第二章 田中の場合
平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。彼らの間には死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂があった。生き別れた知人を生死にかかわらず探し出してくれる死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。
「わぁ、何? 誰?」
アパートの屋上のビーチベッドで昼寝をしていた死村は飛び起きた。
「何って、下に看板を立てたのは自分じゃないんですか」
痩せていて薄っすら無精ひげを生やしたどことなくゴボウのような青年が立っていた。
「え、何、お客さんなの? 早く言ってよもぉ、びっくりしたぁ」
そう言う死村を青年は眉をひそめて冷たい顔で見ている。死村は何だかやりづらそうな相手だなと思うが、立ち上がってプレハブ小屋の中に入る。
「依頼なら入って。どんな話なの?」
青年はメモ書きのようなものを出す。
「これって、本当にあなたなんですか」
そこには、
ゾンビ探偵 志村霊太郎
と書かれている。
「惜しいなぁ。志村は合ってんだけど。普通に考えて人の名前で幽霊の霊っていうのはないんじゃないの? 礼儀の礼だよ。まぁ、親の期待に反して全然礼儀正しくない人間に育っちゃったけどね」
死村は自分のデスクの椅子に腰掛ける。青年は散らかってる部屋をあまり気にせずにずかずかと入ってくる。
「あれ、今、パリンとか言わなかった? 何かCDとか踏んじゃったんじゃないの?」
「いや、底の厚い靴履いてるから僕は大丈夫です」
「あ、あぁ、そうなんだ」
確かにその青年は体育着のようなジャージの上下だったが、靴だけは「闇金ウシジマくん」のように厳ついブーツを履いている。
「で? 依頼はなんなの?」
青年はぼそぼそとした声で話し始める。
「死んで徘徊している婚約者を探してほしいんです」
「婚約者?」
「はい、昔からの幼馴染みで高校のクラスメイトなんです。彼女はあのパンデミック以来、どこで何をしているのか分からなくなってしまっていたんですが、最近、彼女が化け物に襲われたときに一緒にいたという人の話を聞いて。今も彼女が恐ろしい姿で歩き回っていると考えると、居ても立ってもいられなくて。せめて僕の手で彼女に最期を迎えさせてやりたいって思っているんです。それが婚約者の僕のつとめなんじゃないかって」
それを聞きながら、死村はどこか胡散臭いものを感じた。青年の喋り方はまるで書かれた台本を読んでいるようだった。
「で、どこにいそうなの?」
「蒲田駅のすぐ近くのキャバクラの入ったビルの二階なんですが」
「キャバクラ? その婚約者さんは、キャバクラ嬢なわけ?」
青年の顔が一瞬迷ったように見えたが、次の瞬間には怒ったような表情になる。
「彼女がキャバクラ嬢じゃいけないんですか、何が悪いっていうんですか」
「いやねぇ、別にいけなくないけど、それって本当に婚約者なの? 自分がそう思ってるだけで、本当はお客さんなだけだったり?」
「失礼なこと言わないでください。僕は彼女の店にだって行ったことがないんですから。幼馴染みだって言ったでしょう。依頼に来ただけなのに、何であなたからそんなこと言われなきゃいけないんですか」
青年は声を荒げた。ただ、怒り方も死村にはどうも胡散臭く感じられた。
「あ、どうも、すいませんねぇ。つい職業柄、疑り深くなっちゃいましてねぇ。付き合ってどのくらい?」
死村は青年の顔にまた迷いをみる。
「そんなこと、どうだっていいじゃないですか」
「いや、人を探す上ではね、出来るだけ、関係ないと思えることも聞いておいた方が、何かとヒントになるのですよ」
「もう居る場所は分かってるんです。でも、今も歩く死体でいっぱいだから、僕ではとてもつれて帰って来られそうもないから、あなたに頼みに来たんです」
「もう分かったよ、じゃあ、もうそれはいいよ」
死村は青年にそのキャバクラの入ったビルの地図を描かせた。JR蒲田駅の東口を出て左に曲がって進み、小さな地元の繁華街があるエリアだった。
「あぁ、この辺ならすぐに分かりそう。そのビルの二階だね、了解了解。一階がコンビニ? あぁ、あった気がする。で、肝心の恋人はどんな子なの?」
青年は背負っていたリュックサックから卒業アルバムを出して開いた。
「この子です」
「二ノ宮映子ちゃんねぇ。なるほどねぇ。でも、婚約者なのに卒業アルバムの写真しか持ってないの?」
「何なんですか、何でそんなケチつけるようなことを言ってくるんですか。写真はみんなパソコンに入っていて、あの大騒ぎの中で持ってこれなかったんですよ。この卒業アルバムだって、かろうじて残ってたくらいなんですから。いちいち疑うようなことを言ってくるのはやめてください」
「分かった分かった、そう怒んないでよ、恐いなぁ、もぉ」
死村は壁にかけてあったポラロイドカメラを取って二ノ宮映子の写真を撮る。
「ただ、この写真だけだと、昔の写真だし、ゾンビになって変わってるかもしれないし、そこに僕が行ったときに彼女を見つける目印になるような特徴はないのかな?」
田中は少し考える。
「セーラームーンのコスプレをしてるみたいです」
「コスプレ?」
「お店でコスプレのイベントの日に化け物の大発生が起きて」
「あぁ、それじゃ、あの二年前のときにゾンビになったのかぁ。いや、もちろんゾンビは普通の死体よりは腐敗が遅いんだけど、でもけっこう崩れちゃってる可能性もあるよ。彼女のそんな姿、見たくないんじゃないの?」
「いや、そんな姿で彼女が今でも歩き回っている方が耐えられないですから。気にしないで捕まえてきてください」
死村は料金について説明をし始めた。田中は少しもどかしげにそれを聞いていた。死村はやはり今回は気乗りがしないと思った。
「二年前にゾンビになったとしたら、今も言ったけど、けっこう腐ってるかもしれないし、誰かに頭つぶされているかもしれないし、そのキャバクラに行ってもいないかもしれないけどねぇ。それにゾンビになった恋人に会うなんて、そんなロマンチックなもんじゃないからさぁ」
死村は立ち上がって冷蔵庫を開けてクリープを取り出す。何気なくメロディを口ずさむ。
「だぁだぁだぁだぁだだだだだぁ」
それにすぐに田中が反応し不愉快そうに言う。
「いや、それゴブリンの曲だけど、『ゾンビ』じゃなくて『サスペリア』のテーマじゃないですか」
死村は予想外の指摘を受けてひるむ。
「な、何、いいじゃん、『サスペリア』だって」
「この文脈でゴブリンの曲を歌うのに何で『ゾンビ』のテーマじゃないんですか。まさか、忘れたから他の曲でごまかしてるんじゃないですか」
田中は鼻を膨らませて興奮して言う。死村は頭を掻く。いったい何なんだ、まったくやりづらい。
「あぁ、もういいよ、僕が間違ってました。分かりました。で、そのキャバクラの名前は?」
「キャバクラ行進曲」
「キャバクラ行進曲? そりゃ、蒲田愛を感じるねぇ。風間杜夫と柄本明が一緒に飲んでたりするわけか」
田中はまた苛立った顔を見せる。
「いや、言わせてもらいますけど、風間杜夫が銀ちゃんをやってたのは深作欣司が監督した映画版の『蒲田行進曲』で、柄本明がヤスを演じたのは劇団つかこうへいの初演のときだから、二人は一緒には出てないですからね」
死村は再び頭を掻く。
「あぁ、もう、分かったよ、困っちゃうなぁ。君、そういうとこだよ。まったく」
死村は机の上にあった「志村霊太郎」と書かれた紙を憂さを晴らすかのようにくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に放る。紙くずはゴミ箱の縁にあたって外にこぼれる。田中はそれをちらりと見る。
「あ、今一瞬、鼻で笑うような顔した。あぁもう、どうせ僕は松坂くんみたいにコントロールがよくないですよ」
田中はまた大きく首を振る。
「言っておきますけどね、松坂大輔は決してコントロールがいいピッチャーだと言われているわけではないですからね。そういうとこ正確に言ってもらわないと」
田中は鼻を膨らませた。
死村がぼんやりと天井を見上げていると夜見子が現れた。
「今回は、何だかやりこめられちゃってるじゃん、どうしたのさ」
死村は顔をしかめて首を振る。
「何だかなぁ。いつもはこっちがマニアックなことをいって相手を煙に巻く方なのに、今回はまったく調子が狂うよ」
「へぇ」
夜見子は話しかけておいて関心がなさそうな声で答える。そしてプレハブ小屋の事務所を歩き回り、「あれ、このCD割れてるじゃん」と床を指差す。
「それか、さっきのやつが歩いてるとき、パリッとか言ってたんだよ、まったくもう。で、それ、何のCD?」
夜見子はそれには答えずに、死村の顔を覗き込む。
「今回の仕事、疑ってるんでしょう、依頼の内容が本当なのか。どうするの?」
死村はまた頭を掻く。
「そうなんだよ、そうなんだけどさぁ。何かあいつは信じられないんだよ。でも、依頼を受けちゃったから、やらないわけにもいかないじゃん」
「でも、信じてないんでしょ?」
「うぅ、信じてない。でも、あいつがむかつくから信じられないような気もする。あぁ、もう、まったくやりづらい」
夜見子は他人事のように笑っている。
「明日捕まえに行くの? 私も行くよぉ。キャバクラに社会科見学!」
「まったくのん気なことを言いやがって、困ったもんだよ」
そう言いながら、死村は立ちあがって、割れたCDが何だったかを確認する。マイケル・ジャクソンの「スリラー」だった。
「これ、マイケルじゃん、くそぉ。このアルバム、世界で一億枚以上売れたらしいから、またどっかで落っこちてるの見つけられるかなぁ」
夜見子は、そんなこと私は知らないという顔をして、ムーンウォークのつもりなのかよく分からないダンスを踊りながら、プレハブ小屋を出て行った。
「え、何、徒歩なの? どういうこと? レディにこんな危険な場所を歩かせるの?」
商店街の廃墟に夜見子の声が響き渡る。夜見子はホッケーヘルメットやプロテクターをつけて完全防備で立っている。
「だって、JR蒲田駅のすぐ近くだよ。あと、帰りに生きたゾンビを連れて帰って来なきゃいけないんだよ。バイクだと逆に不便なんだって」
「私を一キロ以上歩かせるなんて不届き者よ」
夜見子はホッケースティックで死村の尻を叩く。
「やめろやめろ、危ないってば」
夜見子のホッケースティックを払いのけて、死村はカリマー製の国防色のザックを背負う。
「お前が勝手についてきたいって言ったんだろが」
夜見子はもう一度死村の尻をホッケースティックで叩き、そしてそのまま走り出す。
「おい、待てって。まったくこっちは荷物重いんだから」
死村は慌てて追いかけていく。二人はホッケースティックを奪い合ったり、突き飛ばし合ったりしながら、蒲田郵便局の横を通って環状八号線に出る。生ける屍たちは見当たらない。そのまま環状八号を渡り、大田区民ホールの脇をJR蒲田駅へ向かっていく。公園のようになっている区民ホールの横を歩いていくと、ガラス張りになった区民ホールやその横のニッセイ・アロマ・スクエアの一階に何体かの生ける屍が徘徊しているのが見える。
「ほら、この区民ホールのある場所、ここが昔、松竹の蒲田撮影所があった場所なんだよね」
「蒲田撮影所?」
「そう、そこで日本映画の黄金時代に多くの名作が作られたんだ。昨日さ、あの田中ってやつと『蒲田行進曲』の話をしてただろ。『蒲田行進曲』は、その蒲田撮影所のことを描いた映画なんだよ」
「へぇえ」
夜見子は関心なさそうに合図を打つ。死村が話に夢中になっていると、突然、並木の脇から屍が飛び出して、死村とぶつかる。
「わぁ。あぶねぇなぁ、おい」
襲おうとしたわけではないらしく、生ける屍の方も驚いたように手足をばたつかせている。いかにも下町らしいラフな格好をした初老で小太りの男性だった。
「もお、お父さん、気を付けて歩いてくれないと。困るなぁ」
二人はJR蒲田駅の東口ロータリーを通って、交番の横を抜けて進んでいく。そこには外食店やカラオケ店、そしてキャバクラなどが並ぶ小さな繁華街のエリアがある。屍たちを慎重によけながら死村と夜見子は目的地に向かっていく。
「これかな」
死村は一階にコンビニのあるビルで立ち止まる。見上げると、建物に取りつけられた看板に「2Fキャバクラ行進曲」と丸みを帯びたピンクの字で書かれている。コンビニの脇の階段から二階に上がれるようになっているらしい。死村はザックに差し込んでいた金属バットを取り上げ、そして、頭にヘッドライトをつける。
「よし、行くぞ」
そして古びて薄汚れた階段を上っていく。一階の踊り場で倒れている男がいたため、バットでつついてひっくり返すと、頭蓋骨が割れている。
「転んで階段から落ちたのかねぇ。それとも、誰かにやられたのかな。見た目は客って感じだよな」
キャバクラのドアは閉められていた。「キャバクラ行進曲」とポップな書体で書かれた鉄のドアに死村は手をかける。
「いきなり開けるの? わって沢山出てくるかもしれないよ」
「だって、開けなきゃ、何にも分かんないだろ。沢山いたら急いで逃げるから準備をしておけよ」
死村は頭のヘッドライトを点灯する。鍵はかかっていないようであり、ドアは錆びて軋んだ音を立てながら開いた。中は真っ暗だった。暗闇を死村のヘッドライトの光が差し込んでいく。薄暗い、埃まみれの中を、何体かの生ける屍が立ちつくしたり、ゆっくりと動いたりしている。
「これじゃ、どいつがセーラームーンか分かんねぇなぁ」
「じゃあ、どうするんの? 中に入って、一匹一匹確かめる?」
「匹って言うなよ、匹って。ちゃんと計画を立ててるから心配すんな」
死村はドアを開けたまま、階段を下りていく。そして、一階の踊り場に来ると、ザックを下ろし、中から大きなCDラジカセを取り出す。
「それでどうするの?」
「僕が音楽をかけたら、急いで下に降りて、ちょっと離れた場所まで避難するぞ。やつらは音に反応して店から出てきて、後ろから来たやつに押されて、どんどん階段を下りてくるから、その中から目当てのセーラームーンを捕まえるって寸法よ」
「そんなに上手く行くの?」
「まぁ、見てろって」
死村はCDのスタートボタンを押す。ボリュームを上げると、力強くも哀愁を帯びた吹奏楽によるイントロが流れ、「蒲田行進曲」が始まる。風間杜夫、平田満、松坂慶子による映画版のものだった。
「ヤスは平田満だったんだよねぇ」
そう言いながら、死村は階段を駆け下りて、一区画ほど離れた場所まで走っていく。廃墟と化した蒲田の街に「蒲田行進曲」が響き渡る。死村と夜見子はじっと階段の入口を眺めている。
「あ、来た来た、何あれ?」
最初に降りてきたのは、ピンク色の軍服のようなものを着て金髪のカツラをかぶった屍だった。
「あぁ、あれはセイラさんだね。ガンダムの」
「また来たよ、今度は何?」
次に来たのは、黄色と黒のトラ柄のアニマルビキニを来て緑色のカツラをかぶった屍だった。
「あれも違う。あれはラムちゃん。ラムちゃんにしては腰回りが太くないか?」
「その発言、セクハラ。ほら、どんどん来るよ、あれは?」
今度は淡い水色のセーラー服を来た屍が下りてくる。
「あぁ、あれは綾波レイ。エヴァンゲリオンの」
夜見子が死村の背中を叩く。
「何言ってるの、はずれ! あれは綾波じゃないよ。涼宮ハルヒだよ。ほら、髪の毛青くないじゃん」
「え、何それ、そんなアニメあったっけ」
「ホントに? これだからおじさんは嫌だなぁ。ほら、また来たよ、今度は頑張れ」
今度は赤いネルシャツを着て、スキンヘッドの中年男の屍が下りてくる。
「何だあれは。ゾンビ?」
「ゾンビ? そんなコスプレありなの、この世の中に?」
「いやいや、コスプレするのはお姉ちゃんたちの方だから、あれは単なるおっさんか」
いつの間にか、通りには店から下りてきたものだけではなく、そこら中から多くの生ける屍が集まってきている。「蒲田行進曲」が終わり、音楽は止んでいたが、屍は群れをなしていく。
「ちょっと、数が多いなぁ」
「ほら、もうひとり来たよ。あれは誰?」
階段から、全身青いタイツを着て、両胸には伊達巻のように黄色い丸の中に黒い渦巻きが描かれており、額に触覚がつけられている。
「あれは分かるぞ。仮面ライダーの蜂女だね」
「きもっ。あれって罰ゲームじゃん」
すると、蜂女の後ろから金髪をツインテールにして、青いミニスカートのセーラー服姿の屍が現れた。胸には真っ赤な赤いリボンがついている。
「あれだ、あれ! 来たぞ!」
死村が喜んで夜見子を叩く。
「痛ったいなぁ、もぉ。で、どうするの。こんなに通り中がゾンビになっちゃったよ」
死村は再びザックを下ろし、中から長く巻かれたロープを取り出して中心を輪っかにして縛った。そして、腰をかがめて屍たちの群れの中に入っていく。しかし、密集しているため、なかなか進めない。しばらく時間がかかり、死村はやっとセーラームーンの後ろに回り込み、ロープの輪っかを頭からかぶせ、そして胸のところで縛り上げる。驚いてセーラームーンが暴れるため、死村は口にハンカチを咥えさせようと髪の毛を掴むと、すっぽりと取れてしまう。
「失礼、カツラ取れちゃった」
中からは茶髪でショートカットの頭が現れる。
「あ、でもそっちのが似合うね」
そう言うと、死村は再びそのショートカットの髪を掴み、セーラームーンの顔を上に向かせ、口の中にハンカチをつっ込む。屍たちは口に物をつっ込まれてふさがれると自分で外すことが出来ない。死村はその屍から少し離れ、繋いだロープを持って引っ張りながら、集団の外に抜け出した。
一ヶ月前のことだった。ラゾーナのコミュニティに久しぶりに助けを求める人たちがやってきた。新しく来た人たちはコミュニティを代表する委員会の人たちが面接をし、その内容を全体集会で報告して、多数決で受け入れが判断されることになっていた。委員会は最初にこのコミュニティをまとめ上げたリーダーの華沢と選挙で選ばれた五人によって組織されていた。そのときもラゾーナの中心にあるルーファ広場で全体集会が開かれた。田中は新しいメンバーが来ようと自分には知ったことではないと思い俯きながら柱に寄り掛かっていたが、先月の選挙で選ばれて委員となった大山が新しく来た一人の名前を「山村康雄」と呼んだとき思わず顔をあげた。山村康雄は小中高と同じ学校の同級生だった。山村はこの二年間、偶然居合わせた人たちと逃げ回っていたらしい。委員から人物の紹介があり、多数決に入る前に意見や質問が求められた。そのとき、丸岡が手を挙げた。彼も田中の高校の同級生だった。大山が丸岡を指さして発言を許す。
「山村康雄って体格がよくて、目玉がギョロってして大きくて、スポーツ刈りにしてるやつですよねぇ」
大山の後ろに立っていた華沢が少し前に出て答える。華沢は特にこれといった外見的な特徴があるわけではないやや背の低い五十過ぎの男性だったが、非常に話し方が明快で聡明な印象を与える男だった。
「スポーツ刈りではないですが、それ以外は言う通りですね。彼を知っているんですか?」
丸岡は嬉しそうに飛び上がる。
「あいつか! 知ってますよ、高校の同級生ですよ。いやぁ、生きててよかった。あいつなら心配ないですよ。すごいいいやつですから」
それを聞きながら田中は高校時代を思い出していた。田中には山村がいいやつとは思えなかった。山村や丸岡は明らかに田中とは違う種類の人間だったし、田中は彼らから馬鹿にされ続けていた。田中はあんなやつにここに来て欲しくないと思った。
田中の希望とは異なり、山村を含めた三人の受け入れは可決された。田中が自分の部屋に戻ろうとすると、後ろから丸岡に声をかけられた。
「おい、驚いたなぁ、山ちゃんが来るなんて。今から会いに行こうぜ、懐かしいなぁ」
丸岡は人懐っこい笑顔を浮かべる。田中はこいつはなぜ俺が山村と会いたいと思うのだろうかと思った。しかし、断りの言葉が思い浮かばない。丸岡は強引に田中を委員会の会議室まで連れて行った。田中はされるがままについていった。すぐに委員会が使っているルーファ広場のステージ裏の店舗スペースにたどり着いた。もともと店舗だったため、前面はすべてガラス張りになっていて、中が見通せる。華沢や大山を含めた委員会のメンバーと何人かの新しく来た人たちが話している。
「ほら、あれ、あれが山ちゃんじゃないか。あいつ、おっさんになったなぁ。はっは」
丸岡が嬉しそうに田中に言った。丸岡が部屋の外から大きく手を振ると、山村よりも早く委員会の人たちが気がついた。大山が近づいてきて、ドアを開いた。
「おい、しょうがないなぁ。今、このコミュニティの説明してるところなんだから、もうちょっと待ってろよ」
すると、田中に気づいた山村が大山の後ろから大声を出す。
「あれ、丸か? お前、丸じゃん! マジかよ!」
大山は少し呆れた顔をしながら肩をすくめ、
「もういいよ、こいつには後で他のメンバーが説明してやってくれ。お前は久しぶりに丸岡と話して来い」
大山の話を最後まで聞き終わらないうちに、店から山村が飛び出してきて、丸岡と握手する。
「いやぁ、これ、ホントなのか? すげぇよ、すげぇじゃん。こんなところでお前に会うなんて、信じらんねぇ」
体格のいい髭面の山村が今にも泣きそうな顔をしている。丸岡も満面の笑みでそれを迎え入れる。田中はそれを白々しく見ていた。
「そうだ、山村、こいつ覚えてるか? 同じ高校の。田中だよ、田中!」
山村はやっと田中に気がついて顔をまじまじと眺める。それから、大きく目を見開く。
「あぁ! お前、田虫じゃん!」
丸岡が大声で笑う。
「そう、田虫だよ、田虫!」
田中は中学校の頃、椅子の後ろに貼られていた「田中」と書かれた名札シールに落書きをされて「田虫」とされてしまったことがあった。その話が高校に入ってからも、同じ中学校だったクラスメイトたちに蒸し返されて、田中は高校の間中「田虫」と呼ばれることになった。
「いやぁ、懐かしいなぁ。田虫なんて、高校の卒業式のとき以来じゃないか」
山村が笑顔で肩を叩いてくる。しかし、田中は高校の卒業式を欠席していた。田中はなぜ今になってまた「田虫」などという屈辱的な渾名で呼ばれなければならないのだろうと思った。ただ、その場ではへらへらと笑うことしか出来なかった。
「それじゃ、ラゾーナを案内してやるよ。その後で何かあったときのために取ってあったウィスキーが半分残ってるから、今日はそれをみんなで空けようぜ」
「酒? 酒が飲めるのか? ホント、信じらんねぇ、マジ、生きててよかったぁ。死体に食われんでよかったぁ。お前ら最高だぜ!」
山村はわざとらしいほど大きな声を上げた。
丸岡と田中は山村にラゾーナのコミュニティを案内した。ラゾーナ川崎の本館の一階部分は物品の倉庫と調理場、そして食堂になっていた。屍たちに寝込みを襲われないために、居住スペースは二階から上にしてあった。本館の二階、三階が家族用、四階が独身男性用となっていた。一方、本館に併設されたルーファ広場のある円形の建物が主に独身の女性用として使われていた。また、本館の五階のスポーツクラブや映画館があったスペースは一部が乳幼児のいる家族が住む赤ちゃんエリア、そして残りがレクリエーションスペースとして誰でも使っていいことになっている。ただし、電気は通っていないために、もちろん映画を観ることは出来ない。丸岡は四階の自分の部屋に立ち寄って半分ほど残っているサントリーオールドを取ってきた。
ラゾーナの中を一通り案内し終えて五階にある近隣の景色が見渡せるラズーンテラスと呼ばれるスペースに来たときには、もう日が沈みかけていた。テラスからは真下にラゾーナのルーファ広場を見下ろせるだけでなく、前を向けばコンサートホールのある高層ビルのミューザ川崎や駅に直結したアトレ、ヨドバシカメラ、川崎日航ホテルなどが見渡せた。三人はベンチに腰掛け、酒盛りを始めた。割る物はただの水であり、氷も炭酸もなかったが、それでも三人とも久しぶりのアルコールだった。丸岡は山村にこれまでどうやって生き残ってきたのかを尋ねた。それは丸岡や田中の想像していた以上に恐ろしい、一緒に逃げた仲間たちを次々に失っていく物語だった。聞かれるままに話し出した山村は次第に言葉がつまり涙を流し始めた。
「ホントになぁ、俺、今、信じらんねぇんだよ。ここでこんな風に自分が昔の友達と会ってよぉ、その上、酒まで飲ましてもらって。こんなことって、あっていいのかって。本当は俺はもう死んじまったんじゃねぇかって」
山村に泣き出されたことを気まずく感じた田中が横を見ると、丸岡も目に涙を浮かべている。
「先週もよぉ、ずっと一緒に逃げてきた、こんな世界になるまでまったくどこの誰だか知らなかったおっさんが、でも、この二年間で何度も命を助け合ってきた誰よりも頼りにしてたおっさんがよ、俺の目の前で死体どもに引っ張られて行っちゃったんだよ。俺は自分が逃げるのが精一杯でよ。そのおっさんに何度も何度も、何度も何度も、もう数えられないくらい助けられたのによ、それでも俺はそのとき自分が逃げるのが精一杯でよ。ただ、死体どもに捕まったおっさんの最後の言葉は、助けてくれじゃねぇんだ、逃げろ、なんだ。あんな、ごく普通の、っていうか、どっちかって言ったら、もともとはしょぼい貧乏人って思われてるようなおっさんがよ、何であんなに、かっこいいんだよ。ずりぃよなぁ、血もつながってないし、知り合いだったわけでもない俺のことを最後まで気遣ってよ、あんなかっこよく死んじまうなんて、ずりぃってんだよ」
山村は涙をぬぐう。丸岡は拳を作って山村の太い二の腕を何度もパンチする。
「お前なぁ、山村なぁ、お前、ほんっとに、生きててよかったよ。お前、生きろよ、ずっとこれからも生きろよ。そのおっさんの分までな、絶対死ぬんじゃねぇぞ」
「やめろ、痛てぇだろ、おい」
そう言いながら、山村は泣き笑いになる。
「こんな久しぶりに友達に会ったのに泣いてて恥ずかしいじゃねぇか。でもよぉ、そのおっさんが死んだときも、その前の月にも一緒にいたおばさんが食われちゃったときにも、なぜか泣けなかったんだ。悲しいはずなのに涙が出なかったんだ。何で今日はこんなに涙が止まらないんだよ」
丸岡は立ち上がってボクシングのファイティングポーズを取り、山村に殴りかかる。しかし、手加減しているのがすぐに分かるほど、パンチのスピードは遅い。
「おい、泣き虫、泣け、泣け、いくらでも泣けよ」
「くそ、こいつ、やりかえさねぇと思って、いくらでも殴ってきやがって」
山村も立ち上がり、二人でボクシングの打ち合いが始まる。しかし、二人とも泣いたり笑ったりしながらであり、遠目で見るとじゃれあっているようにしか見えない。田中はそれをただぼんやりと眺めていた。馬鹿馬鹿しいと思った。ただ、それでも、そう思う自分の心の裏側には、その場で一緒に騒げないことへの妬みが含まれているのだろうと気がついていた。居場所がないように感じた。早くその場を去りたかった。
ただ、田中にとって大きな衝撃だったのは、二人の戯れが終わった後の会話だった。疲れて再びベンチに腰をかけた山村は思い出したように話し始めた。
「そうだ、お前ら、二ノ宮って覚えてるか?」
残っていたウィスキーを飲み干して、丸岡が答える。
「あの、うちの学年にいた、ちょっと恐そうな美人だった二ノ宮か?」
「そうそう、実は俺、最初に死体に襲われたとき、あいつが働いている蒲田のキャバクラにいたんだ」
「蒲田のキャバクラ? あいつ、キャバクラで働いてたのか? どっかの男と結婚して蒲田を出てったんじゃなかったっけ?」
丸岡と山村のやり取りを聞きながら、田中は動揺が抑えられなかった。二ノ宮映子、忘れたくても忘れられない名前だった。そんな田中の様子には気づかずに丸岡と山村は話し続ける。
「そう、俺もビックリしてさぁ。たまたまその日は蒲田で仕事があって、仕事で一緒だったやつらに、俺の地元だから、キャバクラに案内してやるっていって、ずっと前に一度行ったことがある店に連れてったんだよ。キャバクラ行進曲って分かるか?」
「あの、コンビニの上のずっと昔からある汚ったないところだろ」
「そうそう、知ってんじゃん。そこに入ったら、最近、そういうイベントが流行ってるのか、コスプレデーとかっていうやつで」
「コスプレって白衣とかセーラー服とか?」
「いやいや、アニメのキャラ。俺あんまりアニメ見ないからよく分かんないキャラも多かったんだけどエヴァンゲリオンとかガンダムのキャラがいたよ。それで、俺たちのテーブルについた女が、どっかで見たことあるなぁって気がしたんだ。そしたら、向こうも同じようにどっかで見たことあるみたいな顔をして。で、はっと気がついたんだけど、二ノ宮なんだよ」
「へぇ、あいつ蒲田に帰ってたんだぁ。離婚したのかなぁ。待て待て、ってことは、二ノ宮もコスプレしてたってことか? うわっ、あいつ絶対そんなことしなさそうなのに、笑えるなぁ。それで、二ノ宮は何のキャラだった?」
「セーラームーン」
丸岡と山村は二人で「似合わねぇ」と顔を見合わせ大笑いをする。
「ど、どんな様子だった」
突然、田中が口を開いた。急に喋ったために、上ずった声になる。丸岡と山村は田中の大きな声に驚く。
「あ、思い出した、田虫、お前、二ノ宮のことが好きだったんじゃなかったっけ?」
丸岡が田中を指差す。
「そうだそうだ、確か幼馴染とかじゃなかったっけ?」
田中は自分が口を開いたことを後悔した。黙っていればよかった。田中は下を向く。丸岡は嬉しそうに田中の肩を叩き、「こいつ照れてるぞ」と言う。ただ、山村の方はむしろ眉をひそめて首を振る。
「そうだよなぁ、田中お前にはちょっとつらい話かもしれないな」
山村の声のトーンが低いことに気がついて、丸岡も田中を叩くのをやめる。
「ひょっとして、まさか、二ノ宮も」
「そうなんだよ、お互い久しぶりに会って、俺が二ノ宮のコスプレ姿を馬鹿にしたり、向こうが俺をすっかりおっさんになったとか中年太りだとかってからかってきたりして、まぁ、楽しく飲んでたんだよ。そうしたら、急に店のボーイの一人が女の子に襲い掛かり始めて。もうわけが分からなくて、客たちがみんなで取り押さえようとしたら、そいつが女の子に噛み付いてさぁ。俺と一緒に来た腕っ節の強いやつがそのボーイを何度も引き離したんだけど、いくら殴ったりしても、そいつ痛みを感じてないみたいにまた飛びかかって来るんだ。そしたら、いつの間にか、そいつに噛まれた女の子まで周りを襲い掛かり始めて、もう店内はメチャクチャになって」
「あぁ、分かるよ。最初のときはどこもそんな感じだったよな。何が起きてるのか全然分かんなくて」
「二ノ宮ってさ、ほら妙に姉御肌なところがあるじゃん。だから、他のキャバ嬢たちに、早く逃げろとかって指示出したりしていて。それでちょっと愚図愚図しちゃったんだろうなぁ。自分が真っ先に逃げればよかったのに。俺は一緒に来た連れの中でまだ正気なやつと二人で店から出ようとして、最後に振り向いたときに、二ノ宮と目が合ったんだ。あいつも逃げようとしてたんだよ、多分。でも、俺と目が合ったその瞬間だよ、あいつの頭がぐっと後ろに引き戻されて。何かさぁ、今でも目に浮かぶんだよ。あの髪の毛を引っ張られて頭が後ろに下がっていくときのあいつの顔が。目玉を大きく開いて鼻を膨らませて。でも、もうあたりのやつらはみんな噛まれてるような状態で、あいつもそのまま引っ張られて、屍たちに囲まれて、もうどうしようもなかった。俺がそのまま店の外に出ると、その得意先の連れがそのキャバクラの扉を閉めたんだ。最初、ドンドンって、まだ普通の人間が中からドアを叩く音が聞こえたよ。俺は『まだ生きてるやつがいるから開けてやらないと』って言ったんだ。嘘じゃない。でも、そいつは『絶対に開けるな、もうどうせ無理だ』って言って必死な顔でドアを抑えていたんだ。すぐにドアを叩く音は聞こえなくなったよ。中のやつらがみんなすっかり化け物になって、ドアノブを回すってことが分からなくなったんだな。それで俺たち二人はその場を離れたんだ。二ノ宮はなぁ、多分、今でもあのキャバクラの中を徘徊しているに違いないんだ」
それだけ言うと山村は下を向く。
「どうにもならなかったんだろ。俺はお前が生きててよかったよ」
山村は丸岡の言葉にただ下を向いたままで頷いている。丸岡は「ちくしょう、酒が足りねぇよなぁ」と言う。田中は一人で空を見上げ、心が掻き毟られるように感じながら二ノ宮のことを思い出していた。
「わぁ、何? 誰?」
死村が目を開けると、目の前に田中が立っている。
「またそのリアクションですか? 今度のはちょっとわざとらしくないですか」
死村は舌打ちをする。
「何だよ、ばれてんのかよ、面白くないなぁ、もう」
「面白いとか、そんなの僕は知りませんよ。それより、食料持ってきましたが、仕事の方はちゃんとしてくれたんでしょうねぇ」
田中は死村を覗き込む。死村はビーチベットから立ち上がった。
「何、疑ってんの? 当たり前だよ、当たり前。僕はねぇ、見た目よりはちゃんと仕事するって評判なのよ、馬鹿にしてもらっちゃ困るねぇ」
そう言いながら、死村はふらついて田中の方に少しよろける。田中は嫌そうに押し返す。押し返された死村は心外だとでも言った表情をするが、田中の方はそんなこと気にも留めていない。死村は階段を下りて階下に向かう。田中も後ろからついていく。
「一階を、一応、ゾンビ部屋に使ってんだよね、今そこにいるから」
下まで降りると、死村はマンションの一番手前の部屋の鍵を開ける。中は薄暗い。死村と田中はそこに入っていく。1DKの一人暮らし用の部屋だった。奥に何かがもぞもぞと動いているのが分かる。田中は警戒して足を止めるが、死村はかまわず進んでいく。死村がカーテンを開けると、あたりに光が射して、暗闇から人の姿が浮かび上がる。セーラー服のコスプレをした女が両腕を縛られ、顔に伊勢丹の紙袋をかぶせられてつながれている。
「ほら、セーラームーンのコスプレをしたキャバクラ嬢だよ。食料よこしな」
田中は警戒した様子でゆっくりと部屋の奥に入ってくる。
「顔を見せてくださいよ。そうじゃないと分からないじゃないですか」
「お前なぁ、僕がぜんぜん違うゾンビをとっ捕まえてこんなコスプレさせてこの人だって言ったりすると思うわけ? まったくもう困っちゃうなぁ」
そう言いながら、死村はそのコスプレ姿の人物の紙袋を取る。中からは髪の毛が乱れて口元は乾いた血で茶色くなった女の顔があらわれた。
「あ、金髪のカツラ? ここに連れてくる途中にこいつが暴れて、そのときに取れちゃったんだよね。別に金髪のカツラかぶってなくてもいいよね」
田中はそんな死村の話はまったく聞いていないかのようにその生きる屍の顔を目を大きく見開いて凝視する。久しぶりに見る二ノ宮映子の姿だった。顔色は茶色くなり、皮膚はところどころ剥がれかけ、目の焦点はあっておらず、左の頬が破けて、中から歯が見えていたが、それでもそれは明らかに二ノ宮映子だった。
「ほら、本物だろ。分かったら食料を渡せよ」
田中は背負っていたリュックからビニール袋を取り出すと、死村の方に放り投げた。
「投げるなよなぁ」
死村はビニールの中身を確認する。その間にも田中は映子の屍に近づいていく。最初はまるで寝ぼけているかのようにまどろんでいたその屍は田中が近づいて来たのが分かると、歯を剥いてうなり始める。
「あぁ、もう、危ないよ、ほら」
死村は再び屍に伊勢丹の紙袋を被せる。
「ちょっと、このゾンビ、気性が荒いよねぇ」
田中はつぶやくように言う。
「確かに映子です」
死村は床においてあった太いスパナを取り上げて田中の前に出す。
「似たような依頼は前にもあったんだよ。子どもをゾンビのまま徘徊させておきたくないってね。そのときもここで眠らせて一緒に大田区民ホールの裏の公園に埋めたんだよ。彼女もそうしよう。ほら、お前がやりなよ」
田中は一度そのスパナを受け取るが、首を振ってそれを床に落とす。
「料金を払って捕まえてもらったんです。後はどうしようが勝手です。彼女は連れて帰ります」
そう言うと田中は部屋の柱に結びつけられていた映子を縛るロープを解き始める。死村は眉をひそめてそれを見ている。
「マジで? それ連れて帰る気?」
「これはもう僕と彼女の問題です」
死村は頭を掻く。
「おい、やめといた方がいいって。ゾンビの扱いって、お前が思ってるより大変だぞ。途中で噛まれたりしたら馬鹿馬鹿しいだろ」
そう言いながら、死村はロープを解こうとする田中を止めに入るが、田中はそんな死村を振り払う。そのとき、死村は思わず田中の腕を掴んでしまう。
「離してください」
死村は固まったように動かない。
「何だよ。離せって言ってるんだろ」
田中は死村を突き飛ばす。死村は抵抗せずに、そのままよろめいて壁にぶつかった。
「もう、調査費は払ったんですから。文句ないでしょう」
そのまま田中は映子の屍がつながれたロープを引っ張って、映子を外に出そうとする。ただ、なかなか言うことを聞かず、田中は苛々とした様子で力任せにロープを引く。死村は壁に寄りかかったまま、もう止めようとはせず、ただそれを眺めていた。
「しょうがないなぁ。困ったもんだ」
田中はしばらく手こずった挙句に、力任せに屍を引っ張って去っていった。
「いいの? これで。手を触ったとき、何を感じたのよ」
部屋のドアから夜見子が顔を覗かせる。
「何だ、見てたのか」
夜見子は中に入ってくる。
「ねぇ、どんな風に感じたの?」
死村は田中の落としたスパナを足で部屋の隅に寄せながら答える。
「何かなぁ。ただの悲しみじゃなくて、もっとずっと暗い感じ? 恨みとか妬みとか色んな気持ちが混じって訳が分からなくなったような。あれは絶対、恋人を楽にさせてあげたいとか、そんなんじゃないよな」
カーテンを閉めて、田中が置いて行った食料の袋を持って部屋の外に歩き出す。夜見子もついてくる。
「だよねぇ、だよねぇ。そもそも二人が付き合ってたっていうのも信じらんない。で、どうするの? どうするの?」
死村は非常階段を登り始める。
「どうするも何もなぁ。あいつはちゃんと探偵の調査費を払ったわけだから、あのゾンビをどうするかは知らないけど、少なくとも僕に迷惑をかけてないから、もうこっちの知ったことじゃない話だろ」
死村が足を止めて振り返ると、夜見子は明らかに不満そうな顔をしている。
「本当にそう思ってるの? だって、あいつ、あのゾンビに何するか分かんないよ。いいの?」
「ゾンビに何しようが、そんなの関係ないだろ」
死村はまた前を見て歩き出す。屋上まで着くと、田中が来る前にそうしていたように、ビーチベットに横になった。そんな死村を見下ろして夜見子は言う。
「嘘つき。納得いってないくせに。本当にこのままでいいと思ってるの?」
「うるさいなぁ、もう。だって、どうしょもないだろ。あぁあ、くそう。困っちゃったなぁ」
死村はビーチベットの上で頭を掻いた。
田中と映子は子どもの頃、同じ団地の一階の隣に住んでいた。親同士、特に母親同士が仲良くなり、よく団地の前のブランコや砂場のあるエリアで二人を一緒に遊ばせながら、近所の噂話をしていた。映子の母親は気が強く社交的で、田中の親はどちらかというと引っ込み思案な文学少女といった性格だったが、他に話す相手がいなかったからか、あるいはタイプが違うことが新鮮だったのか、親友のように毎日会って話していた。やがて、どちらが言い出したのか、将来、子ども同士を結婚させようということが話題となった。もちろん、今の田中が振り返ってみると、どちらも本気だったとは思えない。ただ、幼稚園の年長の頃、親同士がその話をしているのを初めて耳にしたとき田中は心がざわめいてどうしようもなく落ち着かなくなるのを感じた。それまでは特に映子を意識していたわけではなく、ただ一緒に遊んでいただけだった。しかし、二人はやがて結婚するんだと思ったとき、これまで感じたことがないような甘美な気持ちになり、自分でも一体自分に何が起きたのか分からなかった。やがて田中は映子が他の幼稚園の女の子たちよりもずっと美しいということに気がついた。どの女の子と比べても、彼女が一番価値があるように思えた。性格は母親同様に勝気で、田中はいつも命令されたりしていたけれど、それでも心の中で自分は将来映子と結婚するんだと強く思っていた。
小学校に入り、低学年の間はまだ放課後よく二人で団地の前の公園で遊んでいたし、同じクラスになったときには他の友達も交えてもう少し遠くまで遊びに行ったりもしていた。ただ、気がつくと自然に別々に登校するようになっていた。そして、高学年になると、活発な映子は少し不良っぽい子たちと一緒にいることが多くなり、田中とは遊ばなくなった。田中の方はあまり友達が出来ず一人でいることが多くなった。それでも映子は団地ですれ違うと、「よぉ」と男子のように挨拶をしてくれた。そのたびに田中は心の中で「いつか彼女と結婚するんだ」と思った。
小学校六年生の秋に、映子の家族は団地を出て行った。一戸建てを買ったのだった。家は団地からそれほど離れてはおらず、転校もしなかった。ただ、引っ越し先の映子の新たな家はちょうど中学の学区の境目であり、中学校は別々になった。中学に入ると、映子はどんどん背が伸びて、みるみる美しくなっていった。田中は日に日に女性として成長をしていく映子とたまに町ですれ違うとても誇らしい気持ちになった。ただ、いつの間にかあの「よぉ」という挨拶もしてくれなくなった。田中は自分の中で勝手に「照れているのだろう」と解釈をしていた。
田中は中学に入るといじめにあった。「田虫」とからかわれた。もともと社交的ではなく一人でマンガなどを読んでいることが多かったが、中学ではさらに誰とも遊ばなくなった。クラスメイト全員から無視されたこともあった。体育の後で制服のズボンを隠されたこともあった。そんなときふと田中は映子と同じ学校ではなくてよかったと思うのだった。こんな姿を将来の花嫁には見せたくなかった。
家族で法事に出かけた帰りに駅で、偶然にも映子の家族と出くわしたことがあった。田中の両親は喪服で田中は学ランだったが、映子の父親はアロハシャツを着て、母親も涼しそうなワンピース姿であり、映子は藍色のキャップを被って、白と藍色のハッピを着て、首からメガホンをぶら下げていた。横浜スタジアムで野球観戦をした帰りらしかった。母親二人はすぐに再会を喜び華やいだ声をあげた。
「そうなの、野球なの。いや、私は全然分かんないのよ。でもこの人の影響で娘も最近なんだか野球好きになっちゃったみたいで、おかげで私もつき合わされて」
父親同士も幾分ぎこちなかったが近況などを話していた。普段道ですれ違っても何も言ってくれない映子だったが、この日は野球観戦の後で気持ちが高揚していたのかニコニコしながら田中に話しかけてきた。
「田中は野球とか見ないの? え、全然? 何で、だって、浜スタは京浜東北線で一本で行けるじゃん。行ったらすごいよ、生で見られるんだよ。ほら、知らないのハマのメカゴジラ、佐伯とか。あ、大魔神佐々木が帰ってきたんだよ」
ベイスターズのキャップの両サイドから伸びた栗色の髪がサラサラとなびいて、大きく口を開けて笑うと八重歯が少しとんがって可愛らしく見えて、こんがりと日焼けした肌は輝くようで、田中は映子の姿に見とれていた。それまでまったく野球を知らなかった田中はその日からベイスターズファンになった。いつか映子と二人で横浜スタジアムに行くことを夢のように思い描いていた。
高校に入り、田中と映子は再び同じ学校になった。田中の胸は躍った。これを機に二人の距離が再び近づく。ひょっとしたら、付き合えるかもしれない。二人は結婚の約束をした仲なのだから。ただ、中学の頃のようにいじめられている姿は映子には見せたくなかった。一年のときは同じクラスではなかった。同じ学校になったのだからすぐに話す機会があるだろうと思っていたが、なかなかそうした場面は訪れなかった。自分から映子のクラスに訪ねていくのも映子を困らせてしまうかと思った。映子の方がこちらのクラスに来てくれたらいつでも歓迎するつもりだった。しかし、映子はいつまで経っても田中のもとには現れなかった。
やがて高校でも田中はクラスメイトたちからからかわれるようになっていった。いつの間にか渾名も「田虫」に戻っていた。田中にはなぜ自分がどこに行っても馬鹿にされるのか分からなかった。ただ、そうしてからかわれていることが映子の耳に入ってしまうことを恐れていた。
高校二年にあがる頃には田中はすっかり馬鹿にされるキャラクターが定着していた。そのため出来るだけ映子から離れていたいと思っていたが、結局新しいクラスが発表されると映子と同じクラスになっていた。これから一年間ずっと自分がからかわれる姿を映子に見られなければならないのかと思うと情けなかった。同じクラスになっても、映子が田中に積極的に話しかけてくることはなかった。田中も話しかけなかった。二人が幼馴染であることを知るものは他に誰もいないようだった。田中は相変わらず「田虫」と呼ばれ続けていたし、そもそも女子たちとの交流がほとんどなかった。多くのクラスの女子は田中を見ると、少し哀れそうな顔をして、それ以上近づこうとしないのだった。まるで関わったら自分にまで災難が起こるかのように。
高校二年の秋、修学旅行があった。田中は行きたくなかったが、親に「思い出は大事だから」という理由で無理矢理に参加させられた。田中は嫌な思い出ならない方がいいに決まっているじゃないかと思った。
奈良と京都、最後に神戸を巡る一般的なコースだった。京都に泊まった二日目の晩だった。京都の中心部から外れたところにあるその合宿施設では、田中の学校の他にももう一つ別の高校が泊まっていた。そのために部屋が少なかったのか、田中のクラスの男子は大広間に襖がしてあるだけの部屋をあてがわれた。襖で仕切られているために一応六人部屋ということになっていたが、やろうと思えばすべての襖を開いてクラスの男子全員同じ部屋にすることも出来るような状態だった。実際、食事前の時間は襖が開け放たれ、活発な男子たちが走り回って枕投げをしたりしていた。田中はそれを避けるように部屋の隅に縮こまったが、それに気づいた山村に「なに隠れてんだよ」と思い切り枕をぶつけられたのを覚えている。田中はこの夜が一刻も早く過ぎてほしいと思っていた。しかし、クラスメイトたちは夜になっても寝ようとしなかった。教師たちに言われたため、それぞれの部屋は襖でしきられ、田中は自分の布団で寝ようとしたが、田中のいる部屋に半数くらいの男子たちが集まって円を囲んで座った。部屋の電気は消さないと教師たちに見つかってしまうために、それぞれ携帯電話のライトをつけたり、なぜ持ってきたのか懐中電灯をつけたりしていた。田中もその中に入れと言われた。一人が鞄からウィスキーのボトルを出した。
「負けたやつが罰ゲームでこれを一杯飲むことにしようぜ」
田中はそのときまでアルコールを飲んだことはなかった。どんなゲームをするのかは分からなかったが、そのゲーム参加されられたら必ず負けるのだろうと思った。やりたくないと言った。しかし、それは許されなかった。そんな選択肢は始めからないかのような雰囲気であった。トランプを持ってきた人がいたため、勝負はポーカーで決めることになった。そのとき田中はポーカーのルールを知らなかった。田中がルールを忘れたと言うと、丸岡が笑って、「何枚か捨てて、捨てた数だけ真ん中の山から取るんだよ。それで同じ色とか数字とかそろえるんだ、それだけ、簡単だろ?」と言った。結局、予想通りに田中は負けた。田中はウィスキーを紙コップに一杯、一気に飲まされた。目をつぶって飲み干すと喉が焼けるように感じた。大人はなぜこんなものをわざわざ飲んでいるのかさっぱり分からないと思った。やがて体が熱くなり頭はぼんやりとしてきた。そんな田中の姿を見て、クラスメイトたちは指を指して笑った。そして、続けようと言ってき。田中はもう無理だと言ったが、それも許されなかった。次は別の生徒が負けて、その生徒もウィスキーを飲んだ。彼はオーバーなリアクションで、「きくぅ」と大声で叫んで、皆を喜ばせた。三回目のゲームでは再び田中が負けた。さらにもう一杯飲めと言われたが、それは絶対に無理だと言った。もう頭もほとんど回っていなかった。
「それじゃ、好きな女子が誰か言ったらそれで許してやる」
誰が言い出したのかは覚えていない。ただ、その言葉で座は一気に盛り上がった。その場の男子たちは皆で「田虫」コールを始めた。言わざるを得ない雰囲気だった。そして、そのとき田中は初めての酒に酔い、冷静な状態ではなかったのだろう。普段であれば、自分と映子の関係は決して誰にも喋らなかっただろう。半ば呂律が回らなくなった声で、田中は「分かった、言う、言えばいいんだろ」と言った。周囲が静まり返った。なぜかそのとき、田中はむしろ言いたい気持ちになってきていた。自分と映子の特別な関係について、この男たちに自慢をしたかった。
「二ノ宮」
どよめきが起こった。映子はクラスの人気者だった。男子からも女子からも一目置かれていた。その映子の名前が出るとはその場の誰も思っていなかったのだろう。
「僕ら、結婚する約束もしてるんだ」
その場の男子たちは叫び声をあげた。そのときだった。部屋の両側の襖が開いた。そこには、男子も女子も含めたクラス全員が立っていた。田中には何が起きたのか分からなかった。あとで聞いた話では田中ともう一人のそこにいたいじめられていた生徒のどちらかを酔わせて、恥ずかしいことを言わせようという計画が始めから仕組まれていたらしかった。田中が酔っ払って好きな女子の名前を言うのを、両隣の部屋で他のクラスメイトたちが笑いを殺しながら待っていたのだった。
「おい、二ノ宮、お前、田虫と婚約してんのか?」
映子の周りの生徒たちがモーゼの十戒の海のようにさっと引いて、彼女の姿が田中の前に浮かび上がった。彼女は田中を見下ろしていた。田中は何も言えなかった。彼女を見ることも出来なかった。
「そんなわけないだろ。何だこいつ、気持ち悪い」
映子はそう呟くように言った。部屋は再び爆笑の渦に包まれた。「お前、頑張れ」と無責任に山村が田中の背中を叩いてきた。「おい、切ねぇ、人生、切ねぇ」と丸岡は泣いている真似をしていた。その後でどうやって寝たのか田中にはまったく記憶がない。
修学旅行明けの登校日にはもう死にたいと思いながら怯えて学校に行った。ただ、その後はたまに思い出したようにからかわれることがあったくらいで以前と変わらない高校生活が続いていった。それから卒業までの間、映子と一対一で話す機会は一度もなかった。
「結局さぁ、ここの基本理念は男女平等だとか何とか偉そうなことを言ってても、いつの間にか面倒な仕事は女がやることになってるのよねぇ」
そう不満そうに言いながら、雅美は洗濯物の山を前にしてため息をついた。洋子は笑いながら、そんな雅美に同意して、それでも山の中から一枚シャツを取り出して畳み始める。このコミュニティの洗濯は最初は個人個人がやることになっていたが、極力水を使わないようにするという方針のために、途中から一箇所に集めて担当になったものが洗うことになった。雅美が愚痴をこぼすように、そうした家事労働は女性が担当になることが多かった。洋子はふと手に取った男性物のシャツが決して派手ではないのだけれど、少し変わったお洒落なデザインをしていて、大山もこういうシャツを着たら似合うんじゃないかと思った。大山はいつもごく普通の白かグレーのシャツを着ていて、似合わないことはないがあまり代わり映えがしない。もっと洋服も色々と冒険をしてみればいいのにと思う。
「洋子さん、なんか最近、前より元気そうよ」
雅美が洋子の顔を覗き込んでくる。
「そうですか? 自分ではあんまり分かんないですけど」
洋子は雅美に笑いかける。
「ほら、その笑顔、その笑顔よ。絶対なにかいいことあるのよ」
「ちょっとやめてくださいよ、いつも通りですよ」
二人はしばらく笑いあっていた。
洗濯を終えて部屋に戻ろうとすると、洋子は山口に呼び止められた。
「洋子さん、さっき、伝言頼まれました」
伝言と聞いて洋子はひょっとしたら今夜一緒に夕食を食べる約束をした大山に他に用事が出来たのだろうかと心配になった。しかし、山口の口から出たのはまったく違う話であった。
「なんかあんまり見たことない男の人が、洋子さんに用事があるんで、六時にラゾーナ出雲神社のところで待ってるからって」
大山に会えなくなったわけではなかったと安堵しながら洋子は山口に礼を言った。
「見たことない人って、どんな人だった?」
「何て言ったらいいのかなぁ。こんなこと言っちゃっていいのかなぁ。ちょっと、陰気で不気味な感じ?」
「そんな人心当たりないなぁ」
洋子は取りあえず山口に礼を言い、自分の部屋に戻った。当初よりかなり人が増えてきたとはいえ、それでもこの狭いコミュニティの中でまったく知らない人から呼び出しをされるとは奇妙な話で、何か気持ち悪い気がした。ただ、ラゾーナ出雲大社はルーファ広場を円形に囲む建物の四階にあり、大声を出せばすぐに人が集まってくれる場所であるため、まさか何か問題が起きることもないだろうと考え、これも大山との夕食のときの話の種だと思って洋子は行ってみることにした。
ラゾーナ出雲神社は小さな祠があるだけであるが、それでも正式な島根県の出雲大社からの分祀であった。もともとはラゾーナ川崎が出来る前、東芝の大工場があった時代に祭られたものを、工場が閉鎖されラゾーナ川崎が作られたときに遷されてきた。ルーファ広場を見渡せる見晴らしがよい位置にあり、また縁結びの神様ということで、世界が崩壊していない頃には多くの若い男女が訪れていたスポットだった。
洋子は夕暮れのラゾーナ出雲神社の前に立ったが、あたりには誰も見当たらなかった。下を見ると、広場では夕食担当の人たちが大急ぎで食料を運んでいる姿が見えた。風が強く吹いていた。気味が悪かったが、誰もいない中をずっと待っているのも馬鹿馬鹿しいと思い、洋子は帰ろうとした。そのとき、出雲神社の少し先の芝生広場の奥に人影が見えた。人影は洋子がそちらを見ていると気づくと、すぐに建物の裏側に隠れてしまう。
「ちょっと、あなたですか、待ってください」
洋子は小走りでその人影を追いかけて芝生広場を通り抜ける。そこはビルの縁になっていて、JR川崎駅やその奥の建物が見えてくる。ただ、その建物の裏に隠れたとしても、先は行き止まりでビルから飛び降りでもしない限り逃げられるところなどないはずであった。しかし、洋子がたどり着くと誰もない。四階なので飛び降りられる高さではない。
「誰ですか? 私をからかっているんですか。やめてください、何が目的なんですか」
恐くなってきた洋子が少し大きな声で叫ぶと、急に後ろに人影が現れた。
「大っきい声出さないでよ、もぉ、困ったなぁ」
驚いた洋子はバランスを崩して倒れて芝生に手を突いた。
「驚きすぎ、驚きすぎ。お化けじゃないんだから」
そこにはもう二度と会うことはないだろうと思っていた死村が立っていた。相変わらず青白い顔をして、ネルシャツを着てニットキャップを被り、へらへらとして気の抜けた調子で喋っている。
「何であなたがいるんですか?」
「そうそう、ここ案外簡単に潜入出来ちゃって拍子抜けだよ。ちょっと、君らセキュリティ考え直した方がいいよ」
「いや、そうじゃなくて、何でここに来たんですか? 私に何か用ですか?」
驚かされて腹が立ったせいか口調もきつくなる。
「そ、そんな言い方しなくってもいいじゃん。いや、聞きたいことがあるんだよ」
死村は少しまじめな顔になる。
「田中くんって知ってる? 二十代半ばくらいで、見た目はゴボウみたいな感じで、なんか陰気な風貌してるんだけど」
洋子は、あなたもさっき陰気で不気味な感じって言われてたけど、と思ったが口には出さなかった。ラゾーナのコミュニティに田中は何人かいたが思い当たる二十代の男性は一人だけだった。
「そうだ、私が青島のおばあちゃんにあなたのこと教えたとき、田中くんが同じところにいたんだった」
「え、それじゃ、その話を盗み聞きして、田中くんは僕んとこに来たってことか」
「そうかもしれない。青島のおばあちゃんはまだそっちに行ってないの?」
「いや、そんなおばあちゃんのお客さんは来てないけど」
「そっかぁ、車の調達が出来ないのかなぁ。大山さんに頼もうかな」
「おばあちゃんの話はいいからさぁ、田中くんのことが聞きたいんだけど。どんなやつ?」
「そこまでは私は知らないわよ。っていうか、田中くん、そもそもあんまり他の人と仲良くしないタイプなのよね」
洋子は首を捻った。
「あ、そうそう、高校の同級生がいるはずよ。誰だったっけ、ともかく、その人に聞いたら何か分かるかも」
「グレート。ねぇ、それじゃ、その同級生をここに連れてきてくれないかなぁ」
「え、私が? 何で私がそんなことしなきゃいけないのよ」
「だって、僕があんまり中をウロウロしてたら、さすがにまずいでしょう。お願いだからさぁ」
死村は舌を出して自分の唇を嘗め回す。前回の経験から悪い人ではないと思ったが、やはり不気味な男には違いなかった。
「しょうがないなぁ。ちょっと待っててよ。でも、すぐ見つかるかどうか分かんないからね」
洋子は死村をその場に残してラゾーナの建物の中に戻っていった。
田中の高校の同級生、丸岡はすぐに見つかった。最近、コミュニティに入ってきた山村と二人で五階の楽器屋だったスペースでギターを練習していた。二人とも田中の同級生だということで、一緒に来てもらうことにした。ただ、洋子は一瞬、二人が死村を警戒して捕まえようとしたらどうしようかと心配になった。しかし、よく考えてみるとどうして自分が死村なんかの心配をしているんだろうと少し可笑しくなった。
二人を連れて芝生広場の奥に戻ると、今度は死村は普通に鉄柵に寄りかかって待っていた。
「こいつですか、探偵って。うわっ、顔色わるっ。こいつホントに生きてんすか?」
「マジでこいつ、胡散臭いわ。喰いついたりしない?」
丸岡と山村は死村を取り囲む。死村は二人も来たことに驚いて尻込みする。
「な、なに、この何も恐れない現代の若者たちは。ちょっと、恐いんだけど」
死村は裏返った声を出す。そんな死村の姿に洋子は嬉しくなって笑い、そして丸岡と山村に向き直る。
「それで、この探偵さんは、田中くんのことを調べに来たの」
丸岡と山村は顔を見合わせる。
「田虫のことを知りたい? 何で知りたいんだよ。こいつ、本当に信用出来んのか」
丸岡がまた死村の方を見る。
「あいつ、田虫って言われてんの?」
死村が目を丸くする。
「あぁ、昔からの渾名でね。っていうか、田中の何が知りたい?」
丸岡は不振そうな顔で死村の顔を覗き込む。
「えぇと、ほら、婚約者がいたかどうかとか、どこに住んでたかとか」
丸岡も山村も首をかしげる。
「田虫が婚約してるなんて話は知らねぇなぁ。でも、高校出てからそんなに親しいわけじゃないけど」
「じゃ、どこに住んでた?」
死村はまだ少し二人に怯えていて声が上ずっている。
「住んでたとこ教えろ? 怪しいぞ、お前、何する気だ、おい」
丸岡が死村の肩を突き飛ばす。
「おっさん、何か悪いこと考えてるんじゃねぇのか」
山村も便乗して反対側の肩を突き飛ばす。死村は二人に突き飛ばされてよろける。
「き、君たち、暴力はよくないよ、暴力は」
「洋子さん、こんな探偵、信用できるんですか?」
洋子は二人を死村から引き離す。
「この人、こんなんだけど、悪い人ではないのよ」
死村はニットキャップ越しに頭を掻く。そんな死村を見て丸岡や山村は顔を見合わせて笑う。山村が口を開く。
「お前は信用出来ねぇけどなぁ、洋子さんが平気っていうから答えるんだぞ。俺、小学生の頃から同じ学校だから、そのときから引っ越してなければ家の場所知ってるよ」
死村は背負っていたザックからペンとトラベラーズノートを取り出す。
「どのへん? どのへん? 描いて描いて」
山村はペンを取る。
「俺、地図とか書くのすげぇ苦手なんだよな」
山村はそう言いながら描き始める。
「これが、環八だろ、で、ここに郵便局があって、この奥が税務署かなんかがあるんだ。その先にセブンイレブンがあって。そのもうちょっと奥に行ったところ、確かこのあたりの団地の一階だったんだよな」
覗き混んでいた洋子が声をあげる。
「これって、蒲田温泉の近くじゃない?」
山村が振り向く。
「あれ、そうだよ、洋子さん、よく知ってるねぇ」
「だって、死村さんの事務所の近くじゃないの」
死村が山村からノートを取り上げる。
「あと、この人は誰だか知っている?」
死村はネルシャツの胸ポケットからポラロイド写真を取り出す。
「あれ、これ、二ノ宮じゃん」
「そう、二ノ宮映子。どんな子だった?」
「田虫は修学旅行のとき、二ノ宮にふられてすげえ恥かいたんだよ」
「なるほどねぇ」
死村はにんまりと笑う。そして、何気ない様子でザックからロープを出して鉄柵にかける。
「あぁ、そうだ、もう一つ言っておこうと思ったことがあるんだ」
皆が死村に注目する。死村は洋子を見てにんまりして、舌で唇を舐める。
「なに、嫌なこと言わないでよ」
死村はノートをリュックに仕舞って背負い直しながら答える。
「あなたさぁ、あのときよりも、いい顔になってるじゃん」
死村はそう言って笑うと、そのまま素早く鉄柵を乗り越えて姿が見えなくなった。残された三人が驚いて鉄柵から下を覗くと、ロープをつたってするすると降りていく姿が見えた。
「あらぁ、おっさん、案外動きが素早いなぁ」
「つば垂らしちゃおうか」
すると、下から死村が大声で叫ぶのが聞こえた。
「やめろぉ、若者。汚い真似するなぁ」
丸岡と山村はまた顔を見合わせて笑った。洋子は最後に死村にいい顔になったと言われたことが何となく嬉しくて、そしてこれから大山と一緒に夕食をする予定だったことを思い出した。
高校を卒業した田中は、いくつかの大学に落ちて専門学校に入った。やがて卒業し、就職をしたが、上司や先輩からいじめを受けて半年で退職した。そこからはアルバイトを転々とした。何もしていない時期も多かった。女性と交際することはなかった。仕事以外では女性と話すことさえほとんどなかった。いつも頭の中にあのときの映子の「なんだこいつ、気持ち悪い」が響いていた。自分は決して女性から愛されることはないだろうと思った。たとえその場でどんなに明るい笑顔をしてくれたとしても、女性に気を許してはいけないと。それもこれも映子のせいだと思った。映子が自分の人生を狂わせたのだ。それでいて、高校を出てから十年近く経っても、映子と結婚する夢を見てしまうのだった。
その映子が今目の前にいる。
お腹にロープを巻きつけて縛り、柱に固定して動けないようにした。紙袋はまだそのままにしていた。少しも似合わないセーラームーンのコスプレを脱がせようとしたが、うなり声を出して暴れるため難しかった。普通に脱がせるのは無理だと分かったため、両手を後ろで縛っておいて、はさみで切って服を脱がせた。セーラー服を剥がすように脱がせると、中は下着姿だった。黒いブラジャーをつけていた。映子の肌の色は変色しており、おまけに萎んで皺だらけになっていた。田中は一度ブラジャーに手をかけたが、何かそれはしてはいけない気がしてやめた。少なくとも今ではないと思った。そして、映子の屍が見つかったら着せようと思っていた横浜ベイスターズのハッピを取り出した。これも両手を通して着させるのは難しかったため、はさみで切って引っ掛けるようにして、ホチキスで止めた。伊勢丹の紙袋を被ったもぞもぞと動く屍が、ベイスターズのハッピ姿になった。偶然家族で出会ったときに着ていたものと同じ、佐伯の背番号10のものだった。紺色がちょうどセーラームーンのミニスカートと合っていた。ただ、サイズが合わずに少しぶかぶかに見えた。紙袋を取ろうと思った。緊張で手が震えた。死村の事務所で見たときには顔を確認しただけで、あまりはっきりとは見ることが出来なかった。あのときはそれよりも死村に婚約者だという嘘がばれて引き渡さないと言われたらどうしようかということで頭がいっぱいだったのだった。あれからすぐに自分の家の廃墟に来て部屋につなぎ、その日は夜に任されていた仕事があったため、そのままラゾーナに戻った。そのためじっくりと映子の顔を見るのは初めてだった。
「久しぶりだね」
声を出してみた。当然、返事は返ってこない。ただ、映子の屍はうなり声を上げるだけだった。小さい頃自分と結婚をするはずだった女。頼りない子どもの自分をいつも助けてくれた女。でも、いつの間にか自分のことなどまるでかまわなくなった女。自分のことを大勢の前で「気持ち悪い」と罵った女。その女が今目の前で紙袋を被って唸っている。映子が結婚して蒲田を出て行ったという話を聞いたとき、きっと自分とは比較にならないようないい男、容姿端麗で、社会的な地位もあって、性格も爽やかな人なのだろうと思った。自分とは全く別の世界のことなのだろうと。だから、考えても仕方ない。初めから自分なんかとは釣り合わなかったのだ。しかし、数年後に離婚したという話を聞いたとき、田中はまったく理屈に合わないということは分かっていながらも、それならなぜ自分では駄目だったのかと考えないわけにはいかなかった。数年で別れてしまうような結婚をするのだったら、そんな相手と結婚をするのだったら、それならなぜ、自分では駄目だったのかと。
震える手で一気に、紙袋を取り上げた。田中の眼前に腐りかけた屍となった映子の顔が現れた。片目は完全に朽ち果て、頬は破けて中の歯が見えていた。肌の色はくすんだ茶色になっており、老人班のようなものが一面に出来ていた。それでも、映子だった。何度も夢に見た映子だった。田中の目から涙が流れた。
「お前、何してたんだよ、ずっと僕のところにいればよかったんだよ。そしたら、こんなにならなかったかもしれないじゃないか。少なくとも僕は命を懸けてお前を化け物たちから守ったはずなんだよ」
映子の生ける屍はただ唸り声を上げるだけだった。田中は結局自分が映子の屍を捕まえて、何がしたかったのかが分からなくなっていた。あれほど憧れていて、あれほど憎んでいた映子を前にして、自分はどうしたらいいんだろう。田中は恐る恐る映子に抱きついて胸元に頭をうずめた。映子の屍は首を伸ばして田中の首をかじろうとしてきた。田中はそんな映子の髪を掴んで引っ張り上を向かせた。このまま噛まれたっていいかもしれない。そしてこのまま二人で朽ち果てて二人の体が分けられないくらいに混ざり合ってしまえばいい。田中は映子の髪を掴んでいる手を放そうかと思った。そのとき、窓ガラスが割れる音がした。田中は驚いて、映子から離れ、窓の方を見た。そこにはリポビタンDの空き瓶が転がっていた。田中は割れた窓をじっと睨んだ。しかし、しばらくは何も起こらなかった。ただ、通りかかった人が遊び半分で放り投げただけだったのだろうか。少し緊張を緩めて、散らばったガラス片を掃除しようかと窓に近づきかけたとき、急にぬっと細長い手が窓の穴から中に入ってきた。その手は不器用な動きをして周囲を探り、途中で割れた縁に当たって二の腕あたりを切ったりしながら、窓の鍵を開けた。田中は唾を飲み込んだ。ゆっくりと窓を開けて入って来たのは死村だった。死村は田中と縛られた映子を見ると、緊張感のない声で言った。
「あれ、何だ、いきなりここにいたのか。何だよ、それなら鍵開けてくれりゃよかったのに。腕切っちゃったじゃん」
「な、何しに来たんだよ」
死村はギョロっとした目を大きく開いて田中を見た。思わず田中は後ずさりした。
「見てたよ、お前、そのゾンビに抱きついてただろ」
「何が悪いんだ、彼女は婚約者だ」
「いいよもう、分ってるよ。どうせ違うんだろ。そんな嘘つくなよ」
死村は映子を繋いだ紐をほどいて連れて帰ろうとする。
「ってか、こいつセーラームーンから、いつの間にベイスターズの人に変わってんじゃん」
「お前、何やってんだよ」
田中はそう大声を出すと、急に体が動くようになって、死村に飛びかかる。死村はそれをさっと避けて、田中を突き飛ばした。思っていた以上の力に田中は壁に当たって倒れた。
「いいか、彼女はこんなことされるのを望んでないんだよ。よく聞け。死体を大切に出来ないやつは、その人間が生きていたっていうことを大切に出来ないやつは、自分の魂も汚しているんだよ」
死村は倒れた田中にそう言い放つと、解いたロープを引っ張って今度はドアから部屋を出ていく。田中は立ち上がってそれを追いかけた。死村が玄関を開けたところで再び追いついて、映子の腕を掴んだ。そのとき、死村は普段ののろのろとした動きとは比べ物にならない素早い動きで田中の腹を蹴り飛ばした。田中は吹っ飛んで倒れた。
「じゃあな」
と出ていこうとする死村に田中が叫んだ。
「愛してたんだよ。僕は愛してたんだよ。何が悪いんだ」
すると、死村は眉をひそめて振り向いた。
「お前なぁ。もっと強くなれよ」
田中は下を向いて、もう追いかけはしなかった。死村はそのまま映子の繋がれたロープを引っ張って歩き出した。田中の団地のすぐ前で夜見子が待っていた。
「ほら、回収したぞ」
夜見子を見て死村がそう言ったとき、横を歩いていた映子の屍が死村の頭に噛り付き、死村のニットキャップがずり落ちた。死村は驚いて映子から飛びのいた。
「えぇ? 何、えぇ? お前、さっきの僕のカッコいいセリフ聞いてた? 分ってんの、お前を助けたんだよ。それなのに、なに勝手に噛もうとしての」
映子の屍は低い唸り声を上げて死村に近づいてくる。
「あぁ、もう。これだからゾンビは困るよ」
夜見子が死村にビニール袋を渡す。
「こないだはなぁ、お客さんにお渡しするものだから失礼があっちゃいけないって思って、伊勢丹の紙袋を使ったけど、お前なんてローソンのビニールで十分だぜ」
そう言って死村は映子の顔にビニール袋を被せた。映子は首を左右に振って嫌がっている。
「やれやれ。もう疲れたし早く帰るぞ。こいつはとりあえず一階につないでおいて、明日にでも横浜あたりに放しておくか」
歩き出す死村の横を夜見子がこの間作った事件解決の歌を口ずさみながらついて来る。
「ねぇ、さっきの人、愛してるって言ってたね」
「あぁ、それがどうした?」
夜見子はちょこちょこと小走りをして前に出て、歩きながら死村の顔を覗き込む。
「愛してるってどういうことなの?」
夜見子はなぜか嬉しそうだった。死村は映子の屍が繋がれたロープを肩にかけて顔をしかめながら答えた。
「あのな、誰かを愛するってことがどういうことなのかを、誰かが誰かに教えるってことはな、とても長い、本当に長い時間が必要なことなんだよ」
死村はそのまま歩き続けていく。夜見子はそう言われて立ち止まって少し考えてから、気が付いたように死村を追いかけた。
「それじゃ、少しも答えになってないじゃないの!」
* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。毎週金曜日の夕方に配信します。全七章になります。