第4'章 選択の刻⑤
放課後、珍しく石川先生に呼びつけられて職員室に行っていたせいで部室に顔を出すのが遅くなった。石川先生の用事自体は大したことなくて、筑後に返し忘れていたとかいう小物を預かっただけだけど、気になるのは部室の様子だ。一応神崎には時乃との1件を話しておいたけど、ごたついたりしていないだろうか。
恐る恐る部室のドアを開けると、神崎が一人でフラスコを揺らしているいつもの光景だった。
「あれ、筑後は?」
「何か風邪気味なんだって。嘘から出たまこと、みたいな感じかな?」
それ、嘘つかせたのは神崎ではなかっただろうか。と、そうじゃなくて。
「時乃は?」
「ん、さっき来たよ。試料採取用のキットと使い方教えたら、すぐに山の方に向かったみたいだけど」
神崎は俺に背中を向けたまま淡々と答える。窓から差し込む光にフラスコを掲げてじっと中を見据えているようだ。怒ってる様子はないけど、何も触れないのも落ちつかない。
「ごめん。来週の約束、いきなりすっぽかすみたいになって」
神崎がフラスコを置いてくるりと振り返った。その顔はどこか困ったように笑っている。
「別にいいよ。試料が早くほしかったのは本当だし」
「そうかもしれないけど、来週の約束はお礼だったわけだし……」
時乃が無事に試料を持って帰って来れば、来週の土曜日の神崎との約束は反故にすることになる。だけど、神崎は苦笑を浮かべたまま首を横に振った。
「大丈夫。私たちにはまだいっぱい時間があるわけだし、ね?」
それで話は終わりとばかりに、神崎は長テーブルに腰を掛けてタブレットを眺め始めた。神崎がそれを受け入れてくれたのならありがたいのだけど、それはそれで釈然としない思いを抱きながら俺も神崎の向かいに座り、読みかけの本を取りだす。
筑後がいない日は部室に来てもあまりやることがない。神崎も集中すると口数が少なくなるし、静かで穏やかな時間が流れていく。
神崎は気にしないと言ってくれたけど、その分の埋め合わせは何か考えた方がいいよな。でも。神崎の趣味って何だろう。
よく考えれば俺は神崎のこと、全然知らない。
ゆっくりとタブレットをスライドさせる神崎の様子をそっとうかがう。神崎のことも知らないし、昨日観てしまったタブレットの中身についてもずっと気になっている。思い返せば、神崎は出会ったその日に俺の名前を呼んだ。なんだかんだバタバタとやってきたけど、そもそも神崎香子とは一体何者なのだろう。
「ん、あれ……?」
いつの間にか窓の向こう側の景色が薄暗くなっていた。さっきまで青空が広がっていたのに今は一面雲が広がっている。今日の天気予報じゃ雨は降らないって言ってたはずなのに、梅雨ってこんなに天気が変わりやすかっただろうか。
いや、待て。
窓際に駆け寄り、空を見上げる。雲は分厚く重く辺り一帯に居座っていて、今にも溜め込んだ雨を存分に吐き出そうとしているように見えた。
――強い雨が降った日にその祠に近づくと鬼に呪われる。
時乃は今、深安山の祠に向かっている。体の奥の方からぞわりと寒気が駆け抜けていく。
呪いなんてもの信じてはいないけど、祖父も父さんもあの場所が原因で亡くなった。そんな場所にいま時乃がいて、雨が降り出そうとしている。
行かなきゃ。
だけど、走り出すより前に俺の腕を神崎がパシリと掴む。
「神崎……?」
「ダメだよ、宮入君。今行っちゃダメ」
神崎には俺が今何を考えているかお見通しのようだった。鬼気迫る、とでも言えばいいのか強張った眼差しが真っすぐ俺を見据えている。
「でも、時乃のことほっとけない」
「それはわかるけど、行くなら雨が止んでからにしないと」
「いつ雨が止むかなんてわからねえだろ。待ってる間に時乃に何かあったら」
その可能性を口にするだけで焦りが募ってくるのに、神崎は俺の腕を離してくれない。
「出会った日にさ、呪いなんて怖くないって神崎、言ってただろ。それなら、俺が行くのも止めないでくれよ」
神崎は目を閉じて静かに首を横に振った。
「違うよ。私は自分が呪いにかかるのは怖くないけど、宮入君がそうなるのは耐えられない」
「じゃあ、俺だってそうだ。呪いなんて信じてないけど、時乃に何かあったら……俺は……っ!」
さっきよりも激しく神崎は首を振る。まるでイヤイヤをする子供のような仕草だけど、その表情は痛々しいまでに真剣だった。
「ねえ、信じて。この雨はそんなに長く降らないから。雨が止んでから行っても時乃ちゃんを助けられるから」
頭の中がバチバチとスパークする感じ。溜め込んできたものが弾けて、繋がっていく。
あり得ないと思いながらも、いきなり俺や時乃の名前を呼んだこととか、坂巻山で鉄砲水を言い当てたこととか、タブレットに入っていた水難事故の新聞記事や未来の日付の雑誌が結びついていく。
「何だよ、それ。なんでそんなことわかるんだよ……?」
「それはっ」
「まさか、未来から来たとでも言うのかよ。だからこの先のことがわかるとでも?」
神崎がハッと顔を上げて唇を強く噛みしめた。何だよ、その反応。まるで俺が言ったことが図星みたいな反応するなよ。ありえないはずだろ、未来から来るなんて。だって、過去を変えちまったら、お前が存在していた未来まで何もかも変わっちまうはずだ。
――宮入博士が抱える心の傷。かつて宮入博士の傍にいた大事な存在。
タブレットの中に入っていた未来の日付の雑誌。
なあ、神崎。お前は何者なんだよ。何をしにこの学校に転校してきて、ずっと俺なんかとつるんでるんだ。
お前は俺にどうしてほしい。何が目的でそんなことしてるんだよ。
神崎が深呼吸をする音が、はっきりと聞こえた。
「そうだよ。私は未来から来たの。だから、お願い。私を信じて」
神崎の瞳は一切揺らぐことなく俺を見ている。揺らいだのは俺の方だった。
神崎の言葉を信じて雨が止むまで待ってから深安山に行った方がいいのかもしれない。
もし、もしも本当に神崎が未来から来たというのなら、それが正しい選択なのだろう。
――ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい。
いつの日か、勝気に笑った時乃のことを思いだす。
ゆっくり待つなんて無理だった。何が正解かとかじゃなくて、俺が選ぶ答えはとっくに決まっている。
「……ごめん。やっぱり未来から来たとか、わからねえよ」
神崎の腕を無理やり振りほどいて、部室の外に駆け出す。神崎が何か言うのが聞こえたけど、何もかも振り払って走り続けた。
これから何が起きたとしても、それは俺自身が選んだ結果だ。




