第三章 咲江と大輔の場合
平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。
夜のラゾーナに子どもの泣き声が響いていた。うとうとしかけていた咲江は目を覚ました。隣の布団で孫の大輔が泣いていた。泣き声は最初はすすり泣き程度だったが、次第に大きくなっていった。時計を見ると二時半だった。咲江は起き上がって、大輔を立たせ、部屋の外に出た。大輔は泣き声を上げながら、黙って咲江についてきた。部屋の外に出ると、咲江は大輔を抱きかかえた。
「どうしたのぉ、そんなに大きな声を出したら、他の人に迷惑になっちゃうじゃない」
学校に通っていたらもう小学三年生になるはずの大輔は咲江が抱えて持ち上げるには少し重かった。咲江はすぐに腰が痛くなって床に下ろした。大輔の泣き声はおさまらなかった。夜のラゾーナは静まり返っていて、大輔の泣き声しか聞こえない。寝ている人たちの邪魔にならないところに行こうと、咲江は大輔を連れて倉庫として使われている一階まで降りていった。今はもう動くことはなく階段として使われているエスカレーターに腰を下ろし、咲江は大輔の短く刈られた頭を撫でた。
「そんなに泣かないでよ、おばあちゃんまで泣きたくなっちゃうじゃない」
大輔はいよいよ大きな声で泣いた。
「パパに会いたい。パパに会いたいよ」
大輔は鼻をすすりながらそう言って咲江を叩いた。
「そんなこと言ったって、パパはここにはいないんだから。そのかわりおばあちゃんがいるでしょ、ほら、おばあちゃんと一緒に寝ましょうね」
咲江が大輔の手を掴むと、大輔は体をばたばたと動かした。力が強く、咲江にはなかなか抑え込めない。孫がそれだけ成長しているということを頼もしく思う半面で、今この状況をどうしたらいいか分からない。
「じゃあ、ママ。ママに会いたい。ママに会いたい」
仕方なく咲江は大輔の体を引き寄せて抱きしめるが、それでも大輔は体をばたつかせる。
「パパもママもいないの。わがままを言わないで」
「嫌だ、パパと会いたい、ママと会いたい。何でいないの」
最近は父親や母親のことを言い出さない日も増えていたが、前日に同じラゾーナに住んでいる同い年くらいの両親の揃った子どもと一緒に遊ばせたのが刺激になってしまったのかもしれないと咲江は思った。
「おばあちゃんだって、昭夫に会いたいのよ。でも仕方ないじゃない。おばあちゃんが代わりじゃ駄目なの?」
大輔は泣き止まない。
「パパじゃないと駄目、パパの代わりにおばあちゃんがいなくなればよかったんだ」
それを聞いて咲江は動きを止めた。愕然とした。まったくその通りだと思った。それは常日頃から咲江自身が感じていたことだった。昭夫ではなく、私がいなくなればよかった。私が昭夫の代わりに生ける屍に捕まればよかったのだ。
「青島さん、ちょっといいでしょうか」
昼食の帰りに大山に呼び止められた。咲江は委員会の人から話しかけられるなんてどうせよい話ではないだろうと思った。一緒に委員会の会議室についていくと大山はお茶を出してきた。大山は咲江が椅子に腰掛けてお茶に口をつけるのをしばらく眺めた後で切り出した。
「あのですねぇ、青島のおばあちゃん。すごく言いづらいんだけど、夜中に大輔くんの泣き声がうるさいっていう苦情が出ているんですよね。いや、誰からとかは言えないんだけど」
やはりその話かと思った。しかし、そう言われてもどうしようもない。そんな咲江の気持ちを察したのか大山は柔らかい口調で言う。
「あ、もちろんね、そんなこと言われたって困るって言うのも分かるんですよ。それに、青島のおばあちゃんのせいじゃないっていうのも分かってるし。だから、委員会からの提案としては、あの家族ゾーンじゃなくて、五階に新しく出来た赤ちゃんエリアに引っ越したらいいんじゃないかなって」
赤ちゃんエリアはラゾーナ内で新たに子どもが生まれるようになって作られたエリアで、乳幼児がいる家族が夜中に泣き声で他の人たちの迷惑をかけないように暮らしているところだった。ただ、そこにいるのは本当に乳幼児のいる家族であって、小学生になるような子どもはいなかった。咲江は仕方ない気もしたが、一方でそれでいいのだろうかとも思った。
「昨日はたまたまひどかったんです。だから、もうちょっと様子を見させてもらえないでしょうか」
そう言うと、大山は少し沈黙して考えている風であったが、すぐに笑顔になって答えた。
「そうですね、しばらく様子を見ましょうか」
咲江は立ち上がって帰ろうとするが、ドアの前で立ち止まる。
「あの、大山さん」
書類の片付けを始めていた大山は顔を上げる。
「ひとつ、お願いがあるんですが」
死村はその日もビーチベッドで寝転がっていた。遠くから子どものはしゃぐ声が聞こえていた。よく知っている曲だった。これはザ・ドリフターズのヒゲダンスの曲じゃないか、死村は何で子どもがそんな昔の曲を歌ってんだよと呟きながら、ベッドから降りて欄干に手をかけて下を覗き込む。すると四人の人影が歩いてくる。大人が三人と子どもが一人。そのうちの一人は洋子だった。
「こりゃ仕事だよ、仕事ぉ」
死村はそう言って、事務所の中に入っていった。やがて騒がしい音を立てて、色の黒いスポーツ刈りの子どもが階段を上ってきた。子どもはそのまま勢いよく事務所の中に入ってきて、
「志村けんってここ?」
と叫ぶ。
「誰が、志村けんだよ。おい、保護者者いないのかよ」
やがて大人たち三人も上がってきた。洋子と三十代半ばくらいに見える男性、そして初老の女性だった。死村は洋子に話しかける。
「その人が、この間言ってた青島のおばあちゃんなわけ?」
洋子は目の隣にいた女性を前に出して答える。
「そう、この方が青島咲江さん。彼女があなたに依頼したいって。それじゃ、私たちは外で待ってるから」
「え、そのもう一人の男は誰なの?」
男は死村に会釈をして、
「私はただのドライバーですよ」
と笑顔で言う。そして、洋子と男は事務所を出て行く。
「へぇ、ねぇ、青島のおばあちゃん。今の男の人、洋子さんと付き合ってるのかねぇ」
咲江は笑って私は知らないと言う。その間も子どもは事務所内に無造作に積み上げられたマンガやCDを漁っている。
「おい、いじるな。CD割るなよ」
子どもは顔を上げる。
「何だよ、志村けん、こんなにいっぱいあるんだからいいだろ」
死村は咲江の方を見る。
「あの、何でこんなちっちゃい坊主が志村けんのこと知ってるんです?」
「あぁ、この子の父親が志村けんさんが大好きで。それと、最近、ラゾーナの中で噂、都市伝説っていうんですかそういうの、流行ってるんですよ」
「志村けんの都市伝説? どんな話?」
「何でも、志村けんさんはバカ殿の撮影中に襲われてしまったんで、今でも派手な衣装でちょんまげ姿のままであたりを彷徨っているらしいんです」
「バカ殿の格好でゾンビになってる? それ本当なんですか?」
「さぁ、私の知り合いの知り合いには見たっていう人がいるんですが。そのバカ殿の姿を見ることが出来ると、その人は願いごとが叶うそうなんですよ」
「まぁ、目出度い感じがするのは確かですけどねぇ」
子どもが死村のデスクの前にやってくる。
「おい、志村けん。だっふんだってやってくれよ」
死村は苦笑しながら咲江に助けを求める顔をする。
「ほら、大輔、そんなわがままいうもんじゃありません。探偵さん、困ってしまっているじゃないの」
「えぇ? 志村なのに、だっふんだも出来ないのぉ。だっふんだやってよぉ」
咲江は大輔の頭を何度か撫ぜると死村に向き直る。
「すいません、言い出したら聞かない子でして。一回だけでいいんで、だっふんだってやってもらえないでしょうか」
「えぇ? やるの? そういう話になるの?」
死村が驚くと、咲江は深々と頭を下げる。死村は頭を掻く。
「あぁ、もう困っちゃうなぁ」
咲江と大輔がじっと死村を見ている。
「一回だけですよ。だいたい、だっふんだはバカ殿じゃなくて、変なおじさんのギャグじゃん」
そうぶつぶつと言いながら少しの間をおいて、
「だっふんだ」
と言って精一杯の変な顔を作る。すると、大輔はすぐに関心なさそうに「何かそれ違う」と言って後ろを向き、また事務所内のマンガ漁りを始めてしまう。
「えぇ? 今の見ました、人がせっかくやりたくもないだっふんだをやったのに、そのリアクション? ちょっと青島のおばあちゃん、あんたあの坊主にどんな教育してんですか」
咲江は笑いながらまた頭を下げる。
「本当にすいません、どうも、愛想がなくて。わざわざありがとうございます。あれでもきっとすごく喜んでいるんだと思います」
「そ、そ、そうかなぁ。全然そんな感じには見えないけどなぁ。ホント、困るなぁ」
死村は憤りを隠せない。
「っていうか、僕にだっふんだをやらせるためにわざわざ来たわけじゃないんですよねぇ。本当の用件は何なんですか?」
咲江は少し改まった顔になって話し始める。
「実は、あの子の父親を探してほしいんです」
死村も少し真面目な顔になり、椅子に座る足を組み変えながら尋ねる。
「それで、いつ頃父親とはぐれたんです? どこにいるとか見当はついていたりするんですか?」
「あの、実は二年前に、この子と息子の昭夫と私で横浜スタジアムに野球を見に行って、そこであの騒ぎが起きて、私たち二人は何とか逃げてきて、息子だけが逃げられずに、そのまま野球場から出られなくて」
死村は後頭部を掻きながら言う。
「あぁ、もうはっきり分かってるんですね。でも、あの大パニックになったときにそんな人ごみの中にいてはぐれたんだから」
そこまで話してから死村はちらりと大輔を見て少し小声にして続ける。
「正直なところ、もう生きている可能性は低いんじゃないですか」
「私もそう思います。息子は私たちを逃がすために自分が犠牲になったところがあって。でも、この子が毎晩、父親に会いたいって泣くんです。だから、もし変わり果てた姿になっていたとしても、どうしても、もう一度だけ昭夫に会わせてあげたいって思うんです」
死村は首を振る。
「いやいやぁ、だって、もし仮にお父さんが今でも横スタの中でゾンビになってウロウロしてたとして、それを見たところで、もうかなり腐りかけて変わり果てた姿になってますよ。最後のいい思い出が出来るなんて、そんな綺麗な話にはならないですから」
咲江は頭を下げる。
「それでもいいんです。それであの子が諦められるならそれがいいかもしれません。だって、毎晩、毎晩、昭夫に会いたいって言われて、私もどうしたらいいか分からなくって」
「ちょっと、顔上げてくださいよ」
「このままだと、つらくて、こんなとき、昭夫がいてくれたらと思うと、この子だけじゃなくて、私も昭夫に会いたくて」
咲江は下を向いたまま涙を拭う。
「ちょっと困るなぁ。だって、本当に、ゾンビなんて汚いものですよ? 会ったってメリットないかもしれませんよ」
「それでもいいんです、どうかお願いいたします」
「まったく、困っちゃうなぁ」
そう言いながら、死村はプレハブ小屋の天井を見上げた。
「それで、どんな感じでお父さんと横スタではぐれたんですか?」
大輔の両親は、大輔が小学校に入る前に離婚した。大輔は母親に引き取られて、月に一回、週末に父親の昭夫と会うことになっていた。大輔は父親に会うのを楽しみにしていた。野球好きだった昭夫はよく公園で大輔とキャッチボールをした。昭夫はいつも大輔にいつか一緒に野球場に連れて行ってやると言っていた。
平成三十一年四月、大輔は小学校に入学した。昭夫はもうそろそろ連れて行ってもいいだろうと思った。最初、母親も一緒に行くことになっていた。ただ、前日に電話をしたときに、養育費の振り込みが遅いと文句を言われたことで口論になり、結局母親は行かないことになった。チケットが一枚余ってしまうため、昭夫と二人で暮らしていた咲江が行くことになった。試合はベイスターズ対ドラゴンズ戦だった。昭夫は松坂大輔が先発するのではないかと勝手に予想をしていた。横浜出身だった昭夫は自分と同い年の松坂に高校野球の頃から憧れていた。松坂が西武ライオンズに入団し、そしてメジャーリーグに入ってからも、故障して成績が振るわずに日本に帰国してからもずっと応援していた。息子の名前の大輔も松坂からつけられたものだった。それだけに昭夫はまだ現役のうちに松坂が投げるところを大輔に見せてあげたかったのだった。ただ昭夫の予想は外れて松坂はその前日に先発をしてしまった。それでも昭夫は球場に登板の予定のない松坂のユニフォームを着ていった。
「あなた、今日は出ない人のユニフォーム着ていくの?」
咲江にそう言われたが、昭夫は自分は横浜人として松坂を応援しているんだといつもの豪快な笑い声を上げながら答えた。咲江はこんなに陽気で子ども思いの昭夫がどうして離婚されなければならなかったのだろうと思った。球場について人だかりの中に入ると大輔は興奮してはしゃいだ。グッズ売り場では目を輝かせて、咲江の腕を引っ張って、応援バッドを買ってくれとねだった。何年か前に県内の幼稚園や小学校に一斉に配布されたベイスターズのキャップを被り、買ってもらったばかりの応援バットを持って、大輔はご機嫌だった。一塁側の席に着くと、周りではすでにビールを飲んで酔っ払っている人たちが盛り上がっていた。これまでこんなに大勢の大人たちが大声を出して騒いでいる場に来たことがなかった大輔は目を丸くした。昭夫はそんな大輔に、
「な、な、すごいだろ、野球場は。すごいんだよ。野球選手はこんな沢山の人がいる野球場の真ん中でボールを投げるんだぞ。お前も野球やりたいか?」
と問いかけた。「やる!」と大輔が叫んだのを見て、昭夫は喜んで咲江に、
「おい、こいつ野球やるってよ。少年リーグを探さないと!」
と嬉しそうに言った。咲江は母親がどう言うか分からないと思ったが、今言うと水を差すような気がして黙っていた。ただ、子どもと二人で自分も子どものように騒ぐ昭夫を見ていることは、咲江にとってもとても幸せな時間だった。そしてここに三年前に死んだ夫がいたらもっとよかったのにと思うのだった。
試合が始まると周囲のテンションはさらに高まっていった。昭夫は大声で「ちょっと、ベイ餃子買ってくる」と言って席を立った。「ベイ餃子」は横浜スタジアムの名物だった。大きくてたっぷりと肉が詰まっていて絶品の美味しさであり、昭夫はつねづねそれを大輔や咲江に食べさせてあげたいと言っていたのだった。
昭夫は餃子を買いに行くと言って席を立つと、なかなか帰って来なかった。酔っ払って大声を出して声援をする人たちに囲まれて、咲江は少し心細い気持ちだった。大輔は「あれなに?」とか、「今どうなったの?」など、野球に関する質問をしてくるのだが、咲江には分からないことの方が多かった。ただ、それでも二人で野球を観ていると、昭夫が中学生だったときのことを思い出した。その頃、昭夫はリトルリーグに所属していた。小学校の頃から野球をしていたが、中学に入っても背が伸びず、周りの同級生たちと比べて一回り小さい昭夫はなかなかレギュラーにはなれなかった。咲江が応援に行っても試合に出れないことも多かった。ただ、その分、代打で出場しヒットを打ったときの喜びは大きかった。しかし、昭夫は自分の体格に限界を感じて、高校に入ると野球をやめてしまった。咲江は自分も夫も体の大きな方ではなかったので申し訳ないと思ったが、謝ってどうにかなるようなことでもない気がして、野球を失って肩を落とす昭夫にどう声をかけていいか分からなかった。咲江にはそんな日々がつい最近のように感じられた。やがて昭夫は結婚した。相手の女性は昭夫よりも背が高く、骨格がしっかりしていた。いつか大輔がこの横浜スタジアムのグラウンドに立つ日が来るかもしれない。そんなことを大観衆の中で咲江は思い描いていた。ただ、父方の血が強いのか今のところ大輔も背が低く、クラスで一番前になってしまうことも多いらしかった。
突然、大輔が大声で叫んだ。前後左右の人たちが一斉に立ち上がった。驚いた咲江もつられて立ち上がって電光掲示板を見ると、「ホームラン」の文字が点滅していた。
「おばあちゃん、ホームランだよ」
大輔が両手を上げて喜んでいる。咲江は一緒に立ち上がっていた隣にいたサラリーマン風の男と目が合ってしまう。すると男は満面の笑みを浮かべて、咲江と無理矢理握手する。
「いやぁ、筒香、最高ですね。お母さん、今日は勝ちますよ」
知らない人といきなり握手をするなんてことは初めてであり、咲江は驚いて心臓がドクドクと音を立てているのを感じた。それにしても、息子は一体何をしているんだろう。ホームランが出たのを知っているのだろうか。思い出して、携帯で昭夫に「何してる。つつごうってひとホームラン打った」とメールを打った。昭夫からすぐに「見たかった! 餃子買ったから、すぐに行く」と返事が来た。
昭夫のメールを見ていた咲江が顔を上げるとベイスターズの攻撃が終っていた。回の合間にチアガールたちが登場してパフォーマンスを始めた。
「ねぇ、野球なのに、何であの人たちが踊ってるの?」
大輔にそう聞かれて、咲江はどう答えたらいいか分からなかった。
「うぅん、何でだろうねぇ」
と、咲江は大輔と一緒に首をかしげた。そのとき外野スタンドから客が一人、グラウンドの中に落っこちた。落ちた男はゆっくりと立ち上がった。
「ねぇ、人が落ちたよ」
「本当ねぇ、危ないわねぇ。あの人大丈夫なのかしら」
外野フェンスに描かれた崎陽軒のシュウマイの文字の前あたりから、その男はゆっくりと内野の方に向かって歩き出していた。場内は相変わらず音楽が流れチアガールたちがダンスを続けていた。警備員が現れて男の方に向かっていった。遠くの咲江からも男の様子が酔っているのかふらふらとしているのが分かった。
「嫌ねぇ、何なのかしら」
男が近づいてきたのでチアガールたちは踊るのをやめて戸惑った様子を見せた。男がチアガールの一人に飛びついた。場内は音楽が流れ続けていた。咲江には何が起こったのかまったく分からなかった。異変に気がついた周囲の人々からもざわめきが起こった。
「なに、なにあの人、なんで襲い掛かってるの?」
大輔が不安そうに言った。咲江は思わず大輔を引き寄せて抱きしめた。変質者かストーカーなのだろうかと思った。
「おい、出血してないか!」
先ほど咲江と握手をした隣の席のサラリーマン風の男が指を指して大声で言った。チアガールの衣装の一部が赤く染まっていた。男は警備員によってたかって抑えつけられた。もみ合っているうちに、今度はそのチアガールが警備員の一人に襲い掛かった。咲江にはまったくどうなっているのか分からなかった。何かとんでもないことが起きている気がした。そうしているうちに、フェンスの先ほど男が落ちたあたりから、ばたばたとさらに何人もの人が落ちた。それぞれが最初の男と同じように立ち上がって歩き出した。あたりからは悲鳴が聞こえ始めた。
「ねぇ、おばあちゃん、なに? なになの?」
「大ちゃん、大丈夫よ、おばあちゃんがついてるから」
咲江は大輔の肩を強く掴んだ。ようやく音楽は止み、「フェンスから飛び降りないでください」という場内放送が流れていた。咲江たちの周りの席からはその場から逃げ出そうとする人も出てきていた。咲江は迷った。今ここを離れてしまったら、昭夫とはぐれてしまうかもしれない。急に座席の前の方で悲鳴が起こった。人々が出口に向かって押しよせていった。通路はもみくちゃになった。咲江は大輔を抱きかかえたまま動けなくなった。あたりの人がみんな通路の方に押しかけて見通しがよくなると、全身が血まみれで真っ赤になったTシャツを着た男が口を大きく開いてこちらを見ているのが見えた。
「おばあちゃん、あの人なに!」
逃げなければいけないと思った。とにかく逃げなければいけないと思った。それなのに咲江の体は動いてくれなかった。足ががくがくと震えていた。血まみれの男はゆっくりと近づいてきた。他の人たちは皆自分が逃げるのが精一杯で助けてくれそうもなかった。
「来るよ、来るよ、おばあちゃん、どうするの、どうするの」
大輔が咲江の体を揺さぶった。咲江はどうして自分の体はこんなときにまったく動かなくなってしまうんだろうと思った。自分は死んだってかまわないが、もし大輔に何かあったりしたら、昭夫に対して何て言えばいいか分からない。真っ赤な血まみれのシャツの男は近づいてきた。よく見ると目の焦点がまったく合っていない。口は開いたままで、中から血がだらだらと流れている。こんな状態になっている人間は見たことがない。咲江は大輔の顔を自分の服で隠して血まみれの男を見せないようにした。どうなってしまうんだろう。神様、どうかこの子だけは助けてください。血まみれの手が咲江の腕を掴もうとした。咲江は目を閉じた。
「何やってんだ、早く逃げろよ」
急に聞きなれた声がした。驚いて目を開くと、昭夫が帰ってきていた。
「何だお前は、広島ファンか!」
昭夫は赤く染まったTシャツの男を蹴り飛ばした。
「ちくしょう、わけが分からない。おい、何でじっとしてるんだよ、逃げるぞ」
昭夫が咲江の体を押した。押されてようやく体が動き出した。
「あぁ、昭夫、昭夫、どうなってるの、どうなってるのよ」
昭夫は咲江の肩を揺すぶった。
「そんなこと、俺が知るかよ。とにかく逃げるんだ。行くぞ。大輔もいいな、逃げるぞ」
昭夫に押されて三人は通路に出て出口に向かった。出口付近は逃げ惑う人でごった返していた。場内放送で「押し合わないでください」と言う声が流れていた。放送の声も明らかに上ずって混乱しているのが分かった。
「押し合うなって言ったって、こんな状況じゃ、どうにもならねぇだろ」
群衆の中で先に進めなくなった昭夫と咲江が振り向くと、先ほどの赤シャツの男が再びこちらに近づいてきていた。よく見ると、その奥にも、やはり血まみれでふらふらとしたビールサーバーを背負った売り子が群集めがけて近づいてきていた。
「何なんだよ、まったく」
昭夫は一刻も早く出口を抜けようと前にいた咲江の体を押したが、すぐには出られそうもなかった。
「母ちゃん、これ持ってろ」
昭夫は咲江の胸にどんと何かを突きつけた。咲江が受け取ると温かかった。
「ベイ餃子だよ。こんなんじゃもしはぐれたら会えないかもしれないから、そんときは冷めないうちに食っちゃっていいぞ。大輔をつれて、先に家に帰ってろ」
そう言うと昭夫は赤シャツの方に向かっていき、力いっぱい殴りつけた。赤シャツは仰向けに倒れた。すると、今度はビールの売り子が昭夫に襲い掛かった。昭夫は売り子の腕を振りほどいて突き飛ばした。踊り子はよろけて背中からベンチにぶつかった。ビールサーバーに穴が開き、音を立てて泡が吹き出した。
「パパ! 早く来て!」
大輔の声がした。群集が動き出して咲江と大輔が昭夫から離れていったのだった。昭夫が叫んだ。
「早く行け、心配するな。パパは無敵だって忘れるな!」
赤シャツが昭夫の足を掴んだ。昭夫はバランスを崩して倒れて床に手をついた。ビールの売り子は首の骨を折ったのか、首が後ろ側に倒れた不自然な姿のまま立ち上がった。二人は倒れた昭夫に襲い掛かっていった。そこから先は群集の波に流されて出口を抜けていった咲江には見届けられなかった。
「それで、そのとき以来、会ってないわけですか?」
「はい、結局、その後、この大輔と二人で何とか家まで帰ったんですけど、昭夫は帰っていなくて、その日の夜も次の日も帰ってこなくって」
「母親はどうしたんですか?」
「もちろん、すぐに連絡しました。その日のうちはまだ電話もつながる状態でしたから。一度だけ。混乱の中を家に帰る途中だったので、大輔と家で待っているからとだけ伝えたんです」
死村は立ち上がると、冷蔵庫まで歩き、ドアを開ける。
「志村けん、なに飲むの?」
「志村けんじゃないって言ってんだろ。クリープだよ、クリープ。お前も飲むか?」
「そんなのいらない」
死村は舌打ちをして、クリープを取り出してマグカップに入れる。
「それで、今までどうしてたんです?」
咲江はそこまで話して動揺しを抑えるために何度か大きな息をつく。
「一週間はその家で待ったんですよ、大輔と二人で。昭夫も、この子のお母さんも来るかもしれないって。ご近所さんから逃げましょうって誘われたんですけど、電話もつながらなくなってしまったんで、私がそこを離れたら、昭夫と会えなくなってしまうって。でも、食べ物もなくなるし、そりゃ最初は近くのスーパーからちょっと拝借してたりしたんですけど、やっぱり、あの変わってしまった人たちがウロウロとしていて、私一人ではどうにもならなくって。どこか安全なところに逃げないとって思っているときに、偶然、夫の古いお友達に会って、人は多い方が安全だからっていうので、その家族としばらく一緒に過ごして。それから数ヵ月して、ラゾーナ川崎で皆でキャンプをしているって聞いて、そこに混ぜてもらうことになって」
死村は再び椅子に座ってクリープに少しだけ口をつける。
「なるほどねぇ。でも、聞けば聞くほど、あんまり期待出来ないですねぇ。実際、僕は普通の人よりはゾンビに噛まれないみたいなんだけど、でも、気が立ってたり、すごく飢えてたりしたら、やっぱり襲われるんですよね。だから、そんなに何千人何万人ものゾンビがいるかもしれない中に入ってくのは難しいんですよねぇ」
死村は頭を掻く。咲江は机に手をついて身を乗り出す。
「料金はお支払いします。洋子さんに聞いてきました。食料をお渡しすればいいんですよね。ちゃんと用意しますから」
「あのね、今の話聞いてました? 料金の話じゃなくて、見つかる可能性も低いし、僕でもそんな沢山のゾンビの中に入ってくのは無理だって言ってるんですよ」
咲江は頭を下げる。
「すいません、何でもしますから。この子にもう一度、父親を見せてあげたいんです。だって、そうじゃないと、この子があんまり可哀想で。私もどうしたらいいか分からなくて」
「じゃ、探すのが母親の方じゃないのはどうしてなんです?」
咲江は言葉につまった。言われるまでその選択を考えていなかった。どうして母親ではなく昭夫を探してくれと頼んでいるのだろうか。そのとき咲江には自分は夫の元妻に大輔を取られてしまうことを恐れて母親の方を探そうとしていないのではないかという考えが浮かんできた。
「この子のお母さんについては、住んでいる家も知らないですし、私が何も手がかりを持っていないからです」
咲江は自分に言い聞かせるようにそう強く言った。そして、再び頭を深々と頭を下げた。
「いやいや、おばあちゃん、顔を上げてくださいよ。困っちゃうなぁ」
「もう、どうしようもなくて、ここに来たんです。助けてください。このままじゃ、毎晩、私、どうしたらいいか。やっぱり私が死ねばよかったんです」
「あのですね、本当に無理かもしれないですし、仮に息子さんのゾンビが見つかったところで、これ現状がどうにかなるってものでもないんですよ」
「パパはゾンビになんてなってないよ。おばあちゃんは分かってないんだよ。だから、浜スタにパパのゾンビがいないって調べてきて」
大輔が死村の目の前に来ていった。咲江は相変わらず涙を流しながら頭を下げ続けている。
「もお、しょうがないですねぇ。それじゃ、これでどうですか、探しには行くけど、もし見つけて、でも、周りにいっぱい他のゾンビがいて捕まえるの無理そうだったら、写真だけ撮ってくるっていうのは? ほら、写真があれば確認出来るでしょ」
咲江は鼻をすすり上げる。
「それでもかまいません。お願いします」
「どうせ、パパはゾンビになんてなってないから、いないに決まってるけどね」
死村は横浜スタジアムに父親の生ける屍がいてもいなくても、どちらにせよこの家族を幸せにはしないのではないかと思い後頭部を掻き毟った。
死村が咲江と大輔が去っていくのを屋上の柵越しに見ていると、後ろから夜見子が現れた。
「今日の依頼はどうなのぉ」
「どうもこうもないよ、そんなゾンビになった親父を見つけたって、あの子の悩みは解決しないだろ」
死村は夜見子の方を向く。
「ねぇ、『だっふんだ』やってよ」
「なに言ってやがる。もうどんなことがあっても『だっふんだ』なんてやらないからな。もう一生『だっふんだ』なんてやらないからな」
「子どもに違うって馬鹿にされてムキになってるぅ。おじちゃん大人気ないなぁ」
「うるさい、だいたい、もともと僕はそんなことやりたくなかったんだよ」
「けっこう楽しそうに変顔作ってたくせに」
「お前、見てたのか、くそ」
死村は事務所の中に戻っていった。
「それで、どうするのよ。どうやって、横浜スタジアムの中から、そのお父さんを見つけ出すのよ」
「それなんだよなぁ。実は、横スタって行ったことないんだよ。東京ドームならあるんだけどさ、ローリング・ストーンズのコンサートに」
「え、まさか、野球好きじゃないの?」
「誰が野球好きなんて言ったよ。球場の内部も分からないし、どうするか計画の立てようもないよなぁ。詳しいやつに案内させようかなぁ」
「誰? 野球に詳しい人なんている?」
死村は椅子に座り足を机の上に投げ出してにんまりと笑った。
田中は芝生広場にビーチベッドを出して寝そべっていた。午前中の荷物運びの疲れがじんわりと体の中を広がっていく。柔らかい風が吹いてきて心地よかった。あの日から特に田中の日常に変化はなかった。それ以前と同じように任された仕事をして、残りの時間はほとんどずっと一人で過ごした。丸岡と山村に変な探偵からお前のことを聞かれたぞと言われたが、うやむやに返事をしておいた。生活は何の変化もなかった。ただ、心の中では何かが変わっているようにも感じていた。それはこれまで映子が占めていた場所がぽっかりと空いてしまったためなのかもしれないという気がした。その変化がよいものなのか悪いものなのか分からなかった。ふと、瞼の裏の太陽の光が閉ざされて影となったため、田中は目を開いた。
「わぁ、何? 誰?」
立っていたのは死村だった。
「今度はお前がそのリアクションかよ。いいよ、それはもう」
田中は立ち上がって、後ずさりする。
「何であなたがいるんですか。何しにきたんですか」
それを追うように死村が近づいていく。
「いや、ちょっと頼みがあってさぁ」
「何で、僕があなたの頼みなんて聞かなきゃいけないんですか」
「もちろん、報酬の何割かあげるよ、そこはもうビジネスだからさ」
死村は唇をぺろりと舐める。
「そもそも、僕はあなたのこと嫌いですから。あなたの手伝いなんてしたくないですから」
「そんな、本人に面と向かって嫌いとかって、言うもんじゃないよ」
「人の家に勝手に押し入って頼んだものを奪っていって、よくそんなことが言えますねぇ」
田中は鼻をひくひくさせる。
「だからさぁ、あれはねぇ、僕もよくないけど、君もどうかと思うよ。そんなことはいいからさ、ね、仲直りしよう」
「何させようっていうんですか」
「そんな、怖そうな言い方しないでさ。ちょっと手伝ってもらいたいだけなんだから。ほら、田虫くん、ベイスターズファンだったじゃない」
「田虫って言わないでください」
「あ、ごめんなさい。それじゃ、田中くん、横スタ行ったことあるでしょ」
「横スタ? 横スタって言うのは、おっさんなんですよ。今の人はみんな浜スタって言ってますよ」
「いいよ、そんなの。横スタも浜スタも同じだろ。じゃいいよ、その浜スタを案内してもらいたいの」
「浜スタを案内って、あんな人が集まってたところ、化け物だらけになってるに決まってるじゃないですか。まさか、あの中に入るわけじゃないですよね」
「そうだよねぇ、そのまさかなんだよねぇ。だから君の助けが必要なの」
「駄目ですよ、無理に決まってますよ」
「あのスタジアムの中で多分ゾンビ化しているだろう人を一人探すのが任務なわけ。でもね、僕はまったくその浜スタだっけ? そこに行ったことないんで、詳しい人の道案内が必要なんだよ。君しか頼りになる人はいないんだってば、頼むよねぇ」
死村はわざとらしく頭を下げる。田中は静かな声で言う。
「どんな依頼なんですか」
「子どもとおばあちゃんが、父親を探したいっていう話」
田中はすぐにそれが青島咲江のことだと分かった。そもそも田中が死村のことを知ったのは、洋子が咲江の相談に乗って死村のことを教えているのを立ち聞きしたからだった。田中の頭に咲江と大輔の顔が思い浮かんだ。大輔が毎晩泣くために家族エリアで問題になっているという話を思い出した。
「いいですか、あなたのために引き受けるんじゃないですよ。その依頼人のために引き受けるんですよ」
死村はにんまり笑う。
「グレート」
田中は死村を睨む。
「それって『ジョジョの奇妙な冒険』の東方仗助の真似じゃないですか?」
死村は頭を掻く。
「まったく、やりにくいよなぁ」
「一塁側だと反対方向ですね」
横浜スタジアムの周辺に死村と田中は原付バイクを停めた。ゲートに近づくと、中にはそれなりの数の生ける屍がうろついているように見える。死村と田中は足を止めた。
「探すって、何か作戦とかあるんですか?」
「見通しのいい安全なところに行って双眼鏡で探す」
「それだけ? 見通しのいい安全なところってどこですか。それに、どのくらい化け物がいるか分からないんですよ」
「だから案内してもらうために君を連れてきたんじゃん」
「そんなの期待されても困りますから。化け物から安全な場所なんて分からないですよ」
「まぁ、とりあえず、中に入って様子を見てみるかねぇ」
死村は背中のリュックに差してあった金属バットを抜いて握る。そして、田中に金づちを手渡す。
「え、そっちが金属バットで、僕がこんなちっぽけな金づち? っていうか、これ車から緊急脱出する用のやつじゃないですか。どういうこと?」
死村は口をすぼめる。
「だって、それしかないんだもん」
「食われないのはそっちで、あなたに頼まれてきたのが僕なんですよ。どう考えても逆でしょ、逆!」
死村は舌打ちをする。
「だから、僕が君を守ってあげるためにこっちなんだって」
「自分で守るから交換しなさい」
「しなさいって、いきなりそんな命令口調で」
田中は半ばもぎ取るように死村の金属バットを奪い、金づちを渡す。死村は心細そうにその金づちをいじくる。
「こんなもん、何の役にも立たないじゃん」
「えっ、今なんて言いました? 何の役にも立たない? その何の役にも立たないものをあなたは僕に渡したってことですよ」
「分かったよ、分かった。それより、早く行こうね」
田中は少し黙り込んで考えてから、
「記者席ですね」
と勝ち誇った顔で言う。
「記者席?」
「記者席が最も適しています」
「記者席って、キャッチャーのすぐ後ろにあるバックネット裏の?」
「浜スタの記者席は以前はそのキャッチャーのすぐ後ろ、グランドレベルのところにあったんですが、DeNAがオーナーになってから、スタンドの最上段に移ったんです。そのスタンドの最上段の記者席ならガラス張りの密閉空間だから、一度中の化け物たちを追い出してしまえば、後は安全にゆっくりと場内を探せるでしょう」
死村はにんまり笑って親指を立ててグッドサインを作る。横浜スタジアムの記者席はホームベース側のスタンド最上段に位置している。そのため、グッズ売り場の横の三番ゲートから入り、そのまま直進して、観客席に出たら、すぐにスタジアムを駆け上がっていくことにした。
「いいですか、正直なところ、結構な傾斜がありますよ。あの記者席に移動したときには、記者たちがまるで登山だと文句を言ってたって話があるくらいですから。体力とか大丈夫なんですか」
「田中くんに言われたくないねぇ。そっちこそ不健康そうじゃん」
そう言い合いながら二人がゲートの中に入り、そのまま一気にスタジアムの中に突入すると、目の前の視界が大きく開けた。死村は思わず感嘆の声を漏らした。
「ゾンビだらけじゃん」
客席の中だけでなく、グランドの上にも、いたるところにでゾンビたちが動き回っていた。
「無理無理無理」
そう死村がつぶやいていると、田中はそんな死村を無視して、スタジアムの階段を駆け上がりだした。
「うわぁ、あいつ、何かやる気あるじゃん」
死村もそれを追いかけた。田中や死村の周りも屍だらけだった。
田中は前をふさぐ屍の頭を金属バットでかち割った。屍が倒れると、田中は雄たけびとも悲鳴ともつかない奇妙な声を出した。
「立ち止まったら食われるぞ、そのまま動き続けろ」
死村は前を行く田中に叫んだ。それで気がついたように田中はまた走り出した。何体かの生ける屍が田中に襲い掛かっていった。田中はそのうちの一体の胸をバットで突いて突き放したが、後ろからもう一体に服を掴まれた。そのときようやく田中に追いついた死村が屍の髪の毛を掴んで引き離して、スタジアムの階段から突き落とした。
「ふぅ、確かにだんだん疲れてきたな。これ、何段あるんだよ」
話しかけた死村の方を田中はちらりとだけ見ると、そのまままた階段を駆け上がり始めた。
「お前、元気だな、おい」
死村はそう言ったが、気がつくと田中の動きは遅くなってきていた。動きが遅いと、それだけ捕まりやすくなる。死村は田中に追いつき、田中の腕を掴んでいるビールの売り子の格好をした屍を突き飛ばした。田中は足を止めた。完全に息が上がっていた。金属バットを杖のようにしてつき、肩を不自然なほど大きく上下させた。
「ちょっと最初から飛ばしすぎだったんじゃないの。大丈夫かよ」
田中は苦しそうな息で必死で何かを言おうとする。死村はそれを聞きとろうと耳を近づけると、ようやく田中の声が出る。
「うるさい」
死村は舌打ちをする。
「何だよ、こっちは心配してやってるのに。まったく困っちゃうなぁ」
上を見上げると、記者席はもうすぐだった。いくつかのブースに分かれていたが、そのうちの一つは三体くらいしか屍がいないようだった。
「おい、あそこに入るぞ、いいか、あとちょっと頑張れよ」
田中はそれには答えずに大きく息をして、また走り出した。
「そう来なくっちゃね」
死村もまた走り出した。最後は二人でお互いに背を向け合って、それぞれ近づいてくる屍たちを突き飛ばしながら、ようやく記者席にたどり着いた。幸いなことに鍵は開いていた。記者たちも慌てて逃げたのかもしれなかった。中に入るとそのままの勢いでそこにいた三体の屍の頭をかち割った。ドアに鍵をかけると、外からベイスターズのハッピを着た生ける屍の一人がドアを叩いてきたが、開けられないようだった。田中はそのまま床に座り込んだ。その様子を見て死村は笑った。田中は顔を上げて死村を睨んで「何がおかしいんですか」と言ってから、自分も笑い出した。二人はしばらくお互いわけも分からずに笑いあっていた。
ひとしきり笑った後、田中は立ち上がった。二人で倒れている屍たちを脇の方によけて、あらためて下を見下ろした。
「うわ、ここ、本当に眺めがいいなぁ」
田中はそう呟いた。そこからは球場内が一望出来るだけでなく、スコアボードの直ぐ後ろにはランドマークタワーが聳え立っているのが見えた。死村は両腕を伸ばして大きく息をした。
「こりゃ、気持ちがいいや」
二人はそこにあった椅子に腰掛けた。記者用のため机が取りつけられていた。机の前にはコンセントやLANケーブルが備えつけられ、さらに「サンスポ」などと新聞社の名前が貼られていた。
「へぇ、この席、サンスポ席なんだって」
死村は嬉しそうに机を叩いて言った。
「で、こっからどうやって探すんですか。何か特徴みたいなものはあるんですか」
田中は記者席に入った当初の興奮から少し醒めてきたようであり、普段の様子に戻って死村に尋ねた。死村は思い出したようにリュックサックから双眼鏡と大きな望遠レンズのついた一眼レフカメラを取り出した。
「何かねぇ、そいつは松坂のユニフォームを着てるんだって」
「手がかりそれだけ? 松坂のユニフォームなんて、めちゃめちゃ売れてましたから、何人いるか分かんないですよ」
「それで三十半ばから後半くらいの背の低い男」
「情報が少ないですねぇ。ほら、双眼鏡貸してください。こんなに沢山化け物がいるんだから、ウォーリーを探せどころじゃなくめちゃくちゃ大変な作業じゃないですか」
田中は双眼鏡を取ってさっそく探し始めた。死村も一眼レフカメラのファインダーを覗き込んだ。レンズ越しに見ると、どこを見ても生ける屍だらけであり、青や紺の野球のユニフォームを着ているものも多かった。死村は確かにこれはウォーリーを探せだなと思った。しかし、ウォーリーの場合にはかならず正解がいることになっているが、こちらはひょっとしたら、大輔の父親は生き延びたか屍になって球場の外に出たか、腐敗がひどく朽ち果てたかして、この場にいないという可能性もあるのだった。
「あぁ、これすげぇ面倒くさい作業じゃん。めちゃくちゃ退屈しそう。ねぇ、しりとりやろうよ」
死村は隣の田中に話しかける。
「嫌です」
田中は即答した。
そこから二人はしばらく黙って双眼鏡と一眼レフカメラカメラに向かっていた。死村は記者席の机に足を投げ出したりなど次第にだらけた姿勢になってきた。それを見て田中は不愉快そうな顔をしつつ、しかし、自分自身も疲れたようで、何度か背伸びをしたりしながら、双眼鏡に向かい続けた。二十分ほど経過したとき、田中が声を上げた。
「あれじゃないですか。レフト側のポールの近くの内野席です。ほら、今、一人だけ少し離れてふらふら歩いている」
そう言われて死村もそちらにカメラを向けた。そこには確かに中日ドラゴンズの18番のユニフォームを来た生ける屍が歩いていた。その男は筋肉質な体型で背が低かった。遠くからのためにはっきりとは分からないが、ユニフォームには多少の血がついているものの、両手両足は残っているようだった。
「でも、ちょっと遠いから連れて帰るのは無理だねぇ」
死村はそのまま望遠レンズの焦点を合わせて写真を撮り始めた。
咲江は朝食の帰りに田中に呼び止められた。死村が呼んでいるのだという。田中から声をかけられたことは意外だったが、そのまま大輔を連れて田中に連れられて芝生広場に向かった。三人が芝生広場に着くと、誰もいないように見えたが、その横の建物の裏から、死村が顔を出した。
「あ、どうもどうも。先日はどうもでした。いやいや、今日も寒いですねぇ」
咲江は本当にこんな気楽な口調の男を信用出来るんだろうかと思った。
「息子さん、見つけましたよ。この田中くんが手伝ってくれたんです。田中くんに礼を言っておいてください」
咲江は言われるままに田中の方を向いて頭を下げる。田中は驚いて思わず後ずさりをしてしまう。
「ただね、やっぱり、ゾンビになってましたよ。それと、いかんせん球場の中はとんでもない数のゾンビがいて、とても近づいて捕まえることは出来なかったので、写真だけでご勘弁ください。でも、十分に息子さんだと確認出来る写真が撮れたと思います」
死村は片方だけかけていたリュックの中からクリアファイルを取り出して、咲江に手渡す。咲江はその中から何枚かの写真を取り出す。
「パパだ!」
大輔が咲江の手から奪うように写真を取った。そこには中日ドラゴンズのユニフォームを着た昭夫その人が大きく写されていた。
「パパだ、やっぱりいるじゃん、パパまだ生きてるじゃん!」
それは紛れもない昭夫の姿だったが、ユニフォームは血で汚れ、顔も不自然に黒ずんでおり、はっきりは分からないが片目がつぶれているようにも見えた。咲江の目からはとても生きているようには見えなかった。
「いや、残念だけどお父さんはもう前のお父さんと同じような意味では生きていないんだよ」
死村が大輔を見下ろしてそう言った。咲江は下を向いた。かろうじて聞き取れるくらいの小さな声で、「ありがとうございます」と呟いていた。死村はそれをしばらく眉をひそめながら眺めていたが、やがて口を開いた。
「それじゃ、そういうことで。料金は今日いただいてもいいですし、明日以降に取りに来てもかまいません」
そのとき、大輔が死村を睨んだ。
「嘘だ、生きてないかどうかなんて、この写真だけじゃ分かんないじゃないか。パパのところに連れてってよ。パパに会うんだ!」
大輔が死村のネルシャツの裾を裾をつかんだ。咲江がやめなさいとその手を振りほどこうとすると、
「おばあちゃんも一緒に頼んでよ。パパに会うんだ。こんな写真なんてあてにならないじゃん。パパのところに連れて行くようにこのおじさんに言ってよ、ねぇ」
咲江は何も言えなくなった。
「あのな、この写真を撮るのはうんと大変だったんだ。危険な目に合って、やっとのことで探して来たんだよ。だから、そこに連れていくなんてことは出来ないんだよ」
「危険なんてどうだっていい。都合が悪くなるとすぐにそうやって危険だから駄目だなんていうんだ。僕はパパに会いたいんだ。パパにところに連れてってよ。お願いだから」
死村は首を振る。
「困ったな、これ。ちょっとおばあちゃん、何とか言ってやってくださいよ」
咲江は言葉を発することが出来ない。大輔は死村の裾を引く。死村は首を傾げながら困っている。そのとき、いきなり田中が大きな声で怒鳴った。
「連れてってやれよ!」
死村は驚いて田中を見る。
「な、何だよ、急に大きい声だして。びっくりしたなぁ、もぉ」
「そうでもしないと、納得出来ないって言ってるんだろ! 何で分かんないんだよ!」
田中は憤ったように叫んだ。死村は頭を掻いた。
「うぅぅん。困ったなぁ。仕方ねぇなぁ。お前が手伝うなら、連れてってやるよ。だけどなぁ、そんな簡単なことじゃないんだぞ」
大輔は死村の言葉を最後まで聞かずにはしゃぎ始めている。咲江は何度も「ありがとうございます」と言って頭を下げる。田中は大声を出したことを恥じるように後ろを向いてしまう。死村は首を振って肩をすくめた。
真っ赤なマツダ・デミオの運転席に死村、助手席には田中が乗った。後部座席には咲江と大輔が座っていた。大輔ははしゃいでおり、咲江はしきりに恐縮をしていた。咲江の気持ちはとても複雑だった。写真を見てもう昭夫は生きてはいないことは分かっていた。これから自分たちはその昭夫の歩く屍を見に行かなければならない。一方ではもう一度息子の姿を見届けたい気持ちもあったが、その息子が恐ろしい姿になって徘徊しているのを見たら自分がどうなってしまうのか想像がつかなかった。大輔のことも心配だった。大輔は本当に昭夫が生きている可能性があると思っているのだろうか。それに死体になった昭夫を見て大輔は本当に諦められるのだろうか。こんなことしないで、ただもうお父さんはいなくなったのだから仕方ないのと言って聞かせ続ける方が本当なのではないか。しかし、そう考えてみても、何が正解かは分からなかった。
死村たちは横浜スタジアムまでたどり着き、前に使った入口の方に近いように廻り込んで中華街玄武門の手前で車を止めた。そして、死村は振り返って、咲江と田中、そして大輔を見て、計画について説明を始めた。
「いいですか、まず最初に、僕がスタジアムに入ります。それで、グラウンドの方に降りていって、そこで持ってきたラジカセで音楽をかけます。その音楽につられて、周囲のゾンビたちが恐らく移動していくと思うので、きっちり十分経ったら、田中くんは二人を連れて中に入ってきて、もう一気にそのまま階段を駆け上がって記者席まで移動して。僕もそっちに上がっていくから、記者席で合流って感じ。音楽で多少はひきつけられると思うけど、結局、全員動かすのは無理だから、やっぱり襲われる可能性があるから、青島のおばあちゃんも気をつけて、ほら、足元にゴルフクラブあるでしょ、それを持って、ゾンビが来たら頭を叩いて。あとは記者席まで結構距離があって、体力も使うから、かなり気合入れてね」
死村は三人を見回す。
「よし、行きましょ。ほら、そこに子ども用のホッケーマスクと手袋があるでしょ。それを坊主につけさせてさ」
「坊主って言うな、志村けんのくせに」
「お前なぁ、志村けんのくせにって、志村けんに失礼だぞ」
そうぼやきながら死村は車のドアを開けた。
死村は三人を三番ゲートの近くで待たせることにした。
「きっちり十分経って、それまでの間に僕が出てこなかったら、走って中に入ってきて、そのまま、階段を駆け上がってね。もし、中の状況があんまりゾンビだらけで無理そうだったら、十分経たない間に僕が戻ってくるから、そのときは一緒に車まで逃げるから」
田中は無言で頷く。咲江は泣きそうな顔で「分かりました」と言う。大輔はホッケーマスクが重くて頭が痛いのか、しきりにマスクをいじっている。死村は金属の大きなスパナを握り締めてスタジアムの中に入っていった。客席内の生ける屍の人数は前回とあまり変わらないようだった。死村は客席の階段をグランドの方に下り始めた。途中で屍がいるところは避けて、座席を跨いで進み、何とか騒がれずに一番下のバックネットの前までたどり着いた。時計を見ると五分経っていた。リュックからラジカセを取り出し、一番前の座席において、再生ボタンを押した。あたりに大音響で怪しいストリングスの音が鳴る。死村は慌ててそこから離れた。それに続いて女性の吐息が響く。音に反応した生ける屍たちはラジカセの方に向かい始める。ちょうど死村は屍の群れと鉢合わせるかたちとなり、気がつかれないように頭を伏せて、何とかやり過ごそうとする。しかし、何体かは通り過ぎたものの、そのうちの一人が死村に気がつき、足にまとわりつく。
「もぉ、ほっといてくれよ」
仕方なく死村はその屍を蹴り飛ばす。その物音に周囲の屍も死村の方を向きかえる。
「あぁあ、だから嫌なんだよ、困っちゃうなぁ」
そう言いながら、死村は座席を跨いで越えて走り出した。
田中は何度も腕時計を見直した。
「そろそろ行きますよ。いいですか、僕が特に何も言わない限り、スタジアムの客席に入ったら、すぐに階段を駆け上がるんです。化け物がいたら、突き飛ばすなり、そのゴルフクラブで叩くなりして、そのまま走ってください。化け物は動き自体は遅いですから、止まらなければ捕まりません。止まらずに走り続けるんです」
咲江は鼻を膨らませて頷く。田中は片手に死村から借りた金属バットをつかみ、もう片方の手で大輔の手を取るとゲートの中に入っていった。咲江もそれに続いた。客席の中に入ってあたりを見回すと、この間死村と二人で来たときと比べると、確かに周りに屍たちは少なく、大勢が前方に寄っていた。あたりには艶かしい女性の吐息が流れていた。
「なんで伊勢佐木町ブルースなんだよ。子どもがいるのに」
横で咲江がすごい勢いで走り始めていた。田中は我に返ってそれに続こうとすると、大輔が動かなかった。大輔を見ると顔が蝋人形のように青白くなって固まっていた。
「おい、行くぞ」
そう手を引いても大輔は動かなかった。仕方なく田中は大輔を持ち上げて脇に抱えて階段を上り始めた。少し上の方で咲江が屍の頭をゴルフクラブでかち割っているのが見えた。あのばあさん、なかなかやるじゃないか、そう心の中で呟いたとき、ぐっと大輔を抱えている方の腕を捕まれた。頭にネクタイを巻いたサラリーマン風の屍だった。大輔を持っているために振りほどけない。仕方なく足で蹴ろうとしたが、バランスを崩して大輔と一緒に倒れてしまう。そこにサラリーマン風の屍と横にいたミニスカートのギャル風な屍の二人が圧し掛かる。田中は大輔を抱きかかえたまま両足で二体の屍を蹴り倒そうとするが、蹴っても少しよろけるだけでまた襲い掛かってくる。大輔は相変わらず人形になったかのように動かない。田中の頭に自分は死ぬのだろうかという思いがよぎる。
「お前、捕まんの早いよ。もうちょっと何とかなんなかったのかよ」
いつもと変わらない気楽な口調の死村の声がしたかと思うと、目の前の屍たちの姿が消えていった。死村が捕まえて下の座席に放り投げていた。
「ほら、早く立て。おばあちゃんはどんどん先に行っちゃうぞ」
田中は立ち上がり、そのまま再び大輔を抱えて階段を走り出す。死村はそんな田中の後ろをついて、近づいてくる屍たちを追い払う。途中までいい調子で駆け上がっていた咲江は記者ブースまでもう少しのところで膝に手をついて立ち止まってしまっていた。死村は大輔を抱えた田中を追い抜き、咲江の傍まで行く。ちょうど一体の屍が咲江に襲い掛かろうとしているところであり、死村はスパナでその屍の頭をかち割る。
「アーメン!」
そう言うと死村は咲江を立たせる。咲江は完全に息が上がって肩で呼吸をしている。
「ほら、青島のおばあちゃん、あとちょっとだからさ」
そう言って、咲江に肩を貸して死村は記者席へと急いだ。屍たちは自分からドアノブを回してドアを開けることは出来ない。前回来たときに死村と田中が入ったブースはそのまま生ける屍が入っていない状態だった。ようやくたどり着いて、死村は咲江を中に圧し込む。そこに田中も追いついて、まずは大輔を中に入れ、そして二人も迫ってきた屍たちを突き飛ばして遠ざけながらブースに入った。
「マジで死ぬかと思った。もぉ、やだこんなこと」
死村が床に寝そべった。咲江は相変わらず肩で大きな呼吸をしており、大輔は固まった表情のままだった。
「じゃあ、お父さんを探そう」
田中はそう言うと、死村の背負っているリュックに手を突っ込んで、双眼鏡を取り出した。
「おいおい、勝手に取るなよ」
そういう死村の言葉も聞かず、田中は席に座って双眼鏡でスタジアムの客席を探し始めた。死村はそんな田中をしばらく眺めていたが、仕方ねぇなぁ、と言って、自分も望遠カメラを取り出した。
昭夫の屍を見つけるのに前回ほどに時間はかからなかった。あのときはポール際のずっと遠くにいたが、今度はもっとずっと近く、一塁側のダッグアウトの上あたりをうろついていた。
「あそこだ」
そう田中が言うと、咲江は記者席の透明なガラスに張り付くようにしてそちらを眺めた。ただ肉眼では姿は見えても本当に昭夫かどうかは分からない。田中に双眼鏡を渡されると咲江はそれをもぎ取るようにして覗き込んだ。昭夫だった。口は半開きで、片目は潰れており、顔はどす黒くなって、足が折れているのか不自然なバランスで歩いていたが、それは確かに昭夫だった。
「そんな、昭夫、あんな姿で」
咲江は双眼鏡を落とした。大輔はそれをうつろな表情で拾い上げ、無言のまま覗き込んだ。そして、ぽそりと呟いた。
「あんなの、パパじゃない」
小さな声だった。田中は首を振った。
「よく見ただろ。あれはお父さんなんだよ」
大輔は双眼鏡から目を外した。
「僕には分かる。あれはパパじゃない」
田中がまた何か言おうとすると、それを死村が制した。
「もういいよ、僕らの仕事はこれで終わりだよ。あとはこれからこの二人がどうしていくかだよ」
田中はまだ何か言いたげだったが、それ以上は口を開かなかった。そのまま四人はしばらく黙り続けた。咲江はいつの間にか涙を流していた。
死村がそろそろ戻ろうと言いかけたとき、咲江が急に力強く立ち上がった。
「わたし、やっぱり、昭夫を連れて帰ります」
死村は驚いて咲江の顔を眺めた。
「いやいやいや、何言っちゃってるの、青島のおばあちゃん。だって、あんなになってるんだよ、連れて帰ってもしょうがないんだよ」
咲江は首を振る。
「だって、昭夫をあのままにしておくわけにはいかないじゃないですか。あんな姿のままで昭夫を放ってはおけないんです」
「にしたって、あそこまで結構遠いよ。ここに来るのだって相当大変だったでしょ。あそこに行って、しかも一体のゾンビを捕まえて引っ張ってくるなんて、無理だってば」
咲江は死村の方を向いた。
「いいんです。わたしがやりますから。そうしたら、大ちゃんだって、あれがお父さんだってみとめないわけにはいかないし、わたしが昭夫を連れて帰るのが一番いいんです」
咲江は大輔を抱きかかえて頭を撫でた。
「いや、ちょっと、田中くん、止めてよ。そんなの困っちゃうよ」
大輔は咲江に強く抱きついた。咲江はそれを無理やり引き離すと、田中に渡した。そのとき、田中には咲江の顔がこれまで見たことがないくらい決意に満ちた表情をしているのを感じて、何も言えずに大輔を受け取ってしまった。
「後は頼みます」
そう言い終わらないうちに、咲江はドアを開けて飛び出した。それを見た大輔も咲江を追いかけて走り出した。死村と田中は慌てて二人を追いかけた。死村は後ろから大輔を抱きとめた。田中は咲江を止めようとしたが、あと一歩のところで躓いて倒れた。その間に咲江は屍の群れをすり抜けながらどんどん下に降りていった。
「もう無理だ、いったん戻るぞ!」
死村は田中にそう叫んだ。大輔がばたばたと暴れたが、死村はそれを抑えつけて、無理やり記者席に連れ戻した。田中もまとわりついてくる屍の何体かを突き飛ばして、ブースに戻った。ドアを閉めて、ガラス越しに咲江を探すと、もうかなり遠くまで進んでいた。
昭夫の屍も騒がしい音がしていたためか、記者ブースの側に向けて歩いてきていた。咲江は死に物狂いで昭夫に近づいていった。咲江の目が肉眼ではっきりと昭夫を捉えた。見慣れた背の低い肩幅の広い昭夫その人だった。肌は荒れて動き方もぎこちなくなっているが、絶対に見間違うはずのない昭夫その人だった。周囲の生ける屍たちは咲江に気がついて次々に襲い掛かってきていた。ただ、田中が言ったようにこちらが走り続けていれば、動きの遅い彼らには捕まることはなかった。そんなことよりももう目の前に昭夫がいるのだ、昭夫を取り戻すことが出来るのだ。咲江は大きく手を伸ばして昭夫の腕をつかんだ。昭夫の屍が咲江の方を向いた。それはまったく生前の面影もないような、どす黒く黴の生えた肌をした、潰れた片目には蛆が湧いた、鼻も崩れて穴が開き、下唇がなくなって歯がむき出しになった、生ける屍の顔だった。私の息子、私が泣きながら生んで、泣き虫だったから散々苦労しながら育てて、それでも野球をやりだした頃から急に逞しくなって、弱虫のくせに妙に格好つけて母親をかばうようなことを言ったりしてくれて、いつの間にかとても優しい大人の男になっていた、あの私の息子、昭夫がこんな姿になって、二年間ずっと、こんなところをただ歩き回っていたなんて。どうしてあのとき私が大輔と昭夫を助けて死ななかったのだろう、どうして昭夫の代わりに私が生き残ってしまったのだろう。昭夫の顔が咲江に近づいてきた。咲江は大声で昭夫の名前を叫んでいた。一瞬、昭夫の動きが止まったように見えた。それは咲江の思い過ごしかもしれなかった。昭夫は咲江の首筋に噛り付いた。死村の忠告に従ってタートルネックを着ていたが、至近距離で強く噛まれたために、昭夫の歯はセーターの生地を突き破って、咲江の肌に食い込んだ。咲江はこれで自分は大輔も守れなくなるのだと思った。自分の一生はいったい何のためにあったのだろう。結局、自分は何にも出来ない人間だったのではないだろうか。昭夫に首を食いつかれながら、咲江は記者席の方を見た。三人がガラスに張り付いてこちらを見ていた。大輔も見ていた。あの子だけは、あの子だけは、ずっと生き続けてほしい、そう思った。咲江は自分に噛りつく昭夫の屍にしがみついた。麻痺しているのか痛みは感じなかった。ただだんだん気が遠くなっていくようだった。
記者席から、咲江がこちらを向いたのが分かった。咲江の首から血が噴出していった。首に噛りつく昭夫の屍だけでなく、足や腕などにも、他の屍たちが群がって襲い掛かり始めた。田中ははっと気がついて大輔の顔を抑えて見えないようにした。大輔は抵抗しなかった。隣の死村を見ると、死村も田中を見て言った。
「今だ、この隙に逃げるぞ」
田中がまったく予想していなかった言葉だった。田中には今の自分が何か行動を起こせる気がしなかった。
「ほら、何してるんだ、ゾンビたちがおばあちゃんに群がっている今だから、逃げられるって言っているんだ」
「そ、そんな、囮に使うみたいな、よくそんなことを」
「何言ってるんだ、僕らにはなぁ、あのおばあちゃんのために、この坊主を生きて帰さなきゃいけない義務があるんだぞ!」
死村はどこにそんな力が残っていたのかと思うような素早い動きで大輔を小脇に抱えると、ドアを開け放った。
「ついて来い!」
そう言って、すごい勢いで階段を駆け下り始めた。田中も何が起きているのか分からない朦朧とした状態でそれを追いかけていった。屍たちの流れは咲江の周りに集まっていた。途中途中で進路をふさぐ屍たちを蹴り飛ばしたり、体当たりをしたりしてどかしながら、死村はゲートまでたどり着いた。そのとき、黙って脇に抱えられていた大輔が、
「待って!」
と叫んだ。死村は思わず手を放した。
大輔は通路に落ちるように降りて、立ち上がった。大輔は咲江が屍たちに襲われている方を見た。しかし、もう屍たちの山となってしまい、咲江の姿は見えなかった。
「おい、どうした、行くぞ」
そう死村が言って、大輔を見ると、凍りついたように堅くなっていた。まるで、大輔自身もそのまま死んでしまったかのようだった。
「おい」
そう言って死村が肩を叩いても、反応しなかった。ただ、再び脇に抱えようとすると、それには抵抗して死村の手を払いのけた。追いついた田中も、
「何ぐずぐずしてる、早く逃げないと」
と言ったが、大輔は凍りついた表情のままで動かなかった。
「おい、頼むから、逃げてくれよ」
死村や田中の声はまったく大輔に届かないかのようだった。田中は襲ってきた二体の屍の頭を金属バットでかち割った。ここに人間がいることに彼らは気がつき始めたようだった。
「ぐずぐずしていられないぞ、どんどん押し寄せてくるぞ」
死村は仕方ないと後ろから大輔の両脇を抱えて持ち上げた。大輔は足をばたつかせて暴れた。死村はバランスを崩した。このままでは逃げ切れないかもしれない。そのとき、あたりに断末魔のような、悲痛な叫び声が聞こえた。
「大ちゃん! ごめんなさい、大ちゃん!」
大輔の動きが止まった。そのまま死村は大輔を脇に抱えて走り出した。田中も死村と大輔に襲い掛かる屍の群れを金属バットで追い払いながらそれに続いた。ゲートを突っ切って、そのまま球場の外に出て、死村は大輔を地面に下ろして振り返った。すると、大量の屍たちがこちらに向かって押し寄せてきていた。ただ習慣的に球場内を歩き回っていた彼らに外に出るきっかけを与えてしまったようであった。
「やばいぞ、やばいぞ」
死村は疲労した腕を何度か振ってから大輔を再び抱え上げた。
「早く、車まで逃げますよ」
田中が屍を金属バットで叩きながら叫んだ。死村と田中は走り出した。後ろから群れをなして、屍たちが迫ってきていた。死村はデミオを探した。すると、後ろのトランクにでも隠れていたのか、夜見子が車の窓から体を出して大きく手を振っていた。
「急いで、こっち、こっち、気をつけて!」
死村と田中は死に物狂いで走った。そして、そのまま後部座席に大輔を突っ込み、二人は運転席と助手席に乗り込んだ。すべてのドアが閉まるとすぐに、何体かの屍が車のドアや窓を叩く音がした。死村は車を発進させた。手前にいた屍を轢いて乗り越え、後ろにしがみついてくる屍を振り払いながら、死村の運転するデミオは走り出した。
中華街玄武門の前を通り、死村の車は大さん橋の方に向けて進んでいった。どこを目指しているというわけではなかった。ただ車の方向がそちらを向いていたからそのまま走り続けただけだった。旧ヨコハマホテル跡であるホテル発祥の地、消防隊の旧居留地、旧横浜市外電話局、そして、近代のパン発祥の地、日本基督公会発祥地、開港記念公園広場、道の左右には歴史のあるレンガ造りの建物が立ち並び、そこかしこに記念碑が建てられていた。日本の近代化の歴史を刻み込んだ通りを、死村のデミオは進んでいった。開港記念公園のあたりで、死村がバックミラーを確認すると、屍たちの群れはまったく見えなくなっていた。車内では皆無言だった。どこに行くのか、これからどうするのか、誰も口を開かなかった。車はゆっくりとしたスピードで進んだ。日米和親条約締結の地のある交差点をさらに海の方に進んだ。死村には特に考えがあったわけではなかった。山下臨港線プロムナードの下を潜って、海に向かって走っていった。そして、象の鼻と呼ばれる桟橋の前で車を止めた。目の前には空に向けて広がっていく正方形をした特徴的な形の大さん橋ふ頭ビルが見えた。田中は死村の方を見た。死村はこわばった顔でしばらく黙っていたが、急に拳を握ってハンドルを叩いた。
「くそ、何だってんだ」
そのまま死村はドアを開けて外に出た。あたりにはまばらに生ける屍たちが彷徨っていた。死村もふらふらと、まるで自分も屍の仲間であるかのように、象の鼻の桟橋の方に歩いていった。田中もドアを開けて外に出た。
「どうするんですか」
そう言ってみたが、死村には聞こえていないかのようだった。後ろの座席のドアが開き、中から大輔も降りてきた。大輔は田中の足にしがみついた。田中はその頭を撫でた。結局、この子にただつらい思いをさせただけになってしまった。自分が死村に強く言ったばっかりに、この子はたった一人の肉親を失うことになってしまった。あのとき変に二人に感情移入して、何で自分はあんな馬鹿なことを言ってしまったんだろう。どうしてこんなに取り返しのつかないことをしてしまったんだろう。田中は大輔を抱きかかえた。大輔は震えていた。当たり前だと思った。この子はどれだけ怖い思いをしたのだろう。自分はどれだけこの子に怖い思いをさせてしまったのだろう。自分のような何にも出来ない人間が、偉そうに人のために何かをしようなんてことを思ったことがそもそもの間違いだった。結局、自分は何の役にも立たない、それどころか、自分は何かをしようとすれば周りにひどい迷惑をかけるだけの、なぜ今まで生き延びたのかも分からないような、まったく価値のない人間だったのだ。どうしてそのことを忘れてよけいなことをしようとしてしまったのだろう。
死村はふらふらと歩いていた。いつの間にか空はオレンジ色に染まっていた。海鳥が鳴きながら空を飛んでいた。気がつくと、こんなときでも風が心地よく感じられた。その名の通りに象の鼻の形をした桟橋の対岸には赤レンガ倉庫や扇形のインターコンチネンタルホテル、そして大観覧車が見えた。死村は大きくゆっくりとした呼吸をした。来た方に向き直ると、車の前で田中が大輔を抱きかかえていた。
そのとき、車の後ろから夜見子がいきなり顔を出した。夜見子は片手の手のひらを丸くメガホンのようにして口元にあて、もう片方の手を死村の後ろを指差して、大声で叫んだ。
「死村、後ろ!」
死村は言われるままに後ろを振り向いた。するとそこには、ぼろぼろにはなっているが、朱色の着物に金色の袴を履き、顔を真っ白に塗って、頭に大きなつくしのようなちょんまげをつけた、バカ殿の屍がよろよろと歩いていた。死村は目を見開いた。そして、車に向けて走りだした。
「おい、坊主、見てみろよ、ほら、志村けんだぞ、あれが本物の、志村けんだぞ」
急に走って戻ってきた死村に驚いている田中から、死村は大輔を奪い取ると、バカ殿の屍を指差した。
「ほら、あそこを見ろよ、本物だぞ、噂は本当だったんだよ、ほら、いるだろ、あれが志村けんだよ、バカ殿だよ」
そう言いながら、死村の声は震えていた。大輔は目も口も大きく開けて志村けんの屍を見ていた。田中もそちらを指差し「マジかよ」と呟いた。
「マジなんだよ、本物なんだよ」
そう言うと死村は大輔の頭を何度も強く撫でた。
「これからなんだよ、全部これからなんだよ。噂は本当だったんだから、これから願いが叶うんだよ。これからだっていいことがあるんだよ。いいか、坊主。きっとなぁ、きっとなぁ、絶対なぁ、僕がお前のお母さんを探してやる。お前をお母さんに会わせてやる。僕にお母さんを探させてくれ。バカ殿が本当にいたんだからよ、願いことはきっと叶うんだよ。なぁ、そうだろ」
死村は大輔を抱きかかえ、そして田中の肩を叩いた。
田中は死村の肩を叩き返して言った。
「だいじょぶだぁ」
死村はくしゃくしゃの笑顔で言い返した。
「お前、くだらねぇよ」
田中は今度は体ごと死村にぶつかって突き飛ばした。死村はよろけながらも笑い声をあげた。
「おい、危ないだろ、こいつを抱いてんだから」
死村は大輔を下ろすと、
「こいつめ」
と田中の腹に大きな身振りで、しかし弱いパンチを入れた。田中も笑い声を上げながら、
「痛てぇ」
と言った。すると、大輔もそんな田中にパンチをし始めた。
「おいおい、お前まで」
田中は大輔のパンチを両手で受けながら、
「僕も手伝いますからね、嫌だとは言わせないですからね。お母さんを絶対探してあげますからね」
と叫ぶように言った。横浜大さん橋は夕日でますます赤く染まっていった。まるで巨大な鏡餅の台座のような大さん橋ふ頭ビルも、象の鼻のその先に見える大観覧車も、バカ殿の真っ白い顔も、そして泣き顔でじゃれ合うような三人の姿も、赤く赤く、染め上げていった。
* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。毎週金曜日の夕方に配信します。全七章になります。