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第一章 洋子の場合

平成三十一年の春、死者が突如人々を襲い始め、あらゆる社会機能が崩壊し、ついに令和が訪れることはなかった。世界が崩壊して二年後、生き残った人々の一部が集まりラゾーナ川崎でコミュニティを作っていた。そこで暮らす洋子は生き別れになった夫のことを忘れられずにいた。彼女は死者に噛まれても平気だという探偵死村霊太郎の噂を聞く。蒲田にある死村の事務所を訪れると、顔色が悪く不気味な風貌だけれど妙に気軽な口調で話す死村がいた。そこから、死者に噛まれても平気なゾンビ探偵死村霊太郎の人探しの冒険が始まる。

「そこなんです、夫の職場のビルは」

 洋子は後部座席から運転席に身を乗り出して指差した。

「本当にねぇ、化け物がいなかったら中に入りますけど、何匹か現れたらすぐに引き返しますよ」

 運転している寺田はいかにも迷惑そうな顔で言う。

「分かってます。でも、夫がそのビルにまだ隠れているかもしれないし、何か手がかりがあるかもしれないし」

 ワゴン車はそのビルの前で止まった。

「まだって、この世界になってから、もう二年も経つんだから、まだ隠れてるなんてあるかねぇ。生きてるならどこか他のコミュニティに行ってるんじゃないの」

 洋子は車から降りた。続いて乗っていた他の四人も降りてきた。寺田は一番若い山口に車に残ってすぐ発車出来るようにしておくよう指示を出した。

「とにかく、今回の任務は人探しじゃなくて、食料調達なんだから、よけいなことをして怪我人とか出したら、チーム全体に迷惑だから、何かあったらすぐに引き返しますよ」

 寺田はもう一度念を押すように言う。

「分かってます。わがまま言って申し訳ありません」

 洋子は頭を下げた。目の前には大崎駅前の巨大な商業タワービルが聳え立っていた。通りには何台か車が放置されていたが、生ける屍たちの姿は見えなかった。

「こんな大きいビルなんだから、やつらがいないわけないわよ」

 洋子の後ろから雅美が言った。雅美は洋子よりも一回りくらい年上の四十代の女性であり、世界が変わる以前は洋子の向かいのマンションに住んでいた。

「私もそう思います。かなり気をつける必要がありますね」

 その横で大山も頷く。洋子は皆が行きたくないのをひしひしと感じる。

「本当にすいません。どうしても、夫の消息が知りたくて」

 頭を下げる洋子の肩を寺田が叩いた。

「それじゃ、何か手がかりがあったら、洋子さんにご馳走でもしてもらわなくっちゃね」

 皆それぞれ、ゴルフクラブやフライパン、包丁といった武器を握り締めて、ビルの入口に向けて歩き出した。洋子にも無理を言っていることは分かっていた。それでも二年前に生き別れた夫の行方に関することがどうしても知りたかった。自分が川崎にあるキャンプ地の外に出ることは、ましてや夫の会社のビルがある大崎周辺に来ることはめったない機会であったため逃したくなかった。正面玄関入口の自動ドアの大きなガラスは割られていた。その人でも屍でも簡単に出入り出来るくらいの大きな穴を一人ずつ潜り抜けて中に入っていった。

「こんな穴が出来てるんだったら、化け物だって外から入り放題じゃないの」

 雅美がつぶやいた。洋子もこのビルに人が立て籠もっている可能性は低いかもしれないと思った。

「受付けのブースの影とか気をつけてくださいね」

 そういった寺田の声を聞いて、大山がビルの総合案内らしきブースの中を覗きこむ。

「ここ、死体一体発見。動いてません。大分古いな」

 それを聞き、皆もそこに集まった。

「服装を見ると、受付嬢っぽいね。本当に化け物になってないのか」

 寺田がゴルフクラブでつつくと、うつ伏せだった死体が仰向けに転がった。額が大きく割られていた。

「こりゃ、化け物になってないんじゃなくて、一度になって、誰かに頭を潰されたんだな」

「それじゃ、生きている人たちがいるってことですか」

 洋子が寺田を問い詰めるように尋ねると寺田は首を振る。

「いや、この腐り具合じゃ、どう見ても、もうかなり経ってるから。今、生きている人がいるかどうかなんて分からないよ」

 玄関のフロアには他に死体はなかった。ただ、床にはいくつか血痕がついていた。

「それで、ご主人の会社は何階なんですか」

 大山がビルの案内板を見ながら尋ねる。

「二十五階です」

「そんなに高いところなの? 寺田さん、やっぱり無理なんじゃないですか」

 雅美が眉をひそめる。

「大崎駅の近くのこんな高いビルにオフィスがある会社に勤めていたなんて、ご主人は優秀な方だったんですね」

 大山はそう言いながら、何気なくエレベーターの上りボタンを押した。すると、上向きの矢印のランプがついた。

「あれ、エレベーター、動きますよ」

 みんながエレベーター前に集まってくる。

「何でだ。電気なんて、とっくに止まっているはずだぞ」

 十階あたりで止まっていたらしいエレベーターが下りてくる。

「そう言えば、最近のエレベーターは蓄電装置がついていて、停電のときでも閉じ込められないように動くって話を聞いたことがありますね」

「それじゃ、その電気がずっと誰も使っていなかったから、まだ残ってたってことなのか」

 四人は顔を見合わせた。

「待って、何か嫌な予感がするわ」

 雅美がそう言って、入口の方に逃げ出そうとした瞬間、エレベーターのドアが開いた。中から腐敗した屍たちが何体もなだれ込むように飛び出してきた。

「数が多い、逃げろ」

 そう寺田が叫んだ。しかし、そう言った寺田はすでに上半身しかない屍に足首を噛みつかれていた。洋子と雅美、大山は必死でビルの外に逃れ出た。

「寺田さんはどこですか」

 車に駆け寄ってくる三人を見て運転席の窓から顔を出した山口が尋ねた。雅美はただ首を振った。大山は蒼白な顔をして、

「寺田さんが足を捕まれて倒れるを見た気がします」

 と言った。皆で振り向くとガラスが割れた箇所から何体かの屍が外に出ようとしていた。

「無理、もう寺田さんは無理。早く逃げましょう」

 雅美が大山の肩を揺すった。

「仕方ないです。山口さん、出してください」

 車に近づいてきた屍の一体を蹴り飛ばして、大山は車に乗り込んだ。洋子と雅美もそれに続いた。山口は寺田を残して車を発進させた。


 ラゾーナ川崎に作られたコミュニティへの帰り道、四人は顔を強張らせて黙り込んでいた。洋子は皆が寺田が死んだのは自分のせいだと怒っているのだろうと思った。いたたまれない気がした。その一方で夫のオフィスの真下まで行きながら、引き返さざるをえなかったことを悔やむ気持ちも強かった。あと少しで夫に関する手がかりが何か見つかったかもしれないのに。そして人を一人殺してしまいながらも、まだそんなことを考えてしまう自分は何てわがままなんだろうと思った。そんなことを考えていると自然に涙が流れてきた。洋子はそれを他の三人に悟られないようにずっと窓の外を眺めていた。


 ワゴン車はラゾーナ川崎の川崎駅から見て裏側にある、以前は商品の搬入をしていたと思われるエリアに停車した。

「委員会に報告をしなきゃいけないですね」

 大山はそう言いながらドアを開けた。四人はあたりに屍がいないことを確認すると、搬入口の金属の重い扉を叩いた。中からドアが開いた。そのまま山口が車を建物の中に移動させた。集まってきた人たちはすぐに人数が少ないことに気がついた。

「寺田さんはどうしたんですか」

 そう尋ねられると洋子は胸が詰まる思いだった。大山が洋子の肩を叩いた。

「あなただけが悪いわけじゃありません。私が説明をしておくので、今日はゆっくり休んでください」

 そして、大山は他の人たちに向けて大きな声で、

「報告しなくてはいけないので、委員会の方々を集めてもらえないでしょうか」

 と言った。山口は黙々とワゴン車から運んできたミネラルウォーターを運び出していた。


 平成三十一年四月、日本は新天皇の即位や元号の変更の話題に沸いていた。そんな中、四月上旬に海外で何人かの謎の感染症患者が興奮して人を襲ったというニュースが一部で流れた。当初は誰もがあまり真剣に受け取っていなかった。やがてネットでは人を襲うのは生きている感染者ではなく、すでに死体となった人々だということが噂となった。その感染症は海外だけでなく国内でも報告されるようになった。世の中にどことなく不穏な空気が漂い始めた。そして、四月下旬、感染した人々は爆発的に増加して、日本中の都市機能を麻痺させた。その頃になってようやく政府は人を襲っているのが死者たちだとみとめた。事情は海外も同じであった。海外ではいち早く軍隊が出動し、動き出した死者たちに発砲を行ったが、日本では議会が承認せず、自衛隊は死者たちに銃火器を使うことができなかった。事態は瞬く間に国中に広がり、やがて行政機関は機能しなくなった。平成三十一年の春、日本は生ける屍に占領され、元号が令和に変わることはなかった。

ラゾーナ川崎でも当初は買い物客の屍だらけとなっていた。しばらくして、物資の調達のために何人かが一階のスーパーに忍び込み、そこから屍を追い出して占拠し、やがて少しずつ屍のいないエリアを増やしていった。それとともに生き残った人たちが食料を求めて合流するようになり、コミュニティは膨らんでいき、今では二百人ほどになっている。現在は川崎駅からつながる通路を含めた東西南北にあった出口をすべてバリケードで封鎖し、人々はその中で暮らすようになっていた。そうした大型の施設を利用して作られたコミュニティが関東近郊だけでもいくつも存在しているらしいが、それぞれのコミュニティの間のやり取りはほとんどなく、お互いに存在さえ知らないことも多い。ラゾーナの集団も横浜ベイクォーターのグループとたまに交流があるだけであった。


 洋子は自分の寝泊りをする部屋に戻って寝袋の上に倒れ込んだ。とても疲れていた。ラゾーナ川崎はメインとなる五階建ての長方形の建物と、その横に建てられた川崎駅とつながる二階部分の中央が吹き抜けの広場となっている円形の建物で構成されている。洋子のあてがわれた部屋は円形の建物の三階部分であり、以前はタイ料理屋であったらしい。今は机やテーブルがすべてどけられて、居住者の荷物と敷きっぱなしになった毛布や寝袋がおかれている。単身女性の部屋は問題が起きてはいけないという配慮から警備係の常駐している吹き抜けの二階部分にあるルーファ広場から目の届くところに設けられていた。

 洋子がそのまま眠りそうになっていると、部屋の前のガラス戸のところに雅美が現れた。洋子は雅美が一番自分のことを怒っているのだろうと思い、きつく責められるのではないかと警戒した。

「ねぇ、ちょっといいかな」

 洋子は仕方なく立ち上がって部屋を出た。雅美は通路の欄干に手をかけてルーファ広場を見下ろしながら、洋子に話しかけてくる。

「ここも随分人が増えたわよねぇ」

 雅美が本題から入らないことをかえって怖しく思いながら、洋子も一緒に広場を見下ろすと、警備係が何かの議論をしたり、暇を持て余した家族が談笑をしたり、荷物を持ち運びする人たちが通り過ぎたりしている。雅美や洋子はこのコミュニティにかなり初期から参加しており、洋子も確かにどんどん人が増えていっているという実感があった。

「人が増えると、それだけルールも必要になるし、周りのことも考えないといけなくなるのよね」

 洋子はさっそく来たと思いながら頷く。

「やっぱり、私から見たら、今日のあなたは意地を張りすぎたんじゃないかって思うの。こんなこと言って悪く思わないで、私だってご主人を探したいっていう気持ちはすごくよく分かるの。だって、私もあのときから夫や子どもに会っていないんだから。私だけじゃないわ、大山さんだって奥さんを亡くされたらしいわよ。みんなつらいのよ。みんなが誰かを亡くしているのよ。そんな中であなただけそんなに意地を張って、結局、全部あなたのせいだとは言わないけれど、寺田さんが亡くなってしまって」

 そう言われると、何も反論が出来ない。洋子はただ下を向く。

「心の中でいつまでも思っていてもそれはかまわないわ。それに十分安全な機会があったら探してもいいのよ。でも、もう他の人を危険に晒すようなことを言ってほしくないの」

 雅美は洋子の方を向いて顔を覗き込んだ。

「ごめんなさい」

 しかし、洋子はどうしてもそこで終わらせることは出来なかった。

「ただ、夫を探したいんです。それだけはどうにもならないんです。夫がどうなったのか、知りたいんです」

 雅美は呆れたように笑った。それは思いのほか優しい笑顔だった。

「洋子さん、今、おいくつなんでしたっけ」

「あ、今年で三十一です」

「それじゃ、ご主人と生き別れたときはまだ二十代だったのねぇ」

「尻手のマンションに引っ越されたのは、確かこのパニックが起きる二、三年前からでしたっけ」

「はい」

「新婚ですぐにあそこに?」

「中古の賃貸物件で、たまたま見つかったので、結婚してすぐにあの家に引っ越したんです」

「私なんかはもう主人とずっと長くて、仲もあんまりよくなかったもんだから、そりゃ、子どもには会いたいけど、夫なんて正直どうだっていいのよね。洋子さんはまだお若いからとても心配なのねぇ。そんなにご主人のことを思われていて、何だか羨ましいわ」

 雅美は持ってきたハンドバックからメモ書きを一枚取り出した。

「これ、あなたにあげる」

 洋子が受け取るとそこには、


私立探偵 死村霊太郎


 と書かれており、その下にラフな地図が描かれていた。

「これは?」

「それ、いなくなった人とか、徘徊してる死体とかを探してくれる探偵さんらしいの。何でも、その死村って人、一度、化け物に噛まれたんですって。でもなぜか自分は化け物にならなくって、それ以来、化け物の前に出ても噛み付かれなくなって、その能力があるから、普通の人がとても危険で入れないようなエリアに入っていって、いなくなった人を探してくれるみたいなの」

「本当なんですか、化け物に噛まれて、化け物にならない人なんて、聞いたことないけど」

「だから、私も本当かどうか分からないって思ったんだけど、でも前に会ったって人の話を聞いて、何かのときにって名前と地図を書き写しておいたの。教えてくれた人はおかしな人じゃなかったから、絶対に嘘っていうこともないのかなって。だから、ご主人がどうなったか知りたいなら、ここに行ってみたらいいんじゃないかって思って。ちょっと、おせっかいかもしれないけど」

 雅美は人のよさそうな笑顔を浮かべる。洋子は自分が勝手に意地悪な人だと思っていたが、たまにはっきりとものを言うことがあるだけで、案外悪い人ではないのかもしれないと思う。あらためて手渡された地図を見てみる。

「ほら、こっちが京急蒲田駅で、こっちが蒲田駅。その間くらいなのかな。ごめんなさいね、私が描き写した地図だから、よけいに分かりづらくなってて。でも、蒲田だから、ここからそんなに遠くないじゃない」

「ありがとうございます、今度、行ってみたいと思います」

「あ、もし単なる噂ってだけだったら、ごめんなさいね」

「いや、教えていただいただけで、ありがたいです」

 ひょっとしたら夫の消息が分かるかもしれないと想像し、また涙が出てきてしまう。

「あら、ちょっと洋子さん。あなた、大丈夫、私、何か失礼なことをしちゃってないわよね」

 洋子は何度も首を振った。


 蒲田は川崎から近いとは言え、徒歩で安全に行ける距離ではなく車を出さなければならない。洋子は次の日寺田が亡くなったときの件で自分をかばってくれた大山に相談をすることにした。大山は最初、屍に噛まれても平気だという話にいぶかしげな表情をした。ただ情報通の雅美から聞いた話だということを強調すると少しは信じてくれたようであった。しかし、大山はあの後寺田が亡くなったことについて他の人たちに説明をしたが、一時は大崎のビルに寄った行動が正しかったのかについて、安全管理会議を開いた方がよいのではないかという話になったのだと教えてくれた。もし安全管理会議が開かれていたら、生存者の四人、特にそこに行きたいと主張した洋子に何らかのペナルティがかかる可能性があったが、そのときに雅美が話に加わって屍が大量に襲ってくるのは予測出来なかったということやそのビルに寄ることは全員の合意の上だったことを強く主張してくれたおかげで今回はそれ以上問題としないことになったのだという。そして、大山は「寺田さんにご家族がいたら、そう簡単にはいかなかったかもしれません」と付け加えた。洋子はただ申し訳ありませんと頭を下げて、それでもこの探偵のところに行きたいんですと繰り返すしかなかった。大山は苦い顔をしながら、「しょうがないですねぇ、そんなに頼まれたら。ご主人思いなんですね」と言った。洋子がきっと大山の妻も生きていたら大山のことを探したに違いないと言うと、大山は笑って首を振った。


 大山は三日後に車を出す申請をしてくれた。いるかいないか分からない探偵を探すという目的では車を使う許可は下りないだろうということで、ちょうど昔蒲田に住んでいた大山が自宅に帰ってアルバムなどを探したいということにした。これは嘘ではなく、実際に近いうちに帰りたいと思っていたようであった。車は目的や他の人の利用状況に合わせて何を使ってよいかが決められる。この日はトヨタのプリウスが使えることになった。洋子と大山はお昼過ぎにラゾーナの駐車場を出て蒲田に向かった。


 生ける屍によって国中が混乱に陥った後、第一京浜などの大きな幹線道路には乗り捨てられた車が何台も放置されていて容易に通行が出来る状態ではなくなっていた。しかし、その後ラゾーナのコミュニティでは物資を探しに行くために何度か大人数で遠征し、極端に通行の妨げとなるような車をどかしたため、以前通りとはいかないが、品川あたりまでは何とか行かれるようになっていた。また、恐らくラゾーナのグループだけではなく、他の人たちも道路を通行しやすくしようとしているらしく、通るたびに障害物が減っていっていた。車内で大山は、

「化け物に噛まれて平気だったという話はどうか分かりませんが、仮に探偵が本当にいたとして、危険な人物ということはないでしょうか」

 と言った。洋子自身それが不安だった。人の弱みに付け込んで食料などを奪おうとする輩だという可能性がないわけではない。ただ、洋子には他に選択肢がなかった。

「お気遣いありがとうございます。気をつけたいと思います」

 大山はそれ以上言っても無駄だと思ったのか話題を変えた。

「ご主人、どんな方だったんですか?」

 洋子は結婚当初の夫を思い出してみた。

「そうですねぇ。ひょうきんな感じの人? 全然、イケ面とかそういう感じじゃなくて、ちょっと中年太りになってきてて。でもすごく気を使ってくれる人でした」

 運転しながら大山はちらりと洋子を見る。

「ご主人のことを愛してらしたんですね。正直なところ、あなたみたいな人に、そんな風に思ってもらえるご主人が羨ましいです」

 洋子には大山が「愛している」などという言葉を口にしたことが意外だった。大山はにこやかに微笑んでいた。大山は洋子よりも五歳くらい年上だろうか。これまで一対一で話したことはほとんどなかったが、いかにも理系らしい頭の堅い男だと思っていた。しかし、こうして微笑んだ顔を見ると思いのほか人間味に溢れている。ただ、洋子はあまり大山に頼りすぎては面倒なことになってしまうと感じた。このあたりで線を引かなければ、よけいな期待をさせてしまうかもしれない。そうなれば、せっかく何とか生活をすることが出来ている今のコミュニティに居づらくなってしまう。

「おっと、ここかな」

 大山は京急蒲田駅の少し手前で第一京浜を左折する。そこから少しだけ進んで、大きな郵便局の前で車を止めた。二人は車から降りた。

「地図通りなら、この道をまっすぐ行ったところだと思います。ただ、見た感じでは、この道は車が何台も放置されているんで、車では進めないかもしれませんね。歩きで探しましょう」

 洋子は雅美にもらった地図を取り出した。簡単な地図であったが、大山がおおよその位置関係を説明してくれたので、どのあたりに探偵がいるのかをイメージをすることが出来た。

「私はここで大丈夫です。大山さんはご自宅に行ってください。ここで待ち合わせをしましょう」

 大山は不意をつかれたような驚いた表情をした。

「そんなの駄目ですよ、その探偵が危険な人じゃなかったとしても、この通りに化け物がいない保証はないんですから」

 洋子は首を振った。大山に特別な借りを作りたくなかったし、これ以上自分のせいで他の人が犠牲になるのも嫌であった。

「これは私のわがままなんです。一人で生かせてください。フライパンも持って来ましたし、もうここからそう遠くないと思うので。これ以上迷惑をかけられませんから」

「いやいや、ダメです。あなたにもしものことがあったら困りますから。一緒に行かせてください」

「許してください。一人で行きたいんです。これは私の問題なんです」

 洋子が大山の目を強く見つめると、もう大山はそれ以上は言ってこなかった。二人は一時間後にその郵便局の前で待ち合わせることにして、それぞれの目的地へと向かった。


 郵便局の左の道をまっすぐに進んでいくと、昔ながらの街並みが並んでいた。古びた中華料理屋や蕎麦屋、クリーニング屋、写真屋などの廃墟が続いていた。そこは二年前にこんな世界になる以前も、相当に時代から取り残された風景だったろうと想像された。洋子は昔の街並みの中に紛れ込んだような不思議な気分で歩き続けた。生ける屍は現れなかった。人影もなかった。商店街らしき通りから少しだけ脇に入ると、予想していたよりもすぐに「志村探偵事務所」というベニヤ板にラッカースプレーで書かれた看板の立てかけてある古びたアパートが見つかった。近づいていくと、その看板には小さな字で「御用の方は非常階段で屋上に」と書かれていた。見回すと錆びついたらせん状の非常階段があった。洋子はきしきしと音を立てるその階段を上がっていった。建物は三階建てであり、少しだけ息を切らしながら屋上にたどり着いた。屋上と言っても、テレビCMで百人乗っても大丈夫と言っていたような、車が入るくらいのサイズの大きなプレハブ小屋が建っていた。小屋の横にはなぜか大きな椰子の木が二本植えられており、その下にビーチベッドが置かれていた。プレハブ小屋の入口のドアを叩くと、背後からいきなり声がした。

「あなたお客さん?」

 洋子は驚いて声を上げて思わず飛びのいた。その弾みで躓いて倒れこんだ。見上げると、痩せて背が高く、生ける屍なのかと見まがうほど顔色の悪い男が立っていた。髪の毛はボサボサで目の下には大きなクマがあり、くすんだネルシャツにボロボロのジーンズを履いていた。

「何それ、驚きすぎ驚きすぎ」

 不気味な風貌とは不釣合いに、この時代にそぐわないほど、気楽な口の聞き方だった。男は自分でドアを開けて、プレハブ小屋の中に入っていった。

「来なよ。階段上る音がしたんで、誰か来たんじゃないかって、上から見てたんだ」

 プレハブ小屋の中は無数の本やマンガ、CDやDVDが無造作に積み上げられていた。こんなところに電気が来ているのか、冷蔵庫やパソコンや懐かしいCDラジカセも置いてあった。車も入りそうな広い倉庫であったが、物が溢れているために、足の踏み場に困るような状態であった。男はゆっくりとした動きだが器用に本などを踏まないように間をすり抜けて、奥にあった事務机の前の椅子に腰掛けた。そして、洋子にソファを指差した。

「どうぞ、座ってよ」

 洋子は立ったまま、雅美からもらったメモを手渡した。

「これは、あなたのことですか」

 男がそれを受け取るとき、男の指が洋子の指に触れた。ひんやりと冷たかった。この男は本当に生きているのだろうか。

「あぁ、そうっちゃ、そうだけどなぁ。普通に考えて、死ぬとかって字がついてる苗字なんてあるわけないでしょ。本当はこころざし、の志村だよ。まぁ、何の志もなく生きてるけどね。いつの間にか、死ぬって字で噂が広まっちゃって困ってんだよね。いや、別に困ってもないか。それでいっか。もう今日から死んだ村ってことにするよ」

「死体に噛まれたことがあるって、本当なんですか」

 男は洋子の顔をじっと見た。大きく見開くと思いのほか目が大きく、それが気味悪かった。

「そんなことまで聞いたんだ。そうだよ、噛まれたよ」

 もっともったいぶって説明をするのかと思っていたら、案外にあっさりと答えたので拍子抜けだった。

「それ以来、こんな顔色悪くなっちゃってね、困ったよ」

「どうしてあなたは噛まれても、化け物にならないんですか」

 洋子は矢継ぎ早に質問をした。

「何それ、お客じゃないの? 人探しとか、探し物があるとかって話じゃないの。お客じゃないなら帰ってよ」

「質問に答えてください、何であなたは噛まれても化け物にならないんですか」

「さぁねぇ、体質じゃないの」

「体質って、そんなの説明になってません」

「説明になってないって、こっちはただならなかっただけだから、理由なんて知らないよ」

「じゃあ、その体質を研究したら、ワクチンとか作れたりするんじゃないですか、それなのにあなたはこんなところで何してるんですか」

「そっちこそ、ここに何しに来たの? 何か実験台にされるなんて、痛そうだから嫌じゃん。それに僕だけじゃなくて、何十人に一人か何百人に一人か知らないけど、そういう体質のやついるんじゃないの? 知らないけどさぁ」

 洋子はこんな怪しい顔をしていて何て緊張感のない男だろうと思う。

「それで、あなたはもう化け物には噛まれないっていうのは本当なんですか」

「わりとね」

「わりと? わりとって、程度の問題なんですか。絶対噛まれないわけじゃない?」

 男はゆっくりした動作で頭を掻く。

「いや、僕もね、噛まれないのかなって思ってたわけ。それで調子に乗ってたら、この間噛まれちゃってさ。そしたら、前よりももうちょっとゾンビっぽくなっちゃって。いやいや、気をつけないといけないねぇ」

 本当にこの男は信用出来るのだろうか、こんな男に人探しなど出来るのだろうかと洋子は不安になってきた。

「あ、でも安心して、普通の人間よりは全然噛まれないから。それより、そっちが何者で何しに来たのか早く話しなよ」

 洋子は迷っていた。こんな男を信用せずにこのまま帰った方がいいだろうか。男は受け取ったメモを洋子に返した。

「っていうか、こんな適当な地図でよく辿り着いたねぇ。蒲田温泉の近くだって書けば分かりやすいのに。えっ、分かりやすくない? 行ったことないの? 蒲田温泉だよ。黒湯だよ。黒酢みたいな温泉だよ。その地図は誰が書いたんだろうね。どこから来たの? 品プリ? ラゾーナ? ベイクォーター? 小杉の東急スクエア? 他はどこの人の仕事をしたかなぁ」

 男は椅子に寄りかかって天井を見る。洋子はベイクォーター以外には他のコミュニティがあることを知らなかった。この男はそれだけの人たちの人探しをしたということだろうか。

「ラゾーナです」

 もういい、ここまで来たのだから、この奇妙な男に賭けてみるしかない。

「夫を探してほしいんです」

 男はぺろりと舌を出して自分の唇を舐めた。

「いつ頃はぐれたの?」

 洋子は今さらだったが安藤洋子と言いますと自己紹介をして、二年前の経緯を説明した。都内で感染が一気に拡大した日、通勤に使っていた電車は止まってしまったが、夫は職場の同僚の車に同乗して家に帰ってきた。しかし、次の日の朝、職場に行くと言い出したのだった。そのとき死者が蘇えって人を食い殺すとははっきり報道されていなかったが、何らかの病気で脳をやられた人たちが街中で人を襲っていることは伝わっていたし、洋子も夫の條二も遠巻きであるがそうした光景を目撃していた。洋子は夫が外出することに猛反対した。いつもは洋子が強く言うと従うことが多い夫だったが、このときはどうしてもやらなければいけない仕事があるのだと頑なに主張した。

「ご主人、どんな仕事してたんです?」

 そこで探偵、死村が口を挟んだ。

「SEです」

 死村は不満げな顔をする。

「おかしいねぇ。お医者さんとかお巡りさんとかがあのとき無理して仕事に出てったっていう話は聞いたし、養護施設の先生が施設を見に行ってかじられたって話もあったけど、SEだったら、日本中が大混乱になってるんだから、急いで行かなくてもいいのに」

「私もそう思うんです。だから、夫に何がそんなに命よりも大切なんだって聞いたんです」

「何て答えた?」

「はっきりした答えはくれませんでした。今は言えないんだけれど、とても大事なことなんだと繰り返すだけで。夫はそのとき、帰ってくるつもりだけれど、もしここも襲われたり万が一のことがあったら、自分のことは待たなくていいから、お前だけで逃げてくれと言い残して出ていって、それからずっと帰らなかったんです」

「その言い方じゃ、まるで自分が帰れないかもしれないことを見越してるみたいだな」

 死村はまた納得出来ないという顔をする。

「で、どうしてほしいの? 探すのはかまわないけど、もう二年も音沙汰ないんじゃ、生きている可能性はあんまり高くないと思うけどさ。もし見つかるまで探せって言うなら、ゾンビになった姿でも探し出すよ。でも、そこまでの必要がなくて、この場所とこの場所を探してっていう依頼だけなら、その通りにして証拠写真を撮って報告をしてるんだよね。あなたがどこまでしたいかだね」

 洋子はきっぱりとした口調で言う。

「見つかるまで探してください。納得したいんです。夫がどうなったかって。徹底的に探してください」

 死村は少し息を呑んで洋子の顔をまじまじと眺めた。洋子はこの男はやはり黙り込むと何を考えているのか分からず不気味な雰囲気になると思った。

「グレート」

 死村はそう言って立ち上がると、壁にかかっていたホワイトボードに向かい、「定住型」と「徘徊型」と書いた。

「ゾンビってのは、定住型と徘徊型がいるんだよね。大体、生前に記憶された場所を行ったりきたりするっていう定住型のパターンが多いんだけれど、ただ見知らぬ土地で死んだり、他のゾンビたちの群れに出くわしてついていってしまったりして、記憶のある場所から離れたゾンビは徘徊型になるんだな。ゾンビになっている前提から始めてしまって申し訳ないけど、可能性をつぶすっていう意味で、まずご主人が定住ゾンビになっているとしたら、会社にいるか、あるいは迷子の犬が家に帰ってきた話みたいな感じで、自宅の方に戻ったか、他にはどこかご主人になじみの場所ってある? 実家が近いとか。もし、ゾンビになっていなくって生きているとしても、こちらが探しに行きそうな場所に何かメッセージを残していることもあるから」

 そうして具体的な話を始めると、洋子には死村が役に立ってくれるのではないかという気もしてきた。

「いえ、夫の実家は沖縄なんで、実家に戻ってるってことはないと思います」

「そりゃそうだ。いつも行っていた場所とかは」

「ちょっと私には思いつきません。ただかなり仕事人間でずっと毎日遅くまで仕事をしていたので、やっぱり会社なんじゃないかと思います」

「なるほど、それじゃ、まずは会社だな。そこに本人がいなかったとしても、本人が行きそうなところはどこかの情報を探してみよう。それでいいかな」

 洋子は頷いた。死村は床に転がっていたボール紙でできたフリップのようなものを拾い上げた。そこには料金表のようなものが書かれていた。


 日当=一日の食事(米なら半合分。その他お菓子や電池、嗜好品などでの代替可。代替する場合の計算法は要相談)

 見つかるまで探す場合は前金で三日分。見つかった場合には日当プラス四日分。見つからなかった場合には減額あり。一週間以上かかる場合にはそのときまた再契約。

 探す場所が遠い場合、別途ガソリン代をもらうことあり。


「ほら、この通りだから、見つかるまでの場合は最初に三日分の食事を持ってきてもらう必要があるんだよね。高い? よくそう言われんだけどさ、こっちはこれで生活してるから、そのくらいしないと生きていけないんだよね」

「食事は用意します。お米も少しはありますし、私はあんまり食べないので、配給されたカロリーメイトみたいなものが残っていたと思います」

「あ、カロリーメイトは二箱で一日分だからね」

「それより、探しに行くとき、私も連れて行ってください。自分で夫を探して納得したいんです」

 死村は首を振る。

「だからさ、僕はわりとゾンビに噛まれないから、それなりに何とかなるけど、奥さんは襲われちゃうよ。噛まれちゃうよ。そんなの責任持てないから」

「いいんです。噛まれてもあなたを恨んだりしません。自分で探したいんです」

 洋子は大きな身振りで切々と訴える。

「全くねぇ。困っちゃうなぁ。それにしても、もう二年も経つのに、何でそんなに見つけたいかねぇ。実際のところ、あなた、ご主人とあんまり仲良くなかったんでしょう」

 死村の言葉に洋子は動きを止め、言葉が出なくなる。

「あれ、当たった? 当てずっぽう言ったんだけどね。気に障ったらゴメンなさい。まぁ、いいや、ただ、もし本当についてくるなら、そんな格好じゃ全然駄目だからね。全く素人丸出し」

 夫との仲を言及された動揺を抑えながら、洋子は尋ねる。

「どんな格好をすればいいんですか」

 死村はフリップをまた床に放り出すと、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫は明かりがついておらず、ただ棚のように使っているだけらしい。そこからクリープの大きな瓶を取り出すと、机の上にあったマグカップに粉末を注ぎ、冷蔵庫の上に乗っていた魔法瓶からお湯を注ぐ。そして、ちらりと洋子を見て、

「あなたもクリープ飲みたいんですか?」

 と聞いてくる。洋子は首を振る。―クリープをただお湯で溶いただけで美味しいのだろうかと思う。

「あ、言い忘れたけど、報酬の件、クリープがあったら、それでもいいから」

 死村は再び椅子に腰掛けて、少しだけマグカップからクリープを啜る。それから、洋子の格好を指差して指摘を始める。

「大体、その何ていうんですか、オードリー・ヘップバーンみたいな、ボサノバパンツじゃなくて、オカリナパンツじゃなくて、あの、サブリナパンツ? そんな足首が出てるのなんて、もってのほか。足が折れて床に転がってるゾンビにすぐに喰いつかれてしまうから。裾までしっかりある、出来れば容易に食い破れない丈夫な材質の、硬いレザーかジーンズがいいね、そういうパンツを履きなさい。それでさらに厚手の靴下を履く。上もそんな首が見えるのは駄目。外に出るときはタートルネック。ゾンビは一番首が好きなんだから。『暑くても、ゾンビのときは、タートルネック』っていう標語を知らないの? ま、今作ったんだけどね。あと、わりと危ないのが、耳なんだよね。後ろから来たゾンビに耳を噛まれたって人、四、五人知ってるよ。だから、耳を隠せるニットキャップ。食いつかれたら、そのまま帽子ごとゾンビにくれてやって、逃げればいいんだから。あと手袋も必要ね。やっぱりレザーが丈夫だからいいけど、なければ違う材質でもかまわない。日よけ用のアームカバーなんかがあれば、それをつけていてもいい。ゾンビは動きが遅いから、取り囲まれない限りは、いくらでも対処が出来るけど、一番やられる可能性が高いのが、不意に襲われたときの最初のひと噛みなんだよ。それをタートルネックなりニットキャップなりで防げたら、後は僕と二人でそのゾンビをやっつければいい。数さえ多くなければ何とかなるから」

 洋子は頷いた。なるほど、さすがに専門家だけに言うことが違う。ひょっとすると本当に見つかるんじゃないかという気がしてくる。確かに夫は死んでいるかもしれない。それならそれで分かった方がいい。あるいはもし生きていたとしたら。

 死村は明日の昼に川崎に迎えに行くと言う。ただ、大勢の人に会いたくないため、ラゾーナには行けないので、チネチッタで待ち合わせをしようと提案をしてきた。ラゾーナのコミュニティでは定期的に駆除班を組織して周辺の生ける屍を片付けているため、最近では特に昼間は歩く屍を見かけることがめっきり少なくなっていたので、恐らく洋子一人でも簡単に行かれそうだった。ただ洋子は正直なところあまりチネチッタには行きたくなかった。しかし、死村に言うためのちょうどいい言い訳が見つからず、仕方なく頷いた。報酬の食料はそのときに持っていくことになった。洋子は死村に夫の写真を手渡した。二人でプレハブ小屋の外に出ると、死村は欄干に掴まって下を覗き込んだ。

「今がチャンス。ゾンビがいない。気をつけて帰ってね」

 洋子は「死村探偵事務所」を後にした。

 

 チネチッタはJR川崎駅をはさんでラゾーナとは反対側に五分ほど歩いたところにあるシネマコンプレックスである。イタリアの映画村にちなんで名づけられたその映画館を中心にして、古きヨーロッパの町並みが再現されたラ・チッタデッラと呼ばれるエリアが作られており、映画館の他にライヴハウスのクラブチッタ、レストランやカフェ、ゲームセンターなどが立ち並んでいた。

最初に死村からチネチッタの名前が出たとき洋子が行きたくないと思ったのは、夫の條二にプロポーズをされたのがチネチッタで映画を観た後だったからだった。その日はディズニー好きの洋子の希望で、恐らく條二にはあまり関心がなかった『トイストーリー3』を観た。洋子は子どもの頃に大好きだった『トイスストーリー』の思い出とあいまって劇場でぼろぼろと涙を流してしまった。條二は「そこまで泣かなくても」と小声でつぶやき、半ばは呆れながらハンカチを貸してくれた。その帰り道にラ・チッタデッラの石畳風の小道を散歩をした。最初は映画の感想など何気ない会話をしていたが、條二は急に真面目な顔になって「結婚しよう」と言った。初めは洋子にはとても本当だと信じられなかった。イタリアの町並みにいるために、何かイタリア映画の真似をしている冗談だろうと思った。「そんなことばっかり言って」と洋子が笑い飛ばそうとすると、條二は慌てて何度も本気だと言った。とうとう條二が本気で言っているのだと分かったとき、映画で涙腺が緩んでいた洋子は再び涙が止まらなくなってしまった。その後、二人はラ・チッタデッラの一角にある「チッタウェディング」で三十人ほどの小さな結婚式を挙げた。新居が川崎駅から南武線で直ぐ近くの場所になったため、新婚のときには二人でよくチネチッタに映画を観に来ていた。洋子はディズニー映画が好きで、夫はアクション映画が好きで、お互いが観たいものを交互に観ていた。チネチッタに行くとどうしても夫との幸せだったときのことを思い出してしまいそうだった。


 死村に言われたとおり、タートルネックのセーターにジーンズを履き、手袋をして、厚手の靴下を履いた。さらに耳が隠れるようなニットキャップを被った。普段帽子を被りなれていないので違和感があった。右手にフライパンを持ち、小さなリュックサックを背負って、洋子はチネチッタに向かった。本来ならラゾーナの外に出るときには委員会に許可が必要であったが、根掘り葉掘り聞かれたり、反対されたりすることを恐れて、黙って抜け出してきた。幸いなことにチネチッタに着くまで屍は一体しか見かけなかった。その一体ものろのろと遠くを歩いていただけであり、避けるのは容易だった。ラ・チッタデッラの古いヨーロッパの町並みが再現されたエリアに入ると、夫とのことが嫌でも頭に浮かんできて、胸が締めつけられた。早くここから抜け出したい。洋子は足を早めた。死村はチネチッタの前にある噴水広場でしゃがみこんで噴水の方を見ていた。もちろん水は流れていなかった。蒲田で会ったときと変わらないネルシャツとジーンズだったが、黒いニットキャップを被っており、後ろから首を噛まれないためかネルシャツの襟を立てていた。

「あ、来たね。チネチッタはすごいねぇ、ディズニーランドみたいだねぇ」

 死村は洋子に気づくと立ち上がって相変わらず緊張感のない声で話しかけてきた。

「あっち側の奥に、クラブチッタってあるじゃん。あそこで前にゴブリンってイタリアのプログレバンドがライヴをやったよね。知ってる? 行った? あぁ、何、ゴブリン知らないの? ま、いいや。行こうかね」

 死村は道路から金属バットを拾い上げる。どうやらそれが彼の武器らしい。

「車はどこにあるんですか?」

 洋子が尋ねると、死村は目を大きく開いて驚いた顔をする。

「車? それだよ」

 死村はオープンテラスの前に停車された原付バイクを指差した。

「えっ、まさかこのスクーターで行くの?」

「何言ってんだよ、スクーターじゃないよ、カブだよ。スクーターと違ってちゃんとクラッチがついてんだよ」

 死村はバットを無造作に洋子に渡すと原付にまたがる。

「いやいや、そんな違いどうでもいいから。っていうか、その前に、これ郵便屋さんのやつじゃない」

「えっ、バレてる? 観察力が鋭いなぁ」

「鋭いも何も、こんな真っ赤と真っ白のやつ、他に誰も使わないから当たり前じゃないの」

「そんなこといいから、早く後ろ乗りなって。わざわざちゃんと後ろの荷物かごは外してきてあげたんだから」

 死村のいう通り、後ろにつけられている大きな荷物を入れる箱は外したようであり、洋子は仕方なく金属バットを脇に抱えて荷台に跨った。

「落ちないようにね。あと、バット落とさないでね。出発進行!」

 死村の運転する郵便カブが動き出した。洋子は恐る恐る死村の腰に手を回した。

「あぁ、危ないからもっと強くつかんで。心配しなくて大丈夫、ゾンビに噛まれてから、わき腹とかあんまくすぐったくなくなったから」

 洋子は別にわき腹がくすぐったいだろうなどと心配してはいないと思いつつ、死村の腰に回した手に力を入れた。

 ただ、走り始めると原付バイクは洋子の予想を越えてすいすいと進んでいき、死村は鼻歌を歌いながらも器用にアスファルトが割れた箇所や、まだ乗り捨てられたままの車などを避けながら、快調に走り続けていった。やがて洋子は実は荷物さえ多くなければ、今の世の中はこういう小回りの利くバイクの方がよいのかもしれないと思った。この男は単に怪しいだけではなく、本当は頼りになるのかもしれない。ただ、死村の奏でる鼻歌は、おそらく『ジョーズ』のテーマなのだろうが、明らかに音程はずれているし、気持ち悪いからやめてほしかった。


 夫の職場のビルの前に辿り着くと、死村は前に来たときのことを尋ねてきた。洋子が寺田が亡くなった経緯を説明すると、死村は大袈裟なくらいに首を振った。

「何やってんの、駄目駄目。エレベーター使うなんて、一番危ないんだよ、分かる? エレベーターが出てきたら、真っ先に誰か死ぬって思わなきゃいけないんだから。まったく、素人は困っちゃうなぁ」

 今さらそんなことを言われても洋子にはどうしようもない。死村と洋子は玄関の大きく穴の開いたガラスのドアからロビーを覗き込む。三体ほど生ける屍がゆっくりと歩いている。

「あらら、いるじゃん。まぁ、あのくらいの人数ならどうにかなるかねぇ」

 死村が洋子の方を見る。

「ところで、ご主人のオフィスは何階?」

「二十五階です」

 死村は目を大きく見開いて驚く。

「やっぱ、エレベーター使おう」

 洋子は思わずつんのめりそうになる。

「何言ってるの、今さっき、散々エレベーター使うなんて素人だって言ったくせに」

「だって、しょうがないじゃん、二十五階も階段で登ったら、死んじゃうって。ただでさえ僕顔色悪いんだから」

 死村は立ち上がって、ロビーをしばらく見回してから言う。

「それじゃ、まず、僕が中に入って、エレベーターのボタンを押すね。それで、その中が安全だって分ったら、一応、ここのゾンビたちをエレベーターとは反対の側におびき寄せるから、その間にあなたは急いでエレベーターの中に入って僕を呼んでね。分った?」

 洋子は頷く。フライパンを握る手に力がこもる。ここからは一瞬の隙も許されない。

「それじゃ、行きまーす」

 緊張する洋子と対照的に、相変わらず死村は気の抜けた声を出すとガラスの穴をくぐり建物の中に入っていった。外から見ていると、本当に化け物たちは死村のことを気にかけていないようであり、何事もなかったように、死村はゆっくりと歩いてエレベーターの前まで来た。上りボタンを押すと、すぐにドアが開いた。中からは一体だけ老人の屍がふらふらと現れただけであった。そこから死村はエレベーターを離れて受付ブースの方に行き、持っていた金属バットで壁を叩き始めた。大きな音が響くと、その場にいた生ける屍たちはそちらの方に移動し始めた。死村がこちらをちらりと振り向いたのを合図にして、洋子も建物の中に入り、小走りでエレベーターに向かった。しかし、そのとき、観葉植物のプランターの影に隠れていた屍が床を這いつくばりながら飛び出してきた。それに気が付いて、洋子は慌てて走り出そうとしたが、その屍の顔を見て思わず動けなくなった。その生ける屍は口から血とも涎ともつかない液体を垂らし、片方だけになった箱根の温泉卵のように黒ずんだ目を見開いて迫ってきた。洋子は固まったままどうすることも出来なくなった。

 急にその屍の頭部が床に落ちたと思うと、目の前に金属バットを持った死村が立っていた。

「行くよ」

 死村はただそう言ってエレベーターの方に歩き出した。エレベーターの中に入って閉まるボタンを押してから、死村が呟くように言った。

「あいつ、知り合いだった?」

 洋子は黙って頷いた。

「ご主人の職場の同僚?」

 洋子は首を振った。

「さっきお話した、数日前に一緒にここに来た寺田さんです」

 死村は少しだけ頷いた。

「生前を知っている人のゾンビに会うっていうのは、嫌なもんだよねぇ」

 洋子は自分の足が小刻みに震えているのに気が付いた。死村は二十五階のボタンを押した。

「ドアが開いたらどのくらいの数のゾンビがいるか予想出来ないからねぇ。もしドアを開けてゾンビが十体以上いたら、僕が中に入ってきそうなやつをバットで突き倒すから、急いで閉まるボタンを押してね。そうなったら、上か下の出来るだけゾンビの少ない階から入ることを考えるから」

 そう言っている間にも、エレベーターは二十五階に着き、到着したことを知らせるチャイム音がなった。洋子は懐かしい文明の音だと思った。ドアが開いた。幸いなことに、そのフロアに生ける屍は見当たらなかった。死村は、

「何だ、拍子抜けだなぁ」

 と言いながらエレベーターの外に出た。電気が来ていないために昼間でも少し薄暗かった。夫の会社へは一度だけ新婚当初に忘れ物を届けに来たことがあった。夫が満面の笑みを浮かべて「わざわざ持ってきてくれるなんて、俺は何て優しい嫁をもらったんだぁ」と言ってくれたのを思い出す。エレベーターを降りてすぐ左側のフロアだった。洋子が先に歩き出すと、死村は「気を付けてね」と後ろから言ってくる。社名の書いてある玄関のドアを開けると、その先はいくつものパソコンが置かれた机が並んでいるオープンスペースだった。

「おぉ、最近の会社って感じだねぇ。これって、誰の席とか決まってなかったりするの?」

「いや、最初はそうしようと思って設計されたらしいんですけど、実際は大抵みんな同じ場所に座るみたいで。パソコンもそこに置きっぱなしですし」

 あたりを見回すと、五メートルほど先に床に這いつくばっている屍がいた。死村はそこまで歩いて行って、その屍の動いている腕をバットで砕いて動きを止めた。

「どうして頭を潰さないの?」

「いや、あんまり好きじゃないんだよねぇ、頭潰すの。何か後味悪いじゃん。それより、ご主人のデスクはどこ?」

 洋子が指さすと、死村はそこに座って、机の中を漁り始めた。

「あ、それじゃ、ブラインドをあげて。もっと部屋を明るくした方が安全だから」

 洋子は言われるままに窓際に行ってブラインドをあげた。薄暗かった部屋に光が差し込んでくると、部屋の隅にあったロッカーの前にも若い女性の屍が立っているのが見えた。洋子が驚いて声をあげると、死村も顔をあげ、その屍に気が付くと、「そのゾンビはお願いね」とさも大したことがないような口調で言った。

「そ、そんなこと言ったって」

 と洋子はつぶやいたが、死村はもうこちらに関心を示しておらず、今度は夫のパソコンを開いていじろうとしている。そうしている間にも、女性の屍は洋子に気がついたようで、低い唸り声をあげて近づいてきた。正直なところ、洋子はこれまでに倒したことがある屍は一体だけだった。ラゾーナのコミュニティに逃げ込むときに襲われて足を掴まれ、無我夢中で持っていた傘を目玉に突き刺したのだった。そのときの感触はしばらく忘れられなかった。死村が頭を潰すことを「後味悪い」と言ったときには何て弱気なことを言うんだと思ったが、実際に自分がやると考えると、確かにあまりやりたいことではない。洋子は自分に言い聞かせる。相手は一体で、動きもしっかり見えている、落ち着いてやれば何の危険もない。この女は夫の同僚だろうか。女の屍はゆっくりゆっくり近づいてくる。相手が近づいてくる間を見計らってフライパンを振り上げると、その瞬間に急に屍の動きが早くなり、洋子の首筋めがけて喰らいついてきた。噛みつかれたと思った洋子は悲鳴を上げて、女の屍の頭を掴んで引きはがそうとした。しかし、相手の力が思ったよりも強いのか、こちらが混乱して力が入らないのか、なかなか引き離せない。屍の独特の匂いが鼻腔を刺激する。思い出したようにフライパンで頭を叩くが、体勢が不自然なためにあまり効果がない。洋子は屍に食いつかれたまま床に倒れ込んだ。

 急に屍の頭が引きはがされたと思うと、死村が髪の毛を引っ張っていた。女の歯がタートルネックのセーターにしっかり食い込んでいたため、引き離すときにセーターが伸びてしまう。

「何やってんだよ。噛まれてない?」

 慌てて自分の首に手を当ててみるが、傷はついていない。忠告を聞いてタートルネックを着てきたおかげだった。死村は女の屍を床に放り投げると、倒れた屍の上に机をずらして乗せた。その女の屍は手足をばたつかせたがそこから出られなくなったようだった。死村は洋子の方を振り向いた。

「そうそう、旦那は会社に行くって出ていった日、ここに来てない可能性が高いねぇ」

 洋子は呼吸を整えて立ち上がる。まだ動悸がしていて、死村がなんの話をしているのかよく把握出来ない。

「何の話?」

「ほら、これ見てよ、ログイン履歴。この最終ログインが家を出て行った日の前の日になっていて、その後は誰もこのパソコンを起動させてないじゃん。もちろん、ここに来てパソコンをいじらなかったって可能性もないわけじゃないけど、SEだから仕事に来てパソコンを開かなかったら、仕事にならないからねぇ」

 洋子は大きく呼吸する。

「それってどういうことですか」

「いや、ただそれだけだよ。でも、ここにはもうあんまり何も残ってなさそうだし、人が立て籠もってるって気配もなさそうだから、あとはロッカーを覗いてから、早めに退散しようね」

 そう言うと死村は今度はロッカーの名札を調べ始めた。そして、夫のロッカーの鍵をバットで壊して開けた。中は三年前のままらしく、着替えやお菓子などが雑然とつっ込まれていた。

「あれ、これって、ノートパソコンじゃないの?」

 確かに洋子も見たことがある夫の個人用のノートパソコンだった。

「まぁ、一応、持って帰って調べたら何か分るかもしれないからね」

死村はそのノートパソコンを自分の背負ってきたカリマー製の国防色のザックに入れて、すたすたとオフィスを出ていく。洋子は慌ててそれを追いかけた。

エレベーターは二十五階に止まったままだった。洋子は一階のボタンを押した。幸いなことに、一階の生ける屍の数は増えていなかった。そのままこっそりとビルの外に抜け出すと、再び原付きバイクに乗った。帰りのバイクの後ろで洋子は足の震えが止まらないことに気がついた。夫のオフィスで女のゾンビに襲われた経験はその場で感じた以上に恐ろしいものだったらしかった。死村につかまる手の力もいつの間にか強くなっていた。


 チネチッタの噴水前に帰ってくると、死村はとりあえず、夫のパソコンを調べて、行動パターンを探りそれ以後の対策を考えるつもりだと説明した。洋子が結果を早く知りたいと言うと、死村は明日の夕方ここに置手紙を置いておくと言った。死村はまた気楽な調子で「ばいばい」と手を振ると、原付バイクに乗って去って行った。後に残された洋子はゆっくりと深呼吸をした。



 死村は事務所であるプレハブ小屋の中で、洋子の夫、條二のノートパソコンをいじっていた。

「何、しけた顔してんのさ」

 死村は振り向いた。そこには小学校中学年くらいの少女が立っていた。

「何だ、夜見子か。いつの間に来たんだよ」

 少女は死村に近づいてきた。

「さっきからずっといたよー。おじさんがぼけーっとしてて気がついてなかっただけだよー」

 夜見子は死村の姪だった。兄夫婦が行方不明となり、今は死村と二人で事務所の下のマンションの一室で暮らしていた。

「あの依頼人の女の人、すごい綺麗だもんねぇ。だからおじさんぼーっとしちゃってんじゃないのぉ」

「何言ってんだよ、全然好みじゃないから。っていうか、お前、あのときから見てたのか?」

 夜見子はけらけらと笑いながら、死村の膝の上に乗っかり、條二のパソコンのキーボードを叩く。

「それじゃ何でそんな納得いかない顔してんのさ」

 死村は眉をしかめる。夜見子のポニーテールの髪が鼻にかかって気持ちが悪く、夜見子の頭を前に小突く。

「いや、あのさ。あの人、何かおかしいだよね。何か、本当のこと言ってないの」

「また、いつもみたいに何か感じるって言うの?」

「あの人、夫婦生活で、少しも幸せじゃなかったんじゃないの」

 夜見子が振り向く。死村は顔が近すぎだと思う。

「それじゃ、何でわざわざ今さら探そうとするの?」

「知らないよ、だからおかしいなぁって思ってるんだって。とにかくねぇ、何かすごく違和感があるんだよね。あの人が旦那を探せって言っているのは、ただ会いたいからとか、そんなんじゃないんだよ」

 パソコンのロックが外れたため、死村は身を乗り出す。夜見子も夜見子も身を乗り出す。マイドキュメントを開くと何やら専門的な名前のファイルが並んでいたが、それについては死村もよく分からなかった。その他、大学時代のレポートと思われるものも保存されていた。前に持っていたパソコンから移しでもしたのだろう。マイピクチャには洋子と條二の二人が写った旅行写真や風景の写真、そして学生時代の友達たちと撮ったと思われる写真などが入っていた。

「これじゃ、特に手がかりは分からないねぇ。iTuneは?」

 夜見子にそう言われて、死村はiTuneを開く。

「お、やった。こいつ、クラウドじゃなくて、このパソコン内にiPhoneのバックアップをしてるぞ」

 死村は引き出しからUSBメモリを取り出す。

「何すんの何すんの?」

「これはね、iPhoneがなくてもiTuneにバックアップされているデータを見られるアプリケーション。つまり、こいつのスマートフォンの中身が漁れるってこと」

「わぁ、恐い、この人犯罪者みたい」

「あのね、僕は探偵なの、探偵」

 そう言いながら、USBからアプリケーションを移して起動させ、バックアップファイルを読み込むと、多量の画像ファイルが見つかった。

「どんな写真が出るかね、えい」

 そう言ってマウスをクリックすると、開かれたフォルダ中に肌色の写真のアイコンが広がる。

「何これ何これ、何で裸の写真が沢山なの!」

 夜見子が嬉しそうに声を上げた。

「まったく、こいつは何やってんだよな、これだから最近のやつらは」

 死村が裸の写真を見ては洋子に悪いような気がして躊躇していると、横から夜見子がマウスを奪って次々に画像をクリックして大きくしていく。

「駄目だ駄目だ、こんなもん、子どもの見るもんじゃないんだから」

「違う違う、ほら、おじさん、これ、あの奥さんじゃないよ」

 そう言われて死村が改めてじっくりと見てみると、確かに胸をはだけさせてポーズを取ったり、條二と思われる男とキスをしている姿を自撮りしたりしている写真は明らかに別の人物であった。

「確かに、こいつは違う女だ」

 死村はプロパティを開いて写真の撮られた日時を確認すると、パンデミックが起きる前の月のものだった。

「ねぇ、おじさん、どういうこと? もう結婚してるんでしょ」

「どういうことも何もないよ、そういう男だったってことだよ」

 死村は天井を見上げる。それでも必死で夫を探そうとする洋子を憐れに感じたが、すぐに頭の中には別のことが思い浮かぶ。

「そうだよ、こいつが出て行ったのは仕事じゃないんだよ」

「この別の女の人に会いに行ったってこと?」

「そう、それならどうして次の日に急いで出て行った話の辻褄があうだろ。問題は、この女がどこのどいつかってことだ」

 通話記録を調べてみるが、通話記録自体がほとんどないため分からない。

「LINEとか使ってるかな」

「LINEのチャットも見れちゃうの? おじさん、週刊誌の人みたい」

「それは褒め言葉だってことにしておくよ」

 死村は自分のUSBメモリからPC用のLINEのアプリケーションをダウンロードする。そこにバックアップされたLINEのデータを移行させると画面が現れる。とりあえず、一つ画面を開くと、

(今日は何時頃に帰ってくるの? 明日はテレビを買いに行くんだから忘れないでね)

 と出てくる。

「これは奥さんとの会話だね」

「こっちじゃないとすると、こっちかな」

 死村はまた別のチャットルームを一つ開く。

(もう好きすぎる。自分で信じらんないくらい。もっとずっと一緒にいたい。ずっとずっとじょーちゃんといたい)

「これだよ、もう、お前、教育上よくないから、あんま見んな」

(俺もだよ。もっと早くお前に会ってたらな)

(早い遅いなんて関係ないよ。もうこれは運命だから、誰にも逆らえない。あたしとじょーちゃんがずっと一緒にいないなんて、そんなことあっていいはずがないって思っちゃう。じょーちゃんと愛し合ってるとき、何かこれでやっとあたしが完成したんだって思うの)

(そんなこと言われたら、またすぐに会いたくなっちゃうだろ)

(あ、じょーちゃん、興奮してるの?)

(何だよ、お前もじゃないのか?)

「いや、ホントに、これ、お前、読むな、あっち行ってろ」

 死村は夜見子の肩をついてパソコンの前から押しのける。

(その盛り上がった勢いを奥さんに向けたら許さないからねぇ)

(アイツとはもうずっと前に醒めてるから)

(あぁ、もう今すぐまた会いたい。じょーちゃんの子どもがほしい!)

(俺もチカコの子どもがほしいけど、子どもの話は、もうちょっと状況が落ち着いたらな)

(それはちゃんと分かってるよ。でも、絶対だからね。この気持ちだけはぜったいぜったい本物なんだから。こんなに確かなことはないくらいに絶対の運命なんだからね)

(おう、それじゃ、もうすぐ家着くから、また明日な)

(はーい。明日、職場であたしのこと見て、今夜のこと思い出して興奮したらダメだよ~(笑))

「よし、職場の同僚だ!」

 死村は声を上げる。夜見子は再び画面に覗き込む。

「ねぇねぇ、それでどうやって調べるの」

「このチカコって女のフルネームと当時住んでた住所を調べる必要があるな」

 死村はまず「すべてのプログラム」を広げて、年賀状印刷アプリケーションを探しだす。しかし、住所ファイルは「ようこ用」と書かれたものしか見つからない。

「IT系だから、葉書で年賀状なんて出さないのかなぁ。こんなことなら昨日会社行ったとき社員名簿を探してくればよかった」

「ⅰPhoneのGPSの行動履歴はバックアップされないの?」

「何か、お前の方が探偵に向いているんじゃないのか。ホテルとかじゃなくて、相手のアパートに行って会ってるとしたら、ヒットするかもな」

 死村は再びUSBから行動履歴を地図上に表示するアプリケーションを取り出してきて、インストールする。iPhoneのバックアップファイルからデータを取り出すと、條二がこれまで訪れた場所が色のついた点で表示される。

「ここは何?」

「あぁ、一番沢山になっているところは、川崎の隣だから自宅だな。次に多いここは品川あたりだから、職場かな。あとは、これか」

 死村は地図を拡大する。

「武蔵小杉のあたりだな。なるほど、確証はないけれど、こいつは武蔵小杉に住んでいる女のところに通っていた可能性があるな」

「と言うことは?」

「生きてればってことだけど、あのあたりなら、武蔵小杉駅のすぐ横の東急スクエアにコミュニティがあるから、そこのやつらが知っている可能性があるな。やつらなら無線で連絡が取れるから聞いてみよう」

 死村は立ち上がって、無線機のところまで歩いていく。死村がアマチュア無線を学び始めたのは、生ける屍が大量発生した後、この仕事を始めてからだった。それまではこんなに通信網が発達している世の中でなぜアマチュア無線なるものが生き残っているのかということに疑問を持っていたくらいだったが、通信会社の回線がまったく使えなくなってからは、逆によくぞこの世から無線機というものを全滅させないでおいてくれたと感謝したものだった。ただ、電話とは違うため、相手も無線機を使っているときでないと連絡がつかない。無線機があるコミュニティと通信するのは、案外に根気のいる作業だった。ただ、その日は比較的すぐに応答があった。

「こちら死村探偵事務所。武蔵小杉の東急スクエアさんはいますか? どうぞ」

―あ、探偵さんだね。どーも、どーも。覚えてるかな、前に区長を探してもらったときに話した今井だよ、今井、どうぞ。

「今井さん、ご無沙汰してます。あれからお元気でしょうか、どうぞ」

―元気、元気。こっちはあんときよりも、まとまってきたよ。かえって区長は見つかんなくてよかったねぇ、ってこんなこと言ったら怒られちゃうかな。で、何よ、また事件なの。どうぞ。

 今井は五十過ぎの妙に陽気な男だった。実際に会うと、やや鬱陶しい気がするが、無線越しだとむしろテンションが高い相手の方が話しやすかった。

「そちらで、安藤條二って人知ってたりしませんか? どうぞ」

―あ、じょうちゃん。知ってるも何もここにいるよ。誰かがじょうちゃんを探してんの。どうぞ。

 死村は横にいた夜見子と顔を見合わせる。夜見子は昔のプロレスラーのようなガッツポーズを取る。

「いる。あぁ、そうですかぁ。ちなみに、安藤さんって、お一人ですか? それともどなたかと一緒ですか?」

―じょうちゃんは、ここに来たときからずっと、奥さんと一緒だよ。

「奥さん?」

―そう、あんな顔して隅に置けないやつだね。すっごい綺麗で、何か野生的な色気がある奥さんだよ。どうぞ。

「その奥さんの名前って、ひょっとして、チカコさんですか? どうぞ」

―そうそう、知ってるのか。ちかちゃんだよ。今、呼ぶ? 多分、今日は遠征とか何もないから、その辺にいるんじゃないかな? どうぞ。

「いや、大丈夫です。生きているということが確認出来たら、それでOKな仕事なんで。ご協力有難うございますねぇ、いつも。どうぞ」

―何だよ、水臭いなぁ。今度こっちにも遊びに来てよ。またこないだみたいに、一緒に一杯やろうって。どうぞ。

 死村は今井と一杯飲んだ記憶などなかったが、それは大した問題ではないと思い、曖昧に同意をして無線を終えた。横を見ると夜見子が奇妙なダンスを踊って歌を歌っている。

「事件解決~、今日も事件が解決~」

「何だ、そりゃ」

「事件解決の歌。作ってあげたの」

 死村は椅子に大きく寄りかかる。

「まぁねぇ、確かに事件は解決はしたけど、後味悪いねぇ」

「そんなのおじさんは関係ないじゃん。探してって言われた人を見つけたんだからさ」

「そりゃ、そうだ。でもねぇ、こんな結果、教えたところで、どうなっちゃうのかねぇ」

「じゃ、やっぱいなかったって言う?」

「それは契約違反だから出来ないよなぁ。だってほら、うち探偵だもん」

「それなら、そんなうじうじした顔してないで、私と一緒に事件解決のテーマを歌って踊ってよ、ほら、事件解決~、今日も事件が解決~」

 死村は屋上のプレハブ小屋の窓から蒲田の町を眺めた。

「何だかねぇ。どうすりゃいいんだか、困ったもんだ」

 そのとき夜見子がふと気がついたように事件解決の踊りを止めてつぶやくように尋ねてくる。

「iPhoneって他の人でも中身見れるのかなぁ?」

「あぁ、パスコードが分かってれば大抵誰でも見れるよね」

 死村は机の上に置かれたマグカップを取って、クリープのお湯割りに口をつける。

「今なんでそれを聞いたんだ?」

 

 死村と一緒に大崎のビルまで行った次の日の夕方、洋子はまたこっそりとラゾーナを抜け出してチネチッタの広場に行った。枯れてしまった噴水の真ん中に「スリラー」のときのマイケル・ジャクソンのディフォルメされたフィギュアが置いてあった。手に取ってみると、裏にメモ書きがセロハンテープで付けられていた。洋子の鼓動は早くなった。何が書かれているのだろう。夫は見つかったのだろうか、それとも。思い切って、メモ書きを開いた。


 ご主人、生存。居場所も確認。明日の夕方の五時にここで待ってます。 死村


 動悸はますます早くなって、その場で倒れそうだった。夫が今も生きていた。様々な思いが洋子の頭の中に渦巻いた。自分でも留めようがなく、次から次へと色々な想像が浮かんできた。洋子はとても耐えられないような気持ちになってその場にしゃがみ込み、マイケル・ジャクソンのフィギュアを投げつけた。マイケルは階段の角にぶつかって跳ね上がり、床に転がったときには、首が折れていた。洋子は自分は何をしているんだろうと思った。私はいったい、何がしたいんだろう。調べてもらったら、すっきり解決をするような気がしていた。でも、夫の生存が分かってしまった今、問題は何にも解決されていない。この先どうなってしまうのか、とても怖い。どんな未来が待っているのか、自分がどうなってしまうのか、たまらなく怖い。

 後ろで音がした。振り向くと、通りを一体のゾンビが歩いていた。洋子は立ち上がった。このまま夜になるまでこうしていてはいられない。真っ暗になる前に、ラゾーナに帰らなければならない。


その日の夜はほとんど眠れなかった。こういうときこそ明日のために寝なければいけないと思いながらも、夜が深まるにつれてますます目が冴えていくようだった。洋子はこっそりと部屋を出て、ルーファ広場でぼんやりと空を眺めた。明日、夫の消息が分かる。ひょっとしたら、夫に会えるかもしれない。二年の間、何度この瞬間を想像して来ただろうか。この日のためにだけ生きてきたと言ってもいいかもしれない。でも、想像することと、実際にやることは全然違う。夫に会ったとき、私はどうなるのだろうか。洋子は明日の今頃の自分はもう今の自分ではないような気がして、無性に哀しい気持ちになった。涙が流れ出た。

「泣くのは明日が過ぎてから」

 そう独り言をつぶやくと、よけいに哀しくなって、涙はますます止まらなくなっていった。心臓は高鳴って足元もがくがくと震えていた。どうにかなってしまいそうだった。ふと横で物音がしたと思うと、広場に立てられたテントの中から見張り番をしている男が顔を出した。大山だった。大山は洋子を見ると最初怪訝そうな表情をしたが、やがてテントから出て近づいてきた。洋子は心配をされないように急いで涙を拭った。

「どうされました?」

 洋子はなるべく何事もないような声を出した。

「ごめんなさい、ただちょっと眠れなくって」

 様子がおかしいと思ったのか、大山は洋子の隣までやってきた。

「そういう日もありますよね。特にこんな世の中になってからは」

 洋子は大山にもそういう日があるのだろうかと思った。大山も奥さんのことを思い出して眠れない日があるのだろうか。

 大山はルーファ広場の本館よりの方に立っている巨大な液晶スクリーンを見上げた。

「今度、このスクリーンが使えそうなら、みんなで映画を観ようっていう企画があるんですよ。洋子さん、何か観たい映画とかありますか?」

 洋子は少し考えてから、

「トイストーリー」

 と答えた。

「それはいいアイディアですねぇ。子どもたちも喜ぶだろうし。僕も昔、あの映画がとても好きでしたよ」

 大山はそう言うとにっこりと笑って、テントの中に戻っていった。


 結局、その夜はほとんど眠ることが出来ず、次の日のお昼頃には逆に眠くて意識が朦朧としてきた。給食の手伝いをしたが、何度も数を間違えて、周りに心配をされたりしていた。夕方になると、どこに行くことになるか分からないため、前回同様の完全武装をして、フライパンを持ち、さらに台所から一本だけ拝借をしてきた果物ナイフをタオルで包んで上着のポケットに仕舞い込んだ。そして、ラゾーナを抜け出すとチネチッタに向かった。


 死村はこの日も噴水のところで待っていた。しゃがんで何かをしていた。洋子が近づいてみてみると、首の取れたマイケル・ジャクソンの人形をしきりに直そうとしているようだった。死村は洋子に気がついて振り向いた。

「これ、ひっどいよなぁ、誰だよなぁ。輸入品だし、こういうの今すごいレアなんだから、まったく」

 洋子は死村のそんなおどけた態度はどうでもいいと思った。

「夫はどこにいるんですか」

 死村はまだマイケルの首をいじりながら、

「あぁ、それね。今から行く?」

 と言った。

「もちろんです。人形はどうでもいいから、早く連れて行ってください」

 そう言ってから、洋子はつい言い過ぎてしまったと思った。死村は目を見開いて少し悲しそうな顔をした。

「ど、ど、どうでもいいって、そんな」

 ただ、洋子にはそんなことにはかまっていられなかった。

「早く、お願いします」

 死村はマイケルをその場に置くと、顔をしかめてから歩き出した。洋子はそれについていった。死村は前回と同じ場所に止めてあった赤白の原付バイクに跨った。

「それで、夫はどこにいたんですか?」

 渡されたヘルメットを被りながら尋ねる洋子に対して、死村は何も答えずにエンジンをかけた。原付バイクは走り始めたが、大通りに出るのではなく、ラ・チッタデッラの石畳風の小道を走り始めた。

「どこに行くんですか、こっちに行っても、どこにも行けませんよ」

 死村は何も答えなかった。洋子は死村の肩を何度も叩いた。この男は何を考えているのだろう。やはりこんな男始めから信用しない方がよかったのだろうか。洋子が飛び降りた方がいいのかと迷い始めた頃、二人を乗せた原付バイクは洋子がプロポーズをされた場所を通り過ぎ、そのまま一周をして、再び噴水の前まで戻ってきた。死村はバイクを止めた。

「何のつもりなんですか」

 洋子は飛び降りて、死村を突き飛ばした。死村はよろけて倒れそうになり、かろうじて踏みとどまって、力なくゆっくりと体勢を戻した。

「いや、あのね。ゾンビに噛まれてから、出来なくなったことと、出来るようになったことがあるの」

「何の話なの。そんなことより、夫はどこなの」

「出来なくなったのは、まず、関節が妙に堅くなってきて、早く動けなくなっちゃって。いや、動けないことはないんだけど、早く動くと、すんごい体痛いし、疲れちゃうんだよね。だから、昔、自信あったワニワニパニックとか、あんなのもう全然駄目。あと、骨が弱くなったみたいで、ちょっとぶつけただけで骨折しちゃってさぁ。おまけに治りも悪くって」

 洋子はこちらをまったく気にせずマイペースに話し続ける死村を睨みつける。

「ほら、僕はクリープのお湯割をよく飲んでるじゃん。あれって、カルシウムを取ろうと思ってやってるんだよね。あんなもん美味しくはないんだけどね。まぁ、どんくらい効果があるのか知らないけど」

「だから、夫のことはどうなんですか」

「それで、出来るようになったことの方なんだよ。これは人でもゾンビでも同じなんだけど、触るとね、何だか相手の気持ちが分かったりする気がしちゃうんだね。いや、そんな心が読めるとか、そこまですごいもんじゃなくて、何となく、相手の気持ちがもわっと伝わるみたいな。ゾンビの場合は、その場の気持ちなのか、その人が死んじゃったときの気持ちなのか分かんないし、そもそも人にしたって当たってるかどうか分かんないんだけどさ」

 そこで死村はじっとこちらを見て、目を大きく開いた。そのぎょろりと大きな目は赤く充血していた。

「奥さん、ご主人に会ったら、殺そうと思ってるでしょ」

 洋子は言葉に詰まった。上着のポケットの果物ナイフがずっしりと重く感じた。

「前から少しそんな気がしてたけど、今、カブの後ろから体をつかまれて、それがはっきりと分かっちゃったんだよ。奥さんがどこまで知っていて、どこまで想像してるかは分からないけど、でも、多分、予想してる通りなんじゃないのかな。だから、僕がこのまま連れてったら、奥さんは、ご主人を殺すことになるでしょ」

 死村の少し充血した目がじっと洋子を見てくる。

「そんなの駄目だよ」

 そう言うと、死村は首を振って、リュックサックからビニール袋を取り出して、放り出した。

「これ、こないだもらった調査費。返す。僕もうこの仕事やらないから」

 死村は再びリュックサックを背負いなおすと、原付バイクに跨ろうとする。

「待って、待ってよ。あなた探偵でしょ、それなら雇い主の言うことを聞きなさいよ」

 死村はただ首を振る。洋子は死村の腕をつかむ。

「こんな世の中なのよ。どうせ、こんな世の中なんだから。もう何がどうなったって、かまわないじゃない」

 死村は洋子の手をとって振りほどく。

「だって、あの人、あんなに私が大切って言ってたのよ。私だけが大事だって、私を守るためなら何でもするって。あんなに、信じられないくらい優しい人だったのよ。それなのに、どうして。こんなときに。一番、いてほしいときに。許せない、こんなこと許されていいわけない」

 死村は大きく息をつくと、じっと洋子の目を見つめてきた。

「でも、あなたを人殺しにはさせられないから」

 洋子は死村の胸を叩いた。一度叩くと、止まらなくなって何度も何度も叩いた。死村は逆らいもせず、ただよろけながら打たれるままになっていた。

「ひょっとしたら、ひょっとしたら、五年後、十年後に、もしかしたら私が死ぬ直前にあなたのことを感謝するかもしれない。でも、今は教えてくれないあなたが憎らしくてしかたない、だって、何であいつは平然と新しい人と生きていて、私はこんなに惨めな気持で、そんなことって」

 のろのろと打たれるままだった死村の体に急に力が入ったと思うと、いきなり洋子に襲い掛かってきた。このときも予想出来ないくらいの早さだった。死村はどこにこんな力を隠していたのだと思うほどの強さで、洋子を突き飛ばした。洋子は吹き飛ばされて、道路に倒れこんだ。手を突いた衝撃で掌が擦り剥けたのが分かった。洋子が向き直ると、死村は背の高い白人の生ける屍と格闘をしていた。死村は噛まれないように白人の顎をつかんでいたが、そのために片方の手しか使えずに押され気味になっていた。洋子は反射的に転がっていた死村の金属バットを取ると、その屍の足に思いっきり振り下ろした。手ごたえがあって、足の骨が折れたようで、屍は倒れこんだがそれでもまだ死村に襲い掛かろうとしていた。死村は洋子からバットを取ると、その生ける屍の脳天に一撃を加えた。

「危なかったわ」

 死村は洋子の方を見ずに、周囲を見渡した。

「一体じゃない」

 気がつくと、五、六体の生ける屍に囲まれていた。

「走れ。ラゾーナまで走れ」

「え、だって、こんなにいるのに」

 死村は映画館の階段を駆け上がると、金属バットで床を叩いて音を立てた。屍たちはその大きな金属音に反応して、そちらに向かい始めた。

「行け、早く行け! 振り向くな!」

 洋子は無我夢中で走り出した。後ろは振り返らなかった。時折、金属バットがどこかを叩く音が響いていた。洋子はただひたすらにラゾーナを目指して走り続けた。


 洋子が見えないところまで走り去ったのを確認する頃には屍たちの動きも落ち着いてきた。三体ほど倒すと、残りの屍たちは死村には関心をなくしたようになり、緩慢にそれぞれがその場を離れていった。死村は原付バイクに腰を下ろすと肩で息をついた。ふと、洋子に返したビニール袋が拾われずにまだ道路に落ちているのに気がつき、よろよろとそれを拾いに行った。

「もらっちゃっていいかなぁ。働かなかったわけじゃないしねぇ」

 そうひとり言をつぶやいた。それからもう一度あたりを見回して、首の折れたマイケル人形を見つけ、それも拾い上げた。

「やっぱ持って帰って直そうっと」

 そして再び原付バイクに戻り、洋子が去った方をぼんやりと眺めていた。

「壊れちゃっても、また直せるんだよねぇ」

しばらくして思い立ったようにエンジンをかけた。




* いつも私の小説をお読みいただいてありがとうございます。本小説は塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。第二章以降は金曜日の夕方に毎週配信します。全七章になっています。

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