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第四章 紗良の場合

平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。

 紗良はフレッシュネスバーガーのカウンターに座り、大森駅の方を眺めながら、コーヒーを飲み始めた。もっとも店員が入れてくれた暖かいコーヒーではなく、自分で水で溶いたインスタントコーヒーだった。しかも、生ぬるいミネラルウォーターを使っていて、ホットでもアイスでもなく中途半端な飲み物になっていた。しかし、それでも今となっては貴重なものだった。紗良は世の中がこうなる前にも、この店でよくコーヒーを飲みながら時間をつぶしていたことを思い出した。あの頃はまだ普通に仕事をしていた。息子と一緒に生活をしていた。今はどこにいるかも分からない息子。平成三十一年四月のあの日、本当なら紗良は別れた夫と息子と野球を観に行くはずだった。しかし、養育費の振り込みが遅れていることを夫に伝えると夫がさも大したことがないように誤魔化そうとするため、つい苛立って強い口調で不満を言うと、向こうも開き直った態度になった。そんなやり取りをしていると別れたときの嫌な思い出などが思い出されてきて、とても自分は三人で野球を観て楽しく過ごすことなど出来ないと思い、自分は行かないと断った。けれども、今となっては、どうしてあの日、夫に息子を預けてしまったのか悔やまれる。どうしてよりによって、あんな事態が起きる日に、自分は息子と一緒にいなかったのか。私が行きたくなければ、息子も行かせなければよかった。二年経った今でも、一人になると何度も何度も頭の中で繰り返される。そして最後は、それなのにどうして自分はまだ生きているのだろうと思う。息子を失い、仕事も失い、何の生き甲斐もなくなって、どうしてまだ自分は生きているのだろう。紗良はゆっくり大きく息をつき、少しだけコーヒーを口に含んだ。息子は元気で生きているのだろうか。この先、再び会うことができるのだろうか。もし、またいつか、息子に会うことができるのなら、自分はまだ生きていてもいいかもしれない。

 紗良はコーヒーを飲み干して立ち上がった。そろそろ戻らなければならない。フレッシュネスバーガーを出ると、その裏手にある西友の建物に入っていった。辺りの屍たちは始末されており、動いているものの姿はない。西友の止まったままのエスカレーターを上っていく。この世の中になって建物内の移動はすべて階段となり、明らかに脹脛に筋肉がついてきたように感じる。百円ショップが入っていたフロアを抜けると、そこで見張りをしていた男たちが紗良に気がついて、

「姐さん、お疲れさまです!」

 と大声で挨拶をしてきた。

「ちゃんと見張りしてる?」

紗良は男の一人の胸を軽く叩く。内心では「姐さん」だなんて自分は一体何者になったんだろうと思う。さらにブックオフのエリアを抜けると、最上階は英会話教室やレストラン、そしてミニシアター系の映画館キネカ大森がある。最上階まで上がると、子ども用英会話教室だったガラス張りで外側から中の様子が見学できるようになっているエリアに、何体かの生ける屍が閉じ込められているのが見えた。昔は、子どもたちがはしゃいだ声を上げ、それを外から親が嬉しそうに見ていたであろう場所が、今では中で屍がうなり声をあげて、それを外から男たちがあざけり声をあげて眺めるものになっている。全く悪趣味だと思う。

 紗良は英会話教室やレストランが並ぶエリアを抜けて、キネカ大森へと向かっていく。中華料理屋などのレストランは今ではこの集団の幹部たちの寝床となっている。男たちは中で昼寝をしたり、麻雀をしたり、好き勝手に過ごしている。キネカ大森までたどり着くと、ロビーのあったエリアに大きな、まるで王様のような椅子が置かれていて、そこにあの男が足を組んでふんぞり返って座っている。男はこんな時代なのに髪を金髪に染め、タンクトップから筋肉質な体を誇示するかのようにのぞかせている。紗良に気がつくと口元だけ笑みを浮かべる。

「戻ったか、マキちゃん」

 マキは偽名だった。この男に最初に会ったときに何となく使った偽名を使い続けている。男は紗良の手を取って引っ張り、自分の膝の上に抱きかかえ、いきなり激しいキスをする。紗良はされるがままになっている。頭の中ですぐに終わる、こんなこと大したことないと自分に言い聞かせている。私は何も考えない。私は何も感じない。しかし、この男の得体の知れなさへの恐怖感は拭い去れない。生田は紗良の髪の毛に手を入れて撫で回す。

「また髪切ったのか。だから、髪の毛伸ばせって言ってるのに。こんな男みたいな短い髪をして」

 紗良は首を振る。

「化け物に襲われて掴まれたりしたら困るし、もうこの短い髪に慣れたし」

 生田は紗良の顔をまじまじと見て、また口元に笑みを浮かべる。

「お前が化け物に襲われるなんてことは、俺がいる限り起きるわけない。お前は俺がずっと守ってやるんだから」

 紗良はただ「ありがとう」と小さく呟く。この男は私を守ってくれるだろう。それは間違いないのだろう。私がこの男に従い続ける限りは。

「それとも、お前、そのうち俺のところから出てくつもりなのか?」

 生田が目を見開く。

「まさか。どうしてそんなことを」

 紗良はすぐに否定する。しかし、心の中ではもしこの男から逃げ出せたらという思いが浮かび、同時にそんなこと絶対に許されるわけがないと思い背筋が寒くなる。

「そんなことないよなぁ。もし、本当はお前に夫がいたり、子どもがいたりして、俺はただ生き残るための場つなぎで、いつかその家族と再会したら、俺を見捨てようなんて考えていたりしたら」

 そう言って、生田は再び紗良の唇にキスをして、大きく目を広げてにんまりと笑う。

「俺はその旦那と子どもを殺しちゃうかもねぇ」

 ぞっとする。この男は本当に殺すだろう。大輔のことを知ったら、この男は間違いなく何の躊躇もなく、息子を殺すだろう。絶対に知られてはならない。自分の過去のことは絶対に知られてはならない。だから、かつての素性を知る知り合いにも決して気づかれてはいけない。いつも髪を長く伸ばしてスカートを履いていた紗良が今では男のような短髪にレザーパンツという姿になったのは、昔の知り合いと会っても気づかれないようにするためだった。

 生田が紗良の耳を舐めてくる。紗良が嫌がってよけると、彼はさらに舐めようとしてくる。

「ボス、よろしいでしょうか」

 突然、生田の部下の一人がキネカ大森のスペースの中に入ってくる。生田は舌打ちをして、紗良をどかして立ち上がる。

「何だよ、今忙しいんだよ」

 生田の部下は頭を下げ、しかし、落ち着いた事務的な口調で報告する。

「見知らぬ男を二人捕まえました。背負っていたリュックの中にはペットボトルや缶詰が入っていたので、食料のありかを知っているかもしれません」

 生田の表情が変わる。

「そうか、適当にいたぶって場所をはかせろ。俺もすぐ行く」

 部下は「分かりました」と深々と頭を下げてその場を去っていった。生田は嬉しそうに笑う。

「なぁ、マキちゃん。まだこの辺でも生きてるやつらがいるんだなぁ。何人くらいの集団なのかなぁ」

 紗良はこの男はその見知らぬ集団を見つけたら、皆殺しにして食料を奪うつもりなのだろうと思う。生田は紗良の顔を覗き込む。

「あ、今、マキちゃん、俺がそいつら見つけたら皆殺しにするとか思った?」

 生田は乾いた笑い声をあげる。

「そんな、まさかねぇ、俺がそんなこと出来るわけないじゃん。せいぜい、十人くらいの集団までで、百人とか二百人とかいたら、殺しきれないからねぇ」

 生田は紗良の頬をつつく。

「ほら、そんな恐そうな顔しないで。いい話なんだから、笑って笑って」

 そして、生田は室内なのにどうして必要なのか分からないオレンジ色の大きなサングラスをかけて、レザージャケットを羽織り、紗良にもついて来いと言って、キネカ大森のスペースを出た。


 英会話教室の前あたりに人だかりができていた。取り囲んでいるのは生田の部下の若い男たちで、その中心に初老の男性二人が座らされていた。

「適当なことぬかしてんじゃねぇ」

 初老の男の一人を生田を部下が力強く蹴飛ばす。生田と紗良が来たのを見ると、近くにいた幹部の男が「自分たちは二人で生活していたと言い張っています」と報告する。生田は捕らわれた男の前に出る。

「そんなわけねぇだろ。聞き方が優しすぎるだけだよなぁ」

 生田は白髪頭の男の髪をつかんで顔を上を向かせる。

「ねぇ、こいつの指一本折ってみて。うん、いいからすぐ」

 白髪頭の男は抵抗しようとするが、三人がかりで押せつけて、中指をへし折る。苦悶の声があたりに響く。紗良がその場を去ろうとすると、生田がその腕をつかむ。

「いやいや、マキちゃん行かないでよ。面白いのはこれからなんだからさ」

 生田は指をへし折られた男の頬を軽くぺちぺちと叩きながら、

「どう? どこから来たの? 食料品はあとどれくらい残ってるの? 何人くらいのところに住んでるの?」

 と質問する。聞かれた男は涙を流しながら首を振り、「知らない、ただこいつと二人でさまよってただけだ」と繰り返す。生田も大きく首を振る。

「まぁ、二人いるから一人はいいかなぁ」

 そして、生田は男の頬をゆっくりと撫で回してから、男を突き放し、もう一人の男の方に近づいていく。もう一人の男は逃げようとするが、生田に髪の毛をつかまれて、喉の当たりを撫で回される。

「うん、お前の方がいい。お前を残そう」

 生田はにんまりと笑う。

「おい、さっきのやつ、もしどこから来たか言わないとあの化け物の餌にしちゃうよ」

 部下たちが場所を開けると、子ども用の英会話スクールだった場所に生ける屍が飼われているのが、捕まった男たちにも見える。

「やめてくれ、本当に何も知らないんだ。食料だって、これは全部やる。たまたま、入った店で見つけただけで、もうこれだけなんだ」

「うそぉ。またまた、そんなぁ」

 生田の目くばせで周りにいた男たちが指を折られた男の両脇をつかんで立ち上がらせる。生田はその男の頬をまた嬉しそうにぺちぺちと叩く。

「ただ、フェアプレーが俺のモットーなんだ。だから、お前だけを危険な目には合わせられない。そんなのフェアじゃないからね。俺と二人であの中に入ろう。どっちが食われるかは、神様しか分からない。お前が食われるかもしれないし、俺が食われるかもしれない。でも、お前がそんなゲームは嫌だっていうなら、お前がやってきたキャンプがどこにあるのかを俺に言うしかない。な、フェアなゲームだろ。ほら、やろうぜ」

 部下の一人がその男を歩かせようとするが抵抗して暴れたため、一度腹を強く殴る。男は前に突っ伏して倒れた。部下たちはそれを無理矢理立ち上がらせる。生田はもう一人の男の方を向く。

「お前、よく見てろよ。もし、こいつが吐かなかったら、次はお前の番だからな」

 指を折られた方の男は三人がかりで押さえつけられ、英会話スクールの入口まで連れていかれる。生田は軽いステップを踏んでそれについていく。そして、また残された方の男を振り向き、

「お前、本当によく見てろよ」

 と満面に笑みを浮かべながら言う。

「さて、行こうか」

 生田は指を折られた男の肩を叩く。

「あんた、自分だってどうなるか分からないんだぞ」

「さてどうなるかな」

 部下の一人が鍵を開け、ドアを半分ほど開いた。生田はそのまま中に入っていく。初老の男は生田の部下に後ろから背中を蹴飛ばされて、転がり込む。ドアが閉じられて再び鍵がかけられる。中を徘徊していた屍たちが一斉に侵入者の方を向いた。指の折れた男は立ち上がってドアを叩いた。

「おい、開けろ、こんなこと意味がない、早く開けろ」

 生田はにやにや笑いながら言う。

「それじゃ、仲間の在処を言うか。そうしたら開けてやるぞ」

「それは知らない、知らないから言いようがない」

「じゃ、しょうがないねぇ」

 生田はそのまま部屋の奥まで進んでいき、壁に寄り掛かる。屍たちは生田には見向きもせずに初老の男の方に近づいていく。

「どうして、あんたのことは気にしないんだ」

「さて、どうしてだろうねぇ」

 一体の屍が男の腕に手をかける。男はその手を取って振り払い、屍を突き飛ばす。そこから、何体もが一度に男に襲い掛かる。当たりに血が飛び散った。屍たちは男の体に奪い合うように群がり、肉をあさった。その様子を壁に寄り掛かってみていた生田はしばらくして起き上がり、何事もなかったようにドアの前まで行く。部下たちはドアを開けた。生田は平然と外へ出た。そして、そのままもう一人の残された男の方まで行った。

「相棒は残念だったなぁ」

 生田は自分の手についた返り血を男の頬に擦りつける。

「お前も、俺とゲームするか?」

 顔面蒼白になった男は後ずさりしながら後ろに倒れこんだ。

「おいおい、大丈夫か。体調でも悪いのか?」

 男は這って生田から離れようとする。生田はそれをゆっくりと追いかけていく。男は悲鳴を上げる。

「仲間の在処はどこだ」

男は嗚咽する。

「何だよ、泣いたりしちゃって、お前は小学生かよ。ほら、言えよ、仲間はどこだよ」

 男が小声で呟く。

「何だって? 聞こえねぇなぁ。もっと大きな声で」

 男は泣きながら、大井町と言う。生田はそれを聞くと、仲間に詳しい場所を聞いておくように指示を出し、紗良を連れて、キネカ大森へと戻っていった。



 平成三十一年四月からの人生を振り返ってみれば、後悔しか思い浮かばない。そのとき紗良は夫とのやり取りに苛立って、自分は野球に行けないと断った。野球の試合を最後まで観ると遅くなること、ゴールデン・ウィークに入るために次の日も休みだということもあって、息子は夫の家に一泊することになった。紗良はその夜を家で一人で過ごしていたら、ずっと憂鬱で腹立たしい気持ちに違いないと思い、当時仕事で知り合って付き合い始めた高田のマンションに行くことにした。高田の家は埼玉県の川口にあった。今から振り返ってみると、息子と二人で住んでいた大森からであれば、何かあれば横浜スタジアムでも川崎の元夫の実家でもすぐに息子を引き取りに駆けつけられた。それなのにどうして川口などに行ったのだろう。外で食事をして彼のマンションに行ったものの、紗良がどことなく苛立っていたせいか、二人の気持ちはあまり盛り上がらなかった。会話も少なく、二人でぼんやりとテレビドラマや最近流行し始めた謎の感染症のニュースなどを見ていた。すると、画面にテロップが流れ、やがて画面が切り替わり強張った顔の男性アナウンサーが「番組の途中ですが緊急速報です」と口を開いた。全国各地で原因不明の感染症によって錯乱状態になった人が暴れだしているというニュースだった。テレビ局でも何が起きているのか把握できていないようであり、慌ただしく、新しいメモが回ってきて、アナウンサーはその都度それを読んでいた。初めはただ高田と「何だろうねぇ」と他人事のように聞いていたが、感染者が大量発生した場所として、横浜スタジアムがあげられたとき、紗良は思わず立ち上がった。

「どうしたの?」

「今日、息子が元旦那と一緒に浜スタに行っているのよ」

「本当に? 早く電話してみた方がいいよ」

 慌てて元夫の携帯電話に電話をしてみるが、電話回線がつながらない。義理の母の方にも電話をしてみたが、そちらも駄目だった。

「どうしたんだろう、巻き込まれたのかな。行った方がいいかなぁ」

 そう言う紗良に対して、高田はきっとみんなが安否を確認しようと電話をしているのだろうし、今混乱したところに出向いて行っても何ができるわけではないので、ここにいて電話がつながるのを待つ方がよいと言った。そのときは確かにそうだと思った。高田は落ち着こうよと言ってコーヒーを入れてくれた。しかし、このとき高田の言うことなど聞かず、無理にでも夫の家の近くまで戻っていればよかった。流行している謎の感染症の患者が人を襲うらしいということは数日前からネットなどで話題にはなっていた。ただ誰もそこまで深刻に考えてはいなかった。電話をかけ続けていると、何回目かで急に義理の母親の方の番号につながった。紗良は慌てて早口に尋ねた。

「お母さん、ニュース観ました。そちらはどんな状況なんですか? 大輔は大丈夫ですか?」

 義理の母親の方はもっと慌てた様子であり、息を切らせながら答えた。

『紗良さん? よかった、大輔は無事よ。今から家に帰るところ。こっちはもう大変なの』

 電話の声の後ろから人々のざわめきが聞こえてきた。とても混乱した状況にあるようだった。義理の母親は、

『また連絡するわ』

 と言って電話を切った。詳しい状況を聞きたかったが、それどころではないということも伝わってきた。取り敢えず大輔が無事なことを確認できたので紗良は少しほっとした。

「お母さんにつながった。よかったぁ。今から家に帰るみたいなんで、私も大輔を引き取りに行ってくる」

 高田はテレビを見続けていた。

「ほら、見て、かなり混乱した状況になってるよ」

 画面には人々が新宿駅で逃げ惑う映像が流れていた。テレビのアナウンサーはどのような状況でこうなっているのか、確認は取れていませんと言った。

「これ、電車はまずいかもしれない。明日の朝、僕が車で送ってあげるよ」

 ここでも紗良は高田に説得されて、無理に戻ろうとしなかった。しかし、振り返ってみれば、高田が心配していたのは紗良のことであり、息子のことではなかった。息子のことを一番に考えたら、高田の助言など聞く必要はなかった。その時点ではまだ多くの電車は動いていたのだから、たとえ何と言われようと川崎まで行くべきだった。

 その夜は不安でほとんど眠れなかった。何度か元夫や義理の母親に電話をしてみたが、いずれもつながらなかった。テレビはそのニュースでもちきりだったが、結局、病気の人間が人を襲って、集団パニックが起きているということ以外に新しい情報はなかった。高田は不安がって何度もスマートフォンを見る紗良を安心させようとしたのか、何度も抱きしめようとしてきたが、紗良はそんな気持ちになれず、その都度、それを振り払った。落ち着かない夜だった。

 次の朝、食事も早々に、高田を急かして、川崎に向かわせた。カーラジオをつけても、人を襲う感染者のニュースばかりだった。アナウンサーの一人がネットの一部では人を襲っているのはすでに亡くなった人だという噂が出ているという話をすると、スタジオに呼ばれていた医師が、そんなことはありえないと否定した。政治評論家は市中で感染者が人を襲っているなら政府がいち早く緊急事態宣言を出すべきだと持論を展開した。また、都内に感染症が蔓延している状態で令和元年を祝う式典やパレードを通常通りに行うことが妥当かどうかといった議論をもなされていた。しかし、相変わらず、番組を見ていても、本当のところ何が起きているのかが見えてこなかった。彼はこんなときにも安全運転だった。

「もっと急いでよ」

 紗良がそう言うと、高田は紗良の手を軽く握った。

「こんなときだから、慎重になる必要があるんだよ。事故ってこういうときに起こりやすいんだ。交通事故を起こしたら、なおさら早く行けなくなっちゃうだろ」

 そうかもしれない。そうかもしれないが、この男は私がどのくらい心配しているのかを分かってくれていないと思った。私はどうしてこの男と付き合っているのだろうとふとそう思った。

もうすぐ大通りに出る曲がり角で、目の前に急に人が飛び出してきた。高田は急ブレーキをかけた。大きな衝撃とともに人影はバンパーにぶつかり、さらに車はその男の体の上に乗りあげた。人を轢いた感触が助手席に座っている紗良にも伝わってきた。

「何だよ、急に飛び出してきやがって」

 高田はいつになく乱暴な口調で叫ぶと、ドアを開けた。高田は車の下を覗き込んで、悲鳴を上げた。紗良も慌てて車から出て、高田の様子を見ると、車の下から伸びた腕に襟首をつかまれていた。

「何、生きているの、どうなっているの」

 紗良が車の下をのぞくと、車に踏みつけられて動けなくなりながら、顔半分がつぶれた初老の男が、うめき声をあげて口を大きく開き、高田を噛みつこうとしているのが見えた。

「やめろ、何だ、お前、どうなってるんだ」

 高田は必死で男の手を振りほどこうとした。しかし、男の下半身がちぎれて、上半身だけとなり、車の下からすり抜けて、高田に襲い掛かった。高田は両手でそれを防ごうとして、二の腕を噛みつかれ、悲鳴を上げた。紗良は足がすくんで動けなかった。高田は上半身だけになった男の体を何度も電信柱に打ちつけ、やっと引き離した。それでもまだ襲ってこようとしていたため、高田は男を蹴り上げた。

「乗れ! 早く車に」

 我に返った紗良は慌てて車に戻った。高田は噛まれた腕を抑えながら、車を発進させた。


 その後、高田は自分のマンションに戻った。紗良は川崎に行くことを主張したが、高田はいつになく強い口調でそんな場合じゃないだろと怒鳴りつけて、進路を変えなかった。高田のマンションに戻ると、紗良は彼の手を手当てした。ここでも高田のマンションに着いたら、自分一人で車を借りて川崎に向かえばよかった。高田はマンションに戻るとすっかり怯え切っていて、もう絶対に外に出るべきではないと主張した。紗良のことも事態がどうなるか見極めるまでは心配だから帰せないと言った。紗良がいくら息子を迎えに行くと言っても、今はまだ駄目だと言って、部屋を出ることを許さなかった。高田の傷は紫色に腫れ上がっていた。その日一日、紗良は高田と二人で気まずい空気の中で一日中テレビでニュースを見ながら過ごした。

次の日、高田は体調が悪そうだった。傷を見ると、治っているどころか昨日よりも腫れが酷くなっているようだった。発熱もし始めていた。紗良は高田が感染したのではないかと不安に思い始めた。紗良が微妙に高田と接触するのを避けようとし始めたことに、高田は敏感に気がついた。高田はすがるような眼で紗良を見てきたりした。そして、あるときソファに座って毛布にくるまりながらテレビを見ていた高田の首がふいに後ろ側に倒れた。驚いて紗良が近づいていくと、高田は息をしていなかった。高田の死を悲しむ気持ちはあまり湧いてこなかった。それよりも、これからどうするかで頭がいっぱいだった。高田のズボンのポケットから車のカギを取り出そうとした。すると、その腕を強く掴まれた。生きていたのかと驚くと、高田はよだれを垂らしながら口を大きく開き、紗良に襲い掛かろうとしてきた。紗良は慌てて高田を突き飛ばした。一度倒れた高田はそれでも再び、紗良に襲い掛かってきた。紗良が部屋から飛び出そうとすると這いつくばりながら襲ってくる高田にロングスカートを掴まれて、前につんのめって倒れた。高田は四つ這いで逃げようとする紗良の当時は長かった髪を掴んで引き寄せた。紗良は咄嗟に車のキーを高田の目玉に押し込んだ。高田は動かなくなった。高田の車がキーレスエントリーではなくてよかったと思った。しかし、紗良の髪の毛を掴んだ高田の手は強く結ばれていて、開くことができなかった。仕方なく髪を掴まれたまま体を伸ばして台所の包丁を取り髪を切った。スカートが破れていたために、高田のタンスを開いてそこにあったレザーのパンツを履いた。胴回りはぶかぶかだったが、長さは背の高い紗良にはちょうどよかった。ただ、高田の目玉に深く突き刺さった車のキーを引き抜くことは恐ろしくてできなかった。そのまま紗良は護身のために包丁を鞄に入れて、高田のマンションを出た。

 しかし、結局、川崎に夫の実家にたどり着いたのはそれから一週間後であり、そこにはすでに誰もいなかった。数日間はそこで待ってみたが、結局誰も現れず、食料が尽きたために、大森の自分のマンションに戻った。その頃には街中を生ける屍が徘徊しており、物陰に隠れながら、少しずつ少しずつ移動するしかなかった。

大森のマンションに戻って、食料がなくなると近くに探しに行くという暮らしを何とか数ヵ月続けていたが、あるとき四、五体の屍に囲まれて逃げられなくなった。そのとき、急に一人の男が現れた。彼はまったく行ける屍たちに警戒する様子もなく、優雅にさえ見える動きで、生ける屍たちを足をかけて転ばせていき、紗良の手を取って引き寄せた。男は紗良を抱きかかえたまま、もう片方の手を大きく上げて合図をした。すると、周囲から四、五人の体格のいい男たちが現れて、次々とバットなどの武器で生ける屍の頭を破壊していった。紗良を助けた男は笑みを浮かべた。

「俺がいるから、もう大丈夫」

 それが生田だった。最後の大きな後悔は、この男について行ったことだった。


 いつものように西友の前のフレッシュネスバーガーにたどり着いた紗良はペットボトルの水を取り出して、インスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにゆっくりと注いだ。少しずつマグカップを回しながら水を注げば、スプーンでかき回さなくても溶けてくれる。紗良は茶色い粉が水の中に溶けていくのをぼんやり眺めていた。生田から離れてこのフレッシュネスバーガーでコーヒーを飲む時間だけが唯一の自分の時間のように思われた。

どうしてなんだろう。どうして私はこんな人生を続けているんだろう。あんな得体のしれない男の奴隷のようになって。あんな男の監視下に置かれた中では息子を取り戻すことなどできない。結局、私はこのままの人生を続けるしかない。だとしたら。紗良はそこで考えを止めて、マグカップに口をつける。だとしたら? 自殺でもするというのだろうか。それとも、あの男を殺す? いや、あの男を殺すことなどできない。あの男は心が読める。どこまで本当に人の心を読んでいるのは分からないが、何か普通の人間以上のことを感じている。昨日も二人の男の顔を触り、一人を先に殺すことを選んだのは、残した男の方が心が弱いと分かったからに違いない。あの男に触られたら心が読まれる。ただ、自分が結婚していて子どもがいたいことはばれていない。多分、分かるのはその場の感情のようなものだけなのだろう。だとしても、あの男を騙して殺すことなどできそうもない。

 急に後ろで物音がした。紗良は隣の椅子に置いていたバールを掴んで立ち上がった。

「いやいや、待って、ゾンビじゃないから」

 奥のトイレから男が二人出てきていた。見たことのない顔だった。少なくとも生田の部下たちではない。紗良はバールを握る手を強めた。

「そんな、恐い顔しないでよ。別に襲いに来たわけじゃないんだから」

 紗良はバールで思い切り机を叩いた。

「それ以上近づかないで。あなたたち何者なの」

 二人のうち背の高い方がニットキャップ越しに頭を掻く。

「もぉ、お姉さん、恐いなぁ。困っちゃったなぁ。そこの西友に住んでるの? あそこさぁ、中にブックオフ入ってなかったっけ。まだ、マンガとかCDとか残ってる?」

 もう一人の背の低い方の男は両手を挙げながら近づいてくる。

「あなたは青島紗良さんですね。あ、いや、離婚したので芦谷紗良さんでしたっけ」

 紗良の脈拍が一気に早くなる。なぜこいつらは私の素性を知っている。こいつらに過去をばらされたら、生田に殺される。

「誰の話をしてる? そんなやつは知らない。お前たちこそ誰なんだ」

 背の高い男は肩をすくめる。

「田中くん、ほら、違うって言ってんじゃん。やっぱ、見た目も違うよ。だって、この写真の人、もっとガーリーな恰好してるもん。この人は四十年前のパンクロッカーみたいな恰好じゃん」

「いや、何言ってんすか、服とかそういう問題じゃなくて、顔同じじゃないですか。もっとちゃんと見てくださいよ」

 背の高いネルシャツの男はズボンのお尻のポケットから写真を取り出して、紗良と見比べる。

「うーん。似てるっちゃあ似てるよなぁ。僕は町で芸能人を見かけたときとかも、ただ似てる人なのか本人なのか、よく分からなくなっちゃうんだよなぁ。志村けんくらい分かりやすい顔してたらいいんだけど」

 男は写真をと見比べながらどんどん紗良の方に近づいてくる。この男たちはどこで私の写真を手に入れたんだろう。一体、何が目的なのだ。背の低い方の男もさらに一歩近づいてくる。

「芦谷紗良さん、僕らはあなたの敵ではありません。息子さんのためにあなたを探していたんです。息子さんは生きていますが、お父さんもおばあちゃんも亡くなって、今誰もご家族がいない状態にあります」

 大輔が生きている。紗良の心臓が高鳴り、頭の中はめまぐるしく回転する。こいつらを信じていいのか。仮にこいつらの言っていることが本当だったとしても、ここで不用意に過去が暴かれたら、むしろ大輔の命が危ない。

「近づくなって言ったのが聞こえないのか。そんな子どもは知らない。私には子どもなんていない」

 紗良の警告をまるで気にしていないかのように、背の高い男が紗良の顔のすぐ横に写真を並べて見比べようとする。紗良はその男目掛けてバールを振り下ろす。男は慌ててそれをよける。もう一度バールを振り上げたとき、男に腕を掴まれる。

「ちょっと、待ってよ、そんな物騒なこと。困ったなぁ」

 そのとき、ふと男が首をかしげる。そして、そのままバールを握っている紗良の拳を上から握る。

「何をする」

 紗良はその手を振りほどいて男を突き飛ばす。男に触られた瞬間、何か背筋が寒くなるものを感じた。それは生田に触られたときと似た感触だった。そう言えば、どことは言えないが、この男は生田に似ている。

「あれ、この人、恐がってる。恐がってるけど、僕のことを恐がってるわけじゃないみたい」

 もう一人の男が尋ねる。

「それって、どういうことですか?」

 背の高い男は首を振る。

「いや、それ以上は分かんないや。この女の人なんか恐いから帰ろうよ」

「何言ってるんですか、絶対にこの人ですよ。きっと僕らがまだ警戒されてるんですよ」

「それ、田中くんが怪しいからなんじゃん?」

「あなたに言われたくないですから」

 そのとき、二人の後ろで物音がした。トイレからもう一人が姿を現した。二年の月日で身長が伸びて顔立ちも男の子っぽくなってきてはいたが、見間違えるはずもない大輔の姿だった。

「ママ」

 大輔は紗良の方をじっと見て呟いた。

「あれ、やっぱり、これがお母さんなの?」

 背の高い男が緊張感のない声を上げた。紗良の心の中に沸き上がったのは、喜びではなく、こんなところに不用意に大輔を直接連れてきてしまう、この男たちへの怒りだった。もし大輔に何かあったら、この男たちはどう責任を取ってくれるのだ。紗良はもう一度、バールで机を叩く。店内に大きな音が響き渡る。

「知らない、こんな子、知らない。変な言いがかりはつけないで。もう二度とここには来ないで」

 そして、脅しつけるように、バールを振り回すと、「ついてきたら、殺すから」と言って、フレッシュネスバーガーを飛び出した。



「行っちゃったねぇ。どうする? ついてったら殺すって?」

 紗良が置いていったコーヒーに口をつけながら死村が言う。

「え、それ飲むんですか?」

「そんなことより、ホントにお母さんだったわけ?」

 大輔は目を赤くしながら頷いている。田中は大輔の肩を叩く。

「きっとお母さんはあの場では自分がお母さんだって言えない何かの事情があったんだよ」

 大輔は睨むように田中を見る。

「何かって何?」

 田中は怯んで下を向く。

「ほら、田中くん、何って何さ。どうなっちゃってるんだかねぇ」

「それより、これからどうするんですか? 無理矢理にさらって帰ります?」

「いやいや、このご時世、それはさすがにまずいでしょう」

「このご時世って、いつのことですか。じゃあ、このまま引き返すんですか。相変わらず無計画だなぁ。絶対、あの人がお母さんですよ」

 死村は唇をぺろりと舐めて肩をすくめ、何気なく外を見まわす。

「あれあれ、まずいよ、これ。実にまずい感じがしてきたよ」

 気がつくと何人もの体格のよい黒服の男たちがそれぞれに武器を持って、フレッシュネスバーガーに近づいてきている。

「明らかに田中くんより強そうなやつらだねぇ。どうするよ、これは」



 紗良は西友の五階のキネカ大森に戻り、溜めてある水で顔を洗った。頭を冷やさなければならない。今、何をするべきなのか、何をするべきではないのか、冷静に考えるためには、頭を冷やさなければならない。

「どうした、お前、顔色悪いぞ」

 王様の椅子に座ったまま、生田が声をかけてくる。生田に触られるのはまずい。今、生田に触られたら、きっと何かを悟られてしまう。

「何でもないわよ。ただちょっと、昨日の男たちのことを思い出しちゃっただけだから」

 生田は蔑むような笑い声をあげる。

「少しは俺のやり方に慣れたと思ったら、お前は相変わらず優しいなぁ。お前が優しいのは俺に対してだけでいいんだよ」

 紗良は少しだけ生田の方を向き、そして黙っている。こういうときは何かよけいなことを言うよりも黙っていた方がいいことを経験で学んでいる。そのとき、生田の部下の一人がやってくる。

「見知らぬ三人を捕まえました」

「何だ、また今日もか?」

「二人の男と子どもが一人です」

「子連れか、それは絶対にデカいコミュニティがあるな。昨日聞いたところへもまだ行けてないのに、俺たちに運が回ってきたなぁ」

 紗良は表情を悟られないように顔を背けて劇場の壁を見る。丸山明宏主演の『黒蜥蜴』のリバイバル上映のポスターが貼られている。

「おい、お前も一緒に来るか」

 椅子から立ち上がって生田が言う。紗良は声が震えないように細心の注意を払って、

「しばらく昨日みたいの見たくないから、私はいい」

 と言う。生田は部下の肩を強く叩く。

「だってさ。お前らが、捕まえたやつらをいじめすぎなんじゃないのか」

 部下はただ、はぁ、としか答えない。

「まぁいい、それじゃ、勝手にしろ」

 生田はキネカ大森を出ていく。捕まったのは間違えなくさっきの男二人と大輔だろう。どうすればいい。あの男たちのことはどうでもいい。大輔だけは救えないだろうか。生田は子どもまで殺すだろうか。いや、直接殺しはしなくても、このコミュニティで育てることなどありえない。大人二人を殺されて、外に放り出されたら、大輔はとても生きていけないだろう。紗良が出て行って、子どもは助けてと頼んだとしたら、おそらく大輔は紗良を「ママ」と呼ぶだろう。その場合は生田は間違えなく予言通り紗良の子どもの大輔を直接自分が殺すだろう。何か出来ることはないのか。考えろ。今すぐ考えろ。紗良はこの一年半の間、生田のもとで、自分ができるだけ何も考えないように生きてきたということを実感した。今になって急に、しかもこんな難題を考えようとしても、頭はまったく働かない。考えろ、考えろ。これから先、どんなに馬鹿になったってかまわない。今この瞬間に考えなければ、自分には一生考えるべきことなどないのだ。



 田中が生田の部下の一人に殴りつけられて床に倒れた。

「どっから来たって、聞いてんだろ。てめぇだけじゃなくて、ガキも殺すぞ」

 田中は襟首をつかまれて立ち上がらされる。

「ちょと、待ってくださいよ、そんな乱暴なこと。何? 何で不機嫌なの? 話し合いましょうよ」

 死村が気の抜けたような声を出す。

「おめぇに聞いてるんじゃねぇだろ」

 死村も頬を殴られて倒れる。

「おい、マジか。マジでぶったよ、この人は。親父にもぶたれたことないのに」

「下らねぇこと言ってんじゃねぇよ」

 倒れた死村はさらに背中を蹴り飛ばされる。

 そこに生田がゆっくりとした足取りで現れる。

「おぉ、やってるねぇ。みんな、気合が入ってるねぇ」

 生田は三人の目の前まで来て、一人ずつをゆっくりと上から下まで舐めるように眺めて、死村のところで目を止めた。

「お前」

 薄笑いを浮かべていた生田の顔が強張った表情に変わる。鋭い目で死村を睨みつける。

「何? 僕が何? 何か悪いことしました?」

 生田はそのまま手を伸ばして、死村の喉を掴む。

「ちょっとやめて、そういうのやめて」

 生田は片腕で喉を掴んだまま死村の体を持ち上げる。死村は手足をばたつかせる。生田は突然手を放す。反動で死村は尻餅をついて倒れる。

「初めて会ったなぁ。そういうことか」

「え、何が? わけわかんないんだけど」

 生田は声をあげて笑う。

「嘘つけ。お前も今ので分かったんだろ、状況が」

「全然」

 生田は死村の顔を覗き込む。

「お前、人を殺したことあるだろ」

 一瞬、死村の動きが止まる。

「またまたぁ。やめてよ、そういうこと言って脅かすの」

「それ、ふざけているだけか? それとも本気で覚えてないのか?」

 死村は田中が化け物を見るような顔で自分を見ていることに気がつく。

「いやいやいや、田中くん、ホントだよ。僕、誰も殺してないよ。嫌だなぁ、もう。どうして信用してくれないかな。困っちゃうなぁ」

「お前、死んだはずの人間を見るか?」

 死村は大きく目を開く。

「何の話? 街中を歩いてるじゃん」

 生田は再び死村の首を掴んで、そしてすぐに離す。

「ひょっとして、まだ色々と気がついていないのか。まぁいい。実験してみよう」

 生田は部下たちの方を振り向く。

「面白いものを見せてやる。こいつをその死人部屋に入れろ」

 男たちが死村の両脇を抱え込む。死村は暴れるが複数に押さえつけられては抵抗できない。田中は立ち尽くす大輔の手を掴んだまま、茫然とそれを眺めている。

「えぇ、何で、何で、ゾンビ飼ってるの? やだなぁ、ねぇ、やめて。本気でやめて」

 部下の一人が生田に向き直る。

「本当にいいんですか?」

「いいからやってみろよ」

 英会話教室のドアが開けられ、昨日の初老の男のように死村もその中へ蹴り込まれる。死村はそのままマットの上に倒れ込む。屍たちはドアが開いたことに一瞬反応をしたが、すぐにまた緩慢な動きで部屋の中を徘徊するだけに戻っていく。その真ん中で死村は口に手を当てて静かにというポーズを取り、泥棒のようなゆっくりとした動きで屍たちの間をすり抜けて、壁際の本棚から「はらぺこあおむし」の英語版の本を取り出して読み始めた。生田の部下たちは騒めいた。

「ボス、これは」

「こいつは何者なんですか?」

 生田もそれを食い入るように見つめていた。

「騒ぐな。見ての通りだ。こいつは噛まれない」

 生田はガラスに手をついて中を覗き込む。死村は読めない単語があったのか、辞書をひいている。

「さて、問題はこいつをどうするかだ。こいつには聞きたいことがある」

 その場に集まった十人ほどの部下たちは明らかに動揺したような声を上げる。生田は舌打ちをする。そして、田中の方に向き変える。

「俺の見たところじゃ、お前たちはあいつみたいな特別仕様じゃないだろ。あいつは何者だ? どこから来た?」

 田中はこわばった表情のまま喋れない。

「おい、答えろ」

生田は田中の足を蹴り飛ばす。田中は体勢を崩したが、そのまま固まって動かない。それを見て、生田は今度は田中の腹を蹴る。田中は嗚咽を漏らす。

「お前、涙目になってないか? あんなやつかばう必要ないんだぞ。おい、あいつは何者だって聞いてるんだろうがよ」

 田中は大輔の手を放し、腹を抱えてうずくまる。

「おい、足が震えてるじゃねぇか。無理すんな」

 生田は屈んで田中の頭を掴む。

「何だ、お前、いじめられっ子だったのか。そっかそっか、俺が恐いのか。知ってること言えば、許してやるからよ」

 起き上がった生田は田中の頭を踏みつける。

「やめろ、何すんだよ」

 大輔が生田に掴みかかる。しかし、生田の部下たちに取り押さえられる。

「お前よぉ、こんなガキにかばってもらってんのか。情けねぇやつだなぁ」

 生田は何度も田中の頭を踏みつける。田中は手で頭を覆う。

「あいつは何者なのか、お前らのキャンプはどこにあるのか、それだけ言ったらいいんだよ。そしたら、お前もあのガキも助かるんだからよ。無理しねぇで早く吐いちまいな。昔、カツアゲされてたときみたいによぉ」

 生田が足を上げて力強く踏みつけようとしたとき、田中が急に顔を上げて、その足を振り払った。生田はバランスを崩して倒れそうになり、部下に支えられた。

「何だ、お前。やんのか。無理してんじゃねぇぞ。震えてんだろ」

 確かに田中は震えていた。目も真っ赤になって腫れ上がっていた。生田に何か言い返すことも出来なかった。ただ、その真っ赤な目を見開いて、生田を睨んだ。それを見ると生田は一度首を振って下を向き、そしていきなり田中の頬を殴りつけた。田中は吹き飛んで倒れたが、それでもまだ生田の方を向いて睨み続けた。生田の表情が強張った。

「お前、舐めてんのか。俺が、本当はこれ以上、何もしないなんて思ってるんじゃないだろうな」

 そのとき、背後から大きな爆発音がした。その場の全員がその音の方に目をやった。奥から紗良が取り乱した表情で駆けてきた。

「姐さん」

 生田の部下たちが紗良に駆け寄っていく。

「あっち、エレベーターのところから急に男たちが何人も。必死で逃げてきたけど、みんな武器を持ってる」

 部下たちはキネカ大森の方に駆け出す。

「ちくしょう、今日は何だってんだ」

 そう言って、生田はもう一度田中の足を蹴り上げてから、部下の二人を指さす。

「おい、お前たちはここで見張ってろ。こいつらを逃がすんじゃない」

 そして、生田もキネカ大森へと向かおうとする。その途中で紗良の肩に手を置こうとするが、紗良はさっと身をかわす。紗良はキネカ大森の方を指さし、

「早くあいつらをどうにかして、食べ物も飲み物も、みんな漁られているの」

 とかすれた声で叫ぶ。生田はそのまま部下たちとともに駆け出していった。



 残された生田の部下が死村の閉じ込められた英会話教室を振り返ったとき、死村は本棚を担ぎ上げて、窓ガラスに投げつけていた。窓ガラスは大きな音を立てて割れて飛び散った。

「おい、こいつを捕まえろ」

 そう言って部下の一人が仲間の方を見たとき、その男の頭を目掛けて、紗良がバールを振り下ろした。男はそのまま床に大の字になって倒れた。

「姐さん、何を」

 そう言ったもう一人に死村がドロップキックを食らわせた。紗良は大輔のところに駆け寄った。死村は田中の手を取って起こした。

「いいぞ、田中くん、戦士の目をしてる」

 田中はまだ何が起こっているのか分からないような茫然とした顔をしている。

「なぁ、これって、まだ何か策とかがあるわけ?」

 死村は紗良の方に向きかえって尋ねる。

「あるわけないでしょ。やつらはすぐに戻ってくる。逃げるだけよ」

 そう言うと、紗良は大輔を抱えて猛烈な勢いで止まったエスカレーターを降り始めた。死村と田中も慌ててそれを追いかけた。途中の階では、生田の部下たちが血相を変えて子どもを抱えて降りてくる紗良を訝って近づいてきた。

「姐さん、何事ですか」

 紗良は叫ぶような声を上げる。

「上の階に、人が攻めてきてるの。ほら、早く、あの人を助けて」

 紗良の剣幕に驚いて、男たちの多くは、エスカレーターを駆け上がっていった。ただ、その中の注意深い一人が、紗良の抱える子どもと後に続いてくる男二人が、先ほどの捕虜だということに気がつき、

「こいつらは何なんですか」

 と紗良の行く手を阻んで問い詰めようとしてきた。しかし、勢いよく駆けてきた死村がその男の足を払うと、男は体勢を崩して膝をついた。そこに紗良が回し蹴りをくらわせると、男は横倒しになった。

「急ぐわよ」

 そう言って、再び紗良は走り出した。三人はエスカレーターを下りきると、息を切らせて西友の前に飛び出した。


「で、これからどうするつもり?」

 死村が大輔を下ろした紗良に尋ねた。

「どうするも何も、私は何もかも捨ててきたのよ。あなたたちについて行くしかないじゃない」

 田中はそのままフレッシュネスバーガーを通り越して道路を渡っていく。紗良や大輔、死村もそれに続く。そして、田中はファミリーマートの脇に止めてあった郵便カブの前で立ち尽くす。

「これ、四人って無理じゃない?」

 紗良が駆け寄る。

「何、あんたたち、車じゃないの? こんなものに乗ってきたの? 馬鹿じゃないの、どうやって私を連れて帰る気だったのよ」

 死村が肩をすくめて言う。

「そう言えばそうだねぇ。こりゃ、気がつかなかった。困ったなぁ」

 紗良は死村を肩を突き飛ばす。

「あんたのそういう緊張感のない言い方がむかつくのよ。どうするつもりなの」

「あぁもう、やめてよ、暴力は。あ、そうだ、僕とお母さんと坊主がカブに乗って、田中くんが走るっていうのは?」

 今度は田中が死村の肩を突き飛ばす。

「絶対に嫌だ。っていうか、そういうのは、特別仕様のやつの役割に決まってるし」

「いやいや、僕、ゾンビに噛まれにくいってだけで、それ以外はむしろポンコツだもん」

 死村の返答を待たずに大輔はカブにまたがり大輔を自分の前に乗せる。

「ほら、お母さん、後ろにまたがって」

 西友の入口から男たちの騒めく声がする。

「やばい、やつらもう出てきたぞ。早く逃げなきゃ。探偵はほら、そこに自転車が沢山あるじゃん」

 見ると、ファミリーマートの目の前が三階建ての大きな駐輪場になってる。

「ちくしょう、分かったよ、自転車で行くよ、早く出せ。追いつけなかったら、チネチッタの噴水で待ってろよ」

 田中はエンジンをかけて発進させた。三人乗りのためにスピードはあまり出ない。死村は自転車置き場に腰をかがめて隠れた。

「おい、あそこだ、バイクで逃げてくぞ」

 四、五人の男たちが道路を渡ってくる。生田はいないようである。

「あいつらを捕まえろ、車を出せるか」

 そう田中たちを指さす男の頭に何かが落ちてきてぶつかる。

「おい、何だこりゃ」

 そう言っているうちに、もう一発、落ちてきてぶつかる。

「自転車のサドル?」

 見上げた部下の一人の顔にもう一つサドルがぶつかった。駐輪場の二階から通りを見下ろしながら、死村が自転車のサドルを投げつけてくる。

「あほー。弱い者いじめするなー」

 投げつけられたサドルを払いのけると、男たちは死村を捕まえに自転車置き場に駆け込んだ。男たちがスロープを駆け上がろうとすると、上から何台も自転車が落ちてきた。男たちはドミノ倒しになって転げ落ちた。自転車の下敷きになって倒れた男たちの横をすり抜けるように死村の乗ったマウンテンバイクが通り過ぎた。

「チャーオ」

 死村は男たちに手を振ると、そのまま道路まで飛び出した。追っ手を撹乱するために、田中たちと別の道を行こうと、大森駅の方へと向かった。そのとき、フレッシュネスバーガーの前に生田が仁王立ちしているのが見えた。死村はかまわず自転車をこぎ続けた。死村の背中に生田の声が響き渡った。

「お前! 必ずまた会うことになるからな。お前は俺から逃れられないからな!」

 死村は一心不乱に自転車をこぎ続けた。死村のマウンテンバイクは廃墟と化した大森駅前を一直線に走り抜けていった。



 死村は息を切らせてチネチッタの通りまで戻ってきた。チネチッタに近づいていくと、大きな物音とどなり声が聞こえてきた。噴水の前で田中と紗良がもみ合っているのが見えた。死村は慌てて自転車を乗り捨てて、二人のところまで駆け下りていく。

「なになに、やめなよ、何してんだって」

 死村は紗良の腕を掴む。もみ合っているように見えていたが、一方的に田中が殴られていたようだった。紗良は強い力で死村を押しのけた。死村はよろけた。紗良は田中の頬を再び殴りつけた。大輔はただ立ち尽くしてそれを眺めていた。再び立ち上がった死村がもう一度紗良の手を今度は本気で力を込めて抑えた。

「やめなさいって。何、どうしたっての」

 紗良は今度は死村の腹に膝蹴りを食らわせた。死村はくの字に体を折って前につんのめった。紗良はそんな死村を突き飛ばして転ばせた。

「あんただって、同罪。やめなさいだって。あんたは私が何で怒っているのか、まるで分ってないの? 信じられない。そんなやつらが一番たちが悪い」

 紗良は倒れた死村と田中を交互に蹴飛ばした。そして、よろよろと起き上がろうとした死村のネルシャツの襟首をつかんだ。

「あんたたちはねぇ、私の息子の命を危険に晒したのよ。なんであの子をあんなところまで直接連れてきたの。なんで何の考えもなしにいきなりのこのこと現れたの」

 紗良は死村を突き飛ばし、今度は田中の髪の毛を掴んで顔を持ち上げる。

「そんな何の緊張感もないあんたたちの行動で、どれだけあの子が危険だったか、あんたたちには何も分からないの? もしあの子に何かあったら、あんたたちはどうやって責任を取る気なの。自分たちがどうでもいい人生を送っているからって、私の息子を巻き込まないで!」

 田中は何を言えずに目を赤くして強張った顔をしている。

「もし息子に何かあったら、私はあんたたちを殺してたわ。これは冗談じゃないからね。本当に殺してたわ」

 そう言うと、紗良は田中の髪の毛を手放した。紗良の足に大輔がしがみついていた。

「もういいよ、もうやめてよぉ」

 紗良は大輔の頭を撫でた。そして、目をつぶって大きく呼吸した。こんなはずじゃなかった。こんな私じゃなかったはずだった。いつの間に私は男たちを怒鳴りつけ蹴り飛ばすような人間になってしまっていたのだろう。生田が乗り移っている。生田の凶暴性が確実に自分の中に乗り移っている。これは私じゃない。ましてや久しぶりに会った息子に見せる姿じゃない。私、どうしちゃったんだろう。私、どうなっちゃったんだろう。

 紗良は崩れ落ちるようにしゃがみ込んで大輔を抱きしめた。紗良の両目から大粒の涙が流れていた。

「ごめんなさい、探し出せないでごめんなさい。あのときすぐに迎えに行かないでごめんなさい。今まで放っておいてごめんなさい。うんと恐い思いをさせてごめんなさい。何もかもお母さんが悪いの。こんなお母さんでごめんなさい。こんなお母さんになってしまってごめんなさい。だって、もうどうしたらよかったのか、お母さんも恐くて、恐くて、何もできなくて」

 まだ紗良は何か言い続けていたが、すでに聞き取れないような言葉になっていた。大輔はただ母親の服にしがみついていた。

 死村は立ち上がると田中の手を取って立たせた。紗良と大輔は抱き合って泣いていた。田中は先ほどまで鬼のような形相で自分を殴っていた紗良が急に泣き崩れたことに驚きを隠せないようだった。死村はただ首を振って、田中の胸を軽く叩く。

「落ち着いたら、彼らをラゾーナに連れて行ってあげて」

 死村は噴水の周りの階段を重い足取りで上っていった。倒れていた郵便カブを起こしてエンジンをかけようとする死村に田中が駆け寄っていった。

「ねぇ、探偵。僕たちはさぁ、いいことをしたはずですよねぇ」

 エンジンのかかったカブに跨った死村は田中の方に振り返る。

「分かんない」

 田中は顔を歪める。死村はそんな田中の顔を見て一瞬動きを止める。

「でも、田中くんが頑張ったのは本当だから」

 そして、死村は向き直って、カブを発車させた。チネチッタ前の古いイタリア風の街並みの中を、死村のカブのエンジン音と、母親と息子の鳴き声が響いていた。


* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。毎週金曜日の夕方に配信します。全七章になります。

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