」と聞いたりする。やがて、死村は大山の手を放し、自分の机の上に軽く寄りかかって大山の方を見る。
「三日でそれだったら、進行はかなり遅い方だねぇ。傷が浅かったのか、免疫力が強かったのか。このくらいの傷だったら、まだ三、四日持つんじゃないの?」
大山はゆっくりと笑みを浮かべて首を振る。
「あと三、四日ですね。いいですねぇ、探偵さんは率直で。そっか、私の命も三、四日かぁ。そう言われて、初めて気がつきましたよ。私はこんな状態になっても、どこかで、自分は死なないんじゃないのかなんて、希望を持ってたみたいです。今こんなにピンピンしてるし、結局、大丈夫だってことになるんじゃないかって、どこかで思ってた。でも、探偵さんにそう言われて、はっきりと、それが自分のただの願望だって気がつきました」
大山は立ち上がる。
「何だろうなぁ。私、死ぬのか。一週間後にはもういないのか。どうすりゃいいんだろ。全然、実感ないですよ」
死村はそんな大山をしばらく眺めてから言う。
「ただ、二の腕が全然変色してないし、リンパも腫れていないところをみたら、保証はできないし、ただの賭けだけど、今からでも腕を切り落としたら、何とかなるかもしれないよ」
大山は死村の顔を見る。
「そんな、上げたり下げたりして、私を惑わせないでくださいよ」
死村はマグカップを手に取って、クリープに口をつける。
「別に上げてるわけじゃないよ。ただ、そんな気がするってだけで」
大山は噛まれた自分の腕を眺めながらゆっくりと曲げ伸ばしする。
「探偵さん、笑っちゃいますよね。死ぬのは恐いけれど、腕を切るのも恐いんですよ。何言ってるんだって感じですよね」
死村はゆっくりと首を振る。
「いや、きっと、ルーク・スカイウォーカーもジョセフ・ジョースターもつらかったんだと思うな」
大山は無理をしたような笑いを浮かべる。
「じゃあ、やらなければいけないことがあるので、ちょっとラゾーナに戻って、夕方にまたここに戻ってきます。そのとき、私の腕を切り落としてください」
「何それ、僕が? そういうことなの? いやあ、だって、そっち医者とかいないの?」
「医者はいないですよ。元看護師がいるだけで。でも、探偵さんにお願いしたいんです。上手くいかなかったとき、探偵さんがそのけろっとした顔で始末をしてくれた方が、何だか気が楽だから」
死村は頭を掻く。
「マジかよ、困っちゃったなぁ。人の腕を切るなんて、一般的に探偵の仕事じゃないんじゃないかなって気がするんだけどなぁ」
「それじゃ、探偵らしい仕事も一つお願いしたいんです」
「え、まだあるの。ちょっと、お兄さん、そんな顔して、結構人使い荒いタイプだねぇ」
「化け物に変わってしまった妻を探してほしいんです」
「妻? 結婚してたんだねぇ。もうゾンビになちゃってるって分かってるんだ。で、今、その奥さんはどこにいるとか、目星はついているの?」
「川崎大師です」
「えぇ、あんなのめちゃくちゃ混んでるとこじゃん、きっとゾンビだらけだよ。何か奥さんに特徴とかないの?」
「多分、大きな、だるまの張り子を被っていると思うんです」
「え、ちょっと待って、何それ興味出てきた。何があったの? どんな話なの、聞かせて聞かせて」
大山と妻の依子は知り合いの紹介で出会い、すぐに結婚した。お互いに三十を過ぎており、次のチャンスが来たら結婚しようと思っていたために、あまり吟味する時間を持たなかったのかもしれない。依子は背は低かったがモデルのように顔立ちが整っていて、長くまっすぐに伸びた美しい髪をしていた。大山はこんな美人がどうして自分と結婚するのだろうかと不思議に思ったりもしていた。しかし、結婚後すぐに二人の関係は冷めたものになっていった。一緒に暮らしてみると依子は気性が激しく、派手好きだった。社交の場が苦手で、休日は家にいることを好む大山とはまったく合わなかった。大山はちょっとした食い違いですぐに機嫌を悪くして、声を荒げて不満を言ってくる依子にうんざりしていった。依子は依子で何かにつけて大山を頼りないと言い、「こんなはずじゃなかった」と口癖のように言った。
平成三十一年四月下旬のあの日、二人は川崎大師に行った。もともとは依子の友人たちとバーベキューをする予定だったのが、先方がキャンセルしてきた。予定がなくなったことで不機嫌になった依子をなだめるために大山が提案したのが川崎大師への参拝だった。参道を歩きながら、依子は「混んでいる」「外国人が多い」など、しきりに不満を言った。大山は彼女を連れてきたことを後悔し始めていた。ゴールデン・ウィーク前の川崎大師はいつも以上に賑わっており、神社までの道の両脇には多くの屋台が出ていた。ステーキ串やケバブ、韓国の飴餅など、十年前だったらなかったような、多国籍な種類の店が並んでおり、大山は一人で来たら楽しめたかもしれないと思ったのだった。神社に近づき、正門の鳥居まで一直線となる最も賑わう通りまで来ると、左右からは飴屋がトントン切り飴を切る音が響いてきた。参拝客はみな珍しそうにその様子を眺めたりしていた。
「何この音、うるっさいわぁ」
依子はそう呟くように言った。
「大体、何でこんなに馬鹿みたいな数の人がみんな寺に行きたがるのか分かんないんだよね」
大山は、寺じゃなくて、神社だろ、そんな違いも分からない、お前の方が馬鹿じゃないか、という言葉が頭に浮かんだが、ぐっと飲み込んだ。そして、今自分はどうしてこんな女と一緒に歩いているのだろうと思った。
そのとき、神社の奥の方から悲鳴に近いような声が聞こえてきた。辺りが騒めいた。依子は、
「何、何なの、痴漢?」
と腹立たしそうに言った。その後、数分間、何事もなく、大山たちもそのまま歩き続けたが、しばらくして、人の波が一気に逆流を始めた。そして今度は一方向からではなく、四方八方から悲鳴が聞こえてきた。押し倒されて、多くの人が倒れた。何が起こったのかまったく分からなかった。大山が依子の手を取ると、
「何偉そうに」
依子はその手を跳ねのけた。大山は今はそんなこと言ってる場合じゃないだろうと思いながら、勝手にしろという気持ちにもなって、そのまま人々の流れに沿って、小走りで駅の方へ向かった。周囲からは「テロ」「猟奇殺人」などの声が聞こえてきた。危険な状況になっているのは確かのようだった。
「待って、私もう無理、こんな走れない」
後ろから依子が呼び掛けてきた。大山は結局そうなるのかと腹立たしく思いながらも、後から駆けてくる人にぶつかって危ないため、仕方なく脇の土産店の中に避難した。店にいた初老の女店員が、
「どうなっちゃってるのかしらねぇ」
と話しかけてきた。
「何が何だか。境内で何かが起こったのは確かみたいなんですが」
大山は汗を拭きながら答えた。そのとき、ふいに依子の体が目の前から消えた。
「依子?」
驚いた大山が辺りを見回すと、見知らぬ東南アジア人系の中年男が依子の首筋に噛りつき、依子は白目をむいて、口から泡を流している姿が目に飛び込んできた。大山は驚きのあまり一歩も動けなかった。大山の肩越しにそれを見た女店員が大きな悲鳴を上げた。後ろから来た人々に突き飛ばされて、その男と依子は倒れ込んだ。大山は慌てて依子を奪い返した。男は大山に襲い掛かろうとしたが、またもや後ろから来た群衆に突き飛ばされて、そのまま人並みに流されていった。依子の首筋からは血が流れ続けていた。
「あの、ちょっと、タオルみたいのないですか。依子、しっかりしろ、聞こえてるか」
大山は依子を店内まで引きずっていき、床に膝枕で寝かせた。女店員が売り物だと思われる、だるまのイラストの描かれたタオルを何枚も渡してくれた。大山はそれで必死で首から流れ出る血を止めようとした。しかし、タオルはどんどん真っ赤に染まっていった。
「ちょっと待っててね、救急車呼ぶから」
女性は何度も電話をしてくれたが、つながらないようだった。大山は依子が息をしていないのに気がついた。
「待てよ、何だよ、これ。おい、依子、お前、ふざけてるんじゃないか。こんなことってあるかよ」
大山が恐る恐るタオルを外して傷を見ると、首から肩、そして背中にかけて広範囲に肉が齧り取られており、とても助かる状態ではないことは、医者ではない大山にもすぐに分かった。大山は再び依子の傷をタオルで覆った。どうしたらよいか分からなかった。胸の鼓動が高まっていたが、一方で、何か他人事のような、別世界の出来事のような気もしていた。
「ダメ、お兄さん、電話つながらないわ」
店の外では相変わらず、人々が群れをなして走り去っていっていた。そのとき、大きな音を立てて、店の中に若い女が飛び込んできて、土産物のだるまの棚に激突した。
「ちょっと、今度は何、あなた大丈夫なの」
女店員が近づこうとすると、飛び込んできた女性は急に起き上がり、目を見開き、歯を剥いて襲い掛かってきた。女店員は素っ頓狂な声を上げて、しがみついてきた女を突き飛ばし、大小さまざまなだるまの置物を投げつけた。しかし、だるまはどれも軽いものであったためか、あまりダメージを与えないようであり、その若い女はすぐに体勢を立て直すと唸り声をあげて、再び女店員に飛び掛かっていった。女店員は「やめて、何すんのよ、あんた正気なの」など言いながら、今度は奥にあった銅で出来た大きな仏像を掴んで、襲い掛かる女の頭に振り下ろした。仏像は女の頭を砕いたかに見えたが、女は怯まなかった。そのまま女店員の手に噛りつこうとした。女店員は叫び声をあげて、店の奥に逃げ出した。若い女は血まみれになりながら、それを追いかけていった。大山が視線を膝枕をしていた依子に戻すと、依子の両目が大きく見開かれていた。
「依子、気がついたのか。おい、依子、分かるのか」
そんなはずはなかった。首の傷を確認し、もう生きていられる状態ではないことは分かっていた。しかし、依子は青白い顔で目を開いていた。ただ、その顔にはまるで表情が感じられなかった。そして、数秒の後、依子は先ほどの若い女と同じようなうなり声をあげて、歯を剥いて、大山に首筋に噛りつこうとしてきた。大山は反射的に依子を突き飛ばした。依子はすぐに体勢を立て直すと、再び襲い掛かってきた。立ち上がった大山が辺りを見回すと、最も大きなだるまが目についた。バスケットボールよりもさらに大きなそのだるまを両手で掴むと、襲ってきた依子の頭にそれを叩き下ろした。だるまは張り子細工で中が空洞になっていたため、すっぽりと依子の頭にはまり、依子はまるでだるまのお面を被った状態になった。目が見えなくなっても、嗅覚でかぎ分けているのか、逃れようとする大山を追いかけてきた。大山はそんな依子の胸に思い切り蹴りを食らわせた。依子の体が一瞬宙を舞って、吹き飛んで店の棚にぶつかって倒れた。大山はそのまま店の外に出て駆け出した。
「それで、そのとき以来、奥さんのゾンビを見てないのだね」
「はい。振り返ってみると、道で妻が私の手を振り払ったとき、もう歩けないと言ったとき、私は妻にうんざりしていたんです。こんな女どうでもいいと思っていたんです。私がもっと妻のことを気にかけてみていたら、彼女は噛まれなかったかもしれない。それなのに、私はこんな女どうでもいいって思ってしまっていたんです。その上、化け物に変わった妻を蹴ったとき、一瞬、気持ちとてもすっとしたんです。自分はずっとこうしたかったんじゃないかって、そんな気さえしたんです。だから、結局、私がこうなってしまうのも、天罰かもしれないし、妻の恨みのせいなんじゃないかって思ったりもするんです。ここ最近は妻のことを思い出さなくなっていたんですが、自分が噛まれてから、また頭を離れなくなってしまって。こんな自分が洋子さんと仲良くしようなんて、虫が良すぎる話だったんだって思いました。私は少しもいい人間じゃなかったんだって」
死村はゆっくりと椅子に座って、足を机の上に投げ出した。
「なるほどねぇ、それで急に奥さんを探したくなった。それで探してどうしたいの?」
「自分が死ぬかもしれないと思ったときに、あのまま依子を苦しみながら彷徨わせておいていいのかって。探偵さんって、人間でも、化け物になっちゃった人でも触るとどういう風に相手が感じているか分かるって聞きました。もし、今、妻がとても苦しんでいるようだったら、楽にさせてあげてほしいんです。それと、」
「それと?」
大山は首を振る。
「探偵さんにお願いして、虫のいい話だけれど、依子に謝っておいてください」
「仕方ないなぁ、本当に注文が多いよねぇ、大山さんは」
大山は笑いながら立ち上がり、頭を下げて死村の事務所を出ていった。
蒲田から第一京浜を南下し、そのまま多摩川を渡ってすぐに左折をすると、程なく京急大師線の川崎大師駅にたどり着く。駅に近づくに連れて、道を徘徊している屍の数が多くなってきたため、死村は駅の前の参道に続いていく道にある大きな鳥居のところにカブを止めた。
「ねぇ、こっから歩くの?」
後ろに乗っていた夜見子がカブから飛び降りる。いつものように全身ホッケー選手のように武装している。
「私、川崎大師初めて!」
「浮かれるな浮かれるな。めちゃくちゃ沢山ゾンビがいるに決まってんだから」
二人はそろりそろりと歩き始める。大山の話では依子がだるまをかぶせられたのは切り飴の店が並ぶ境内に近い通りにある土産物屋のようであった。屍の数は決して少なくはなかったが、密集しているといったほどではなく、死村と夜見子は屍がいない方いない方に移動しながら少しずつ進んでいった。
「あ、ステーキ串だ! 私あれ食べたい」
「やってないやってない。肉が残っててもどうせ腐ってる」
「えぇ、二年で腐らないものって何か売ってないの?」
「そりゃ、ウルトラマンのお面じゃないの?」
「そんなのいらない!」
屍の数があまりにも多い一帯に来たときには、空き缶を投げてそちらの方に屍たちをおびき寄せ、その間に急いで空いたスペースから通り抜けた。
「ねぇ、だるま被ってるって言ったけど、川崎大師って何でだるまなの?」
「確かになぁ。大師っていうくらいだから、待ってるのは、多分、弘法大師? ってことは、真言系? だるまさんは禅宗だから、真言宗じゃないよなぁ。どうしてだるまなんだろう?」
「何、分かんないの? どうしてだるまなの?」
「分かんないよ、何となく、縁起がいいからじゃないの。それよりさぁ、川崎大師っていったら、だるまともう一つ、切り飴なんだよ。とんとこって、切り飴。最近は人じゃなくて、飴切りロボとかがとんとこやったりしてたけど。ひょっとしたら、ビニールで封がしてある飴とかだったら、まだ食べられるかもよ?」
「話逸らしたでしょ。何でだるまなの?」
「もう、その話はいいだろ」
「あと、何で神社の参道なのにケバブなの」
夜見子はケバブ屋を指さして言う。
「うるさいなぁ、美味しいからケバブなの」
二人は足早にケバブ屋を抜けていく。駅から大使の境内を大回りするように出店の並ぶ参拝路となっており、やがて、神社に続くメインの参道にたどり着く。しかし、その参道は明らかに生ける屍の数が多かった。死村はいったんあんず飴の屋台の陰に隠れた。横で夜見子が「どうするのどうするの」と急かしてくる。
「あの店に飴切りロボがいるんだよね」
死村が手前の飴屋を指さす。夜見子も乗り出してみる。
「よし、お前ちょっと待ってろ」
死村は背負っていたザックから小さな蓄電池を取り出し、それを抱えて、飴屋の方へと向かう。そして、屍たちに気づかれないように、店の中に入り、飴切りロボに近づいていく。飴切りロボは無傷で残っており、マネキンのような整った顔立ちをした男女二人が法被を着て包丁を持ってまな板に向かっている。
「こいつら、食い倒れ人形とかと違って、めちゃくちゃ真剣な顔してるから、ちょっと恐いんだよねぇ」
死村はそう呟きながら、人形から出ている電源コードを探し、コンセントを引き抜く。
「まだ動きますように」
と言うのと同時に携帯用蓄電池につなぐと、歯車が回るような機械音が鳴り始める。やがて、リズミカルに包丁でまな板を叩く音が辺りに響いていく。死村は慌てて外に出る。飴切りの音はそれまで静寂が支配していた辺り一面に鳴り響き、屍たちはその音にひかれるように集まり始める。店を飛び出した死村は夜見子を連れて、飴切りの音に気を取られている屍たちの横を腰をかがめて通っていく。
「やっぱり、風情があるねぇ」
そう呟きながら死村が横を見ると、夜見子が飴を口に入れている。
「お前、さっそく拾ったのか。大丈夫か、それちゃんと食えるやつか」
夜見子は口の中を飴を見せてから、にんまりと笑った。死村と夜見子はそのまま静かにゆっくりと進んでいった。
「あ、あそこ」
夜見子が指を差したのは、だるまがたくさん並んだ土産物屋だった。そこのレジのスペースに頭に大きなだるまの張り子を被った屍が閉じ込められた形になって、行ったり来たりしていた。
「おぉ、あれか。あのゾンビはここで二年間ずっと行ったり来たりを繰り返してたのか」
死村はゆっくりとそこに近づいて行った。その屍の手前にはちょうど棚が倒れいて先に進めなくなっていた。店内の足元には小さなだるまが沢山散らばっていた。忍び足で中に入った死村は、音をたてないように近づいて、だるまを被った屍の腕を掴んだ。屍は荒々しくそれを跳ねのけた。死村は思わず尻餅をついた。そして、そのままその屍を眺めた。
「ねぇ、どうだった? 何を感じたの?」
夜見子が後ろから聞いてきた。死村は振り返って答えた。
「怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる。ここまでのは珍しい。驚いた」
「そんなに?」
「何かねぇ、もう沸騰したマグマみたいな、全身丸焦げになっちゃうような、そんな怒りでいっぱいだよ」
死村はのそりと立ち上がる。そして、屍の振り回す手を避けて、だるまを掴んで引きはがした。顔は腐りかけていたが、長い髪の毛は当時の面影を残していた。
「なぁ、大山のやつがあんたに謝りたいって言ってたよ。もう許してやれよ。そんなに怒らないでさ」
屍は死村の方に手を伸ばして掴みかかろうとするが、足元の倒れた棚に阻まれて進めない。屍はまるで犬のようなうなり声をあげる。黒ずんでいる顔の中で、目玉だけが光って、死村を睨んでいる。
「あなたはずっと、そんなどうしようもなく強い怒りの中で、身を焦がしながら生きてきたんだねぇ。それはきっと、とっても、とっても恐ろしい毎日だったんだろうねぇ」
死村は忍者刀のように背中に背負っていた金属バットを引き抜く。
「僕は、今あなたが苦しんでいるのは分かるけど、どうすればあなたが平穏な気持ちになれるのか、全然分からないから、こうしてあげることしかできないんだよ。ごめんなさい。本当はあなたの人生のことも知りたかったんだけどね」
死村は野球選手のように金属バットを振り上げた。
「かっ飛ばせ、キヨハラ!」
金属バットが宙を舞い、髪の長い屍の側頭部に直撃した。屍はレジの方に大きな音を立てて倒れ、しばらく痙攣したが、やがて動かなくなった。その屍が動かなくなると、辺りにはまたとんとこという包丁でまな板を叩く音が鳴り響き始めた。
洋子はガラス張りになっている委員会の部屋をのぞいたが、大山の姿は見当たらなかった。いないなら仕方ない。その場を立ち去ろうとすると、中に入ろうとした華沢とぶつかってしまう。
「あ、すいません。ごめんなさい」
華沢は笑って頷く。洋子は華沢は集会の壇上では大きく見えるけれど、向き合ってみると思ったより小さいんだなと思う。
「何か御用ですか。大山くんかな。さっき一度顔を出していたんだけど、またどこかに行ってしまったみたいですね」
洋子はあまり話したことのない華沢に話しかけられて少し緊張して、何を答えたらいいか分からず、ただ微笑んで頭を下げる。
自分の部屋に戻ろうとすると、隣の女性が顔を出して、
「あれ、今さっき、大山さんが来たわよ。すれ違わなかった?」
と言った。行き違いになってしまったんだなと思う。
「何か、洋子さんに渡してくれって、手紙を置いてったわ」
手渡されたのは何も装飾のない白い封筒だった。
「何なのそれ、ラブレター? ちょっとドキドキしちゃうわね」
「そんなんじゃないわよ。何だろ、私も分かんないけど」
他に人がいるところで開けてはいけない気がして、洋子は曖昧な笑みを浮かべて、手紙を持ったままその場を離れた。何となく嫌な予感を感じて、そのまま歩き続けてしまい、気がつくとラゾーナ出雲大社にたどり着いていた。生暖かい風が吹いていた。洋子はルーファ広場を見下ろす通路の欄干に肘を置いて、大山からの手紙を開いた。
洋子さん、直接会ってお話しするべきなのですが、手紙という形になってしまい、申し訳ありません。正直なところ、どんなふうに状況を伝えたらよいのか、自分でもよく分からないので、率直に話してしまいます。三日前、駐車場で車の下から上半身だけになった化け物が出てきたとき、実は腕を噛まれていたんです。でも、洋子さんに無事でよかったと言われて、それが言い出せなくなってしまいました。腕を噛まれて感染したまま、私は数日を何食わぬ顔で過ごしてしまいました。それは責められて当然のことだったと思います。私はつくづく自分が心の弱い人間だと思い知りました。自分が感染していることを誰にも言わないことで、大勢の人たちを危険に晒したんです。心のどこかで、このくらいの傷は案外いつの間にか治ってしまうのではないかと甘いことを考えてみたり、そのことをまったく考えないようにしてしまったりして、私はこの三日間を過ごしていました。これはコミュニティへのひどい裏切りでした。何よりあなたへの裏切りだったのだと思います。ただ、なにもいいことがなかったこの二年間の中で、洋子さんとお話をするようになり、何か私にも明るい未来が待っているのかもしれないと思ったことは本当です。その思い描いた明るい未来が、あんまり幸福だったために、私は余計に自分が噛まれてしまったという事実を、周囲にも自分にも隠そうとしてしまったのかもしれません。控えめだけれど意志の強いあなたは、いつでも凛としていて、とても涼しそうな顔をしていて、一緒にいるだけで、私までもが強くなれるような気がしたんです。あなたと一緒ならどんなことでもできるという気がしていたんです。ただ、実際は私はあなたにふさわしい人間ではありませんでした。あなたのようなよい人間ではなかったんです。これでお別れです。あの探偵さんにももう長くはもたないと言われました。この期に及んでなだ私はみんなに噛まれていたとは言えないようです。このまま誰も言わずにここから出ていきます。直接にさよならも言うことができず、本当に申し訳ありません。ただ、こんな世界の中にあっても、あなたのこれからの未来が幸せに溢れるもののであることを、私は心から願っています。短い間だったですが、私に希望を与えてくれたことを、これ以上ないくらいに感謝しています。さようなら。
大山孝行
一気に最後まで読み終えると、洋子は顔を上げた。最初に洋子の頭に浮かんだのは、まただ、ということだった。まただ、いつもこうだ。結局、みんな、私の前からいなくなってしまうんだ。そして、次に思ったことは、大山はいつ死村と会ったのだろうかということだった。
死村のプレハブ事務所に大山が再び姿を現したのは夕方の六時過ぎだった。死村は足を投げ出して椅子に座ったままで大山に向かって何か小さなものを投げた。大山は慌ててそれを手に取った。
「ナイスキャッチ」
「っていうか、いきなり投げないでくださいよ。何ですか、これは」
大山が受け取ったものをよく見ると、それは依子に送った指輪だった。
「依子、いたんですね」
「そうだね。ほら、僕、何気に優秀な探偵でしょ?」
「それで、どうでした? 彼女は何を感じていたんですか」
「本当に知りたいの? 知らなくてもいいんじゃないの?」
「知らなくてもいいならわざわざお願いしないですよ。はっきり話してください」
死村は頭を掻く。
「あぁ、もう困っちゃうなぁ。それじゃ、嘘ついてもしょうがないから正直に言うけど、怒ってましたよ。ものすごい怒ってましたよ」
「やっぱり、そうですか。そうですよね」
「あぁ、もう、そんな分かりやすくがっかりした顔しないでよ」
死村はしばらく下を向く大山を眺めていたが、やがてぽそりとつぶやく。
「こんなこと言っても、何の慰めにもならないかもしれないけどさ。彼女が怒ってたのは、あなたのせいじゃないよ。あの人は人生の中でずっと自分でも抑えきれないような怒りを抱えて生きていた人なんだよ」
大山は顔を上げて少しわざとらしい笑顔を作る。
「ありがとうございます。さぁ、それじゃ、腕を切ってください」
「あいよっ」
死村は椅子から飛び降りると、プレハブ事務所の外へと歩き出した。
死村が大山を連れて行ったのは、同じ建物の二階の一室だった。部屋に入ると、もともとは誰かが住んでいたようであり、家具などはそのままだったが、ベッドの上は綺麗に片付けられていた。
「ちょっと、そのベッドに座って」
大山は言われるままにベッドに腰かけた。
「それで、これからどうするんです?」
そう大山が死村に問いかけた瞬間、死村が大山に襲い掛かった。大山はベッドに倒され、ネルシャツの襟を掴まれて、首を絞められた。
「何をするんですか、何でこんな」
大山は微かな声でそう言った。死村は大山の首を絞める手を緩めなかった。やがて、大山は口元から泡を吹いて動かなくなった。死村はそのまま大山をベッドに寝かせた。
ドアを叩く音がした。死村が出て行って開けると、田中が立っていた。
「おぉ、時間ぴったり。さすがだねぇ」
「連れてきましたよ」
田中は後ろに立っていた雅美を指さす。
「あぁ、雅美さん、久しぶり。入って入って」
雅美は持っていたエコバックを死村に手渡して、眉をひそめながら顔をして部屋の中に入ってくる。田中も後ろから続く。
「何なのよ、急に呼び出したりして。まったく迷惑なんだから」
「そんな冷たいこと言って、雅美さん、僕に借りがあるはずでしょ? 忘れちゃった?」
「あのねぇ、私はあんたに借りなんてないからね。勝手なこと言わないで」
「あぁ、やっぱりそうだよね。ただ、言ってみただけ」
「で、どこにいるの、その腕を切り落としたいって人は」
死村はベッドを指さした。雅美は近づいて顔を見て驚く。
「やだ、これって、大山さんじゃないの。大山さん、どうしたの?」
「ゾンビに噛まれたの」
「えぇ、全然、知らなかった。それで、どうして寝ているの」
死村はベッドサイドにあった椅子に腰かけ、雅美の持ってきたエコバックを漁りながら答える。
「首絞めたから」
「そんな、あなた滅茶苦茶ねぇ」
「だって、麻酔なんてないでしょ。起きたまま腕切るの痛そうじゃん」
「だからって、首絞めて気絶させなくても」
雅美は手慣れた仕草で倒れている大山の袖をまくり、患部を探す。
「ここね。あぁ、確かにもう変色し始めてるわねぇ。噛まれて何日?」
バッグから薬の便を取り出して眺めながら死村は答える。
「三日だって」
後ろから田中が大山の患部を覗き込んで言う。
「だって、僕、大山さんと一昨日会って話しましたよ」
「その辺はあんま突っ込まないでおいてくれるかなぁ」
雅美は大山の手を曲げたり伸ばしたり、叩いたりしている。
「それで、何を使って切断するつもりなの?」
死村は床に置いてあった大きな斧を拾い上げる。
「それ? そんなものどこで見つけてきたの?」
「川崎のステーキ屋の壁にかかってたのを取ってきて研いだの」
「あのねぇ、医療で壊死した手を切除するときは、どこの骨を切って、筋肉はどこで切ってって、本当に細かく計画を立ててやるのよ。そんなジェロニモみたいなでっかい斧で強引にぶった切るのとはわけが違うの」
「え、今、ジェロニモって言った? ひょっとして、それキン肉マンの超人? お姉さん、ひょっとしてキン肉マン世代? ベンキマンとカレクックどっちが好き?」
田中が口を挟む。
「正確にはジェロニモは超人じゃなくて、超人のふりをしていた人間ですけどね」
「そんなことどうでもいいわよ。私はオペ室の看護師だったけど、斧で腕切った手当なんてしたことないの。それに、抗生物質だって、痛み止めだって十分じゃないわ。だから、どうなったって、知らないからね」
死村は肩をすくめる。
「僕だって、どうなって知らないよ。あれ、ってことは、誰も知らないってことじゃん?」
「まったく、あなたのそういうまるで緊張感のないところがむかつくわ」
「それ、よく言われる」
「しょうがないわねぇ。私は手当てするだけで、切らないからね。あなたやるのよ。ほら、血が飛び散るから、ビニールとか敷きなさいよ。あと、ベッドの上だったら、下が柔らかすぎて、斧じゃ、切れないわ。床に下して」
死村と田中は床にビニールシートを轢き、その上に大山を寝かせる。
雅美は大山のネルシャツを脱がせ、噛まれた方の腕を伸ばした形で再び寝かせる。そして、鞄からマジックを取り出して、二の腕に線を引く。
「変色している具合から見て、切るのはこの辺からね。いい、よく見てやりなさいよ。切ったら、すごい血が出るから、それを拭くためのタオルをすぐそばに用意しておいて。あと、今、血を止めるために肩の部分にひもを縛るから、それをもっと強く引っ張って血を止めて。血がどんどん出続けてたら、縫えないから」
「え、切っただけじゃダメなの? 縫うの?」
「何言ってんの、縫わなきゃ、出血多量で死んじゃうじゃないの。血管も縫うし、皮膚も縫うのよ」
「えぇー。大抵のゾンビ映画だと、そのまま切りっぱなしだけどなぁ」
「何を寝ぼけたことを言ってるのよ。動脈が通ってるんだから、切ったら血が流れっぱなしで、一定の量を過ぎたら、死んじゃうわよ。あと、本当は輸血をしたいわ。でも、あんたの血は何だか変なものに感染してそうだから、他の人がいいわねぇ。彼って、血液型は何型なの?」
「知らないよ、友達じゃないもん」
「まったく、腕を切るなら、そのくらい調べておいてよ。田中くんは何型?」
「O型」
「それじゃ、しょうがないから、田中くんの血でいいわ。手を切る前に、田中くんの血を血液パックに溜めるところからね」
「え、血とられるの? 聞いてないよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ほら、早く腕を出して座りなさい」
「そうだぞ、田中くん。ダチョウ倶楽部みたいなこと言ってないでもう諦めなさい」
「諦めなさいって、何だよ。何か騙されてない?」
「何でもそう、悪くとらえるのは、田中くんのよくない癖だねぇ」
田中はその場に座らされて血を取られる。田中から血を取り終わると、雅美は大山の二の腕を自転車のチューブできつく縛り上げる。次第に三人ともに口数が少なく強張った表情になっていく。雅美が死村のために場所を開ける。死村が斧を持ってそこに立つ。死村は大きく振りかぶった。
「やっぱり、これ僕やるの? 雅美さんやらない?」
雅美が死村の尻を叩く。
「今さら何言ってんの。あんたしかいないでしょ、早くなりなさい」
死村は向き直って、再び斧を振りかぶる。
「与作は木を切る!」
その声とともに大山の腕に斧が振り下ろされた。
死村はプレハブ事務所の椅子に倒れるように座り込んだ。そして、口を半開きにしたまま天井を眺めた。
「どうした、そんな顔して」
夜見子が事務所のドアから顔を覘かせる。
「疲れたんだよ。腕切ったら、一晩中、そいつについて看護してなきゃいけないなんて、思わなかったよ。あぁ、寝不足」
「ホントは、人の腕切って、恐かったんでしょう?」
「何だよ、そりゃ。恐わかねぇよ」
「ほぉ、そうかいそうかい」
夜見子は腕を組んで死村を見下ろす。
「ねぇ、あの人助かるかなぁ」
死村はしばらく沈黙して、数回瞬きをする。
「どうだろうなぁ」
「もし死んじゃったら、わざわざ痛い思いして切ったりしなければよかったって思う?」
死村は上体を起こして、テーブルに肘をつき、腕に顎を乗せる。
「だって、最初の時点でどうなるかって、分かってないんだから、切らなきゃよかったってことにはならないだろ」
そう言ってから、少し間をおいて、
「理屈で考えればね」
と付け加える。そのとき、夜見子が何か慌ててドアの外に出る。
「ねぇ、誰か来るよ。すごい勢いで上がってくるよ。私は退散しよっと」
夜見子の姿が見えなくなると、入れ替わるように、洋子が勢いをつけて入ってきた。洋子は床に散らばっているものも見えないかのようにまっすぐに死村の机の目の前まで来た。
「あらあら、ちょっと、今、パリって言わなかった? CD踏んだんじゃないの? 勘弁してよ」
「そんなことより、大山さんのこと知ってるんじゃないの。今どこにいるの。知ってるんでしょ」
洋子は前かがみで死村の机に手をつく。。
「何、急に、恐いなぁ。だって、僕は探偵なんだから、依頼人のことは喋らないんだって」
「やっぱり、知ってるわけね。彼は今どこにいるの」
「そういう人の揚げ足を取るような言い方をするのはよくないよ、学校で先生に言われなかった?」
洋子は机を強く叩いた。
「どうでもいいことをつべこべ言ってないで、ちゃんと答えてよ、彼はどこなの!」
死村は洋子の顔をしばらく眺めている。洋子はそれを睨み返す。
「彼は一人にしてほしいって言ってるんだよ」
「何でそうなるのよ。何でみんないなくなってしまうの!」
死村は頭を掻く。
「困っちゃったなぁ、もぉ」
大山は左腕に物凄い激痛を感じている自分に気がついて目を開いた。よく「じんじんと痛い」という表現があるが、その「じんじん」という音がまるで実際に聞こえてくるかのようだった。思わず唸り声を上げた。
「あ、目が覚めてるじゃん。喜んでいいよ、まだ生きてるぞお」
横を見ると、死村が椅子に腰かけていた。
「痛い? モルヒネじゃないから、そこまで効かないかもしれないけど、まぁ、気休めにはなるかもしれないから、鎮痛剤を飲んでみなよ」
死村は錠剤を二錠、大山の口の中に入れて、コップで水を飲ませる。ただ、その水の飲ませ方がいい加減なため、水が口からこぼれて首筋まで流れてしまう。水が入ったために、喉が少し潤って、喋れそうになってきた大山は口を開く。
「左手が痛い」
死村は大山の左手があった方を見る。
「本で読んだとおりだなぁ。やっぱり、そうなるんだぁ。もう左手はついていないのだよ。ただ、まだ神経回路がそのことを理解してないから、痛みを感じてしまうだけで」
大山は恐る恐る自分の左手を見る。二の腕の途中が包帯でぐるぐる巻きにしてあり、その下には何もついていなかった。
「私は、生きられる?」
死村は残ったコップの水を自分で飲み干してしまう。
「それは、自分次第だねぇ」
大山は眉をひそめながら、死村を見る。
「私はこんなことまでしてもらって、生きていていいんだろうか」
死村の方も眉をひそめる。
「そんなこと僕に言われてもねぇ」
そのとき、ドアを叩く音がする。
「お見舞いが来たよ、お見舞いが」
大山が目を見開く。お見舞い? この男は自分のことを他の誰かに漏らしたのだろうのか? 死村が玄関に向かった。そして、現れたのは洋子だった。
「洋子さん、何で」
洋子は大山のベッドサイドに駆け寄った。
「何でじゃないわよ。こっちこそ、何でよ。何で黙って行っちゃったの」
洋子は大山のまだ残った右手を握りしめた。
「だって、私はあなたに迷惑をかけてしまうから」
洋子は大山の右手を強く揺さぶって、声を荒げた。
「何でよ。そんな風に勝手に自分で決めて、勝手に出て行っちゃう方が、私にとってはよっぽど迷惑なの! 何で噛まれたことを言えなかったことを面と向かって謝ってくれないの? 何でそんなに私は信用できないの? 何でそんなに私と一緒にいたくないのよ!」
大山はまだ残っている方の手を伸ばして、そっと彼女の髪の毛を撫でた。
「そうじゃないよ。一緒にいたくないわけじゃないんだよ」
洋子は大山の胸に顔をうずめた。
「だったら、一緒にいようよ。どうなるか分からないけど、いられるだけ、最後までずっと一緒にいようよ」
その様子を見ていた死村は静かに向きを変えて玄関に向けて歩き出した。そして、ふと立ち止まって振り返り、大山に向けて小声で、
「あなたはいい人だと思うよ。少なくとも、僕よりはずっと。何かそんな気がする」
と言った。大山や洋子に聞こえたかどうかは分からなかった。
玄関から外に出るとマンションの廊下には夜見子が嬉しそうな顔で待っていた。
「中はどんな様子なの?」
「ここからは、大人の時間みたいだな。まぁ、僕には関係ないね」
死村と夜見子は横並びになって、欄干に手をかけ、マンションの外を眺める。
「あ、ひょっとして、おじさん、羨ましいんでしょ」
夜見子が死村の脇腹をつつく。
「何言ってんだよ。いつ僕が羨ましいって言ったよ」
「無理しない、無理しない。でも、大丈夫、おじさんには私がいてあげるからね」
「まったく、お前にそう言われると、よけいに情けない気がしてくるよなぁ」
「あぁ、ひっどい。何言ってんの。もっと私をレディ扱いしなさい」
夜見子は死村の方を向き、さらなる脇腹攻撃のために両手を上げてモンスターのように指を広げた。
* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。毎週金曜日の夕方に配信します。全七章になります。