第二章 332
リーダーの顔のケガはひどいものだったが、ナナフシが用意してくれた治癒鉱石で痛みや出血はなくなった。リーダーは手当てが終わるなり「仲間が心配しているから」と自分の家へ帰ろうとする。
帰り際、包帯が巻かれていないほうの目を優しく細めて言った。
「あいつらのこと悪く思わないでくれ。ここのところ採掘量が減少していて不安なんだ。でももし採掘量が引き上げられたらこれまで以上にみんなで頑張ればいいだけだ」
そう肩を叩かれたけど複雑な思いは消えない。しかしどうすることもできず、まだふらつくリーダーの背中を見送るしかなかった。
後ろからナナフシが近づいてきてぼくの肩を叩く。
「災難だったな」
「ううん、大したことじゃないよ」
「ガーネット殿下に唾つけられたんだって? 気をつけろ、アルバの中には人間の体臭を好む者がいるんだってさ。彼女らに目をつけられた人間は別コロニーにさらわれて「保存」され鑑賞の対象となるらしい。運が悪ければ体を分解されておもちゃにされたり女王のパートナーとして使い捨てられたりするらしいぞ」
想像した途端、ぶるりと身震いしてしまった。
「ぼく、大丈夫かな」
「だいじょうぶさ、ここにいる限りはな」
ナナフシは『外の世界』を信じていない。そういった逃げ道を想像することさえ毛嫌いしている傾向がある。
「あのアルバが目覚めたみたいだ。様子を見てきてくれ」
「分かった」
ぼくは二階へと続く梯子に足をかける。十数段の梯子をのぼりきるとぼく用の簡易ベッドがあり、そこでラックがぶんぶんと飛び回っていた。
「このコロニーの奴らはクズばっかりなんだ。町長の顔色を窺って、良いコロニーに行くことしか考えてない。屑石のほうがまだマシだぜ」
「人間のコロニーも大変なのね」
しきりに頷いているのは今朝寝ぼけていた少女だ。
「な、わかるか? この理不尽さ。世知辛さ」
「分かるわ。上のコロニーも権力争いがひどくて……あ、おかえりなさい」
触覚を揺らして少女が微笑む。まっすぐに瞳を向けられると恥ずかしくなってきた。
「8033、あなたを待っていたの」
「あ、ごめん。ぼくのコードは確かに8033だけど、ハチミツって呼ばれているんだ」
「はち、みつ?」
少女は愛らしく首を傾げる。
「そう。コード名じゃ呼びづらいってナナフシと考えて呼び方を考えたんだ」
少女は口をもごもごと動かし触覚をゆらゆらと揺らしていたが、やがてにこりと微笑んだ。
「とっても変な名前ね」
(失礼な……)
そりゃあぼくだって初めて「ハチミツ」って呼ばれたときにはショックを受けたよ。だけどそれ以外に語呂が合わなかったんだから仕方ないだろ。
「とにかくぼくはハチミツって呼んで。きみはなんて呼べばいい?」
少女は再びうつむいた。名前のことになると威勢がなくなる。
「もしも言いたくないって言ったら?」
「勝手に呼ぶよ。どうせハチミツだって通称名なんだし」
「じゃあ、なんて?」
じつはぼくは一目見たときからある名前を考えていた。
「スノウなんてどう? 『外の世界』では寒い季節に雪って呼ばれる真っ白な結晶が降るんだって。そのことをスノウって呼ぶらしい」
「スノウ……すてき」
少女はぱっと目を輝かせた。しかし喜んでいることを気づかれたくないのか唇はかたく引き結んでいる。忙しなく動く触覚を見ていれば一目瞭然だけどね。
「スノウなんて変な名前……だけど、まぁ、勝手に悪くないわね」
素直じゃないなぁ。ぼくやラックとおんなじだ。
「じゃあ勝手に呼ばせてもらうよ。スノウ、きみは何者なの? まさか盗掘者なの?」
「ちがうわ」
「じゃあ女王陛下に仇名す者だっていうのは?」
「それもちがうわ。わたしはただ――」
少女……スノウはむっとしたように頬を膨らませた。
そのとき、階下で声がした。
「廃坑道の件ですか? 残念ですが知りません」
「隠し立てするなら容赦しないですよ」
ナナフシが応対しているのは大勢のアルバを引きつれた町長だ。ぼくはとっさにスノウを守ろうと中腰になった。しかし町長たちは室内を捜索するでもなく去っていく。
あとに残ったのはナナフシのため息。ぼくとスノウは慌てて下に降りた。
「ナナフシ、大丈夫だった?」
「心配するな。アルバは匂いに敏感だ。だから常日頃からあいつらが嫌がる柑橘系の匂いを充満させているんだ。だから町長たちも足早に去って行っただろう。どうやらおまえは器官が未発達なのか嫌がらないけど」
ナナフシはスノウをにらみつける。
「おまえがなんの目的であの坑道にいたのかは知らないし聞くつもりもない。はっきり言うと迷惑なんだよ。状態が安定したならコロニーから出ていってほしい」
ふだんは頼もしいナナフシだけど、アルバのことになると途端に機嫌が悪くなる。まるで人が変わったように態度も口調も厳しくなる。
「いくらなんでもその言い方は」
「いまはいい。でもガーネットや紅蓮隊がしらみつぶしに捜索をはじめたら見つかるのは時間の問題だ。そうなる前にお引き取り願いたい」
かなり手厳しい言葉だ。
スノウは唇を噛んで聞いていたが、決意を固めたように顔を上げた。
「言われなくてもそうするわ。あの人に見つかるわけにはいかない。裏坑道さえ見つかればすぐに失せるわ」
「裏坑道?」
「知らないの? どこのコロニーにも正規の坑道とは違う抜け穴があるのよ」
ぼくの知っている坑道は二種類。コロニー内を行き来する日常坑道とコロニー間を移動するときの特別坑道だ。ぼくも一年前に家族コロニーから少年コロニーに来るとき特別坑道を通ったけど、目隠しをされて運搬用のネズミに乗せられていたので距離も位置関係もまるで分からない。
「ねぇ、裏坑道ってどこにあるの? それがあれば『外の世界』に行けるの?」
ぼくは知らず知らずのうちに前のめりになっていた。
「もういいだろハチミツ」
興奮するぼくの肩を強く引いたのはナナフシだった。哀れむようにぼくを見つめている。
「スノウだっけ、悪いけどすぐにここを出て行ってくれ。これはお願いじゃない。警告だ」
いままで聞いたこともないくらい厳しい声だった。
スノウはびくりと肩を強張らせたあと、気を取り直したように立ち上がる。
「お世話になりました。世話になったわね。さようなら」
そのまま振り返らず室外へと飛び出していく。
「ちょっと待っ……」
追いかけようとするぼくの前にナナフシがまわりこむ。昔から悪いことをしたときは、こうして目を合わせて叱ってくれた。だけどいまはちがう。
「ちょっと呼吸が早くなってる。あの症状が出かかってるな」
「でも」
「いいから。落ち着いて深呼吸しろ」
このコロニーでは十分な空気が確保されているはずだけど、ぼくくらいの年頃はパニックを起こして過呼吸を起こすことがある。そうすると思考がうまく回らなくなるのだ。
目を閉じて静かに息をする。
「教えただろ、まじないを。気がはやっておかしくなりそうなとき、どうしようもなく不安になったとき、未来を考えると怖くなったとき思い出せって」
「うん、覚えているよ――“ぼくは満足している”。なにも怖くない、なにも不安じゃない。欲しいものも大切な人たちも近くにいる。いまこの状況を愛せ。“ぼくは満足している”」
「そうだ。それでいい」
ぽんぽんと軽く頭を撫でてくれる。
一年前。大好きだった家族や故郷から引き離され、毎日のように湿った洞窟内で作業する日々はぼくの精神を削っていった。仕事を休んで部屋で泣いていたときにナナフシがやってきて教えてくれたのがこの呪文だ。
ぼくは満足している。ぼくは満足している。ぼくは満足している。ぼくは。
泣き止んだら蜜玉をひとつ。部屋を出られたらもうひとつ。だれかと話せたらまたひとつ。
そうやって与えられた蜜玉はとても美味しかった。
いまぼくがここでこうして生きていられるのはナナフシと蜜玉のお陰だ。
「ハチミツ。前に言っただろう、あるかどうかも分からない『外の世界』に行くってことは自己満足のために仲間を捨てるってことだ。そのせいでどんな目に遭ったか、忘れたわけじゃないだろう」
五年前にぼくらを捨ててモグラになった父さん。残されたぼくと母さんは後ろ指をさされながら暮らしてきたのだ。それ自体は苦しかったけどナナフシや母さんが支えてくれたし、逆に『外の世界』は父にとってはそうまでして見たい場所なのだと思えてしまった。だって『外の世界』のことを語る父はとても楽しそうで、いまでもぼくの瞼に焼きついている。
「いいか、あのアルバのことは忘れろ。ほら、これ」
目を開けてナナフシから差し出されたのは蜜玉だ。ぼくは首を振る。
「平気だよ。きょうの配給品の蜜玉をとってあるんだ」
「……なんだって」
ナナフシの声が低くなる。
ぼくはポケットをあさってハンカチに包んでいた蜜玉を取り出した。
「あの子、スノウと分けあおうと思っ――」
手の中ではらりと開いたハンカチ。
そこには宝石のような蜜玉なんかなかった。
粘着質の赤黒い液体が染み込んだハンカチの上では一匹の蟻が横たわっていた。爪の先ほどの、とても小さな蟻だ。
「なんだよ……これ」
思わずハンカチを払い落とした。じっとしていた蟻が思い出したように動き出し、床を這ってどこかへ行ってしまう。
ぼくは信じられない思いで残されたハンカチを見つめていた。
「ぼくたちはこんなものを食べ、て」
急に吐き気がしてきた。喉を伝うのは血液じゃない。苦い汁がこみあげてくる。
「ハチミツ、聞いてくれ」
気遣うように手を伸ばしてくるナナフシ。その手から何度蜜玉を受け取ったことだろう。蟻が内包されたものとは知らずに。
「もしかしてナナフシは、知ってたの? 知っていてぼくに」
「ちがう、騙そうとしていたわけじゃない。蜜玉には人間に必要な塩分や鉄分なんかの栄養素が含まれているし、中にいた傀儡蟻は精神を安定させる。どれも必要なものなんだ。それがないと人間は長く健康に生きていくことができないんだよ。だからおれは――」
指先に気配を感じて目を向けると先ほどの小さな蟻が皮膚の上を這いまわっている。
限界だった。
「もういやだッ」
叫びながらナナフシの体を突き飛ばす。薬棚に背中からぶつかって派手な音がした。
「ごめ……」
駆け寄って助け起こしたい衝動をこらえる。視線をそらし、振り返らずに走った。
「――ばかやろう」
遠くからぼくを追いかけるように悲しげな声が聞こえてきた。
※
「おう、ここだハチミツ」
火鉱石の松明を掲げ、耳をすませながら坑道を走っているとラックの灯りが見えた。姿が見えないと思ったら連れて行かれていたらしい。
「スノウ、さっきはごめん」
坑道脇でうずくまっている少女――スノウの横に座る。松明を消すとラックの灯りだけがぼくらをやわらかく包み込んだ。
「謝らないで。悪いのはわたし。ぜんぶ悪いのはわたしなのよ」
「ごめん、ナナフシのことを許してほしい。言い訳するわけじゃないけど、ナナフシは母親をアルバたちに食い殺されていて心底憎んでいるんだ」
アルバは人間を飼育動物としか思っていない。雑食で強靭な顎をもつ彼らは、時として人間にも牙をむく。ナナフシの母はその餌食になった。
「母親――ね」
スノウはゆっくりと視線を上げる。
「わたしね、母に会ったことがないの。それどころか命を狙われている」
「なんで!?」
「分からないの。分からないけれど生まれてからずっと繭の中に閉じ込められていて、少し前ようやく繭から抜け出せたと思ったら今度は命を狙われて。ここにはわたしの居場所はないんだと思ったわ。だから『外の世界』を目指そうと思ったの」
「目指す……って、道順が分かるの?」
「なんとなくの方向だけはね」
触覚を揺らしたスノウは少し誇らしげだった。
「『外の世界』への近道だという裏坑道を探してあちこちのコロニーを旅してきたんだけど、まだ慣れなくてドジを踏んでばかり。今回のカマキリの巣は本当に焦ったわ。だから助けてくれて助かったの。まだお礼も言っていなかったわね、ありがとう」
改めて礼を言われると体が熱くなる。それでなくてもスノウは可愛いのに。
「ぼくも……行きたいんだ、『外の世界』に」
ポケットから取り出した一枚の紙きれを広げて見せる。
「それは?」
「うん。父さんが残していった地図なんだ。代々ご先祖さんが書き継いできたものらしい」
地図に描かれているのは自分が所属したコロニーの周囲数キロの様子と『外の世界』についての伝聞。なので地図というよりは記録に近い。
「結局だれも『外の世界』に到ることはできなかったらしくて、詳細な道筋が描かれているわけじゃないんだよ。それでもぼくぶふっ」
だしぬけに両頬を包まれた。スノウの指先がくいこんでくる。
「行きましょうハチミツ」
「スノウ?」
「一緒に『外の世界』に行きましょう。一人よりも二人、二人よりも三人のほうが楽しいでしょう? だから一緒に行きましょう」
なんだか急にドキドキしてきた。
いままでこんなに好意的に受け止めてもらったことがないからかな。
「で、でも、ぼくなんかでいいの?」
「他の人じゃなくてハチミツがいいの。ハチミツと行きたいの。――だってハチミツは」
「待って」
ぼくはスノウの口を押さえた。スノウはむがむがと口を動かしている。
「静かに。この真上に誰かいる」
この上はスノウと出会った坑道だ。
ぼくはポケットから火鉱石を取り出した。
「小爆弾」
地面に押し当てて小さな穴を空ける。
「坑道が複雑に交錯している廃炭鉱を利用してひとつ下の階から覗き見るとはね。やるなハチミツ。中級採掘師匠どころか上級以上も夢じゃねぇぜ」
「うるさい」
騒がしいラックを片手で握りしめて黙らせ、スノウに向き直る。
「ぼくよりきみの方が目はいいはずだ。これで上の様子がわかると思うんだけど、どうかな」
「見てみる」
父が残した地図をぼくはさらに精密に探索していた。いま穴を空けたのは落盤箇所の斜め下あたりだ。こちらの目の高さに人間の足首が見えるくらいの位置。
じっと覗き込むスノウの横でぼくは耳栓を外す。
ぼくの耳はとても感度が高くて、音量にかかわらず周囲十メートル内のありとあらゆる音を拾ってしまう。向かい合って喋っているナナフシの心音やルナの羽音、地面がきしむ音や水の滴る音。あまりにも膨大な音を聞き取り、しかも取捨選択ができないため日常生活に支障をきたすほどだ。
だからふだんは耳栓をつけて必要最低限の音だけを聞き取るようにしている。
だけどこうやって隠密行動をしているときは重宝する。
「掘り痕が荒い。どうやら人為的に爆破されたようでありますです、ガーネット殿下」
町長の声だ。一緒にいるのはガーネットか。
「爆破した人物の目的はなんだったのかしら。ただの火遊び? この先にある昇降機への通路確保? それともあの子を助けるため?」
「白銀の姫君のことです?」
「あれは野放しにしてはいけないケダモノ。逃げ回っていたところをやっと追いついたのに」
ぼくはちらりと隣を見た。自分のことと分かっているのかどうか、スノウは真剣な眼差しで穴の向こうを見つめている。
「姫と爆破した犯人に接点はないはずです。そもそもこの廃坑道には」
――ズズ。
不気味な音を聞き取ったぼくは思わず立ち上がった。
「おぅどうしたハチミツ?」
ラックが呑気に問いかけてくるが無視し、ぼくは闇に耳をすます。
(そういえばこの坑道は魔法鉱石の枯渇で閉鎖したんじゃなく、『閉鎖せざるをえなかった』って聞いたことがある。コウモリじゃない、奴らの巣になって)
その存在を身近に感じれば感じるほど冷や汗がでてくる。
「ガーネット殿下、どうかされました?」
「ふふ、いいえ大したことじゃないわ。どうやら餌を見つけたみたいね」
地面を引きずるような低い擦過音。もはや疑いようもない。
(一か八か、やるしかない)
ぼくはスノウの腕を引くのと同時に火鉱石を取り出した。
「頭を低くして」
突進してくる塊に向けて火鉱石を放つ。
「爆弾」
どん、と地面が砕ける。降り注ぐ岩石が目くらましになっている間にスノウの腕を引いてひとつ上の坑道……ガーネットたちの前へと躍り出る。
目が合った瞬間ガーネットの口角が不気味に吊り上がった。
「火遊びの犯人はあなただったのね8033。その子を連れてきてくれてありがとう」
灼熱を帯びた右手が伸びてくる。助けようにも間に合わない。
「逃げてスノウッ」
ガッ、と鈍い音が響いた。
「……なんですって」
驚きを隠せなかったのはガーネットだ。それはぼくも同じ。
リーダーの顔を焼いた右手。その手を受け止めたのは少女の真っ白な髪の毛だった。生き物のように揺らめいて熱を奪っていく。
「わたしはもう諦めない。自分の願いは自分で叶える。だからおとなしく捕まるつもりはありません、お姉さま」
聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。
(お姉さま? ガーネットが姉?)
ふわりと舞い上がった髪の毛が光を放つ。
途端にガーネットや町長たちが膝をついた。
「私たちの養分を『吸収』するつもり?」
「わたしの捜索でお疲れでしょう? 少しお休みください」
静かな声で告げる少女スノウとは対照的に、ガーネットは血がにじむほど強く唇を噛みしめている。
「許さない」
肩が震えた。
「許さない……次期女王となる私を這いつくばらせて……こんな仕打ち、断じて許せないわ」
左手の指輪が強く光を増していく。
ズズズズ――……先ほどと同じ、いや比較にならないくらいの音がする。
「ねぇ、『あなたたち』もそう思うでしょう!?」
叫ぶ。
と同時に地面が割れた。現れたのは332――人喰いミミズだ。
「逃げるよスノウッ」
一歩早く動いていたぼくはスノウの腕を引いて走り出した。
コロニーの方向に行くわけにはいかない。少しでも離れて被害を減らさないと。
しかし走り出したところで気づいた。ミミズが這う音はこちらを追いかけてこない。真逆へ向かっている。
「まずい、コロニーのほうに向かってるッ」
あんなものがコロニーを襲ったらと思うだけでゾッとする。
「白銀の姫、いいえ愚かな妹。私の声が聞こえている? 腹が立ったからコロニーを潰すわ。おとなしく捕まれなんて言わない。さっさと死ねばいいのよアハハハ」
ガーネットの目的はもはやスノウではない。鬱憤晴らしへと変わってしまったのだ。
「ラック、先に行って緊急振動でみんなを避難させてくれ。お願いだ」
「わかった、死ぬんじゃねぇぞ相棒」
ラックを見送ってからスノウに向き直る。
「きみはこのまま逃げて。コロニーのことは、きみには関わりない」
「い、や。一緒に『外の世界』へ行く約束でしょう」
たしかにさっきまではそう思っていた。
さっきまでは。
「頼むから行ってくれ。ぼくはもういっぱいいっぱいなんだよ。見て、こんなに手が震えている。怖くて不安で、大声で泣きたいくらいなんだ。ぼくは弱いんだよ。変わり者だってバカにされても言い返せないくらい弱虫なんだ……」
なにを言われても笑っていればいいと思っていた。
言い返して嫌われるのが怖くて。
仲間外れにされるのが怖くて。
ぼくはずっと逃げていた。
「顔を上げて。あなたは弱くない。わたしを助けてくれたんだから」
スノウの手がぼくの手を包む。ガーネットの冷たさとは違う、あたたかな感触だ。
たったそれだけのことで手の震えがおさまった。
呼吸が安定して、冷静になる。
「迷惑かけてごめんなさい。だけど信じて、あなたはとても強い。他のだれでもない、あなた自身が自分を信じてあげて」
ちりちりと胸の奥が熱くなる。頑張りたい気持ちと、頑張らなくてもいいという気持ちがない交ぜになって渦を巻いている。痛みさえ伴って。
「ぼくなんかが、みんなを救えるのかな」
「大丈夫。だってわたしの『初めて』の人なんだから」
「――……初めて?」
一拍置いて問い返す。スノウは満面の笑みを浮かべる。
「そう、わたしの『初めて』をあげた人。忘れちゃったの?」
ひどく悲しそうな顔をされる。
(初めて初めて初めて……え?)
まったく覚えがないぼくはひたすら頭を抱えていた。
「えと、ごめん、ぼくにはそんな記憶が」
「初めて会ったとき気絶したでしょう。そのあとに」
「あぁあのときね……って、納得するわけないだろッ」
ふたたび地鳴りがした。そうだ、こんなこと(大事なことだけど)で時間をとられている暇はないんだ。
「さぁ行きましょう。あなたたちのコロニーへ」
手を取って走り出す。知り合って間もないのに、まるで昔から知っているように馴染んだ感触だった。
「ハチミツ、無事だったんだな」
家具が散乱した医務室の跡地にナナフシが立っていた。
高台にある医務室から眼下の居住区を見下ろしたぼくは息を呑む。パニックになって飛び交う微光虫らの光によってとんでもない地獄があぶりだされていたのだ。
「ひどい……」
数十メートルはあろうかという巨大ミミズが肢体をうねらせて居住区を闊歩している。家々は踏み倒され、なにも残らない。逃げ惑う採掘師たちは食欲旺盛なミミズの口内へと次々と飲み込まれる。食べるのと同じくらいの速度で粘土質のフンが排出され、その重みにつぶされていく人もいる。
「……いやだ」
ぼくは思わず耳をふさいだ。
ミミズの強靭な歯で体をすりつぶされる音や、ぶちゅ、と体がつぶされる音がとてもよく聞こえるのだ。彼らの断末魔とともに。
「ハチミツ、これ使え」
ぼくを見つけて飛んできたラックが耳栓を差し出す。しかし完全に聴覚をふさぐ前に声が聞こえた。
「でも待ってくれ、まだ声が……リーダーの声だ。生きてる」
仲間の採掘師たちを連れて黒壁へと向かっている。岩盤の固いあそこに逃げ込めばミミズは追いつけない。でも、リーダーたちは逃げ場を失うことにもなる。そうなると持久戦だ。
「行かないと」
走り出そうとしたぼくの手をナナフシが掴む。
「どうやって助けつもりだ?」
「方法なんて分からない。でも見捨てられないんだ」
「自分が死ぬかもしれないのに?」
「……」
考えなしは自覚している。
ナナフシはぼくの目をじっと見つめる。
「どうして戻ってきたんだ? おまえは『外の世界』を見たいんだろう。それなら自分が生きることを第一に考えるべきだ。いまなら混乱に乗じて他のコロニーへ逃げることもできる。他人に構う必要はない。そんなものは時間の無駄だ」
ナナフシの言うことはもっともだ。ここでミミズ相手に命を落としたら元も子もない。
「だーから、そいつは底なしのバカなんだって」
ラックが真剣な声で言った。決してバカにするような声ではない。
「そうだよ、ぼくはバカだ。それでも……だれかを見殺しにして、そうまでして『外の世界』を見たいとは思えない。どんなに見たことのない風景が広がっていたとしても、きっとキレイだと思えない。ここでリーダーたちを見殺しにするぼくは、すごく汚い。偽善だと言われるだろうけど、心から美しいと思える世界を見てみたいよ。……だってぼくは、そういう願いが込められた名前を父さんにつけてもらったんだから」
8033ともハチミツともちがう、特別な名前。ぼくはそれを胸に生きてきた。
ナナフシが眩しそうに目を細める。
「――……暁登か」
暁。それは夜明けの意。
登。それは駆け上がる心の意。
夜明けを駆け上がる太陽。そういう名を父からもらった。
「結局は出ていくんだな」
呟いたナナフシは少し悲しそうだ。
「ナナフシはここにいてくれ。かき集めた火鉱石がまだ少し残っている。つなぎあわければ小さなダイナマイトくらいにはなる。それでミミズの注意をそらすんだ」
「……そんなものでどうにかしようとしていたのか」
「悪かったな」
ムッとして言い返すとナナフシがぼくの手に石をひとつ乗せてきた。
「複数の火鉱石を溶かして成分を固めたものだ。おまえが作ったダイナマイトの数百倍の火力がある」
「ダイナマイトのこと知ってたの?」
「二階で精製作業しながら騒いでいるのになんで知らないと思うんだよ」
火溶石は赤黒い鉱石だけど、これは違う。まるで血を固めたように真っ赤だ。S級石。いやSS級といってもおかしくない。
「いつかおまえがおれの説得を押しきって『外の世界』に行こうとすること、分かっていたんだよ。正直もう少し先だと思っていたけど。だからその日のために用意していたんだ」
気恥ずかしそうに目をそらしているナナフシだけど、『外の世界』を目指すことに反対していたのもぼくのことを心配してくれていたからだ。その上で「いつか」のために準備をしてくれていた。それなのにぼくは。
「ナナフシ、ぼくは」
「うるさい、いいから使え。注意をそらすなんてみみっちいこと言わずぶっ倒すんだ。問題は発破のきっかけになる強力な魔力だけど」
純度の高い火鉱石に点火するには相応の魔力が必要だ。
「それなら彼で問題ないわ」
進み出たのはスノウだ。
「だってハチミツにはわたしの『初蜜』をあげたから」
「……へぇ、あんな貴重なもんを」
「命の恩人だもの」
どういう意味か分からないけど二人の間ではすでに諒解があるようだ。
ぼくに向けてナナフシが顎をしゃくった。
「行けよハチミツ。おれはありったけの治癒鉱石を集めて駆けつけるから」
「ありがとうナナフシ。これでお互い無事に生きていたら、一緒に『外の世界』に行こうよ」
「……断る、と言いたいところだけど、考えておく」
「約束だからね」
呆れたようなナナフシに手を振り、階段を駆け下りた。
「おまえならできるよ、暁登」
後ろからナナフシの声が追いかけてきたけど、振り返ってもその姿は見えなかった。
(とは言ったけどさ)
格好よく啖呵を切ったものの、本当は怖くてたまらない。ついてきてくれたならどんなに心強かっただろう。
ミミズの全長は居住区をひとまわりしても収まらないほど長い。窮屈そうにうねる肢体と、なすすべなく潰されていく人々の悲鳴を聞いて平静でいられるはずがないのだ。
最後の一段をおりるというとき、恐怖がピークに達した。
いま引き返したところでナナフシは怒らないだろう。呆れるかもしれないが、そんなことは些細なことだ。リーダーだってどうしようもないことは分かっている。ぼくがなにもせずに静観していたって、きっと許してくれる。
(なんのために危険をおかしてまでミミズに挑む必要がある?)
生きて『外の世界』を見たいのに、どうして真逆のことをしようとしているんだ。
「ハチミツ、無理しなくていいんだぜ」
気遣うようにラックが頭を叩いてくる。
「……分かってる、分かっているんだけど。震えが止まらないんだ」
足がすくんだ。前へ踏み出したらミミズに見つかる。後ろへ下がったらもう二度とリーダーたちの姿を見ることはないだろう。
(ぼくは、弱い)
こらえきれず涙があふれてきた。鼻水もだ。
情けない、格好悪い、臆病者だ。
ぐすぐすと鼻をすすっていると、ぼくの手にそっと触れてくるものがあった。
「消さないで」
スノウだ。銀色の美しい目でぼくを見つめている。
その瞳は非難でも哀れみでもない、ぼくの顔を映す鏡だ。
「心の火を消さないで。強くて熱い気持ちを殺さないで。あなたはもっと強くなれる」
ぼくを奮い立たせようとする気持ちは伝わってくる。
心の火。それが消えたら、もう人間とも採掘師とも呼べない。
「うっ……ぐっ……」
ごしごしと乱暴に目蓋をこする。
「そうだよな、まだなにもしてないもんな。尻尾巻いて逃げるようじゃ格好悪い……よしっ」
ぱし、と自分の頬を叩いた。気合いを入れるためだ。
ぱしぱしぱしぱし、十発くらい叩いてようやく決心が固まった。
「よし、行くぞ」
「えー、本気で行くのかよ」
せっかく決意が固まったのにラックが萎えるようなことをぼやく。
「うるさい、行くったら行くんだ。おまえはナナフシのところに戻ってもいいぞ」
とは言ったものの本当にいなくなったら困る。
「ばーか。オレだってルナちゃんにイイところ見せたいにきまってるだろ、発情期なんだぜ」
減らず口は相変わらずだ。だからこそ安心する。
「スノウはここで見ていてくれ。こんなミミズすぐにやっつけ――」
なんの前触れもなく首に飛びついてきたスノウ。そのまま唇を乗せられて後ろへ倒れこむ。
口の中に広がったのはどろりとした蜜だ。喉を伝って奥へと至る。体の奥が摩擦のように震えだしたかと思うと、たちまち熱くなった。
まるで自分の中に赤々と燃える炉があるようだ。
「あのとき、瀕死の状態だったあなたにわたしは『蜜』を贈ったわ。成長したアルバが初めて供給する蜜は『初蜜』と呼ばれ、身体能力を飛躍的に向上させる。そして強い心との化学反応によって膨大な力を与えるの。これはそれを発生させるための特別な言葉」
唇を離したスノウがぼくの額に指先を乗せる。
「ライト・マイ・ファイアー……心の火を燃やせ」
何故だろう。先ほどの震えが嘘みたいに消え去っている。いまならなんだってできそうだ。
こんなにも体が、心が、熱い。爆発しそうだ。
「うぉりゃあああああーーーーーッッ」
ぼくは叫んだ。それは咆哮だった。地面を蹴ってミミズに立ち向かう。
ぬるりとした胴体を駆け上がり、節を狙って火鉱石を叩きつける。ボンッと大きな破裂音とともに煙が上がり、たまらずミミズがうねってバネのようにぼくの体を跳ね上げた。
天井近くまで飛び上がった体が重力に従って落ちていく。その下で待ち受けるミミズ。暗くて口がよく見えない。ぼくは髪の毛にしがみついているラックに向けて叫んだ。
「ラック、最大出力で照らし出せ。とちったらぼくたちまとめてミミズの腹の中だ」
「ちくしょー、食うのは好きだが食われるのだけは勘弁だッ」
「いけ、最大照射(十万ルクス)」
カッと眩いまでの光が周囲を照らし出した。
ラックは常日頃半分の光しか灯せないかわりに光力を温存していて、ここぞというときにとんでもない光を放つことができるのだ。
「見えた」
大きく口を開いてぼくたちを丸呑みにしようと待ち構えているミミズ。残念だけど美味しくないぞ。
ぼくはナナフシから譲られた火鉱石に力を込めた。
「こいつを好きなだけ食ってろ」
火花が走り、たちまち燃え盛る火鉱石。
「――燃えろッ」
腕を振りかぶって一直線に叩きつける。火柱が空気を燃やして軌道を描く。
ミミズの口内に投下した次の瞬間、轟音を立てて爆発した。続けざまに落下しようとしていたぼくたちは衝撃波で吹っ飛ばされる。そのまま壁面に激突しそうになった。
そのとき。
「風よ包め」
スノウの言葉が聞こえたと思ったら、壁にぶつかる直前やわらかいものに受け止められた。糸のようにきらきらしたものがぼくとラックを包み込む。落ち着いたところでゆっくりと地面におろされた。
「ラック、生きてるか?」
背中のあたりにある違和感に向かって声をかける。
「おーよ。裏返しだけどな」
「減らず口きけるならなによりだ」
背中のあたりからラックを取り出してやった。ただの虫の息だ。
「ミミズは?」
顔を上げるのと丸焦げの巨体が倒れるのとはほぼ同時だった。内側から爆発させられた衝撃か、あちらこちらの皮膚が裂けてバラバラになっている。
「リーダーたちは?」
ハッとして辺りを見回す。巨体の向こう、採掘場から出てくる人影が見えた。
動かなくなったミミズとぼくの姿を交互に見て、リーダーが親指を立てる。
(良かった、無事だ)
自分の内側からふつふつとこみあげてくる感情がある。
あまりにも一瞬すぎて実感が湧かなかったけれど。
「……やった」
ぼくたちは勝ったのだ。
生き延びた。こんな巨大なミミズを倒して。
「やった……ッ、やったぞッ、勝ったんだッッ」
たまらなく嬉しくて、誇らしくて、大声で笑ってしまった。
しかしそのまま後ろ向きに倒れる。
「あれ……あ、どうしたんだろう。体は動かないのに、心臓が燃えているみたいだ」
体中の筋肉が悲鳴を上げている。それなのに火照りがおさまらない。
(もっと――もっともっともっともっと)
(コロシタイ)
「ハチミツ、落ち着いて」
額にそっと手が置かれた。スノウだ。
「スノウ、ぼく、ぼく、もっとアバレタクテ、シカタナいよ、ぼく」
「初めてでスパークが強すぎたみたいね。落ち着いて」
ぼくに覆いかぶさってきて唇を吸われる。
奮い立っていた気持ちがやわらいで、力が抜けていくような感覚に包まれた。
「ん……っぷはっ、息苦しいよ」
スノウの体を押しのけたときには、先ほどまでの猛々しさはすっかり消えうせていた。
「良かった、鎮静化したみたいね」
唇を拭いながらスノウが笑う。
不思議だ。さっきまではなんでもできる気がした。どんな敵にでも勝てる気がしたし、早く倒したいと思っていた。できるだけ早く、たくさん、残酷に。
だけどいまは
(なんてバカバカしいことを考えていたんだろう)
と冷静になっている。
ぼくは一体どうしたんだろう。
「スノウ、ぼくは生きているよね?」
「なにをいまさら」
スノウは肩をすくめた。
「あなたはとっくに死んでいるわ」
「そっか良かった――って死んでるー!?」
思わず跳ね起きた。ものすごい爆弾発言ですけど。
スノウはきちんと膝を追って座り、子どもを諭す母のようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「さっきも言ったけれどあなたは瀕死の状態だったの。あのままだったら死んでいたと思う。わたしの食糧にしても良かったんだけど恩もあったから初蜜を与えて体を作り替えたのよ」
「え、え、え」
「つまりあなたは人間の肉体を素材にわたしの蜜で強化した化合物なの。さっきの言葉で化学反応を起こして身体能力が飛躍的に向上し、ミミズを倒したのよ」
「……ラック、意味わかる?」
「わかんね」
ミミズを倒したのがぼくたちだけの力でないってことはなんとなく分かったけど。
「とにかくハチミツは強いの。強くなりたいと思えば思うほど強くなれる」
スノウがぼくに抱きついてくる。状況が呑み込めないままだけど、喜んでいいのだろう。
ぎこちなくスノウを抱き返そうとしてやめた。ラックが沈黙しているのはニヤニヤしているからに違いないのだ。
「――そうだ、戻ってナナフシに教えてやらないと。きっと驚くぞ」
勇んで立ち上がろうとした瞬間、
「その必要はないわ、8033」
後ろから頬を撫でられた。
焦ってももう遅い。
「ガーネット殿下」
「あたり。でも呼び捨てでいいわよ。あなたとは仲良くしたいから」
背中からぎゅっと抱きすくめられる。やわらかいものが背中に当たってくる。
「ルチルクォーツ、私の可愛い妹。あまり手間をかけさせないで。あなたが逃げ出したせいでミミズちゃんが大暴れしちゃったのよ?」
「どういう意味でしょうか、お姉さま」
ガーネットの視線の先にいるスノウはきわめて冷静だ。
「ミミズたちは可愛いペットなのよ。私の命令があればどこでも、なんでも壊してくれる」
硬い表情で首をするスノウを目にしたガーネットは高らかに笑った。
「坊やからもなにか言ってあげて。じゃないとお友だちが気の毒よ?」
ぼくの目の前に差し出されたのは蜜色の鉱石。ガーネットの手のひらにも収まりきらない大粒のもので、これほどのものを採掘したのなら数ヶ月間は配給の心配がない。
けれど、石の中から声が聞こえた。
『ナナフシが、ナナフシが……』
その声を聞いた瞬間、ぞっと全身が粟立った。
「ル、ナ」
目を凝らすと石の中心には光を灯したまま身動きがとれないルナの姿があった。
どんな方法を用いたのか知らないけど、ルナを鉱石の中に閉じ込めたのだ。
ということはナナフシも。
「いい顔ね。『嗜虐のガーネット』と呼ばれる私はそういう顔が大好きよ」
また首筋を舐められる。
恐怖を感じるどころか、ふつふつと怒りが湧いてきた。
「なんでだよ。リーダーの火傷といい、どうしてそんな残酷なことができるんだよ」
「坊や、これは罰なのよ。人間という名のキリギリスどもに対するアリの復讐なの」
湿り気を帯びたガーネットの声が響いてくる。
「アリとキリギリスの童話を知っているかしら? 夏に歌ってばかりだったキリギリスは、冬になって散々笑いものにしていたアリに餌をねだるの。だから優しいアリはこう言ったわ。あなたがたが自らの愚かさを悔い改めて我々に奉仕するのなら寛大な心で許し、食糧を与えましょうと。これは私たちを虐げた報いなのよ」
「一体なんのこ――」
言い終える前にふたたび地震が起きる。しかしミミズではない。
「漏水だ。全員退避」
リーダーが叫んだ。天井の割れ目から大量の水が落ちてくるのだ。
「あらあら。これでこのコロニーもおしまいね」
天井を見上げたガーネットが一瞬無防備になる。ぼくはその隙をついて一気にルナを奪い取ろうとした。しかし寸でのところで別の手に奪われる。
「させないです」
町長だ。
「逃がさないわ8033」
我に返ったガーネットが続いてぼくを捕まえようとする。
(ダメだ、逃げられない)
観念したとき、頭上から声が聞こえた。
「ひめさまーっっっ」
上空の岩肌からまっしぐらに落ちてくる人影。まっさきに反応したスノウの顔が嬉しそうに輝く。
「レピア、生きていたのね」
「いえす。このレピア、姫様を売り飛ばすまでは死にません。くらえ、秘儀、濁流ー」
穏やかでない発言とともに、秘儀という名の鉄砲水を背にピンク髪の女性が落ちてくる。
「ハチミツわたしに掴まって、ラックも」
スノウがぼくを抱きすくめる。と同時に髪の毛が逆立ち繭を形成するのが分かった。
次の瞬間、すさまじい衝撃がぼくたちを呑みこんだ。あちこちで悲鳴があがる。
最初の衝撃にしばらく耐えていると次第に圧が弱まっていた。
「もう平気よ」
スノウに促されて目を開けると繭がほどけていくのが見えた。
ぼくたちを取り囲んでいたガーネットや町長たちは跡形もなく消えている。残っていた水の流れを目で追うとミミズが空けた隙間へと押し流されていったようだ。
(良かった)
緊張感から解放されて一息をつく。
「――ッ、ナナフシは」
スノウから離れて高台へと向かう。百段にのぼる階段を駆け上がりながら叫んだ。
「ナナフシ。ナナフシ、どこだーッ?」
声は風に流れていく。まっぷたつになったベッド、焼け焦げた家具、切り裂かれた布。
「どこにいるんだよ……?」
耳をすます。この近くにいるのなら呼吸の有無くらい簡単に聞き取れる。
けれどなにも聞こえない。
「ハチミツ」
背後からの声に振り返る。ルナが閉じ込められた鉱石をスノウが持ってきていた。
「いまからこの子を解放するわ。――まがいものの石よ、溶けろ」
白い光が宿ったかと思うと、鉱石がどろりと溶けた。中にいたルナが飛び出してくる。
「う、うーん……あ、大変なのよ大変なのよ、ナナフシがナナフシがッ」
パニックになって騒ぎ立てるルナにラックが寄り添う。
「落ち着け。ちゃんと説明してくれねぇと分からねぇ。ほれ、右を灯してみろ。よしいいぞ、次は左だ。うん、次は両方一緒に点滅させてみろ。よーし、落ち着いたみてぇだな」
微光虫なりの深呼吸をさせたあと、ラックが説明を促す。
「あんたたちが立ち去ったあと、ナナフシはありったけの治癒鉱石を探していた。そこに女のアルバが来たのよ」
「両手に指輪をつけた金髪の女性アルバだよね?」
「違うわ。とても肌が白くて、金鉱石のような髪に、地底湖のような蒼い瞳。アタシたち微光虫の光が霞んでしまうような、それはもう綺麗なアルバだったわ。あのナナフシさえも息を呑んだくらい」
つまりガーネットではない別のアルバということだ。
「姫の匂いがする、姫はどこだと問われたナナフシは首を振ったわ。いまはそれどころじゃないからあとにしてくれ、と。あの女は穏やかに笑っていたわ。アタシはナナフシの肩に乗っていたはずなのにいつの間にか転げ落ちてしまってね、起き上がろうにも体が重たくて、自分の周りが透明な膜に包まれていくのが分ったわ。意識が薄れていく中、あの女がナナフシの首を軽くしめながら何事か話していたの。アタシが意識を失う直前こう言っていたわ。『女王の間に連れて行ってあげる』って」
「……そん、な」
ふ、と意識が遠くなるのがわかった。目の前が暗くなっていく。
なんでナナフシが連れていかれなくちゃいけないんだ。どうして。
「ぼくたちに接触する前に連れ去られていた、ってことか? しかも相手は」
「女王ダイヤモンド。お母さまが来たのね」
強い声で告げたのはスノウだ。ぼくは鼻をすすりながらその横顔を見つめる。
「スノウ、きみはまさか」
「わたしの本当の名前はジゼル・ルチルクォーツ。そしてわたしの母の名はマリーアンナ・ダイヤモンド。この世界の女王よ」
女王の娘。つまり王女。
なんてことだ。ぼくはとてつもない騒動に巻き込まれていたのだ。
「わたしが追いかけるわ、いまならまだ匂いが残っている。ハチミツあなたはここに残って」
「そんなわけにいかないよ。ぼくだってナナフシを助けたい」
「でもあなたがモグラになるわけには――」
「8033」
コードを呼ばれて振り返った先にはリーダーをはじめとした採掘師の仲間たちがいた。みな険しい表情でぼくたちをにらんでいる。
「ガーネット殿下が捜していたのはそいつのことか」
視線の先にはスノウがいる。リーダーは仲間の無念を思って唇を噛んだ。
「おまえのせいで……」
言い訳も弁解もせず、怒りと憎しみに満ちた眼差しをスノウはまっすぐ受け止めている。それがせめてもの誠意だと思っているのだろう。
片やぼくは、気まずさからリーダーの目を見ることすらできない。
「8033、これはこのコロニー全員の総意だと思ってくれ」
怒鳴りたい感情を苦心して抑えつけているのか、リーダーの声は静かだった。
「コロニーを代表して宣告する。我々はコード8033をコロニー『ゐ―03』および関係する坑内より追放する。女王陛下の許しを得ない限り二度とこの地を踏むことは許さない。明日の正午をもって立ち退かない場合はコロニーを管理するアルバに引き渡す。以上だ」
※ ※ ※
「ふふふーん」
白いタイルを組み合わせた石室には軽やかな歌声が響いていた。
「女王陛下、ご入浴中失礼いたします」
白いカーテンの向こうから凛とした声が響く。つづけてカーテンが開き、裸にごくごく薄い布を巻いただけのガーネットが姿を見せた。
「あらガーネット。水浴びはもういいの?」
深紅の液体を満たしたバスタブに浸かっていた女王は、白く滑らかな自らの肌を撫でた。
「体が冷えました。ご一緒させてください」
「どうぞ、お入りなさい」
空いた隙間にガーネットは慎重に足を踏み入れた。
「先刻はとんだ醜態をお見せしました。本当でしたらもっと……」
「いいのよ、貴女が負ける面白い場面を観賞させてもらったわ」
「おっしゃらないでください」
拗ねたように体を沈めて湯の中で泡を吐き出す。
「そんなに気を落とさないで。次があるわ。次こそ殺してしまえばいいのよ」
娘の折れ曲がった触覚を撫でる女王は笑顔だった。
「失礼ながらどうして陛下は急にあのコロニーに?」
「白銀の姫の姿を見ておきたかったのよ。遠目だけれどよく見えたわ。そして確信した。あの子はわたくしの幼いころにそっくり。だからこそ」
ガーネットは心得たように瞳を光らせた。
「殺さなくてはいけない。そうですね?」
「そうよ、いい子ね」
おおきく頷いて見せる自分の娘の触覚を愛でつつ、女王は今回の小旅行を思い返す。
「久しぶりに出掛けたかいがあったわ。とても良いものも手に入ったの」
女王の視線の先には布をかけられた巨大な結晶体が置かれている。糖蜜色に輝くこの結晶体は女王だけが持つ特別な蜜で固められたもので、外界のいかなる影響も受けず中身を「保存」することができる。天窓から差し込む光が結晶体を照らし、人影を映し出した。布の隙間から覗く指先がぴくりと動く。
「小旅行のお土産にしては大きいと思いましたが、まさか人間ですか?」
「匂いがとても好みだったのよ。一度人間を飼ってみたいと思っていたし、きっとわたくしを楽しませてくれるでしょう」
水音をさせずに湯舟から立ち上がった女王は控えていた侍女が用意したガウンを羽織った。大きすぎる胸元と真珠のような肌は隠しようがない。
髪から滴った水滴が腕を伝っていく。女王はその手を傍らの侍女に差し向けた。
「舐めなさい」
「あ……はい、陛下の仰せのままに」
うら若い人間の侍女は、戸惑いつつも舌を出して舐めはじめる。
「ガーネット、あなたは引き続き白銀の姫を追尾しなさい。あの子の死骸を手に入れるまで戻らなくていいわ。――他にも目的があるのでしょう?」
「ええ。とても気になる人間の子どもがいます」
「存分に恋をしなさいな。けれど仕事を忘れてはだめよ。もし忘れたら」
女王の腕が宙を切った。
ぼちゃん、と音を立ててバスタブに波紋が広がる。しばらくして浮かび上がったのは女王の腕を舌先で舐めとっていた侍女の生首であった。首を失った胴体から噴き出した血液が女王の肌をしっとりと濡らす。
「困ったわ、湯上がりのシャワーにしようと思ったのに水圧が弱いじゃない。またお風呂に入らないといけないわね。血を追加しないと」
恐怖におののく侍女たちを振り返り、女王はおどけたように笑った。
「だってそうでしょう? この世界はわたくしのもの。次の女王なんていらないのよ」