第5'章 turning point④
神崎が倒れてから、どんなふうに時間が流れていったのか、記憶はとても曖昧だった。
救急車を呼んで、意識のない神崎とともに病院に行って結果を待ち続けて。神崎のいる病室に案内されたのはすっかり夜になってからだった。
病室に入ると、神崎は苦しそうにしながらも体を起こして俺を迎えてくれる。
「神崎、大丈夫なのか……?」
神崎は困ったように笑うだけで肯定も否定もしなかった。それが何を示しているのか、倒れた瞬間の神崎の様子で察しがついてしまっていた。
「宮入君とね、お話したかったから」
神崎の手が俺を手招きする。ベッドの横のスツールに座ってみる神崎の姿は、昼に見ていたものよりずっと細くて弱々しく見えた。神崎が健気に笑えば笑うほど、胸にぽっかりと穴が開いたみたいに寂しくて、ぎゅっと苦しくなる。
「原因、わからないんだって。今は症状が落ち着いてるけど、次いつ意識を失うかわからない。そして、次意識を失ったら、多分私は目覚めない」
「神崎、お前……」
「マスクで防げると思ってたんだけどなあ。甘かったみたい」
神崎は目を細めて天井を見上げ、ゆっくりと息を吐き出す。
神崎の症状は知っていた。まだ幼い頃に二人、そしてこの前、同じような症状で倒れた人を知っている。
「だから、私に意識があるうちに全部お話しするね」
決意を固めた神崎の顔に、現実を受け入れられないまま頷くしかなかった。
「私が少しだけ違う世界の未来から来た、っていうのは夕方に話したと思うけど」
神崎の言葉に再び頷く。どうやったらそんなことできるのかもわからないけど、それはもう信じるって決めた。
「気づいているかもしれないけど、発端は深安山の“呪い”なの。私のいた世界ではね、宮入君が社に調査へ行っているときに強い雨が降ってきて、助けに来た時乃ちゃんと二人で“呪い”にかかってしまった」
「そもそも“呪い”の正体って何なんだ?」
「……呪いの正体は、風土病」
「風土病?」
聞き慣れない言葉だった。今度は神崎の方がこくりと頷く。
「特定の地域の気候とか、土壌の生物とかが原因で起こる病気のことを風土病っていうんだけどね。深安山の呪いの正体は、あの山頂付近にだけ生息している菌類が原因でおこる病気だったの」
「菌、類……?」
すぐに思い浮かんだのはキノコみたいなもので、それが呪いの正体だと言われてもピンと来なかった。それに山頂付近には何度も行っているけどそれらしきものを見たこともない。
「普段は土の中にいて。強い雨が降って土壌の湿潤環境が飽和状態になったときにだけ繁殖の為に胞子を出すっていう菌類でね。だから、誰も全然気づかなかった」
神崎は少し苦しそうに胸元を抑えて何度か深呼吸する。背中をさすろうと伸ばした手はやんわりと制された。
「そして、その胞子が呼吸によって生物の肺に入ると発熱や呼吸障害を生じさせながら繁殖し、そこで一定の胞子数が集まると今度は脳まで達する。そこまで行くと毒性はかなり強くてよくて後遺症、高頻度で昏睡状態か死にまで達する。私の場合はマスクで防ぎきれなかった微量の胞子が入ってきてて、限界まで増えちゃったんだと思う」
淡々と告げる神崎の言葉に震えが走る。他人事のように話しているけど、まさに今、神崎はそれそのものに蝕まれているはずだ。
「その菌類が生息できる環境は極めて限られていて、深安山の山頂にしか生息できないし、繁殖力は低いから永尾町にだけ伝わってきた。だから、それは“呪い”として永尾町に言い伝えられて、深く調べることすらも忌み嫌われたから、長い間治療法はもちろん原因すらわからないままだった」
神崎の顔に小さく笑みが浮かぶ。その瞳には憧れのような色がかすかに見えた。
「それを解き明かしたのが宮入博士。貴方なの」
神崎が伸ばした手が俺の服の裾を掴む。その力は弱々しい。
「風土病に蝕まれた宮入君と時乃ちゃんは幸い命は助かった。だけど、時乃ちゃんはそのまま昏睡状態になって、宮入君も後遺症を引きずることになったの」
「時乃が……」
「時乃ちゃんを治すために宮入君は研究を重ねて……ありとあらゆる分野の調査をして、原因を突き止めた。強い雨が降った時に広がる白い靄。あれが菌類の胞子で、永尾町の伝承では水から出てきた鬼と湯気の描写で伝わっていた、鬼の吐き出す湯気が呪いの元凶だと」
でもね、と神崎の顔に陰が落ちる。
「治療法は見つからなかった。正確には、胞子が脳に達するまでであれば治す薬は作れたの。だけど、それだと時乃ちゃんは治せない。それで宮入博士が次に研究を始めたのが……」
「……タイムトラベル」
「そう。宮入博士は全部やりなおそうとした。二人が呪われた日に戻って選択をやりなおす。あの日、深安山に行かなければ自分も時乃ちゃんも呪われることはなかったって」
人は今も昔も時間を行き来することに憧れを抱いている。それは、どうしてもやり直したい選択があるから。
「宮入博士は後遺症を引きずった体で研究を進め、人間の情報を波動記録として書き出して別の世界に飛ばすことで疑似的に時間をさかのぼる手法に至った。その世界は元の世界をAとしたら、A´(ダッシュ)みたいに少しだけ違う世界だから、タイムパラドックスの問題も起きない」
オーパーツ研究会に初めて訪れたときに筑後から聞いた説を思い出す。並行世界を行き来することによる乙型のタイムトラベル。それは考え方という部分では間違いなかったらしい。
「でも、疑似的に時間をさかのぼるってことは。A´の世界で何をしてもAの世界はそのままなんじゃないか?」
どれだけA´の世界で未来を変えたとしても、Aの世界にいる時乃は眠ったままなんじゃないだろうか。それは――本当に時乃を救ったことになるのだろうか。
俺の問いかけに神崎は力なく笑う。
「さすがだね、宮入君。その通り、元の世界は何も変わらない。だけど、A´の世界には自分が体験してきたものとかつて自分が失ってしまった人がいて、その世界では大切な人を救えるかもしれない。宮入博士はせめてその可能性に託すことにした」
理解しようとはするけど、想像の遥か上を行く世界の話だった。この世界の時乃を救えないから、せめて近しいけれど別の世界の時乃を救う。それは根本的な解決になっていないはずだけど、あと残されているのがその手段だけだとしたら。
俺はどこかの世界の時乃を救うというその可能性に全てを託すかもしれない。
「私は宮入博士の研究に近しい分野が専門でね。雑誌での対談がきっかけで宮入博士の下で研究をするようになって。遂に宮入博士が提案した手法を試すところまできたの。だけど、次の問題が起きた」
神崎の声が暗く落ちる。その視線の先には神崎にとっては過去であり未来の出来事が見えているのかもしれない。
「宮入博士の脳は胞子によってダメージを受けた状態だった。そのダメージのせいで、宮入博士の情報を波動記録として書き出すことはできなかったの」
息が苦しくなる。どれだけ手を伸ばしても、阻まれ続ける。最後につかみかけた希望さえも踏みにじられる。原因が分かった今もそれはまごうことなき“呪い”だった。憑りついた相手を死ぬまで蝕み続ける最悪の呪い。
「それでも、宮入博士は救いたかった。別の世界で同じように苦しむことになる時乃ちゃんを。例えその場にいられないとしても、時乃ちゃんを救うことが宮入博士の救いでもあった」
だからね、と神崎が笑う。
「私が来たの。どこかの世界の宮入君と時乃ちゃんを救うために宮入博士の代わりにね」
俺の服の裾を握る神崎の力が強くなる。神崎の笑顔に吸い込まれる。
どうしてこんな状態で、神崎はそんなに眩しく笑えるんだろう。
自分の選択を一切後悔していないような、強気の笑みを浮かべられるんだろう。
「なんで、神崎は未来の俺にそこまでしてくれたんだ。未来の俺と知り合うまで、時乃とは関係なかったんだろ」
「えへへ。全部話すって言ったけど、それだけは秘密」
神崎は小さくはにかむと、一度俺から視線を外して窓の外の方を向いた。俺の服を握るのと反対側の手で目元を擦る。
「そうやってこの世界にやってきた私は、二つのことに取り組んだ。一つ目は宮入君と時乃ちゃんの二人と知り合いとなって、呪いにかかることを防ぐこと。二つ目は、もし間に合わなかったときの為に治療薬を作ること」
こちらを向き直った神崎に浮かんでいるのは少し自嘲的な笑み。
「当然、一つ目が第一目的だったんだけどね。二人と知り合いになるまでは上手くいったけど、そこから先は全然思い通りにならなくて。私という異物が入ったから当然なんだけど、宮入博士から聞いていた出来事が時系列なんて無視しててんでばらばらに起きていくの」
神崎のため息はずっしりと重かった。
「本当はね、宮入君と時乃ちゃんが呪いにかかるのも8月の終わりの出来事だった。だから、時乃ちゃんが試料を取りに行くことを止めなかったんだけど、油断だったなあ。それに、特効薬もまだ試作段階で、作れていたのは二人分だけ」
俺の服を握っていた手が今度は俺の手を掴む。震える手にぎゅっと力がこめられる。
「でも、ギリギリ間に合ったよ。二つ目に取り組んでて本当によかった。一度胞子が入ってきた身体には免疫ができるらしいから、これでもう宮入君も時乃ちゃんも呪いなんて気にせずに生きていける……」
間に合ってない。全然間に合ってないだろ。神崎の言葉には大事なことが抜けている。
神崎の手を必死で握り返す。こちら側に引き留めたくて、ただ必死に。
「俺と時乃だけじゃない。神崎も一緒だ。なあ、まだ神崎にだって治療薬は効果あるんだろ? 作り方を教えてくれれば俺が作るから。だからっ!」
神崎はゆっくりと首を横に振る。
「宮入君らしくないなあ。四月に試料を集めて、やっと六月にできたんだよ? 今からじゃもう間に合わない」
「諦めるなよ! だって、それならなんで……なんで、雨が止む前に助けに来てくれたんだよ。雨が止んでからでも間に合うはずだったんだろ? それなのに、何で。自分の分の薬もないのに、雨の中助けに来てくれたんだよ……!」
さっき神崎が自分の目元を拭っていた手が、今度は俺の目元に当てられる。指先の雫を神崎は愛おしそうに眺めた。
「雨が降ろうとする中、時乃ちゃんを助けに行く宮入君を見て、やっぱりかなわないなあって。それに、私に想いを託してくれた宮入博士のためにも絶対に失敗するわけにはいかなかったから。もし、雨が止むのを待って“何か”があったら私は自分で自分を許せなくなる。だからね、絶対に二人のことを助けたいって思ったら、体が先に動いちゃった」
小さく舌を出してから、神崎が俺の手を自分の頭の上に導く。
「でもね。私頑張ったよ。だから、褒めてくれたら嬉しいな?」
神崎の声は霞んでいた。俺の手を握る手が震えている。
ちょっとおどけた口調で首をかしげる神崎の顔は、視界が滲んでよく見えなかった。
「ああ、頑張ったよ」
俺の声まで震えない様に力を込めたけど、ダメだった。
「お前のおかげで俺も時乃も生きてる……全部神崎のおかげだよ。本当に、ありがとう」
ゆっくりと神崎の頭をなでる。神崎は少しくすぐったそうにしながらも目を閉じてその感触を刻み込んでいるように見えた。
「なあ、神崎。あとは俺に何ができる? 何でも……何でもするから」
「じゃあ、朝が来るまでここで一緒にいてくれたら嬉しいな。最後に、今夜くらいは宮入君のこと独り占めしたい」
「最後なんて、言うなよ……」
ぎゅっと神崎の体を抱き寄せる。この細い身体で人知れずどれだけ頑張ってきてくれたのだろう。もう少し早く神崎のことに気づくことはできなかったのだろうか。もっと俺の方から寄り添うことだってできたんじゃないだろうか。
ぽんぽんと神崎の手が優しく俺の頭をたたく。
「大丈夫だよ。この二か月間、私はとってもワクワクできて、幸せで。この世界にとって私はちょっとした記号みたいな異物のはずなのに、毎日こんなに楽しくていいのかなって思ってた」
幸せだって言いながら、神崎の声は震えていた。
ただ神崎の震えを止めたくて、腕にそっと力をこめる。
「こうして宮入君が傍にいてくれる。だから、心配しないで。これは決して、バッドエンドなんかじゃないよ」
神崎の手が俺の背中に回される。震える腕に精一杯の力が籠められる。
「ああ、でも。本当はもう少しだけ、宮入君たちと今の続きで青春したかったなあ。校庭の秘密の場所で一緒にお昼食べたり、そんな何気ない毎日がとってもとっても幸せだった……」
神崎の細やかで切実な願いの言葉は、夜の闇の中に溶けていった。
「……神崎?」
ずっと起きているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまっていた。
起きたときには病室に光が差し込んでいて、早朝の淡い陽光が優しく神崎の顔を照らしている。
「神崎、おはよう。朝だぞ……」
返事は、ない。
神崎の体は温かいし、息をしていて、その胸は生きていることを示すように緩やかに上下している。
だけど、わかってしまった。神崎が決して目を覚ますことがないと。
「嘘つきだ」
神崎の手を握りしめる。その手は柔らくて温かいのに、ピクリとも動かなかった。
「神崎、お前全然満足してなかったじゃねえか。まだ、青春したいとかいってさ……」
――どこだ。
――どこでやり直せばいい。
――どこからやり直せば、神崎を救うことが出来る。
「バッドエンドじゃないなんて勝手なこと言いやがって」
お前は自分一人で俺と時乃の二人を救ったつもりかもしれないけど。
これが正しい終わりだったなんて、俺は絶対に認めない。
神崎を犠牲にして拓かれた未来なんて。何度繰り返すことになったって、こんな結末は受け入れない。
どこか別の次元の俺は大事な人を救うために世界の理を越えた。なら、俺にだってできるはずだ。
神崎の手をもう一度ギュッと握りしめる。その温かな手が俺の手を握り返してはくれることはない。
「こんな結末の世界、俺が絶対に越えてやる」




